平成14(2002)年 8月の記録(新しい日付けの順)

平成14年 8月31日(土)

 昼から夕方にかけて、ゆっくりとした台風15号は、ようやく九州西方海上を朝鮮半島に向かって通り過ぎていった。今回も幸にこのあたりは少し強めの風が吹いただけで済んだ。

 正午から、円通寺の巌木静之和尚が、長年にわたり地方自治に尽くされた功績により、このたび勲六等単光旭日章を受勲されたのをお祝いして坂梨坂梨小学校体育館で祝賀会が催された。

 大勢の人がお祝いに集まったが、そこここに多くの知った顔があった。僅か一年ほどの暮らしではあるが、いつの間にか知り合いが増えた。

 本日昼過ぎに、カミサンと赤ん坊は無事に退院した。まだ名前が決まっていないので赤ん坊としか呼べない。


平成14年 8月30日(金)

 台風15号は当初の予報では、今日の昼頃に熊本地方に最も近づくとのことであったが、スピードが非常に遅くなり、明日の昼頃になる予想である、一日中、時々強風が吹き断続的に雨が降る天気であった、それほどの風ではないのだが、かなりの田でイネが倒れている。

平成14年 8月29日(木)

 また台風が近づいている、15号である。今度の台風は九州の西側をかすめて北上している。東側を通るより、西側を通るほうが警戒を要するらしい。

 明日の昼頃に熊本地方に最も接近するそうで、直撃は避けられそうだが、イネの刈り取りを目前にして今回は何とも不気味である。

 僅かばかりのイネでさえ気になるのだから、農家の人達は本当に心配だろう。

平成14年 8月28日(水)

 午前中、母を宇治歯科へ。
 
 歯科への途中で無惨にも完全に一枚、機械で刈り倒されている田を見た、何のためにするのか全く不可解、減反のためであれば、最初から植えなければ良いのに、もう少しすれば収穫という今になって何ゆえに?

 後から聞いたところによると、やはり減反だとのこと。減反だからといって最初から何もしないでいると、今後、田として駄目になるので、普通にイネを植えて、普通に管理して、収穫直前に刈り倒して、それをロールに巻いて牛などの飼料にするとのことであった。

 お遊びのような我が家の菜園であっても、出来た農作物を何とか本来の使命を全うさせてやりたいと、食べきれなくて、むざむざ立ち腐れさせるのが気の毒でしょうがないと思うのだから、減反で刈り取らなければならない農家の人たちの心中は如何ばかりかと思わずにいられない。
 日本の農業政策は何か間違っている気がしてならない、いずれ天からシッペ返しがあるぞ。


平成14年 8月27日(火)

 母、無事退院す。各種検査の結果、特に顕著な症状は見当たらなかったとのことであった。どこに行っても、86歳にしては元気ですねえ、と感心されるのだから、本人が思うように体が動かないというのは加齢によるものと納得するしかないのかも知れない。

 各方面にはご心配をおかけしました。


平成14年 8月26日(月)

 母、明日退院の許可出る。


平成14年 8月25日(日)

 今日も一日ハッキリしない日だった。
 
 誰も居ないことをいいことに、音楽を聴いたり、本を読んだり、パソコンをいじったりと、終日ゴロゴロ。

 そう言えば、最近急に「爆音機(雀オドシの正式な名称はこう言うらしい)」の音が少なくなった。設置台数が減ったのである。特に近くにあったものが無くなった。実りの本番はこれからだ言うのに何故だろうか、雀が音に馴れて余り驚かなくなったからか、或いは危険地帯を学習して、端っから近寄らなくなったから置く必要が無くなったのか。

 我がミニ水田の稲穂が随分倒れている、栄養過多か、穂が伸びすぎると倒れるらしい、あちこちの田でも相当広範囲に倒れている、まるで台風が通ったみたいに。収穫にはあまり影響は無いとのことであるが、気持のいいものではない。


平成14年 8月24日(土)

 ぐずついた一日だった。

 ようやくライブカメラが復旧した、8/15以来である。

平成14年 8月23日(金)

 朝のうち、ひとしきりの雨、干天の慈雨。
 
 病院へ見舞いついでに、パソコンショップでケーブルを購入、いや、パソコンショップへ行くついでに病院へ、のほうが正解である。

 昨日の話では、MRIでも顕著な症状は無い模様、ひと安心。
平成14年 8月22日(木)

 さわやかに晴れ。
 
 午前中、早川家にパソコンのトラブル・シューティングに出張、マウスが動かないとのこと、確かに動かない、持ち帰って我が家のPCに繋ぐと動く、USBマウスだがハテ?未経験分野なので、また研究材料が出来た。

 ライブカメラ用のパソコンが壊れて、もう何日になるだろう、とにかく知っている限りの方法で試行錯誤、ようやくトリッキーな手を使ってOSのインストールが終わる。

 とにかくインストール最終段階でハングアップしてしまうのだから始末が悪い。その経過を書けば本が一冊書けるくらいに苦労した(分かっている人間には簡単なのだろうが)。

 ところが最後の最後になって、IDEコネクターに繋ぐ2.5インチHD用ケーブルの電源ラインが切断してしまった、あまり需要が無いケーブルだから、果たしてショップにあるだろうか。

 ようやくカミサンから電話が入る、出産後全く動けず、声が聞けなかったので少し心配していたが、元気な声を聞いて安心した。

 病院の母からも電話あり、元気でいる由。
平成14年 8月21日(水)

 今朝はめっきり冷え込んだ、というのは少々大袈裟だが、阿蘇山は10度少しで10月の気温だったとか、最近は朝晩など、もう涼しいを通り越して肌寒く感じる。

 市内も暑いことは暑かったが、湿度が低いせいかサラッとしてた。
 
 昼過ぎに母を見舞う、病室は重篤な患者さんが多そうで、母は場違いに元気そうに見えた。
  
 今日は部落の天神様だった、結構祭事が多い、全て農耕の祭事だと思う。病院に行ったりで、サボってしまったが、夜、アキさんが御赤飯を届けてくださる。

 義父が病院に行っては写真を送ってくれる、申し訳ない。
平成14年 8月20日(火)

 朝一番で母を連れて熊本市民病院に行く。滉兄によれば脳卒中の治療にかけては日本でトップクラスの病院だとのこと。
 
 午前中いっぱいかけて血液採取、レントゲン撮影、頚椎エコーやCTスキャンなど検査を済ませ、午後2時過ぎに入院

 自分で歩けるし、頭もしっかりしている、CT写真でもそう顕著な症状は表れていないが、軽い梗塞が起きているようだから、念のため入院したほうがいいだろう、ということで、今後急変でもしない限り、1週間程度の入院で済むのではと考えている。

 こちらに来てから、総合的な精密検診をしていなかったので、そういう意味で丁度良い入院になってくれればと思う。

 そんな風に、ばたばたしている間に、午後2時過ぎに、無事女児誕生、3,098グラム、母子共に健康だとの報が義父から届く。

 奇しくも母が入院してベッドに上った時間が丁度その時間。下手をすると新しい「命」にバトンタッチするところだったね、と母が笑う。

 そんなにタイミングよく引き継がずに、出来るだけリレーゾーンを長くとって、併走して欲しいと願う。

 夜、義父がデジタルカメラで撮った写真をメールで送ってくれる、間違いなく自分の子だという顔をしている。

 写真を見ながら、この子にこれからどのような人生が用意されているのだろうか、とシミジミ考える。

 台風13号は関東地方には大きな被害が無かったようだ、熊本市内は晴れ、猛暑の一日だった。


平成14年 8月19日(月)

 体調が少しオカシイとの母本人の訴えにより、滉兄のアドバスで、大阿蘇病院で紹介状を書いてもらい、明日市内の専門病院を訪ねることにした。二日ほど前から足が急に動かなくなった、ロレツが前よりおかしくなったということで、小さな脳梗塞が起きているようだ。

 昼前、偶然に坂梨宿を通りかかったら、「参勤交代九州横断徒歩の旅」の一行に遭遇した。
 これは大分県の野津原町から熊本城までの旧豊後街道125キロを歩きながら、当時の参勤交代の歴史を体験してもらおうと、熊本市の自然を愛する会が毎年行っている行事で、今年で25回目、道中傘をかぶった小中学生約180人が参加、16日に出発、21日に熊本城に到着予定とのことである。

 聡雄さんによると、例年事前に連絡があり、坂梨宿を通過する際には茶菓の接待をしたのだが、今回はその連絡が無かったこともあり、残念ながらその準備が出来なかったとのこと、道筋に人通りも無かったので、景気つけの意味で小生が一人で大声をあげてエールを送ってやった。今夜内牧に泊まり、明日大津で一泊するらしい。

 薫ちゃんとAlgyから礼状が届き、Algyの手がけた作品集のCD-ROMが二枚同封してあった、many thanks!


平成14年 8月18日(日)


平成14年 8月17日(土)

 終日、パソコンノHD換装トOSノインストールニ終始スルモ、OSインストー能ハズ、原因不明ナリ。腕ノ鈍リダケガ原因デハナイ・・・


平成14年 8月16日(金)

 朝の内に、ご先祖様をお墓までお送りして、その足で市内にHDを探しにいく。
 
 こちらに来てからあちこち走るうちに、いわゆる大型家電量販店だけでなく、パソコン専門店や、自作専門店もちらほら目に付くようになってきた、まだまだありそうだ。流通団地近くのパソコン工房で20GB2.5インチHDを買い求める。
 
 2時から母を宇治歯科と大阿蘇病院へ。
 
 今夜は一の宮町の夏祭りだった。参加はしなかったが、一の宮中学校のグラウンドに櫓を組んで、盆踊りや、演歌歌手の歌謡ショーなどがあった。

 フィナーレは打ち上げ花火で、我が家からは目と鼻の先にある遊水地を会場に盛大に打ち上げられた、まさに桟敷席だ。向こうに居たときの団地の夏祭り、ささやかながらも毎年打ち上げ花火が楽しみだったことが、もう遠い昔のように思い出された。


平成14年 8月15日(木)

 朝9時半過ぎ、滉兄一家とalgyは阿蘇山火口に向けて発って行った、今日中に博多に帰るそうで、algyの今後の予定には東京も入っていると聞く、日本で良い思い出を作って欲しい。

 大分前から怪しかったのだが、ライブカメラを運用していたHDがとうとう完全にクラッシュしてしまった。24時間運転のための、低消費電力、低騒音用のPCで、HDも2.5インチのノート用を使っていたのだが、丁度丸1年で壊れてしまった。ノート用のHDはこんなものか、あるいは当たり外れの「外れ」の方を引いてしまったか。営利目的ではなくても、義務感が生じて、何とか早く復旧させなければと焦る。
平成14年 8月14日(水)

 母と近見の久代伯母の7回忌法要に出かける。

 健兄、伸兄、滉兄、宗子姉、またその子供達・孫達が大勢集まっての懐かしい集いとなった。

 ひとつの「対(つい)」が、時が流れて幾つもに枝分かれして、大勢の子孫を成していく、こういう集りがあるとそのことがよく分かる。そして自分もそこそこ生きてきたなということも。

 滉兄一家が、法事の後で阿蘇に来て泊まってくれる。今回は、ウィーンから夏休みで帰ってきた薫ちゃんと彼女の向こうでの音楽仲間のAlgy君も一緒である。

 彼は台湾産の好青年で作曲の勉強中だそうだ。休暇を利用しての日本旅行、日本は初めてとのこと、好奇心旺盛で、何にでも興味深そうに大きな目をキョロキョロさせている。

 ウィーンではドイツ語が主で、日本語も少し出来て、ネイティブな英語を話す。我が家での会話は日本語と英語のチャンポン、複雑になるとドイツ語を薫ちゃんが通訳してくれる、我が山荘も国際的になったものだ。

 急遽ライブカメラを居間にセットして、団欒の模様を千葉のカミサンに発信する、むこうからも画像を通して団欒に加わっているという。
 
 仙台にいる滉兄の長男坊、敬君とも連絡がとれ、同じくライブカメラでこちらの様子を送り、向こうからは薫ちゃんのPHSビジュアルホンに元気な姿を送ってくれる。

 PHSビジュアルホンのテレビ電話機能がこれほど素晴らしいとは思わなかった、リアルタイムで画像音声の送受信が出来るのが良い、実にスムーズだ。


平成14年 8月13日(火)

 朝のうちに、一人で花と線香を持って墓に登り、般若心経を唱えてご先祖様をお迎えしているところに、下から円通寺の静之和尚が見えたとの電話が入る。

 小生がご先祖様をお迎えに上がって、家にお帰りいただいたところで、和尚さんにお経を上げていただくという、実に段取りの良いお盆の入りとなった。

 今回は何も始めからそのように企んだわけではないが、期せずしてそうなったのである。

 こちらでは「お迎え火」を焚く習慣はあまり無いとのことで、みなさん直接お墓にお迎えに行くそうであるが、これも職住接近ならぬ、住墓接近の田舎ならではの風習なのだろう。


 格別熱心な仏教徒というわけでもなく、どちらかと言えば趣味の仏教徒であるが、自分にとっては一番しっくりと肌に合う宗教であり、節目節目に行われるこのような仏事はまあ、習俗のようなものである。

 我が家の墓に上る途中にある墓地で、墓参のご夫婦にお会いして挨拶をしたところ、渡辺文吉さんのご子息夫婦とのことであった。文吉さんは坂梨の歴史に詳しかった方で、一度是非お話をお聞きしたかったのだが、もう随分前に亡くなられたそうである。このようにまた新たな人のつながりが出来るのも、ご先祖様のお引き合わせであろうか。

 我が家の墓がある裏の山は、エジプトの「死者の谷」のような場所で、古くからの墓が其処此処に数多くある。

 オクラの実り方を始めて知った。

平成14年 8月11日(日)

 曇り、昼前一時本格的に降る。
 
 午後から、畑の草刈をする。母はトマト周りの雑草抜きと支柱の整備。ナスとトマトだけは豊作である。トマトの茎が伸びすぎて地面を這うので、紐で支柱に結びつけたり、新たな支柱を挿したりである。


平成14年 8月10日(土)

 晴れ、午後から一時雨。
 
 お盆を前に墓掃除のため草払い機など道具を担いで裏山に登る。この春に涼と刈ったので、思ったほどは伸びておらず、燃料タンク一回分をほぼ空にしてくらいで清掃を終わる。

 今年は「雀オドシ(正式な名称は知らない)」の音が凄い、去年はそうでも無かったと思うのだが。
 一定間隔でガスを充満させておいて、点火する仕組みのようだが、朝は5時過ぎから日没まで、あちらこちらで間断なくドッカン、ドッカンとやっている。これも慣れだから、普通は殆んど気にならないが、昼間ウトウトしていると、ドッカンで目が覚める。昔は「鳴子」なんかで雀を追っていたのだろうが、なんとも風情の無いことである。


平成14年 8月 9日(金)

 母と、久しぶりに熊本市内に買い物に下りる、いやあ下界は暑い暑い。


平成14年 8月 8日(木)

 去年の今日、二人で車に野営道具一式を積み込んで移住の準備のために阿蘇に入ったのだ、あれからもう一年か・・・・・

 朝、助さんが自分の田の見回りの帰りに寄ってくれて、我が家のイネの生育状況もチェックしてくれる。

 母、午前中、大阿蘇病院と、午後、宇治歯科へ。
 
 農協にイクさんの肥料購入にお供する。


平成14年 8月 7日(水)


平成14年 8月 6日(火)

 住民基本台帳ネットワークシステムが始まり、我が家にも家族三人分の住民票コード通知書が届く、色々あるが基本的には賛成である。

 インターネットを始めとするITが職場や家庭に入り始めた頃、コンピュータの利点と欠点を秤にかけて、利点のほうがはるかに大きいのに、ウィルスがどうのこうの、情報漏れがどうのこうのと、欠点だけを問題にして導入に消極的だった連中が周囲に居たが、これとは少し事情が違うというかも知れないが、その時のことを思い出す。

 欠点は利点を享受しながら直していけば良いのだ、欠点が完全に克服されることなど永劫にないのだから。

 どっちみち、どういう形態であれ個人の情報は国に管理されているのだから、如何にこれから役所・役人の質を上げていくしかないと思う。

 それにしても、マスコミの報道は何時ものことながら偏向している。住基ネットの稼動初日に全国何千という数の自治体の中で数件の不具合があったが、どのメディアも「トラブル相次ぐ」という報道スタンスであった、「相次ぐ」とは一体どのくらいの数からを言うのだろうか、そのためのテスト・ランなのに。
 
 母を宇治歯科に。その間に、母の部屋を殺虫剤で燻蒸、どうもあちこち虫に喰われ痒い痒いと悲鳴を上げている、どこで喰われたのか、何に喰われたのか分からないので、とりあえず焚いてみた。
平成14年 8月 5日(月)

 阿蘇に来て肝心の阿蘇山を案内していないので、今日最終日は先ず中岳の火口見物をした。

 火口付近は風が少し強かったがコンディションは良く、夏休みなので何時もより多くの観光客で賑わっていた。

 このあと、向こう側の南阿蘇に下りて、白川水源を見た後で、そこから通潤橋と、更に余裕があれば霊台橋を回って空港まで送ろうと、車を走らせていたら、途中の道路標識に、予定とは逆方向の高千穂峡までの距離が出ていて、そう遠くない距離なので、可能であれば行ってみたいというリクエストがあり、急遽コースを変更して高千穂峡に向かうことにした。

 高千穂峡は、当初彼らの希望地の一つでもあったのだが、今回は少し無理だからと諦めていた場所である。

 さっと頭の中でフライトまでの時間と往復の時間を計算して、もう昼も近い時間ではあったが、多分大丈夫だろうと判断したのでる。

 とは言うものの、まだこちらでのキャリアが短いので、大いに不安があったのだが、それを押し隠しての判断であった。

 高千穂峡というところは、ゆっくりとボートに乗って渓谷美を楽しむのが良いのだが、係る事情で、とにかく時間が無く、格安ツアー並の、さっと眺める程度の見物に終わった、それでもどんな所かだけでも分かったから良かったと納得してくれた。

 もう本当に時間が無いのに、更にその上に天岩戸神社まで足を延ばすことにて、内心ハラハラであったが、もうどうにでもなれという心境でもあった。

 天岩戸は、言うまでもなく天照大神と天鈿女命、手力男命などが登場する神話の舞台となったところである。

 天岩戸自体は聖なる場所のため、遠くから拝するだけで、直接目にすることは出来ないようであるが、この神社は数ある神社のなかでも、やはりどこか違っており、「霊威」というものが感じられる場所である。

 そう言った訳で、当初の通潤橋と霊台橋は省略することで、今回の旅を締めくくる事にして、後は空港までまっしぐら。

 そして本当に最後の最後、オマケとして、通潤橋に30秒ほど寄って駐車場から遠く放水を眺めて、無事にフライトのジャスト一時間前に空港に送り届けることが出来た。

 いやあ、この三日で相当距離を走った、武藤夫妻は満足して帰っていっただろうか、再たの来訪を待つ


平成14年 8月 4日(日)

 一日かけて、やまなみハイウェイ、湯布院岳の麓を通って国東半島の磨崖仏を見に行く。

 我々が行った所は、豊後高田市域の熊野磨崖仏であるが、信仰の場所というものは、大体において、どうしてこんなに大変な所にあるのだろうと思わせるような山奥の急坂な場所にあるもので、ここの磨崖仏もそうした階段とも無秩序に積んだ石積みともつかぬ急な坂を杖を頼りに登っていった鬱蒼とした木立の中にある。

 登りきったところが少し開けており、そこの見上げるような大きな崖面に表情豊かに不動明王大日如来のお姿が彫ってある、日本のバーミアンとでも言ったところか。

 この辺りは随所に磨崖仏がある。歴史的にどういう経緯でこれら仏教遺跡がここに集まっているのであろうか。

 帰路は、別府湾沿いを南下して、大分から竹田に向かい、「荒城の月」の竹田城址をさっとかすめて、仙酔峡にちょっと寄り道をして阿蘇谷を眼下に眺めてから帰った。


 コラッが庭でイタチと睨み合いをしていた。犬でも平気で飛び掛っていくコラッではあるが、やはりイタチともなると野生の肉食動物、安易に飛び掛かっては行かない、双方命がけの対峙であろう。

 イタチは怪我をしてるようで、最初から手負いだったのか、コラッとの闘いの結果かは、分からない。しばらくして再度見に行ったら、水入りにでもなったか、イタチの姿は見えず、コラッも何ごとも無かったような顔をしていた。


平成14年 8月 3日(土)

 武藤 肇、公子夫妻来阿。有朋自遠方来、不亦楽乎。
 
 JAS353 11:25 熊本空港着、そのまま市内へ。「こむらさき」で昼食の後、熊本城案内。帰路、ミルクロード、大観峰を経て我が家へ。

 大観峰ではパラグライダーやラジオコントロールで翼を操作するグライダーを楽しむグループがいて、昔からラジコンのグライダーをやるのが一つの夢でもあった武藤はこれがいたく気に入ったようで、大観峰からの景観よりもっぱらそちらばかりに関心が向いていたようである。

 確かに河川敷や草地などの平地と違って阿蘇谷から吹き上げる上昇気流で、人が乗ったパラグライダーも一定の空間を大きく上がるでもなく、下がるでもなく、空中を「揺蕩う(たゆとう)」といった状態で気持ち良さそうに浮いている。

 そしてプロペラの無いグライダーが、まるでエンジンつきの飛行機のように自由自在に阿蘇谷の上空を何時までも飛び回る様は、武藤でもなくても見ていて飽きないものである。


平成14年 8月 2日(金)


平成14年 8月 1日(木)