平成14(2002)年12月の記録(新しい日付けの順)

平成14年12月31日(火)

 夕方、ぶあい莊のあるじから、速達小包で自作の燻製が届いた、正月に間に合った、明けてからじっくり味わおう、どうもありがとう。

 今日で平成14年が終わった、阿蘇に移住して初めて迎えた年が終わった、無事に、そして平穏に終わった、本当に良い年であった・・・・・


平成14年12月30日(月)

 朝6時ころ、新聞を取りに出ると寒暖計が氷点下5度を指していた。この時間はまだ真っ暗で、まさに空が凍るように澄んでいて星が本当に綺麗だった。

 今年の暮れは、取り立ててやることも無さそうなので、ゆっくりしようかと思っていた矢先、突然、昼を過ぎてから、ストーブの煙突掃除をやる破目になった。

 二三日前から家族が、何だか煙たい、目が痛いなどと言っていたが、気のせいだろうと気に掛けなかったところ、昼頃、突然、煙突から煙が逆流して、家中に充満して大騒ぎとなった。

 慌てて火を消して、屋根に登り、煙突の頂上のカバーを取り外してみたら、雨などが入り込まないように細い隙間になった部分が殆んど炭化したタール状のもので塞がっており、煙の出口がほぼ無くなっていた。

 薪材によっては、油分などを多く含んでいたり、生乾きの物を燃やすことで、不完全燃焼のまま煙が煙突から吐き出され、それが冷たい外気にあたって急速に冷やされて、こびりつくのだろうと想像する。この春、雀の巣騒動の時にはそんなでも無かったので、今年の薪に何かそのような木材を使ったのだろうか、それにしても凄まじい限りである。

 結局午後いっぱいをかけて、屋根に登ってカバーを外し、こびり付いたタール状ものを掻き落として、こうなればトコトンやってやろうと、室内側からも煙突を外して、モップ状のもので中の煤を綺麗に払い落として、思わぬ年末の大掃除と相成った
平成14年12月29日(日)
 夜9時半頃、宿場会の緑さんが訪ねてくる。こんな時間に何ごとかと思ったら、釣の帰りだそうで、獲物を届けてくれたのである。

 彼は釣りキチで、暇を見つけては釣りに行っているようだ。此処からだと感覚的には熊本の海、天草方面が近いようだが、実際には大分の方に出るほうが早いそうで、いつも大分県の宮崎よりの磯で釣っているらしい、今晩はメジナを届けてくれた。


平成14年12月28日(土)

 庭の寒暖計が氷点下9度を指していた、多分此処に住むようになって最低の気温だと思う、風が全く無くスッキリ晴れ上がり実に気持が良い。もう一頑張りすればマイナス10度になったのにと妙にハシャグ。

 カミサンと婆様が餅を搗く。と言っても餅つき機械で作るのであるが、随分と便利な機械である。

 ホームセンターに臼と杵が売りに出ていて、庭で竈を組んで、蒸篭でモチ米を蒸して、臼と杵を使って餅を搗くことが、こちらに来てからやってみたかった事の一つだったが、今時この辺りでそんな悠長なことをやっている家は見当たらないし、我が家でさえそういう時間は無い、第一、そんなに大量のモチを搗くわけではないので、この夢はまた先にとっておこう。


平成14年12月27日(金)

 冬型の気圧配置。阿蘇に来るまで住んでいた関東地方ではカラカラの晴天であるが、此処では、そうではない。地形的に日本海側からの湿った空気が途中雪を降らせないまま来てしまうので、あまり良い天気にはならないのであろう。

 いつも庭先で薪を割っているので、さすがに木の皮などが散乱していて見苦しい、このままにしておこうかとも思ったのだが、新年を前にして環境整備のついでに掃き清めた。

 そしてホームセンターで、格子状に組んで溶接してある畳大の鉄筋を二枚買ってきて、下に竹をあてがって土台にして、雨が直に薪にあたらないよう工夫した。これまでは、雨が降るたびに地面に直に積んでおいたのでシートを掛けても下から濡れていたのだ。

 また、夏の間、朝顔の棚になっていた軒下が空いたので、そこも薪置き場にした。薪置き場は多ければ多いほど良い。


平成14年12月26日(木)

 起きると薄っすらと雪が積もっていたが、今日は何とか晴れた。

 朝一で佐藤林業に電話して残材の有無を問い合わせたところ、丁度あるとのことで、早速取りに行った。今日は思わぬ大漁で、帰ってから夕方まで掛けて切断したり、床下に収納したりで久しぶりに働きづくめだった。

平成14年12月25日(水)

 昼前からまた雨になった、風も強く夕方には雪が混じっていた、時折晴れる雲の間に阿蘇山が真っ白に雪化粧をしていた。
 
 午前中、母を宇治歯科と、大阿蘇病院へ。
  
 関合画伯から、作品集「遠い海鳴り」を、もう大分前に箕輪君を経由して送っていただきながら、うっかり忘れていて、先日あわてて書いたお礼状に対し、本日ご丁重な返事を頂戴した。確かもう卒寿のはず、お元気な様子で安心した。画伯は俳句でも著名な方で、手紙に俳句二首が添えてあり嬉しかった。俳句の場合は「首」でなく「句」か、どちらだろう、先生のバカモノの声が聞こえてきそうだ。


平成14年12月24日(火)

 久しぶりに気持の良い夜明けだったが、結局は、時々日がさす程度の一日だった。
 
 炎症でもおこしているのか、目が痛くて充血いているというので、婆様を、阿蘇町の眼科に連れて行き、点眼薬をもらって帰って来る。またまた病院の新規開拓である、いやはや。
 
 今日は全国的にクリスマス・イブとのことで、我が家でも俄か信者、ロースト・チキンやシャンペンもどき、ケーキなどを買ってきて、まだ訳もわからない子供をダシに人並みに季節の節目の雰囲気を味わうが、ワクワクしたり、何となく悩ましさを感じた時代が大昔のような気がする。

 通勤電車に乗って会社勤めでもしていれば、嫌でもその行き帰りに色々な形で町の華やかな喧騒が伝わってくるのだが、ここに居ると、そのような気配が全く無いので、あえて意識して感じでもしなければ、年の瀬、もう一週間もすれば今年も終わるという心構えがなかなか出来ない。



平成14年12月23日(月)

 天皇誕生日、国旗掲揚、久しぶりになんとか晴れて夜が明けた。

 昨日は天気が悪くて写真が撮れなかったので、一日遅れの冬至の日没である、米塚よりかなり左に沈んでいる、夏至(6/21)の時には倉岳の近くに沈んでいたので、これだけの角度で移動したことになる(画面左側の往生岳と米塚の間に太陽が沈んでいく。右端の一段高くなった個所が大観峰で、その左方向の稜線上に小さく尖って見えるところが倉岳、画面中央から左方面に山が無くなるあたりが立野から熊本市内へと外輪山が唯一切れている所。阿蘇谷の東端から西方を望む、撮影時間午後5時少し前)。


平成14年12月22日(日)

 本日も雨こそ降らなかったものの一日中ハッキリしない天気だった。
 そして、冬至、ゆず湯、今日の写真はこれしかないでしょう、たまには親バカを・・・


平成14年12月21日(土)

 今日も雨で明け、殆んど一日中降っていた。ような気がした。
 
 午前中、円通寺さんに年末のご挨拶に伺う、皆さんご在宅だった。
 カミサン一人でエビスパーナに買い物に、おかげで随分と楽になった。


平成14年12月20日(金)

 ここのところあまり良くない天気が続いている、薪のストックが少々心配になってきた。

 菊陽町のスバル自動車への用件のついでに佐藤林業に薪材を貰いに寄ったが、今回は全く無かった。最近、産業廃棄物がらみの法律で、残材処理方法が変わったようで、以前のように、野積してあるというようなわけにはいかないようである。

 出掛けたついでに、軽トラで鶴屋デパートまで足を延ばし、家の用件を済ませて帰ってくると、寺内さんから、読み終わった文庫本がたっぷりと宅配便で届いていた。「雨読」用に送ってくれたのだ、many thanks.


平成14年12月19日(木)

平成14年12月18日(水)

平成14年12月17日(火)

 昨夜は強風注意報が出ていて、それに雨が加わり、吹き込んだ雨でデッキは水浸し、軒下に積んでおいた薪もすっかり濡れてしまった。


平成14年12月16日(月)

 最近の天気予報はクルクル変わるような気がする、週間天気予報でずっと晴れマークが付いていたはずが、いつの間にか雨マークに変わっている。今日も朝のうちからもう雨が降り出し、あわてて薪にシートを被せた。

 予てより、赤星さんから、樹木を切ったから薪に持って行っていいよ、との事だったので、午前中、小雨の中、軽トラを駈って取りに伺う。

 なんでもダマカシという名の木だそうで、樫の仲間なのか、あるいは名前からすると、一見、樫のようで、実はそうではないのか、よく分からないが、一抱えもある非常に大きな硬い木で、木でなくて樹と言う字を当てるのが相応しい大木である。

 あまり長くないのに、重くて一人では無理なので、赤星さんの応援を得て積みこむこと出来た。軽トラックにたっぷり、これで数日分の薪が出来る。

 午後、奥さんが一人で四駆を駈って隣の阿蘇町のスーパーまで出掛けていった。国道を走り、スーパーの駐車場で車庫入れをして、と、まあ彼女にとってはこれも画期的なことである。その間、小生はノンビリ赤ん坊の子守りをしていた。


平成14年12月15日(日)

 氷点下4度、昨日同様素晴らしい天気の一日であった。産山村から見る景色も素晴らしく、遥かみはるかす阿蘇、九重、祖母の各山々が暖かい陽光のなかでその素晴らしい姿を競い合っていた。
 
 今日はファームビレッジ産山の蕎麦打ち講習会の日である。
 
 午前十時から、施設のレストランを会場にして、熊本市内や、遠くは八代市や筑後市からお集まりいただいた20数名の皆さんを前に、不肖ワタクシメが不埒にも蕎麦打ちの指南役を務めたのである。

 身内に食べさせるのとは勝手が違って、大勢の人の前で能書きを垂れながら模範演技をするのであるから、始まるまでは実のところ内心震えていたのである。

 実際に蕎麦打ちに入ると、思ったより以上にスムースな流れで打てて、周囲からお世辞と分かっていても感嘆の声があがり(あがったと思ったがあれは空耳だったか)、無事に打ち終えることが出来た。ここ数日の特訓の成果があったと言うものだ。ただ、切りの所で、やはり緊張していたと見えて、少しつながったままの蕎麦が出来た、まあ愛嬌、愛嬌。

 そのあとで、五組ほど用意された道具を使って、各自に蕎麦を打ってもらって、回りながら指導をして、皆さん何とか昼前に自分で食べる蕎麦を無事に打ち終えることが出来た。

 今回は、事前の試し打ちで、蕎麦粉の具合から、十割は無理だと分かっていたので、二八で打ってもらったのだが、かなり乱暴に打っても、ちゃんと蕎麦になるのである。

 皆さんが蕎麦を打っている間に、施設のスタッフの皆さんが、テンプラや煮しめ、握り飯などを用意してくれて、それと自分達で打った蕎麦を茹でて、豪華なランチパーティーになったのである。どんな出来でも、自分で打った蕎麦が一番美味しかったのではないだろうか。
 
 今回、講師をやらせていただいて、皆さんも大いに楽しんでいただいたと思うが、何より自分が一番良い勉強になったと、機会を与えいただいたファームビレッジ産山<http://www.ubuyama.co.jp/farm.html>の田中氏やそば切り隊々長、それに早川長老に改めて感謝をする次第である、これをきっかけに、もっと、もっと上達をせねば。

 坂本勢さんが夏子のお祝いに忙しい合間を縫って来てくださった、若きお婆ちゃんのお孫さんはうちの娘より一級上になるそうで、いずれ小学校に行くときには先輩後輩の間柄になるわけで、そのときが今から楽しみである。


 夕方から宿場会の忘年会が「阿蘇の四季」であった。去年ここに来たてで忘年会に夫婦で出席したことを鮮明に思い出す。あれからもう一年、今年は子供がいるのでカミサンは留守番である。

 なんと言っても忘年会のメイン・イベントは恒例のビンゴである。アルコールが回ったうるさいオヤジ連中のヤジやピント外れの申告などを巧みにかわしていくタッチャンのいつもの軽妙な司会で、皆少しでも良い景品を当てようと大騒ぎ、弥が上にも(いやがうえにも)盛り上がって楽しい夜となった。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6

 そして、今晩は初めて奥さん運転の車の送迎で帰ることが出来て、暗い夜道を懐中電灯を頼りに帰らずに済んだのである。


平成14年12月14日(土)

 今朝は氷点下6度くらいだったろうか、夜が明けたばかりの空は風も無く、静かで抜けるような澄み切った空をしていた。そしてそのまゝ、一日中穏やかで暖かな気持の良い日だった。

 今日はカミサンが初めて単独飛行、いや、単独運転をした。免許を取って10年目になるそうで、一人で運転するのは、ナント今日が初めてだそうだ。とまれ我が家の周りの田んぼを左回り、右回りそれぞれ一周して無事に帰ってきた

 都会では電車やバスがあるので、嫌なら乗らずに済むが、ここではそうはいかないので、彼女も必死なのである。


平成14年12月13日(金)

 氷点下3度。
 朝食に蕎麦を打って食べる。
 
 午前中、ファームビレッジ産山の田中氏が、神楽苑に頼んでおいた蕎麦粉が出来上がってきたので、と言って届けてくださる。

 昼から聡雄さんに仕事を抜けて我が家にご出馬願い、指導を受けるついでに、早速、その蕎麦粉を打ってみた。

 水で捏(こ)ねてみたが、どうも上手くつながらない、何とか打ち終えて茹でて食べてみたところ、味や風味は大変良い、ただ少し乾燥し過ぎているようである。

 午後から今度は湯捏ねで打ったが、これもうまくつながらない。念のために先日神楽苑で買った粉を使って水で捏ねてみた、これは実に気持良く打てた。粉によってこんなにも違うものかと改めて驚かされた、事前に同じ粉で打っておいて良かった、明日は二八で打って今度の講習会で使えるか試してみよう。

 そのように聡雄さんと蕎麦を打っている時、同じ宿場会の高木義臣さんご夫妻が福岡から帰っていると言って娘誕生のお祝いに来てくださる、思わぬ顔合わせに、やあやあ、ということになった。

 飛んで火にいる何とやら、早速、我が蕎麦の犠牲になっていただくべく、後刻、打ちたての蕎麦を高木家に届けたところ、ご夫妻は菜園で農作業中で、自分達で蒔いた野菜がうまく育って嬉しいと奥様が心から喜んでおいでだった。ご夫妻も百姓一年生なのである。


平成14年12月12日(木)

 今朝は零度。
 
 ファームビレッジ産山の田中康夫氏(あの「康夫ちゃん」とは勿論別人)の来訪を受け、蕎麦打ち講師の依頼を受ける。ここは、いわゆる貸し農園や貸しロッヂを運営しており、都市部に住む利用者が年数回集まって、自分達で作った農作物を収穫したり、色々料理したりして楽しむのだそうで、その一環として、今回蕎麦打ちをやることになったそうである。
 
 我が「そば切隊」の隊長、聡雄さんと副隊長の早川長老が、当日どうしても所用で出られないので、早川さんが無責任にも?小生に出ろと、お鉢が回ってきたわけである。

 小生が講師などを引き受けたら、宿場会、ひいては阿蘇全体の名を汚すことになるので、とんでもない話だと固辞したが、田中氏も全く当てが無くて、途方にくれた様子だったので、義を見てせざるは何とやら、失敗しても良いから、自分達で育てて、収穫した蕎麦粉を使って、一緒に皆で楽しむことを主眼に置いて蕎麦を打ってみようという主旨でなら、お手伝い出来るかもしれないと言う事で参加することになった。

 早速、今度の日曜に備えて、仕事中にもかかわらず、志賀事務所に押しかけて、聡雄師匠にもう一度レクチャーを受けなおしたりすると同時に、出来るだけ恥をかく度合いを少なくするために、我が家での特訓が始まった。これから家族揃って、土曜日まで、朝、昼、晩、三食とも蕎麦食ということになったのである。


平成14年12月11日(水)

 低温注意報が出ていたが、氷点下5度程度で済んだ。昨夜、念のために風呂場の水を流しっぱなしにしておいたが、その必要もなかったようだ。

 午前中、母を宇治歯科と大阿蘇病院へ、いや、正確には宇治歯科まで送る。宇治歯科から大阿蘇病院まで500mは、自ら歩いて行った。更に今日は大阿蘇病院から家まで歩く、出迎え無用と出かけていったが、我が家から国道に出る道あたりまで戻ってきたところで小生が迎えに出て中止させたが、一時間ほどかけて病院から約3km歩いてきたことになる、時間が許せば完走、いや完歩できたであろう。それだけ歩けるなら何も病院に来る必要ないですよ、と医者に言われるぞと冷やかす。まだまだ大丈夫そうだ。


平成14年12月10日(火)

 曇り、起床時の気温氷点下4度、時々雪が舞う寒い一日だった。凍っていたネコの飲み水に温湯をいれるがすぐに凍りつき、水が飲めずにコラッが難渋していた。

 今日は3ヶ月健診があり、隣町の阿蘇町保健福祉センターに子供を連れて行く。初めてチャイルドシートを装着したが、千葉から帰ってきた時には、あまりにも体が小さくてうまくフィットしなかったが、あの時から体重も倍以上になったので、今回は上手くシートに収まった。


平成14年12月9日(月)

 首都圏は、初雪が結構な量の雪になったようで、NHKニュースが全国放送枠のトップで、延々と関東ローカルのニュースを流しつづけていた。そういうニュースは関東一都六県の時間枠でやってくれ、と思いながらニュースを見ていた。皆様のNHK・・「皆様」は全国にいます。

 ここにも今日は朝から冷たい風に混じって雪が舞っていた。今まで、夜中に降ったり、少し上のほうで降ったりはあったかもしれないが、平地(この表現オカシイ?)で小生が実際に目にした範囲では、今年初めての雪のような気がする。

 そんな寒い中でカミサンの車庫入れの練習に付き合わされて、体の芯まで冷え切ってしまった。


平成14年12月6日(金)〜8日(日)

 この三日間、宿場会主催で、工芸「滝室」を会場に、恒例の「ホッと一息 坂梨ギャラリー」が開催された。

 会員達の手になるアクセサリー・織物・その他工芸品等の展示と販売を兼ねて、お茶やお菓子を楽しみながら「ホッと一息」団欒をしようという主旨の催しである(写真1写真2)。

 平行して、その内の二日、土・日を使って、宿場通の赤星邸をお借りして、宿場会の「そば切隊」主催の、二日間限りの、本格的な手打ち蕎麦屋「朝霧蕎麦処」を開店した。

 この辺りは良い蕎麦粉が穫れるにも拘わらず、美味しい蕎麦屋が少ないので、これが本物の蕎麦だ、という矜持と、蕎麦の美味しさをあまり知らない人たちにも、その味を知ってもらいたいという気持を込めて打った蕎麦を、歴史を感じさせる赤星邸の趣ある座敷で皆さんに食べていただこうという趣向である。

 蕎麦は隊長の聡雄さんが風味豊かな今年穫れたての蕎麦粉を使って、朝早くから自ら打ったものである。彼の蕎麦打ちは玄人ハダシで、何処に出しても引けを取らないほどの腕を持っている。そして、そんじょそこらのものとはチト違う隊長夫人の「蕎麦掻き」がまた絶品で、もう一方の主役である。二日間で、用意出来た100食弱の蕎麦が、大好評の内に早々と売り切れ御免となり、せっかくおいでいただいたお客さんにお断りをせざるを得なかったほどである。

 釜前は聡雄さん、その補佐役に長老の早川さん、大家さんの赤星さんは黙々と茶や蕎麦つゆ、薬味の用意を担当、高木勘定方は当然会計係と自然に役割分担が決まり、それぞれ忙しく立ち働いた。初日は、帰省中の石田さんのお嬢さんが応援に駆けつけてくれ、看板娘として接客に頑張ってくれたが、二日目は髭面のムサイ小生を始めとして、むくつけき男たちが接客にあたり、若干蕎麦の味が落ちたかも知れないが、二日目に遊軍として参加の緑会員も洗い方を引き受けてくれ全員ツツガ無く任務を果たすことが出来た。(写真1写真2写真3写真4

 そして最後には、そのまま赤星邸の座敷を借りて、「ほっと一息坂梨ギャラリー」のスタッフ、順子さん、勢さん、たづ子さんも加わって、一大打ち上げパーティーとなった。先ず自分達が楽しみ、そしてお客様にもご満足頂くという宿場会のモットーどおり、おいでいただいた皆さんに十分に満足頂いたという自信と同時に、我々も蕎麦屋家業を大いに楽しませてもらった次第である。

 掛け値無しで、たった二日で終わるのは勿体無い、という声が多く聞かれた今回の催しであった。


平成14年12月5日(木)

 一応晴れたようだが、今日も、どうもハッキリしない天気のまま終わった。
 
 カミサンが初めて軽トラックを運転した。いや、しようとしたのだが、敷地から外に出るのに一時間もかかった。おいおい、そんなに敷地は広くないぞ。

 なんと言ってもマニュアル車の運転は10年?振りだとかで、クラッチ操作の感を取り戻すのにエンストの連続で、それで一時間もかかったのだ。とにかく我が家の周りの田んぼの中を一周して来た。明日から特訓だ。


平成14年12月4日(水)

 一晩中強い雨が降っていたような気がする。明けても一日中ハッキリしない天気だった。

 昼前に佐藤林業の中島さんから「新鮮な」ログが出たよ、と電話があったので、取りに行く。新鮮な、とは、切り落としたばかりということで、まるで魚かなにかのように生もの扱いの表現である、勿論冗談であるが。


平成14年12月3日(火)

 5月にした白内障の術後の定期検診のため、母を熊本市内の病院に連れて行く。

 診察が終わるのを待つ間、市電に乗って終点の健軍まで行き、タウンウォッチングをして時間つぶしをした。

 昼頃から雨との予報どおり、病院から帰るころには雨になり、朝、出掛ける前に薪にシートをかけていって正解だった。下界は摂氏12度だったが、阿蘇に戻ったときは7度だった。

平成14年12月2日(月)

 晴れ、氷点下2度。
 
 本日、薪材調達のため熊本市内方面向け、軽トラック初出動す。天気晴朗にして、波は・・・山の中につき無し。赫赫たる戦果とまでは言いがたいが、まあまあという所か。

 帰途、ナフコに寄って、軽トラの荷台に載せるコンテナー・ボックスを購入。トラックは、二人乗った場合に、荷物をむき出しで荷台に載せるしか無いので少々困る。店の人曰く、コンテナーにはカギの付けられるばってん、この前、コンテナーごと盗まれた人がおらした、由。

 本日は、我が家が阿蘇に移住して、丁度一年目である。家族に聞いてみると、二人とも、あっという間の一年であったとのこと。向こうで沢山の人と別れて、こちらで沢山の人との出会いが生れた一年であった。そうして、家族がもう一人増えた幸せな一年であった。


平成14年12月1日(日)

 昨夜からの雨は、朝には上がって、午前中はハッキリしなかったものの午後からは太陽が顔を見せ暖かい一日となった。

 午前中は、薪に被せたシートの片付けや、軽トラックでの薪運びに備えて、かさ上げのためのコンパネを買って来て切断したりする。

 いよいよ今年最後の月に入ったわけだが、思い起こせば、去年の今日は阿蘇に向かうべく、家族でフェリーに乗って一日中海の上に居た日だ。そう言えば船の中で愛子様誕生のニュースが流れていた。