平成15(2003)年 2月の記録(新しい日付けの順)

平成15年 2月28日(金)

 晴れ。階段脇の水仙が開いた、庭の梅も急にほころび始めた。畑の準備の手始めに耕運機を今年始めて動かして少しだけ耕す。昨年の記録をみると、もうそろそろ、たかなを摘んだり、ジャガイモを植えたり、と春の畑仕事が始まる頃だ、忙しくなるぞ。

 いままで阿蘇山を撮っていたライブカメラは、二階の手摺に縛り付けで、簡単に角度が変えられなかったので、壊れて使えなくなったカメラの三脚を工夫して、自由にアングルを変えられるようにした。明日は往生岳で火文字焼きがあるから少しカメラを西の方に振ってみよう。


平成15年 2月27日(木)

 晴れ。しかし本日は全く仕事をせずに一日が終わった、たまには・・・


平成15年 2月26日(水)

 曇り。

 我が家からすぐ近くにある馬場地区の牛の繁殖・肥育農家・江藤要一さんが自分の所で育てた牛肉の販売をするということで午後から行って見た。

 江藤さんは「江藤和牛ブリーダー」というホームページを開設したばかりだそうで、そのホームページを覗いてこのことを知ったのだ。

 畜産の本場でありながら、地元産の肉を手に入れる方法が今ひとつわからなかったので、早速行ってみたという次第である。

 旨くて市価よりかなり安く、新鮮で安全な牛肉が手に入り嬉しい限りであるが、常時販売ということではないそうで、それが少々残念である。


平成15年 2月25日(火)

 晴れ、暖かい一日だった。朝のうち高岳にかかる雲が鷲ヶ峰の峻険を際立たせるように涌き立っていたが、いつもここからは平坦に見える山も、こうしてみるとなかなか神秘的である。

 暖かさに誘われたわけではないだろうが、裏の竹薮からタヌキが出てきてウロウロしていた。ちょっと見たところ、かなり上半身の毛が抜けており、タヌキのイメージとは少し違う気もするが、多分タヌキに間違いないだろう。


平成15年 2月24日(月)

 まあ、晴れと言えるか。
 
 桜伯母の葬儀が正午から執り行われ、滞りなく終了した旨、夜分、母から電話が入る。伯母もとうとう彼岸の人となるか、享年90也。

平成15年 2月23日(日)

 朝には嵐のような風雨もようやく収まり、一週遅れの坂梨宿場会の植樹会が行われた。小生も軽トラックを駈って参加、総勢約20名、午前9時に会所前に集合して、簡単な打ち合わせの後、作業に入った。

 今回の苗木は、小楢(こなら)、紅葉、桜を30本、宿場通りのほか、馬場の円通寺などにも植え、会員の呼吸も合い、予定していた時間よりも早く、昼前には作業完了(写真1写真2写真3写真4写真5)。坂梨公民館で、あぜり庵の弁当を食べながら、二月例会を持った(写真1写真2)。


平成15年 2月22日(土)

 昨夜の内にシートをかけておいてよかった。朝からポツリポツリと来始めた雨が、午後には嵐のような天気になり、南面のデッキ側は強風と雨でびしょ濡れ。そんな中、渡辺昭元さんがトラックに杉の間伐材を積んで持って来てくださる。

 夕方、横浜に行っている母から電話が入り、桜伯母が、昨夜、正確には暦の日付が変る直前に身罷られた由、合掌。

平成15年 2月21日(金)

 晴れ。
 
 だんだんと手持ちの薪が心細くなってきたので、久しぶりに佐藤林業に行ってみた。運良くログの端材がでていた。乾燥材なのでこれはすぐに燃やせる。
 帰りに少し足を延ばしてハンズマンに行ってみた。ホームセンターであるが、その品揃えの多さに驚く、なかなか面白そうなところなので、今度ゆっくり来てみたい。


平成15年 2月20日(木)

 ひさしぶりのまとまった雪で夜が明けた、あたり一面銀世界、春はもうそこまで来ていたのに。
 
 今日は夏子誕生6ヶ月


平成15年 2月19日(水)

 横浜の伯母の病気見舞いに行く母を空港まで家族で見送りに行った。87歳の高齢者を単独で乗せてくれるかと心配だったが断られなかった。9時に発って10時半にはもう着いたと、羽田から連絡が入った。すぐ帰ってくるか、しばらく滞在となるか。(写真1写真2

 三時を過ぎた頃だったか、雨に備えて薪にシートをかけていたら、畑の向こうに変な男が我が家のほうを窺いながら何処かに電話をしているではないか。

 丁度顔を見せていたイクさんと、誰かねえ、怪しか奴だねえ、と話していたら、なんとテニ坊さんだった。

 そして電話の相手は仁美さんとのことで、ライブカメラに映っているところを画像保存しておいてくれと、依頼していたところだとのことであった。

 今日は午後から仕事がオフだそうで、好奇心旺盛な彼は、我が家のライブカメラの偵察に参上したというわけである。

 飛んで火に入る何とやら、早速、我が遊び場に誘い入れて、室内にカメラを切り替えて、再度、仕事中の仁美さんの迷惑も顧みず?電話を入れて、室内のムサイ男のツーショットを画像保存してもらった、仁美さんゴメンナサイ。


平成15年 2月18日(火)

 晴れ。

 今朝ゴミだしに出たカミサンが、ウグイスが鳴いていると言うので、急いで外に出てみたが小生は初音を聞き漏らした。先日の「蘇をさるく」で長陽村の天神様の梅の花がもう満開に近かったので、妙法寺の境内に行ってみたが、早咲きの梅の木一本が五分程度に花を付けていただけで、そう言えば我が家の梅もまだ蕾のままだが、でも、もうそこまで春はやってきている。


平成15年 2月16日(日)

 小雨で明ける。晴れる方向に向かっていたのだが、予定されていた坂梨宿場会の植樹会が重機手配の関係などで次の日曜に順延となった。

 幸というか、日程が重なり諦めていた「谷人友の会」主催の「阿蘇をさるく」に参加できることになった。「さるく」とは、歩きまわるというニュアンスか、この地方の言葉である。

 午後一時半、長陽大橋の駐車場に集合して、その橋のたもとから、近い将来ダムに沈むことになっていて、今は閉鎖されている旧道を、小雨と霧で時折煙るなか、特別の許可を得て谷底に向かって、そぞろ下っていった。

 今回の「さるく」コースは、阿蘇カルデラが、熊本方面に向かって唯一切れた場所で、阿蘇谷を流れる黒川、南郷谷の白川が合流して、一つの流れとなって熊本平野に下っていく、どちらかと言えば、一般的には女性的な印象を与える阿蘇の風景とは一味違った深い渓谷を、立野駅方面に向かって辿る道である。そして谷に添って、北向谷原始林という人の手が全く入っていない山があって、聞くところによると、国内で、人里に一番近い原始林だそうで、国の天然記念物にもなっている、そんな所である。

 総勢十数名、友の会の会長、学芸員の皆さんに加えて、植物や鳥類、そして火山・岩石などの専門家が一緒で、時折立ち止まっては目につく森羅万象について、いろいろと解説を加えてくださる。それに、もうどこでも一緒の仁美さん、由美姐さん、高宮さんたち。

 火山・岩石の専門家とは、もちろん阿蘇火山博物館館長の池辺氏である。池辺館長の解説によると、太古の時代にマグマが冷えて固まる際に柱状に出来た割れ目を柱状節理というのだそうだが、それらがこのあたりの渓谷を造形しており、その奇勝に思わず感動するとともに、我々が一大溶岩地帯の上に住んでいるということが改めてよく分かった。

 我々が住む阿蘇谷、南郷谷とか言われている「谷」よりも、はるかに深い所に、今では、あまり人の目に触れることもなくヒッソリと本物の谷があるのである。

 そんなに遠くはない昔、南郷谷には、この谷に沿った葛折(づらおり)を通らなければ行けなかったそうで、今、谷底から遥か天空を見上げると、長陽大橋、さらにその上のほうを、国道57号線から南郷谷に分かれる阿蘇大橋が渡っていて、当時を知る人には隔世の感があるであろう。

 そして、川沿いの集落があった一帯は、ダム建設を控え、今や建物の姿は跡形もなく、人の往来も途絶えて、所々苔むした道路が雨に濡れてヒッソリと谷沿いに続いているばかりで、それも、間もなく人々に忘れ去られようとしている。

 川を跨いで、明治期に造られたアーチ式石橋が自然の風景に溶け込むように架かっている。明治になって、もう近代西洋工法が入っていたと思われるが、江戸時代からの肥後の石工が得意とした目がね橋の技術が、ごく自然に受け継がれたのだろうか。そして、わざわざ人為的に組み込んだのではと、見紛うような柱状節理を水路にして流れ落ちる名もない小さな滝、しばし時が止まってしまったようなそんな場所であった。

 立野駅の手前に、九電の水力発電用の巨大なパイプが山肌を這い下っている、もう50年以上も前になるか、祖母を訪ねる汽車の窓から子供心には怪異に映ったその景色が懐かしく思い出される。そして、今回、立野駅前で求めて持ち帰ったニコニコ饅頭を食べて、うちの婆様は、はるばる汽車で立野駅まで来ると、饅頭と冷たい牛乳が美味しくてねえと、往時を懐かしがっていた。

 立野駅から出発地点に戻るのに、同じ道を通らずに、一駅だけ南阿蘇鉄道を使って、長陽まで行き、そこから逆に歩いて戻ることになっていて、これは、いつも車ばかりで、改めて南阿蘇鉄道に乗る機会がなかったので嬉しいオマケであった。

 南阿蘇鉄道は、南郷谷を立野から高森までノンビリ走る、第三セクターの鉄道で、普段はワンマンバスと同じ料金支払システムの一両だけのレールバスである。

 一駅ながら南阿蘇鉄道の最大の目玉である、白川を跨ぐ目も眩むような高い鉄橋まで渡ることが出来たのである。

 長陽駅からは、もう満開に近い梅を眺めたり、すっかり天気も回復して空を茜色に染めて山の端に沈んでいく太陽に目をやりながらノンビリと田園地帯を歩いて、最終地点の栃木温泉の、鮎返りの滝という風流な名前の滝を眺めて、小山旅館のロビーで解散となった。

 田舎に住んでいながらこう言うのも変だが、5時間余りの行程であったが、本当にノンビリとゆったりと、そして実り多く楽しい時間であった。

 山岸なつおばあちゃんから、夏子にオモチャが届いた、アリガトウ。


平成15年 2月15日(土)

 今日は天気が崩れるという予報だったので、早々と薪にシートをかけて、完全休養日にした。

 一昨日注文した斧の柄が届いた。昨年11月に替えたばかりなのに、もう折れそうで、これで都合3本目である、ぶあい莊のあるじが、また、うるさいことを言ってきそうだ。
平成15年 2月14日(金)

 晴れ、暖かい一日、日課である薪割に汗を流す。

 寺内さんからラーメンが届く、「湘南亭」復活か。湘南亭は寺内さんの義兄さんのブランドだった。

 一時活動を停止していたようだが、活動再開の模様。この人の麺にかける情熱は中途半端でなく、半生を麺にかけていると言っても過言ではないかもしれない。

 ラーメンを作るかたわら、今度は茅ケ崎市のエメロードにうどん屋を開店したそうだが、なんという屋号だろうか。

 早速、昼飯に頂戴した。小生は天気が良かったので、仁義を切る意味でラーメンのPRも兼ねて?庭先の裏カメラの前で食した。尤も、誰も見ていないだろうし、見ていたからといって看板を立てて食べていたわけではないので、PRには全くならないが、まあ気は心と言ったところか。

 最近はトンコツベースの熊本ラーメンにハマッているが、久しぶりの醤油ベースのラーメンが懐かしかった。


平成15年 2月13日(木)

 晴れ、午後から薪割り。矢が壊れたので中野農機具で買い換える、これで3本目だ。途中、図書館に寄って借りていた本を返却する。帰途、宿場通を通ると、赤星事務所に赤星さんと古閑の高木さんを発見、上がりこんでコーヒーをご馳走になる。

 先日、小生のホームページを偶然見たという人から、写真に写っている人物は、もしかして赤星さんでは?とメールが届き、なんでも25年振りだということであったので、そのことを話すと、懐かしがって早速メールアドレスを託される。まさにインターネットならではの邂逅であろう。


平成15年 2月12日(水)

 晴れ。

 先日、古田島さんから、昨秋開催した欅グループ展の手作りの写真集が送られてきたのに続いて、本日、広永OM(JA1GQV)から鶴が台ハムクラブ新年会の写真がメール添付で送られてきた。

 それぞれ全く別の活動であるが、ずらりと並んだ懐かしい顔ぶれに、今、猛烈に絵を描きたいという欲求とアンテナをきちんと整備してHF帯に出たいという二つの贅沢な欲求にかき立てられているところである。


平成15年 2月11日(火)

 紀元節、国旗掲揚、朝から小糠雨とはこんな雨か、という風情の細かい雨が降っていた。

 坂梨街道で聡雄さんの車とすれ違い、宿場会の瓦版を受取る、今月の例会は16日に植樹会と兼ねて開くそうだ。。

 夜、道子姉より電話があり、昭吾兄が無事退院したとのこと、今だから書けるが、丁度一ヶ月くらいか、正に九死に一生だったのではと、ひと安心する、ヨカッタ。


平成15年 2月10日(月)

 ここのところ、もう春ではないかと感じさせるような暖かい日が続いている。

 千葉から届いていた雛人形の飾りつけをする、写真を載せるのは三月三日だ。
 
 夜6時過ぎか、突然哲兄から、近くのホテルにツアーで来ているとの電話が入る。農業技術者として、昨年の7月にJICAのシニア・ボランティア活動でブラジルに渡ったのだが、突然の体調不良でドクターストップがかかり、旧臘、不本意ながら帰国していたのだ。復調したので再挑戦のための体力のセルフチェックを兼ねて今回二週間の日程で日本を一周するバス・ツアーに参加、夕方、阿蘇に着いたとのことであった。

 実は、今日の昼過ぎに、この無念のリタイアの顛末を記した葉書が届いたばかりで、さぞかし残念だったろうね、と家族で話していたところだったので、もう次の目標に向けて行動を開始したそのファイトと行動力、そして何よりもその主がすぐ近くに来ていたことには、ただ驚かされるばかりであった、もうすぐ70歳、いやあ、元気元気。さっそく車で迎えに行って短時間の再会を喜びあった。明朝には長崎に向けて出発するとのことであった、これからの旅の無事を祈る。


平成15年 2月 9日(日)

 昨日とはうって変わった快晴の日和。
 
 今日は昼前、坂梨校区の駅伝大会があり、我が家の少し先が中学生から高校生へのタスキの中継点兼折り返し点になっていて、坂梨にはこんなに若者が居るのかと頼もしく、嬉しくなるような賑わいであった。家族総出で応援に出た、娘もいずれここを走るようになるのだろうか。

 選手の通過待ちの間に家の前で婆様が摘んだフキノトウが夜の食卓を飾った。このほろ苦い味が春の訪れを感じさせる、と北国の人はよく言うが、正直この苦さは文字通り苦手である。婆様の体調がすっかり戻ったようで、腹が減る腹が減ると言う、薬の効果、絶大である。

 昼過ぎ、滉兄が大津に所用のついでに顔を見せてくれる、相変わらず忙しそうで、少し疲れ気味に見えた、気をつけて欲しい。


平成15年 2月 8日(土)

 今夜は、生憎の雨模様のなか、手野の民宿「やまざと」でオフ会があった。オフ会と言うと、「何々の」オフ会と、頭に何かしらの名称が付くところだが、実のところ何のオフ会だかシカとは分からずに、とにかく参加した。

 阿蘇町のお菓子屋「菓心 なかむら」の掲示板「大草原の小さなお茶会」の定連さんがメインの集まりのようだから、「大草原の小さなお茶会のオフ会」、フルネームで書けばこんなところか。中村仁美さんが管理人で、ダーリンの浩さんが自らウラ管理人と称して、このサイトを陰からコントロールしているようである。

 小生はこの掲示板には、タヌキを決め込んで、書き込みをしたことが無いのだが、「阿蘇が好き」という共通項で、予てよりこのサイトの管理人ご夫妻には知己を得ていたので、飛び入りのような形で参加をしたのである。

 できるだけ多くの人との出会いを求めて、何かの選挙に立候補を予定しているのではと勘ぐられるくらいに、とにかく機会があれば何処にでも貪欲に顔を出すようにしている。そのうちに阿蘇の人すべてが知り合いになるのではという勢いである。

 今回のオフ会の参加者は阿蘇谷の住人が主であったが、福岡県の北九州市、浮羽町からの参加もあって、普段はハンドルネームだけの付き合いが、本名を明かし合って、エッ?とかホーッ!とかというような声も聞かれたオフ会ならではの意外性に富んだ楽しい集まりであった。

 小生も、一年以上も前から全く違ったシーンで面識があった人が、今回の参加者の中に居たりで、またまた人の「縁」というものの不思議さを感じずには居られなかった。
  
 話題は主に「火山」が中心で、火山の専門家も居れば、専門かと見間違うような「ハダシ」のメンバーもいたりで、阿蘇火口の赤熱現象を自ら撮ったビデオを持ち込んで観賞したり、部屋の隅にひと固まりになって、かがみ込むようにして、ハワイ島から持ち帰った溶岩のかけらなどを、手に取って眺めたり、ルーペで覗いたりと、民宿のアルジどのから何やら怪しげなブツの取引でもしているのでは、と不審がられるような熱心さで深更まで火山談義に花が咲き、家に帰り着いたときには、とっくに暦の日付が替わっていた。

 何人かはそのまま民宿に泊り込んで、さらにアカデミックな話が続いたかどうかは知らない。

 参加者(小生が座った席から右回りに、差障りがあるといけないので、ハンドルネームがある人はハンドルネームのままに、名前を挙げていくと、)〜浩さん、youさん、高宮さん、池辺さん、吉田さん、tychoさん、由美姐さん、わからん犬さんと(当事者曰く)その同居人さん(実は奥さん)、テニ坊さん、仁美さん、ざっとこんなところだったかな(写真1写真2写真3写真4写真5・・・オリジナルは300K位の解像度です、希望の方メールで送ります)。


平成15年 2月 7日(金)

 氷点下8.8度、この冬最低の冷え込み(だと思う)、風も無く穏やかに明ける、7時を過ぎる頃からみるみるうちに霧が発生、周囲は全く見えず。多分今日も冬には珍しい雲海が見られただろう。

 昨日だったか、薄ら寒いのを承知でうたた寝をした結果、くしゃみ鼻水と、少々風邪気味なので、古閑医院で薬を出してもらう。普段なら風邪ごときで医者にかかる事など金輪際無いのだが、子供の免疫がそろそろ切れる頃だし、巷間、インフルエンザ、インフルエンザと騒いでいるので、用心のために診てもらった。


平成15年 2月 6日(木)

 今朝も一面真っ白の雪景色、夜が明けてからは素晴らしい天気の一日。
 
 近所の渡辺貴之さんのところの麻理子さんが、10月に生れた赤ん坊と長男坊を連れて、訪ねてくれる。将来、娘と同級になるわけで、ともに明日を担う貴重な人材である(赤ん坊はお母さんの背中に背負われて写っていない)。


平成15年 2月 5日(水)

 起きるとあたり一面が雪で白くなっていた。

 婆様が胃カメラを呑んだ。胃の内部の写真をもらったが、少し出血があって荒れているそうだが、大事無いだろうということで、ひと安心、一時的に体のバランスがくずれただけか。うちの婆様は胃カメラを平気で呑む、小生は以前死ぬ思いで呑んだ、あんなもの良く呑めるものだ。


平成15年 2月 4日(火)

 曇り、一時小雪、特記事項なし。


平成15年 2月 3日(月)

 昨夜の内に雪が降って真っ白。夜明け後は風が無かったこともあって冬には珍しい雲海が出た。今日一日素晴らしい天気だった。

 体調不良を訴える婆様を大阿蘇病院に。朝食を食べたので、胃カメラは呑めず、心電図、とエコーと血液の検査をしてもらうが、この範囲では特に顕著な症状はなし、明後日改めて胃カメラを呑むことにする。消化食欲促進剤と偏頭痛薬を追加投与してもらう。
 
 夜、節分の豆まきをする。寝ているところを起こされて、娘少々不機嫌気味か、日本の伝統・風習は守らなければ。


平成15年 2月 2日(日)

 晴れ、一日中薪割。
 
 昼前、佐藤林業の中島さん夫妻が娘の誕生のお祝いに来てくださる。


平成15年 2月 1日(土)

 まあ、晴れ。昼、蕎麦を打つ。
 
 婆様の調子悪し。昨日久しぶりに飲んだ三叉神経痛の薬が効きすぎた所為か、めまいがひどい状態だったので、薬をやめて今日は一日中寝ていたが、昼は食事を摂らず、夕方にもどして、その吐しゃ物を見たら、朝のホウレンソウが未消化のまま出てきた。夕方冷たい水を飲んだので胃が驚いたのだろうと本人は言っているが、夜も粥をほんのひと啜りだけ、頭痛がひどそうだ。

 スペースシャトル「コロンビア」帰還直前に空中分解。