平成15(2003)年 3月の記録(新しい日付けの順)

平成15年 3月27日(木)〜 3月31日(月)

 ここ数日は、天候に恵まれ、裏の竹薮の整理に没頭した、疲労困ぱい、満身創痍、体の節々が痛い。

 長年月無人で放置していた報い、竹薮は荒れ放題、オマケに産廃の不法投棄場然とした有様まで呈していたので、かねがね整理をしなければと思っていながら、とうとう一年が経ってしまっていた。

 それが、何を思ったか、ここに来て急にやる気になって、がむしゃらに竹を切ったり、朽ちて倒れている竹を運びだしたりと、猛烈に働いたのである。

 べつに期末までに予算を消化しなければならないお役所ではないのだが、年度の末日に、とりあず一区切りをつけて、田で盛大に燃やした(町の放送でゴミを燃やしては駄目だと言っているが、こういうゴミは燃やさなければ処理の方法が無いと思うのだが)。まだまだ残っている。

 カミサンはカミサンで、アスパラを植えると言って、自ら耕運機を運転して、鋤いたり、堆肥を入れたりして、苗の植付けをした。アスパラは植えてから収穫まで2〜3年ほど掛かるとのことで、他の野菜の邪魔にならないように畑の一番奥の隅のほうに場所を決めた。更に、伸び放題の茶の木をビックリするくらい短く刈り込んでいた。夫婦して屋外労働に勤しんだ数日であった。

 29日(土)には、滉兄夫婦が寄ってくれた。


平成15年 3月26日(水)

 晴れ。
 
 産山の片俣阿蘇神社に薪を貰いに行く。


平成15年 3月25日(火)

 晴れ。終日、裏の藤井さんの畑との境界線の竹薮の整理をする。目一杯働いた、体の節々が痛む。

 ストーブの下のほうにヒビが入っているのを発見、空気を完全に遮断しても良く燃えるのでオカシイと思ったので調べてみたら割れている。ストーブは、沢山のパートに分かれていて、故障個所だけを交換すれば良いように出来ているが、交換しなければならないだろうか、小さなヒビだが、鋳物製品は溶接などの補修は出来ないものか。

 そういえば、昨日は阿蘇神社の「火振り神事」で、一昨日は薪能だったのだ、今年は行かなかった。


平成15年 3月24日(月)

 昨夜のうちに一雨来て、今日は晴れるハズであったが、どうも一日中怪しい天気に終わった。

 午前中、母を大阿蘇病院へ、その足で、役場に国民健康保険の切替手続きに行く、任意継続の健康保険が間もなく終了する。

 午後から、一の宮整形外科に行く。昨年10月に竹林を整理していて足を捻って、それ以来、朝起きると痛くて仕方がない。起きてしばらくすると痛みは無くなるのだが、どうにかなっているかと思って訪ねた次第。

 担当は山下医師、即ちテニ坊さんだ。場所柄真面目くさった顔をしておいでだったが、ネタバレで思わず可笑しくなる。ここで身分を明かすとマズイかな、でも、さる掲示板で、よく読めばその素性はわかるので構わないだろう。

 レントゲンを撮ってもらったが特に異常は認められなかったので、薬も注射も無し。

 ついでに二階のプライベート・ルームにお邪魔した。パソコンが何台か並び、(多分)専門書、洋書、趣味の書籍などが書架からあふれ、衣類が其処彼処にぶら下げてあって、典型的な男の城、学生時代の下宿を彷彿とさせる懐かしくなるような雑然としていて、それでいて、なんとなく落ち着くそんな部屋だった。


平成15年 3月23日(日)

 快晴。現金なものだ、これだけ天気が良いと、ウグイスもあちこちで鳴きだす。
 
 カミサンは子供を婆様に預け、ホームワイドに何か種を買いに行って、せっせとポット作りに精を出していた。苗からではなく、種から育てるのだと張り切っている、何を植えたのだろう。

 小生は、午後からちょいとばかり「いこいの村」あたりに出かけようかなと思っていたのだが、そうそう遊んでばかりも居られないので、今日は真面目に薪小屋の整理や、裏の杉の枝払いをして過ごした。


平成15年 3月22日(土)

 朝起きて驚いた。阿蘇山が裾野まで真っ白になっていた、阿蘇の忘れ雪、夕べの雨が雪に変っていたのだ。絶妙のタイミングで野焼きが行われたものだ。野焼きで草が焼かれ背の高い雑草類が無くなったこともあって、雪の白さがより一層に際立って見えた。


平成15年 3月21日(金)

 春分の日。終日、穏やかに晴れわたり、ほど良い風が吹きわたり、そして、その天気がウソだったかのように夕方には雨に変わり、つまりは、絶好の野焼き日よりの一日であった。

 今日は先日来、雨で延期となっていた、北外輪山・阿蘇谷一帯11町村(参加総勢4000人)の野焼きが一斉に行われたのである。野焼きは阿蘇の春の序章である。

 馬場・豆札地区の牧野組合の広大な牧野が滝室坂をあがってすぐの外輪山上にあり、そこが我々の野焼き現場である。豆札からの参加者は、博臣さん、征司さん、正士さん、鉄男さん、渡さん、隆一さん、房さん、今朝春さん、貴之さんの総勢10名であった。

 鉄男さんの軽トラにくっついて、小生も牧野に向かった、勿論愛車軽トラを駈ってである。こういう時こそ、軽トラは実に阿蘇の風景に溶け込んでピッタリと決まる、むしゃんよかばい。
 
 既にあちらこちらから野焼き装備に身を固めた村人が、陸続と集結し始めていた。野焼き装備といっても、得物(えもの)は火消し棒で、ほとんどの場合は杉の枝を適当な長さに切ったもので、それで想定外の場所に燃え移りそうな火を叩き消すのである。

 小生も正士さんに作っていただいたものを携行した。中には、自分で工夫して色々な材料を使って、作ったものを持参した人もあった。その他には、火の粉に強い木綿地の服装、煙や灰対策のタオル、マスクなどといったものか。

 小生、昨年の野焼きの時期は、まだここの住民になったばかりで、野焼き参加など思いも寄らぬことで、観光客気分で写真を撮りにいったものだが、今年は当事者として内側から野焼きを体験できることになり、初陣を前にした新兵のように、知らず知らずのうちに血潮が騒ぎ、一人で興奮していたが、かなりのお年寄りやご婦人も参加していて、ほとんどはそのような気負いなどなく、まあノンビリ散歩でもするかという雰囲気であった。

 それでも、このような両部落合同の行事は珍しく、久しぶりに会う人も多いようで、やあ、やあと、やはり何となく華やいだ雰囲気は感じられた。

 過去に煙や炎に巻かれて死亡事故もあったということを聞いて居たので、事前に周到な作戦会議や詳細な指示が出るものとばかり思っていたが、そういうものは全く無く、何となく始まり、自然に人々の移動が始まった

 地形に合わせて、その日の風向きなどで、防火帯を先に作って、それからおもむろに風上から火を点けていくわけだが、とくに大声で確認しあったり、無線機で連絡を取り合ったりということも無く、阿吽の呼吸で粛々と作業が進められて行き、時代劇に出てくる「火消し」のような威勢の良い声が飛び交うのかと想像していたので、少々拍子抜けの感、無きにしもあらず、と言ったところだった。

 中心的に動く人達は、ベテラン揃いで、毎年のことなのでその必要は無いのだろう。その他多勢の人たちは、万一の時に火消し棒で火を消せば良いだけで、基本的には、あまりやることは無いし、またその必要も無いように上手く焼いていくので、ノンビリ散歩、ピクニック気分で十分なような気がした。

 枯れた茅、ススキの原っぱに火が点けられると、あっという間に火の手が立ち上り、バリバリと音を立てて紅蓮の炎と煙が空を呑みこむかのように渦巻いて空を焦がす、そして地を舐めるように一気に火が走る。燃え尽きた後にはそれまでの茶色だった草原が真っ黒な大地に姿を変え、いずれそれが、今度は緑の絨毯に変り阿蘇は本格的な春を迎えるのである。

 風向きを考えて小高い丘の風上に立って、火が燃える様を写真に撮ったりしているうちに、火を点ける係りがいつの間にか丘の下を回って、反対側から火を点けると風上に居たつもりが、いつの間にか風下に立つことなり、熱風が顔を打ち、真っ黒な灰が降りかかかり、慌てて逃げ出すことも度々であった。

 この牧野は、なだらかな丘陵地帯が続き、野焼きをする場所と場所の間には十分な牧野が緩衝地帯になるので、危険性は高くないそうだが、他の地域では急斜面があったりで、野焼き環境が良くない場所もあるそうである。

 広い、広い、とにかく広い。なだらかで起伏に富んだ牧野が何処までも広がり、南に阿蘇五岳が、反対側に九重連峰がそれぞれに噴煙を上げており、ぼんやりしているといつの間にか皆からはぐれて一人取り残され、慌てて後を追いかけ、走り、歩きまわりクタクタになる、空にはもう雲雀がさえずり、見渡す限り、遠くあちこちから各地の野焼きの煙がゆるやかに立ち昇り、緑と茶色と野焼きが終わった黒色の大地が織り成す何処までも続く丘陵、これほどの贅沢は無いという自然の中での時間であった。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10写真11写真12写真13写真14

 終了後、火消し棒を記念に持って帰ろうとしたら、火消し棒を持って帰ると、家が火事になるという言い伝えがある、と注意を受け、慌てて捨てて帰った。

 村に帰って、集会所で打ち上げ(写真1写真2) があったが、今日は村のお祀りのひとつ、「お大師さん」の日でもあったので、普段は村内の山の中に安置してあるお大師さんが、今日一日、集会所にお移りになっていた。

 そして、この日は、座元の女性達が料理を作って待っていてくれ、各人は仕事の合間を縫って、都合の良い時間に御参りして、食事を頂戴する慣わしとなっている。その席の横に打ち上げ用の席を別に作ってもらい、酒盛りとなった。

 ここには、たくさんの祭礼があるが、これは嵐や旱魃や疫病などといった自然の脅威に対して、人間というものが如何に小さくて弱いものであるかという、昔の人にとって、人智を超えたものに対する畏れからくる謙虚な気持の表れがこういう信仰の形をとったのだろうと想像する。

 打ち上げの席上で、どういう弾みでそうなったかは忘れたが、急遽新婚のK春さんのY夫人自慢の本場四川省仕込の餃子を食べようということになり、迷惑を顧みず皆で押しかけて、とんだ二次会になってしまった。

 急なリクエストにもかかわらず、笑顔ですぐに作って出してくれた水餃子の味がまた絶品で、小生なんか幾つ食べたか分からないほどであった。是非近いうちに餃子つくりの講習会を開いて欲しいと何人かで要望を出しておいた。K春さんは果報者である。

 かような訳で、御彼岸なのに墓参りが出来なかった。我が家のスタイル、六日の菖蒲、十日の菊でいこう。

平成15年 3月20日(木)

 晴れ、夏子、誕生7ヶ月、健康に順調に育っている。
 
 カミサンは我が家のたかな摘みをする。阿蘇たかなは、他で見る高菜とは少し種類が違い、小ぶりである。古漬けも旨いが浅漬けが新鮮で旨い。この時期、車で走ると、あちこちのたかな畑で一斉にたかな摘みをしている姿が目につく。今年の出来はあまり良くなかった、やはり肥料が原因か。

 小生は、坂梨の上村さんが作業をしている、産山村にある阿蘇神社の末社、片俣阿蘇神社の境内まで軽トラックで材木を貰いに行く。ここは古い神社で、大きな樹木が鬱蒼と繁っている。今回の材木は、銀杏の樹や欅の枝払いで出たものだが、銀杏などは樹齢350年の大木で、枝といっても一抱えもある立派なものである。二往復した。

 現場は、ファームビレッジ産山の近くで、帰る途中、久しぶりに寄ってみると、田中さんと井さんが、薪割りに精を出していた。週末の来客に備えての薪割りだとか。土産に納豆用の小粒の大豆を頂戴する。

 夜、阿蘇町の中島さんのお宅に、先日のお礼に伺うついでに、建築記録の写真を収めたCDを届ける。

 米・英軍によるイラク攻撃が始まる。
平成15年 3月18日(火)

 毎年18日は「鞍嶽さん」。クラタケとは鞍岳で、熊本県の菊池郡にある1,119mの山である。ここに馬頭観音が祀ってあって、昔から家畜(主に馬か)の神様として畜産農家の信仰を集めているようだ。村内で畜産を営む農家は、今はもう二軒くらいになったが、それでも伝統行事、毎年やる。

 昨年の日記を読み返すと年に二回あると書いているが、どうも年一回の行事だったようだ。この他に、お大師さん、妙見さん、天神さんとお祭があって、年二回開かれるものもあり、そのたびに集会所で酒宴があり、結構な回数になる。

 総戸数、十数戸の小さな集落なので、皆家族のようなもので(事実親戚同士の家が何件もある)、こういう機会をうまく利用して飲み会を楽しむのである。我が家もこの一年ですっかり周囲に溶け込んで何の違和感もなく行動を一緒にしている。(写真1写真2写真3写真4

 昼前に一旦集まって、女性陣は食事の準備にとりかかり、男達の何人かは買い出しに行く、午後三時から酒宴が始まるのであるが、その間に、残りの男達は、村内に湧き水が流れ出る小さな川があるが、雑草を刈ったり、浚ったりして清掃する。近いうちに、この流れに、もうすぐ始まる田植えに備えて、稲モミを数日間漬けて発芽を促すそうである。

 大人たちだけが飲み食いするのも、と言うわけではないだろうが、この日には子供達にもお菓子が出る。夏子も、いずれ同級になる渡辺貴之・麻理子さんの所の直樹ちゃんとお兄ちゃんの健太郎ちゃんと一緒にお菓子を貰う。ここには現在小さな子が5人居る、将来の豆札を担う貴重な人材である。(写真1写真2


平成15年 3月17日(月)

 どんよりとした曇りの一日、気温は高め。
 
 午前三時半頃、防災無線からのけたたましいサイレンの音で叩き起こされる。宮地塩塚の民家から出火、西の空が赤く染まっていた。

 随分久しぶりにサイレンの音を聞く。ここに来たての頃は、度々サイレンが鳴っていたので、阿蘇は火事が多い所だという印象を持ったが、あの時が異常だったようで、その後はあまり火事は無かった。

 ここには夫婦(めおと)火事という言葉があって、一度火事があると、すぐまた何処かで火事があるという変な言い伝えがあるそうだ。中途半端な時間に起こされたので、そのまま起きてしまった。

 母を久しぶりに大阿蘇病院へ。


平成15年 3月16日(日)

 雨。本日予定されていた野焼きが天候不順により21日に延期になり、終日ゴロゴロ。
 
 赤星さんが、波野に山を持っている人が間伐材が出るからくれるそうだよ、と言ってわざわざ訪ねてくださる。二三日中に取りに行くことにする。


平成15年 3月15日(土)

 雨。
 
 本日は、一の宮町地域づくり団体協議会主催の、タウンウォッチングの日である。いや、であった。今回は古城・中通地区で古墳や、その他色々な文化財の見学が出来るということで、楽しみにして山口定俊さんと集合場所の高齢者センターに出かけたのだが、無情の雨であえなく延期となった。

 雨は上がる方向に向かっていたのだが、古墳の玄室などに入ったりすので、どうせならもっと天気が良い日のほうがいいでしょうということになったのである。

 明日予定されていた野焼きも、防災無線で延期の知らせがあった。


平成15年 3月14日(金)

 今日までいい天気だった。明日は雨の予報なので、山を下りて材木を貰いに行った。今日は豊漁、いい木材を軽トラが悲鳴をあげそうに満載して帰ってきた。

 何かに使おうと、保管してあった大きい端材を特別に出してもらった。薪にするには少し勿体無いような材木で、適度に乾燥していてストーブには丁度良い。ようやく暖かくなってきて、今年の寒さもなんとか先が見えてきたので、薪あつめもそろそろ一段落だろう感じていた矢先の思わぬ獲物、気持に大きな余裕が生れる。

 イクさんがケサトさんからだといって、摘み取ったばかりのたかなを一束届けてくださる。我が家のたかなの出来は、あまり良くないので有難い、明日たかな漬け、婆様の仕事だ。


平成15年 3月13日(木)

 ジャガイモの作付けをする。ジャガイモはナス科だそうで、連作は駄目、4〜5年間は同じ場所で作ってはいけないそうだ。

 昨年植えた場所の隣に14mの畝を3列作って、男爵を79株、メイクイーンを44株植えた。昨年はメイクイーンの出来はまあまあだったが、男爵がいかにも小さかった。

 料理にもよるが、男爵のほうが好きなので、今年は男爵にウエイトを置いて多めに植えた。昨年の作柄があまり良くなかったのは、追肥をやらなかったからだと思うので、今年は真面目に管理をしよう、昨年は3月14日に植えた記録が残っている。

 今夜は宿場会、工芸滝室が今回の会場。早川忠光さんが、このたび都合で沖縄に活動の場をシフトされるとのことで、阿蘇を去られることになり、氏最後の宿場会となった。(写真1写真2写真3写真4写真5)

 宿場会にとって大事な人であると同時に、個人的にも、従兄の友人であり、そんなこともあって、色々お世話になったのだが、わずか一年あまりのお付き合いになってしまって、非常に残念である。

 しかし、ご自宅はそのままなので、その内にまた戻っておいでになることを皆で期待して、送別の杯をかたむけた。それにインターネットがあれば距離は問題無い、問題はパソコンに向かう意欲だ。ところがこれがあまり熱心な弟子でないときているから・・・


平成15年 3月12日(水)

 きょうも快晴。
 
 ジャガイモの種芋をホームワイドに買いに行ったが、もう売り切れで、再入荷の予定はないとのこと、ロッキーにまわって手に入れたが、もうそんな時期か。

 先日の植樹の際に余ったので、貰っておいたトン糞と、牛糞と石灰を撒いて、耕運機で鋤いてジャガイモを植える準備をする。また天気が下り坂だから、明日はなんとしても作付けをしてしまいたい。


平成15年 3月11日(火)

 久しぶりの低温注意報が出たとおり抜けるような空で夜が明けて、一日中素晴らしく良い天気だった。

 夕方、図書館に本を返却した帰り、志賀事務所に寄ってコーヒーをご馳走になる。


平成15年 3月10日(月)

 晴れ。特記事項なし、一日経つと忘れてしまった、ということは特に何も無かったということか。


平成15年 3月 9日(日)

 まあまあの天気か、起きてみると、畑にまた薄っすらと雪が積もっていた。
 
 今日は、谷人友の会3月例会「阿蘇をさるく」が、高森町であった。高森町はこちら側から見ると、阿蘇山を挟んで丁度反対側に位置する南郷谷の町である。

 今回は、酒絡みの「さるく」になりそうなので、カミサンに駅まで送ってもらい、久しぶりに鉄道を利用して高森町まで遠征した。

 宮地駅からJRで一旦熊本方面に戻って、南郷谷に分岐する所にある立野駅から三セクの南阿蘇鉄道に乗り換えて、半時計回りに阿蘇の山々をぐるりと回って反対側の高森まで行くのである。

 アルファベットの「C」の書き始めの部分と終わり部分の位置関係か、「C」の切れた部分を車で山越えすればうんと近いのだが、鉄道を利用すると、約30分30分、都合60分の汽車の旅となる。電車とは言わず、汽車である。もっと正確に言えば気動車、つまりディーゼル車である。

 この立野駅は阿蘇の外輪山が下界に向かって唯一切れているところで、熊本方面から立野駅まで登って来た列車は、更に次の赤水駅までの約8kmの間に、高低差190m(60階建てのビルに相当するそうだ)を、一度で登りきれないのでジグザグに前後進を繰り返す、スイッチバックで阿蘇谷に入っていくのである(先月はこの下の渓谷をさるいた)。週末を中心に、阿蘇の雄大な景色をバックに、SL「あそBOY」がこの急坂を往復するのだが、釜を目一杯焚いて走るその様は鉄道マニアならずとも惚れ惚れとする。

 本日の立野発の南阿蘇鉄道は二両編成で、熊本方面からの行楽客で満員、まだそんなに経っていないのだが、もうウンと昔のような気がする通勤電車の混雑振りを、久しぶりに思い出した。

 終点の高森の駅前が、そのまま「新酒とふるさとの味まつり」の会場になっており、入口で300円也を払って「」を買うと、それに新酒呑み券が三枚が付いており、併せて、肥後の赤牛や岩魚、地鶏、そして名物の田楽などを焼く煙と胃袋を刺激する匂いが周囲に立ち込めていて、老若男女其処此処に立ち居並び、升を傾け、串を頬張りと、もう呑兵衛にはたまらないだろう世界がそこにはあった。

 この町には「霊山」という銘酒がある、あまり呑めない小生にも甘からず辛からず、なんとも気持良く、すっとノドを過ぎる新酒は本当に旨かった。
 
 今回は、高森町を「さるく」ついでに、阿蘇のひまつりのイベントのひとつである「新酒とふるさとの味まつり」を楽しもうというのがテーマであるようだが、本音は、呑兵衛の呑兵衛による呑兵衛のための「さるく」で、タラフク呑もうということ以外は何も無いというくらい、気合の入った「さるく」になった。

 そんな訳で、この後、白水の博物館事務所に戻って、反省会と来年度の打ち合わせがあるはずであったが、そんなものいつの間にか何処かに吹っ飛んでしまい、それでも、そこは、「さるく会」、千鳥足で少し町中(写真1写真2)をさるいた後で、みんなで山村将護さんのお宅に上がりこんで、楽しい二次会(写真1写真2写真3)と相成ったのである。

 今回は、他の行事とスケジュールがぶつかった人が多く、参加者は、梶原館長以下、山村将護さん、村上建徳さん、吉村孫徳さん、片山博史・晴美さんご夫妻、それから鹿児島から参加の温泉大好きの宮路喜美子さんと広島からの高藤麗子さん、少人数ではあったが、それだけに息が合って、小生も昔から居るような心地よい時間を過ごすことができた。

 余談だが、阿蘇に住むようになって、「縁」というものには、度々驚かされているが、今回も「またまた」に、更に「また」が幾つも付くくらいの、「縁」に驚いたことがあった。

 広島からの高藤さんは、北九州の小倉の出身だそうで、小生が昔住んでいた近くに実家があるそうで、話をしているうちに、小学校、中学校、そして、なんと高校まで全く同じ学校に通ったことがわかり、先輩・後輩の間柄だったのである、と言っても何十年の開きがあるのだが、いやあ世の中狭い狭い。

 帰りの阿蘇谷は、明日の良い天気を少し期待できそうな夕映えであった。


平成15年 3月 8日(土)

 もう雨は降らないはずで、昨日の夕方にシートを全部取っ払ったのに、あれからずっと結構降っているではないか、それも雪混じりで、バカヤローだ。明日はどうなる?

 午前中、昨日積み残した木材を貰いに山を下る、立派な角材を軽トラック一杯

 わずかな晴れ間、大きな窓ガラスに写し込んだ山並みめがけて、また小鳥がぶつかって失神、なんとか覚醒して飛んでくれたようだが、これでもう何羽目だろう、その内に鷹の影絵でも貼らなければならないか。この鳥の名前を知らない、誰か知っていませんか。


平成15年 3月 7日(金)

 今日も結局ぐずついた天気で終始した。晴れるのを待つほど薪の備蓄に余裕が無くなってきたので、(それと週末は他の人と競合する惧れがあるから)、雨のなかを佐藤林業に材木を貰いに行った。


平成15年 3月 6日(木)

 夜のうちにまた雪が降ったようで、夜明けと共に雨に変わり、寒々しい一日となった。

 今日は啓蟄だそうだが、春は名のみか、一時は春めいていた気候も、ここにきて急に冬に逆戻りしてしまった。


平成15年 3月 5日(水)

 う〜ん、オマケして晴れというところか。
 
 また明日、雨の予報なので、今日一日薪割りに精を出した。気が付かないうちに昭元さんが、山から材木を積んで来てくださっていたのだ。

 薪割をしていたら、正士さんが通りかかり、16日に野焼きをやるが出られるかと打診があった、モチロン出るとふたつ返事。

 ぶあい莊のあるじに久しぶりに電話をしたら、元気でいた。近いうちに白州で面白そうな仕事に就くそうだが、そうなるとずっと白州住まいになるな。


平成15年 3月 4日(火)

 曇り。久しぶりに冷え込んで山頂が真っ白になっていた。
 
 今日は娘の6ヶ月健診が町の保健センターであり、カミサンが一人で娘をチャイルドシートに乗せて連れて行った。子供の健康状態もさることながら、カミサンの運転のほうが気になって仕方が無かったが、無事に帰ってきた。

  子供達は30人くらい来ていたそうだが、うちの娘だけが一人で大泣きしたそうである。そう言えば前回の時も一人だけ大泣きしたそうだから、少し外に連れ出して人込みに馴れさせる必要がありそうだ。


平成15年 3月 3日(月)

 昨夜からの風雨は午後に入ってようやく収まった。
 
 夕方、婆様が桜伯母の葬儀参列、豊田市の娘の家への寄り道を経て無事に帰還、空港まで迎えに出る。

 飄々と到着口に姿を現した、約二週間の旅、大した体力だと改めて感心する。尤も行った先々で下にも置かぬ歓待を受け大事にしてもらったそうだが、今回の旅で自分の体力に自信が持てたようで良かった。

 今日は夏子の初節句、ちょっと見ぬまに大きくなったと、久しぶりの再会に相好を崩す婆様も一緒に、千葉のおじいちゃん、おばあちゃんから届いた雛人形を前に記念撮影(写真1写真2)。


平成15年 3月 2日(日)

 天候が毎日めまぐるしく変る、今日は見事に快晴、火文字焼きが今日だったらベストコンディションだったのにと残念、こんなに良い天気だったのに今夜また雨だそうだ、こうして一日一日と春が近づいてくる。

 今日、今年初めてウグイスの声と、チョット来い、チョット来いと鳴くコジュケイの声を聞いた。

 昼過ぎに、通りかかった志賀葉子さんが夏子の顔を見に寄ってくれる、気にかけていただき嬉しい。


平成15年 3月 1日(土)

 春の嵐か、薪を覆っていたシートが飛ばされるくらい強い風と雨の一日だった。
 
 夕方になってようやく雨も上がり、「阿蘇のひまつり」のメイン・イベントともいうべき往生岳の火文字焼きの「火」の字に点火がされたものの、麓からは深い雲に隠れて全く見えなかった。

 往生岳の麓にある本塚でも、同時に「火」という文字をかたどった野焼きをして、二つ重ねて「炎」という文字を作るのだが、今年は、その本塚の「火」という字だけの、少々残念な火文字焼きになった。昨年は家族で阿蘇町まで繰り出したことを思い出す。

 阿蘇地方はこれから一月の間、各地で色々な春の催しが繰り広げられる。


 夜、豊田市の妹の家から、今みんな集まって酒盛りをしてると、メールにその模様を撮った写真が送られてきた(写真1写真2)。

 母が横浜の母の姉(伯母)を彼岸に送った後、阿蘇に帰ってくる途中、数日間滞在しているのだが、その機会を利用して普段はそれぞれ離れて住んでいる妹の家族や甥の嫁さんの実家の皆さんが集まってくれたらしい。