平成15(2003)年 5月の記録(新しい日付けの順)

平成15年 5月31日(土)

 夜の間に台風4号は九州の東方をかすめて、通り過ぎたようだ。風も強かったのかどうかも、寝ていて分からなかった、ここではそんな程度の台風だった。そのようにメリハリのない台風だった所為か、台風一過というようなスカッとした天気にはならず、一日中グズついていた。

 前に住んでいた湘南地方は結構雨が降ったようで、寺内さんのメールや全国ニュースでもそのことを伝えていた。

 夜、ファームビレッジ産山に出かけた、そこの体験塾の懇親会に呼ばれたのだ。ここは貸し農園で、会員の皆さんは借りたスペースに各人好きな農作物を育たりするのであるが、そういったこととあわせて、一緒に、しめ縄や門松を作ったり、その他いろいろな農業体験をするイベントが用意されている。

 その中には、蕎麦を植えて、収穫して、蕎麦を打つ計画も入っており、昨年、図らずも小生が蕎麦打ちの講習会をお手伝いした縁で、今晩呼んでいただいたというわけである。

 今回のテーマは、田植えだそうで、明日皆さんでウルチのほかに黒米も植えるそうである。近くの小川でホタルの観賞会も予定されていたが、ここのところ冷え込みで、あまり飛んでいない上に、雨模様ということもあって今回は見送られたそうである。


平成15年 5月30日(金)

 台風が近づいている、降ったり止んだり。午前中、母を大阿蘇病院へ。

 昼から、松下武伸さんが、ご自身の工房「風」で、夫人の玲子さんと、かずら工芸と和装小物の作品展を開催中との情報を中村仁美さんを通じて知ったので訪ねてみた。仁美さんに教えられた道を辿ると、その工房は阿蘇神社の裏手にあたり、神社の歴史と共に歩んできた古道を抜けたところにある。

 かずら工芸に対する興味のほかに、工房名が「風」ということと、夫人が「そよ風乙女」という名前で、テレビタミンというテレビ番組だったか、特派員と呼ばれる地元情報の通信員をされていて、前々から少し気になっていたという理由もあって訪ねたのであるが、人が絶えることなく大盛況の様子だった、小生も小さな一輪挿しをひとつ買い求めた。(写真1写真2

 帰途、行きつけの喫茶cocoroga?に寄って、美味しいコーヒーと、マスター、美人ママとの会話をしばし楽しんだ。

 三時を過ぎた頃か、思いもかけず、郷土史家の嘉悦渉先生が中村勝さんとおっしゃる方を同道されて訪ねて来られる。

 中村さんは幾つもの肩書をお持ちで、頂戴した名刺によると、市内で松巖亭という茶道用の菓子屋を経営されたり、能楽肥後金春の中村流の宗家であったり、熊本歴史街道ネットワークを主宰されたりという人物である。

 中村さんのご先祖が、江戸末期に、阿蘇?の郡代を勤められ際に残した26年間に亘る貴重な日記の中に、園田五郎次という小生の先祖にあたる人間が、幕末期に南郷谷で農業用水路の開鑿にあたり、当時の測量技術などが原因で結果的に失敗、自刃して責任をとった記録が残っているそうで、今日は、そういったこの辺りの歴史の件で円通寺を訪問されたついでにお立ち寄りいただいたという事であった。

 先祖のことは恥ずかしくなるほど何も知らず、この先祖のことも、少し耳にしたことがある程度なので、その日記に更に詳しい事跡が残っているかもしれないと、今後の読み解きが非常に楽しみである。


平成15年 5月29日(木)

 下界は晴れ、阿蘇は曇りだったか、今日も風が強かったようだ。
 
 朝、雀が突然立て続けに二羽煙突の中を落ちてきて、ストーブの中で跳ね回っていたので、扉を開けて逃がしてやる。そろそろ巣づくりの季節か、今年は金網でも囲わないと、また煙突掃除が大変だ。

 下界に降りて、市内のスポーツ用品店XEBIOに行き、登山用のレインウェアーとステッキを購入する。

 帰ってから、台風接近に備えて、ナスなど、野菜の苗に添え木をする。
 
 昨日、豊田在住の甥の暖・晴佳夫婦に無事長男が誕生した由。周囲に娘と同じ世代が続々と誕生している、目出度き哉。、 


平成15年 5月28日(水)

 晴れ。
 
 トマトの苗5株追加購入。
 小さな畝を一列立てる。
 
 「阿蘇にのぼる会」事務局の大塚さんを訪ね、登山の要領を尋ねる。


平成15年 5月27日(火)

 朝、直ぐ近くの田から大きな虹が立ち、昼頃になってようやく天気が回復す。

 熊本東社会保険事務所に厚生年金の裁定請求のため再度赴き、手続き完了す。

 6/1の町主催の高岳花見登山に備え、帰る途中、トレッキングシューズを買い求め、役場に寄って登山の情報を仕入れる。阿蘇山はまだ登ったことが無いので楽しみであるが、天気が少し気になる。

 先日頂戴しながら、持ち帰る途中に紛失して再焼き増しをお願いした写真のお礼に高木義臣さんのお宅に立ち寄る。ご夫妻、お茶の摘み取りたかなの種取り、ジャガイモの花摘みなどなど、忙しいそうに、嬉しそうに、畑仕事に精をだしておいでだった。

 帰ってから、小生も、竹を切ってトマトに添え木をし、カミサンはポットで育てたトウモロコシの苗を畑に移植した、80株強あった、ハニーバンタムという品種である。

サトイモが、ほぼ100%芽が出て順調に育っている。ジャガイモの収穫ももう直ぐだ。


平成15年 5月26日(月)

 南に下がった鹿児島や宮崎では結構な雨だったようだが、阿蘇は小雨程度で、時折薄日さえ射していた。

 雨読。


平成15年 5月25日(日)

 終日、畑には優しい雨。

 ひどくは無いが、やはり風邪を引いたようだ、完全休養日にする。


平成15年 5月24日(土)

 曇り、ようやく夕方からパラパラ。

 午後、滉兄が熊本市内所用の帰りに立ち寄る。

 今日の作業・・・花壇つくり。「つくり」と言っても、特に周囲をレンガや石等で囲うようなことをするのでなく、畑部分と別に草花を植える部分を耕運機で耕すだけである。そして、カミサンがポットで育てた苗を移植する。

 仲町通でセロリの苗を見つけたので、五鉢買ってきて早速植え付ける。

 信昭兄からスペイン・アンダルシア地方のヒマワリの種を沢山送ってきた。先年、所属するコーラス・グループがアンダルシア音楽祭に参加した際に、記念に貰ったものだそうだ。阿蘇にスペインのヒマワリを沢山咲かせようとカミサン張り切る。


平成15年 5月23日(金)

 晴れが続く、良いような、良くないような。
 
 ノドが少し痛む、風邪気味か、それを好い事に、今日も一日少し働くマネをして終わる。
 
 カミサンは一日中畑の雑草抜きをやっていた。小生は面倒なので大体草払い機で刈り取るが、根が地中に残り、また直ぐに生えてくるが、カミサンは手で一本一本、根から綺麗に抜き取る、時間は掛かるが、そうすると長期間生えない、その根気は尊敬に値する。

 厚生年金基金に、基金側で支給を担当する年金額の照会をする。結果、基金加入者の場合、厚生年金のかなりの部分が基金側から支給され、社会保険事務所(国)で扱う厚生年金部分はごく一部だと言うことが分かり、ホッとひと安心。


平成15年 5月22日(木)

 薄曇り。

 田植えも終わり、一段落?小生、今日は、畑を少し耕したりして、適当に流して一日を終わる。

 カミサンはポットで育てたヒマワリを花壇に移し替えたり、トマトの苗を植えたり、雑草を抜いたり。
 
 これだけ周りには沢山の田があるのいうのに、カラスのバカ野郎メがわざわざ我がミニ田を選んで水浴びをしやがって、せっかく植えた苗をかなり傷めてしまった。


平成15年 5月21日(水)

 晴れ。

 ミニ田の御田植の儀を執り行った。小生は今年は田を作るまで担当して、カミサンが田植えをやった。概ね畝幅30cmで株間は20cmで植えたが、頂戴した苗代の1/4程度しか使わなかった。昨年は今年より小さな田だったが、もっと植えたような気がする。まあ意識的に密に植えなかったせいもある。

 早速小さなカエルが一匹移動してきて、ノドの袋を膨らませて甲高い声を出して鳴きだした。昨年は、隣の田から強制移住させたが、今年は自発的にやってきた。

 雨蛙は、田には「居ない」という説と、「いや、居る」という説が、我々の仲間内でちょっとした論争になっているが、これは多分雨蛙だろう、殿様蛙ではなかろう。

 確かに田植えが終わってしばらくすると、夜、明かりを求めて、家のガラス窓に沢山の雨蛙が張り付くので、田に全く関係が無いとは言い切れない。田が無くても、庭の植栽にも宿るが、田があれば更に増えるのではなかろうか。


 小生、本日60歳を迎えた。世に言う還暦である、十干と十二支の最小公倍数、昭和18年・西暦1943年の癸未が一巡りした。今では60歳なんて、どうと言うこともない年齢だろうが、一昔前、いや、もうチョット昔には、60歳といえば、もう「年寄り」とされた年齢である、当時は55歳で大方は引退だった。

 余人は60歳になった時にどういう感慨が湧くのだろうか。会社勤めをしていれば、多分定年に絡む歳なので、あまり良い気持はしないのではと思うが、どうだろう。

 小生の場合は、既に宮仕えをしていないので、その所為かも知れないが、60歳を迎えて非常に嬉しい気分である、思ってもみなかった。なにも年金がもらえるからというわけではない(まあ、多分にあるかも知れないが)。

 もうはるか昔の、二十歳になった時の、あのある種昂揚した気分のような、そんな気分か。寿命が延びたとは言え、やはり、ひとつの大きな区切りには違いない、60年間よく生きてきたなあ、という一種誇らしい気持はある。

 それにしても、小生に関する限り、如何にも軽い60歳である。何時までたっても未熟で、青臭いと思っている、いったい幾つになったら、オレも大人になったなあ、と得心がいくのだろうか、この思いは多分死ぬまで付いてくるのだろう。

 次の節目は古稀か、う〜ん、多分大丈夫だと思うが、そのへんになると、ちょっと自信が無い。それにしても、還暦や古稀などと言った言葉はもう死語なのか、カミサンなど、へえ〜そうなの、で終わりである。明治は遠くなりにけり、明治生まれでなくても、そう言いたくなる、そんな気分である。


平成15年 5月20日(火)

 晴れ。
 
 厚生年金の裁定請求方法を聞きに市内の熊本東社会保険事務所に行ってきた。阿蘇郡の年金事務はここで管轄している。

 60歳間近になれば向うから何か言ってくるだろうと思っていたが、そうではなかった。武藤が教えてくれて、思い出した、昔学んだことはすっかり錆び付いてしまった。

 年金財政が逼迫しており、徐々に受給環境は悪くなりつつある、現在は65歳にならないと受給できない。小生の年齢だと、経過措置で、フル受給は62歳からとなり、60歳からは厚生年金の報酬比例部分のみの受給となる。

 報酬比例部分など僅かな金額で、分かっていたとは言え、その額の低さに愕然とする。見込額を示されたときには月額かと思い、こんなにくれるのかと思ったが、年額だった。少々隠居が早すぎたかもしれないが、自由の楽しさを知ってしまった以上もう無理だ、尤も、働こうと思っても仕事が無いだろうが。

 今日二十日は娘の誕生9ヶ月目である、おかげさまで健康に育っている。
 千葉のおじいちゃん、おばあちゃん宛近況写真(写真1写真2写真3


平成15年 5月19日(月)

 薄曇り。

 午前中、ミニ田の代掻きをやった。機械化が進んで、今時こんなに泥だらけになって田植えの作業をする農家など無いだろう。

 夕方になって、一雨来た、丁度良いお湿りだ。


平成15年 5月18日(日)

 薄曇り、夕方少しパラつく。
 
 畑の東の端に半日かけてミニ田を作る、3m*5m=15平米、約4.5坪也(写真1写真2)。数日間、田が落ち着くのを待って、田植えをする予定。昨年は田に入らなくても両側から腕を伸ばして田植えが出来たが、今年は、この程度の田でも、中に入らなければ苗を植えられないので、田植え用の地下足袋を購入する。

 種を採るために残しておいた たかなを刈り取る、数日干してこれから次の年の種をとる。
 
 ホームワイドで、メロンやシシトウ、トマト、ゴーヤの苗を少量買う、少しずつ時期をずらして植えるので、何をどれだけ植えたか分からなくなった。カミサンも種から色々の苗を作っている。農作業の記録としては、何をどのくらい、何時、どうやって育てたかを定量的残さなければならないのだが、そこがいい加減なところである。

 朝、宿場会の古木さんご夫妻が、仲良く散歩で通りかかる。助さんも軽トラで通っていった、あれは田んぼだ。もう一台、トラックが警笛を鳴らして手を上げて行ったが、あれは誰だったろう。


平成15年 5月17日(土)

 まずまずの天気(だったが・・・)。
 
 志賀さんが稲の苗を一枚(正確な呼び方を知らない)届けてくださる。
 
 昼の便で帰る義父たちを送って、カミサンと娘も一緒に熊本空港へ。
 
 ミルク・ロード〜二重峠から阿蘇谷に下って阿蘇大橋を経て南郷谷〜白水の谷人博物館〜俵山を越えて空港へ。名残惜しそうに帰って行った。今回は親子、涙の別れのシーンは表面的には無かった。
 
 送って帰って来た途端にパラパラと雨が降りだし、途中で買ってきたサツマイモの苗をカミサンが急いで植える(20株)。サツマイモはイモの茎を、ただ地面に挿すだけで、そこから根付いてくる不思議な作物である。

 また明日から当分の間、、賑やかな生活から静かな生活に戻る、なんとなく気が抜けた気分である、農作業も溜まっている。


平成15年 5月16日(金)

 ようやく晴れた。
 
 午前中、義父たちを仙酔峡のミヤマキリシマ観賞に案内する。つつじ祭りのこの期間は一般車両通行止めで、有料のシャトルバスに乗り換えて仙酔峡まで登ることになっている。何ヶ所かバスの発着所があるようだが、我々は畜協の広場の臨時駐車場を指定されて、そこからシャトルバスを利用した。小生は先日既に観賞済みだったので、今日は下で待つことにして、車の中で読書などして皆の帰りを待った。大阿蘇病院がこの道筋にあるので、来る途中で、これも先日観賞済みの母をそこで落とし、後らか迎えに来ることにした。

 我々が停めた駐車エリアには次々に車が入ってきて、瞬く間に満車になるほどの盛況ぶりで、ナンバーを見ると結構九州以遠の各地からミヤマキリシマを見にやってきている。

 山を下りて来た義父たちに聞くと、今が満開で素晴らしい景観だったと大いに満足げで、昨日までの天候不順の欲求不満を一気に取り戻したようだった。

 昼から、一昨日のツベルクリン反応の結果を聞きに行ったカミサンと娘が帰ってきてから、改めて中岳に案内した。天気はすこぶる良かったのだが、生憎の風向きで火口付近には入場規制がかかり入れなかった。でも晴れわたった中岳付近の山肌をミヤマキリシマが美しくピンクに染めていた。

 娘のツベルクリン反応は結局陰性で、BCGを打って帰って来たが、今日も少しだけ泣いた程度だったそうだ。

 母は近頃胸苦しさを訴えていたが、診断の結果、喘息だそうで、四時間かけて点滴を打ってタクシーで帰ってきた。喘息など今まで掛かったことが無く、母にしては心外だったようだ。多病息災、多病息災。

千葉のおばあちゃんに抱かれる
平成15年 5月15日(木)

 今日も終日雨。
 
 昼から少しの晴れ間を狙って、義父たちを中岳に案内するが、途中から「五里霧中」、その内に雨がまた降りだして、ロープウェイ乗り場からUターン。霧の中で気がついたことだが、中岳の頂上付近の花の群落はミヤマキリシマではないだろうか、そうであれば、わざわざシャトルバスに乗り換えて仙酔峡まで行く必要も無いことになる。

 結局雨が本降りなったので、阿蘇神社に寄って今日のツアーは終わりとなった。

 数日前からジャガイモの花が咲いており、咲いた咲いたと喜んでいたが、考えてみたら、その花を摘まなければいけないことを思い出して、慌てて摘み取った。ついでに義父に追肥をしてもらった、その他に、畝間の雑草取りなど。


平成15年 5月14日(水)

 終日ほぼ雨。
 
 遠来の客もこの雨では動けず、結局一日中家の中。それでも義父は室内のドアの建て付けが悪くなった個所をサンド・ペーパーで一生懸命削ってくれた。ログ組みの家はどうしても、すこし沈むようだ。

 娘のツベルクリンの注射が保健センターであり、カミサンが連れて行った。少しだけ泣いたそうだ。

 志賀さんが我が家の田の田植えを終えた。


平成15年 5月13日(火)

 従兄姉の信昭・弘子夫妻本日離熊、滞在中続いていた好天を一緒に持ち帰ったようで、曇りから本格的な雨となる。

 福岡空港から発つ前に、大宰府を回ってみたいとのことだったが、鉄道の乗り継ぎでは時間が掛かるため、九州自動車道で大宰府まで送って行った。

 熊本インターから西鉄大宰府駅前までは、一時間足らずで行ける事が分かった(細かい計算はしないで欲しい)。我が家からは二時間もあれば、大宰府まで行けるのである。

 ついでと言ってはなんだが、大宰府の近く、筑紫野市に高校時代の友人で、こちらに来て電話だけの連絡で、もう何十年も会っていない高田A太郎が住んでいる事が分かっていたので、平日で当然不在であることは承知で訪ね、夫人に挨拶だけしてきた(夜、彼から電話がある)。

 さらに少し足を伸ばせば、水俣から福岡に拠を移したばかりで、訪ねる機会が無かった従兄の滉兄の住まいがあるので、ものはついでとばかりに行ってみたが、こちらも生憎不在であった。

 今日から、信昭兄たちと入れ替わるように、来客第二陣を迎えることになっており、福岡から一旦急いで家に取って返して、カミサンと娘を乗せて、改めて熊本空港にカミサンの実家、千葉のおじいちゃん、おばあちゃん、山岸ナツさんを迎えに出る。山岸さんはカミサンの家の親戚のような人である。

 夜、宿場会、今月から夏時間、8時開催。

平成15年 5月12日(月)

 晴れ。

 午前中、信昭兄の助けを借りて町道との別れ道の竹やぶを整理する。

 午後は、黒川温泉にひとっ風呂浴びに行って見た。噂に違わず、平日にもかかわらず大勢の人で、特に若い人で賑わっていた。

 温泉のテーマパークのような所で、確かに今の若い人、特に女性に人気があるのが頷けるような気がした。我々ロートルはそういう雰囲気から少し浮いたような気がして、結局温泉には入らずに散策しただけで帰ってきてしまった。帰途少し寄り道をして、今や全国区の中津江村まで行ってみた。

 サトイモの芽が出始めた。
平成15年 5月11日(日)

 昨夜から降っていたようだが、寝ていて全く知らず、朝のうち雨が残り、その後概ね上がる。

 今日は、安息日とすることにして午前中ゴロゴロして、昼食に蕎麦を打って客人に供したが、午後になって、阿蘇神社、国造神社、中通古墳群などを案内した。

 志賀昭久さんが昨日あたりから田に苗代の搬入を始めたが、我が家の田にも朝一番でご夫妻で苗を置いていかれた。自分で米作りが出来ればいいのだが、今のところは無理なので、余った苗を少しだけ頂戴して、また畑にミニ田んぼを作ることにする。


平成15年 5月10日(土)

 晴れ。しばらく続いた晴天もそろそろ怪しくなりつつある。

 今日は水郷の町、柳川にお供をした。途中、旧57号線の熊本市龍田にある宮本武蔵の墓所、武蔵塚公園に寄り、更に上熊本駅の裏手になる加藤清正の廟所、本妙寺に寄ってから、金峰山の麓を通って漱石の草枕の舞台になった天水町を経て、柳川に向かった。

 天水は見渡す限りのみかん山。<-- モチロン俳句ではない、たまたまそういう語呂になっただけだ。「草枕」も、考えてみたら「山道を登りながらこう考えた、知に働けば・・・」の、あの件くらいしか頭に残っていない、読んだことあったかなあ。

 一般道を使ったため、向うに着いてから、肝心のゆっくり船に乗って水郷めぐりをする時間がなくなり、横目で水路を眺めながら、車でサッと街中を流して、もうひとつの肝心?、若松屋という店で、鰻のせいろうむしを馳走になって帰ってきた、肝心だから当然、肝すい付きだ(バカなことを書く)。

 柳川では、いや、「でも」か、柳川でも、あちこちの地方都市の例に漏れず過疎化が進んでいると見えて、町筋に沢山の空き店舗が目立つのが気になった(土曜休日の所為かも知れないが)。大体の様子が分かったので次回は家族を連れて、ゆっくりとドンコ船で水郷めぐりをしながら、船から柳川という街を見てみたい。帰途は南関IC経由で、2時間で帰ってこられた。

 我が家がすっかり周囲を水で取り囲まれて、一年で一番好きな景色になった。


平成15年 5月 9日(金)

 抜けるような青空。
 
 午前中、客人をミヤマキリシマ観賞に仙酔峡に案内する。明日から渋滞対策で一般車は進入禁止になるので、まだ少し早いかとも思ったが出かけてみたところ、もう十分に咲いており、山肌一面がピンク色に染まっていた(写真1写真2)。

 昼からは、大分県緒方町の原尻の滝と竹田市の岡城址に案内をする。岡城址では、坂が急で、かなりの距離があるため、足が弱い母を車に待たせて登ろうとしたところ、係りの人がそれを見ていて、特別に車で入ることを許可してくれ、裏道を通って一番上(滝廉太郎像)まで登ることが出来た。諦めていた母は大喜びだったが、こういう配慮は本当に有難いと思った。

 千葉のおじいちゃん・おばあちゃん宛写真
平成15年 5月 8日(木)

 昨夜半から強い風と雨が一晩中吹き荒れて、竹で三叉に組んだ物干し竿などが倒れ、庭先も水浸しになっていた。雷も夜通し鳴っていた(ようだが、小生は眠っていて気がつかなかった)。夕方近くになってようやく阿蘇山の麓あたりが姿を現したが、若葉寒というらしい、気温も昨日までと比べると低く肌寒かった。

 今日、我が家の周囲の田に水が入りだし、志賀昭久さんがトラクターで代掻きを始めた、家の庭先をトラクターがゆっくりと動いて行く、贅沢な風景である。

 今の時期、もう田植えが終わった田もあれば、まだ全く手付かずの田もある。トマトやイチゴの栽培との兼ね合いなどで、田植えの時期にかなりのバラツキがあるのだろう。

 4時頃、従兄姉の信昭兄・弘子姉夫妻が、永瀬ご夫妻に送っていただき、我が家に移動してきた、しばらく我が家逗留となる。


平成15年 5月 7日(水)

 突然ザーッと来るかと思ったら、急に太陽が顔を出したりと変な天気の一日。

 午前中、母を大阿蘇病院へ。

 ルーターがオカシかったのか、プロバイダーの所為か、はたまたNTTか、昼前後の一時間あまりインターネットにアクセスできず、ライブカメラの画像送れず、最近はあまりエレクトロニクス製品をいじくりまわすことが少なくなったので、少々焦る。その内に原因がわかり回復する、やれやれ。

 (原因)ルーターの自動接続制限が働いてつながらなかったようだ。解除してあったはずだがなあ・・


平成15年 5月 6日(火)立夏

 朝から一日中しっとりとした雨に濡れていた。

 今日のお題は「六日の菖蒲(あやめ)」である。
 
 「六日の菖蒲、十日の菊」という諺がある。菖蒲は端午の節句、つまり5月5日の花、菊は重陽の節句、つまり9月9日の花であるが、それが、それぞれ一日遅れていることから、時機におくれて役に立たない物事のたとえに使われる。

 昨日は端午の節句、菖蒲湯の日だった。迂闊にも、夜に入ってからニュースを見ていてそのことを思い出したが、時既に遅し、入浴は済んでいた。

 こういった縁起物は、忘れると実に気持が悪いもので、物心ついて以来菖蒲湯に入らなかったことは一度も無かった。気になりだすともう仕方が無い、これで子供が病気にでもなれば、その所為だと考えるに違いない、矢も楯たてもたまらず一番近いスーパーに買いに走ったがもう無かった、そこで隣町の大きなスーパーまで行ってようやく手に入れた。ホッとして帰ってからそのことを母に話すと、私の田舎では旧暦でやる、なるほどその手もあったのか、何も慌てて買いに走る必要も無かったのだ。
 
 というわけで、文字通りの「六日の菖蒲」と相成った、つまり本日、菖蒲湯を立てたのだ。

 タイミング悪く、眠かった子供を風呂に入れたが、大泣きだった。

 「六日の菖蒲、十日の菊」という言葉は、昔、何かにつけて父がよく使っていた、つまり、このような状況が我が家には度々あったのだろ、これも我が家流なのかもしれない。


平成15年 5月 5日(月) 子供の日

 今日で大型連休も終わった、うまい具合に期間中好天が続いたものだ、この天気もどうも今日までらしい、そろそろ雨が欲しいと思っていたので丁度良いタイミングである。
 
 昼頃、滉兄が大津に所用の帰りに立ち寄る。預かっていたPDAのGENIOを、使い方を説明して返却する、少々寂しい心持。

 今日の農作業は、畦の雑草の堆肥作りと一部の焼却。花を植える場所の土起こしなどなど。周囲の田ではあちこちに水が入り始めた。

平成15年 5月 4日(日)

 今日も晴れ。好天が続いており、阿蘇を訪れる多くの人々が素晴らしい景色を堪能してくれていると思うと他人事ながら嬉しい。

 今日は、刈払い機で雑草の刈り取りを半日ほどして終わる。カミサンは雑草を抜いたり、何種類かの苗の植付け、花の種を蒔いたりと、訪れる人もなく静かな一日だった。


平成15年 5月 3日(土) 憲法記念日

 晴れ。今日から仙酔峡のつつじ祭りが始まる、双眼鏡で覗くと、仏舎利塔の下辺りまで車が繋がってるのがみえた。まだまだ蕾段階のようだが、もう少し先になると、車はシャットアウトになり自家用車では上まで行けなくなる。

 今日は洋君は女房子供をほっぽり出してSLあそBOYの撮影に出かけていった。熊本と宮地の間を一往復する蒸汽機関車をあちこちの撮影ポイントに先回りして一日中走り回るそうで、何時何分に何処其処を通過するアングルが良いとか、好事家同士の情報交換で実に詳しく識っている。

 今日一日独身時代に戻って単独行動する洋君に代わって、小生が置き去り?にされた皆を今晩の宿泊地の熊本市内まで送り届けることになり、城山展望所、池山水源、ヒゴタイ公園に寄って、菊池渓谷を経て山鹿市に入り、八千代座を見学して夕方無事に長瀬家に到着した。永瀬家では皆の到着を首を長くして待っておいでだった。

 一年でもこの時期が道路が一番混雑するのではと心配したのだが、どこも何時もより少しだけ車が多いかと言う程度の、拍子抜けするほどの空き具合であった。どうもそういうことは大都市圏周辺の行楽地だけのことらしいと思って帰ってきたら、豈図らんや57号線に限っては小生が阿蘇に向かう道路とは反対車線の上り方向が阿蘇に入る少し手前の大津あたりから渋滞の先頭が始まり、その最後尾は延々と阿蘇に入って市の川あたりまで続いていた。思わず向こうに居た頃を思い出した。小生の走る側はガラガラで、一時間少しで、長瀬家から帰り着くことが出来た。

 洋・満理家の一粒種、駿ちゃんは、田舎にきて近所の牛や馬を間近に見たり、畑で蝶々を追いかけ回したり、山女を釣ったりして、都会では味わえない自然に触れて活き活きとしていたようだ。娘と同じ年頃の大事な親戚だ、これからも折に触れて遊びにきて欲しい。


平成15年 5月 2日(金)

 晴れ。
 
 朝、我が家の前を宿場会の坂本棟梁が風を切るようにトラクターを駈って通っていった。距離があり表情までシカとは分からなかったが、手を振ると、どうだッとばかりの得意顔をしていたように見えた。今日は大工仕事は休みで田起しなのだろう。
 
 数日間姿を消していたコラッが久しぶりに戻ってきた。もともとノラ猫だからどうと言うことないはずだが、いつの間にか情が移って、居なくなると気になって仕方がなかったが思わずホッとした。不覚にも特別にミルクをやってしまった、軟弱、軟弱。
 
 昨夜はかんぽの宿に泊まった信昭兄一行は午前中に我が家にちょっと寄ってから、早速高千穂峡に向けて出発して、阿蘇山頂、大観峰を経由して夕方我が家に戻ってきた、そして夜は久しぶりの大人数での食事となった。 

平成15年 5月 1日(木)
 今日からいよいよ5月だ。そんなことを言ったら、毎月、今日から6月だ、7月だと書かねばならぬところだが、まあいいだろう、何となく書きたくなる月だ。

 晴れ、午前中、窓拭きや玄関周りの清掃。
 
 昼から従兄の古川信昭夫妻と洋君・満理さん・駿ちゃん一家を熊本空港に出迎える。この連休で熊本をあちこち旅するのである。市内から永瀬夫妻も出迎えに見えていた。

 駿ちゃんのたっての希望で三井グリーンランドのウルトラマンランドなるところに行くことが今回の旅行の大きな目的のひとつだそうで、まずそこに直行して、阿蘇には日暮れて遅く入るそうで、早速出かけていった。今晩は近くに宿を取っており、我が家には明日やってくるそうだ。