平成15(2003)年 6月の記録(新しい日付けの順)

平成15年 6月30(月)

 梅雨の晴れ間も昨日一日で、今日はまたどんよりした梅雨空に戻った。
 
 午前中、強い日も射さず、暑からず寒からず、散歩にいい条件だったので、久しぶりにカミサンが子供を乳母車に乗せて散歩に出かけた。

 最近は婆様も体力が落ちて散歩も億劫になったようで、ほとんど出歩かなくなったので、ひとつには婆様の散歩の付き合いの意味もあったのである。

 もっとも子供のお守りで一日中振り回されているので運動不足ということは決して無いのだが、外に出ようとする気力自体が無くなるのが良くないと思うのである。

 妙法寺先のアイガモ農法の田んぼまで行ってアイガモを見て帰ってきた。

 産山のヒゴタイ公園で買ってきて植えてあったヒゴタイが蕾を持った、楽しみである。

 小生の読書必携の(ひとつでも)七つ道具、広辞苑の電子辞書、従来は読めない文字や分からない意味はかなり読み飛ばしていたが、今は時間はあるので出来る限りこまめに調べるようにしている。分厚い辞書を持ち歩かなくてもいいので、本と一緒にいつも家の中を移動している、便利な道具である。


平成15年 6月29(日)

 久しぶりの晴れ。

 午前中、またまた昨日の強風で傾いたトウモロコシの姿勢直しをやる。

 昼頃、昨日市内であった学会の帰りだと言って滉兄が顔を見せに寄ってくれる、相変わらず忙しい毎日だとの事。

 午後3時ころ、太陽光発電のS社渡辺氏来訪。

 夕方、Librettoをクロネコにて持ち主宛に発送。


平成15年 6月28(土)

 いやあ、よく降った。その上に風が強かった。昨夕方から間断なく強風が吹き荒れ、ヘタな台風よりも強力であった。せっかくのトウモロコシが、またかなりオカシクなっているようだ。それも夕方になってようやく収まってきた。

 メインのパソコンがウィルスに感染しているというメッセージが出て、ウィルス・チェッカーが働いて駆除してくれた。Download.Trojanというウィルスだそうだが、どんな悪さをするのか分からないが、まあ良かった。

 午後も大分過ぎて、寺内さんから預かったLibrettoが、ようやくのことで復旧した、連日の雨で本当に良かった。復旧作業が終わるのを待っていたかのように、鉄男さんが、パソコンがフリーズしてどうしたら良いか分からない、とSOSを求めてきたので、ちょっと行って、リセットの仕方を伝授して、ついでにインターネットを薦めてきた。

 久しぶりの達成感。てな訳で、メデタク本来の持ち主に戻っていくことになる。これでようやく雨読に戻れる。

 寺内さんは文庫本といい、パソコンといい、いつも知的刺激を与えてくれて、小生が田舎でボケるのを防止してくれている。 
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 複雑な工程は直ぐに忘れるので以下備忘録として、残しておくことにする。
 
 このタイプのNotePCはリカバリー用のCDが付いていて、専用のドライブを使うと自動的にブートして、リカバーをしてくれ、実にあっけなく作業は終わるのだが、専用のドライブが無い場合は、極めて煩雑な作業が待っている、それもようやく探し当てた方法で分かったのである。世の中、蛇の道は蛇、感心するくらい詳しい連中がいるものだ。

 指定外の外付けドライブを使う場合は、DOSレベルではCD-ROMドライブがenableにならないので、その作業をしなければならないのだが、そのためにはFDドライブが要る、しかもレガシータイプのドライブである。しかし、このタイプのPCはUSB接続で、多分この段階では使えないだろう、その上に第一そんなもの持っていない。ということで、デスクトップなど、他のPCの力を借りて一連の作業をやる必要があるのである。

 つまりLibrettoのHDを取り外して、デスクトップなどに付け替えて、そこでそれらの作業をやるのである。

 そこで最初にLibrettoからHDを取り出すことになるが、メーカーは、HDの換装なんか全く考慮していないので、結局全部分解して取り出す破目になった。

 次に、リカバリー用のCDは、イメージファイルになっていて、たとえDOSレベルでCD-ROMが使えるようにしても、それだけでは、リカバリーCDは動かないので、DOSレベルでCD-ROMドライブをenableしてやると同時に、そのイメージファイルから復旧を始めるための一連のコマンド類が入った起動用のFDを作成する必要がある。

 ところがそのコマンド類はイメージファイルの中にあって、普通には見えないので簡単には取り出せない。そこでまず、イメージファイルから、それらのコマンドを抜き出すソフトが必要になってくる。

 以上のことを、インターネットで検索して、ようやく探し当てることが出来たのである。インターネットとは本当に素晴らしい道具である、とつくづく思う。百科事典であり、羅針盤である、こんな片田舎にいても情報は取れるのだから(勿論使い方にもよるが)。

 という次第で、フリーソフトを使って、先ずイメージファイルから復旧作業をするための起動用のFDを作り、さらに使用するPCのCD-ROMドライブに合せて、そのFDのconfig.sysやautoexec.batにDEVICE類を組み込んだり、機種チェックをする部分を削除したりして、起動用のFDが完成する。

 そして、その起動用のFDを使って起ち上げれば、あとはもうスイスイと購入時と全く同じHDが完成するということになる。分かってしまえば、どうということはないのだが、ここまで辿りつくまでの試行錯誤が大変で、同時にまたそれが楽しいのである。結局、移動用のLet's NoteのHDを外して、それにぶら下げて作業を完了した。


平成15年 6月27(金)

 基本的に一日中雨、夕方から風強し。

 終日ほとんどPCの前から離れず、リブレットの復旧に挑戦。何とか光明が見えてきた。
 
 無い無い尽くしでも、蛇の道は蛇、相当面倒ではあるが不可能ということは無いことが分かった。胡座のかきっぱなしで、膝が痛てえ、痛てえ。


平成15年 6月26(木)

 快晴、素晴らしい天気だった、しかし、今日は屋外作業は全然せず。昨日とりあえず喫緊の作業はやっておいたので、まあ今日は良いだろう。

 リブレットのリカバリーに挑戦するが、専用CD-ROMドライブが無い、FDドライブも無い。無い無い尽くしで、お手上げの状態である、さあて、どうするか。

 国民年金・厚生年金保険年金証書が届く、思ったより早く届く、いよいよ年金生活者を実感する。
 証書のコピーを添付して厚生年金基金あてにも、裁定請求書を郵送する。


平成15年 6月25(水)

 予報どおり、今日は久しぶりに晴れた。
 
 今日は真面目に一日中屋外作業。午前中、キュウリのネットをもう一列張って、また昨日の強風で傾いていたトウモロコシの姿勢を直してやる。午後からは、朝顔の棚作りをやる。キュウリも朝顔も取り付くところが無くて地面を右往左往していたので、これでひと安心である。

 カミサンは専ら雑草抜きである、黙々と一日中やっている。二三日雨でも降って作業をやらないと、もう雑草だらけだ。

 二人が外で作業をしている間、子供のお守りは婆様の仕事である、子供に振り回されて、婆様フラフラ、婆様にはこれが何よりの運動になる。


平成15年 6月24(火)

 雨の合間を縫って、キュウリのネットを張る。キュウリが伸びて巻き付くためのネットである。昨年は小ぶりの竹を、枝が付いたまま(丁度竹箒のようなもの)交差させて支柱を作ったが、強風で倒れたし、用意するのが結構面倒なので、今年はネットにした。

 寺内さんから、東芝のLibretooが送られてきた。故障して修理する暇が無いというので、、直ったらそのままこちらで使うから送ってくれと言ってあったのだ。「こちらでそのまま使うから」の部分を承知しているかどうかハッキリしないが、とにかく送ってきた。同じ包みに文庫本も10冊余り入っていた、有難い。

 送ってくる前に開いた時、どうにかしたようで、電源も入らなくなっていた。それで早速気持良く、あっという間に分解して、とりあえず、HDだけチェックしてみた。

 HDは物理的には大丈夫で、ウィルスチェックもOK、あとはじっくりと楽しんで直すことにするか。でも変な話だが、運悪く明日は良い天気らしい。(フォーマットからやり直します、データのバックアップ必要なら言ってください)。


平成15年 6月23(月)

 終日、小生には嬉しい雨が続くが、いずれこのツケがまわってくる。

 武藤からCD版の落語全集が届く、リタイアしてからゆっくり楽しむつもりで買ったそうで、まだ封も切っていなかった。全部で30枚くらいあろうか、リタイアしてからだと間に合わないかも知れないから、早く聞いたほうが良いと思うのだが、まあそれまでは小生が借りて楽しむことにする。コピーしたいところだが違法だから、構えてそれはやめておこう(わざわざ書くところを見ると白々しいだろうか。それはこれを読む人が疚しい心を持っているからである)。

 山口ます子さんから先祖に関する追加資料が届く。


 「翔ぶが如く」を一時中断して、寺内さんが以前送ってくれた吉村昭の「彦九郎 山河」を読んだ。

 小説ではあるが、高山彦九郎の日記を元に書かれているので史実の裏づけがあるのだろう。

 高山彦九郎は寛政四年(1792年)に豊後街道を通り、7/25〜7/27坂梨宿に逗留しているが、これは旅の目的地へ向けての単なる通過ではなかったようだ。

 九州に渡ったのは、薩摩へ行くことが目的だったのであるが、それは、朝廷と薩摩を結びつけるという密命を帯びての旅であった(彦九郎が生きた時代は、てっきり幕末だとばかり思っていたが、明治維新よりもまだ80年くらい前の江戸後期のことである)。

 当時、武家の政治を朝廷に還すべきだという動きが出始めており、その動きに幕府も警戒を強め、勤皇思想の彦九郎も危険人物としてマークされ、薩摩行きも密偵に尾行されることになった。彦九郎は身に迫る危険を回避するために、旅の目的を、西国遊覧と称して、薩摩に直行することを避け、長崎にまで足をのばすなど相当迂回して薩摩に入っている(日記では何度も同じ所を行ったり来たり、また、とんでもなく迂回するなど不可解な行動をとっているので、そういう設定になったのだろうか)。

 また帰途も真っ直ぐ帰らずに九州中をあちこち歩き回っているのだが、坂梨を通ったのも実はその危険回避行動の一端だった、となっている。

 小説には、「坂梨、大津と泊まりをかさね、なおも進むと、遠く熊本城が望まれた。熊本の城下に入ったのは、八月一日夜五ツであった」とある。

 鹿児島から宮崎の海岸を北上してそのまま帰るのではなく、また九州を横断して熊本まで出ているのだ。

 高山彦九郎は、とにかく歩く。歩いて、歩いて、また歩いて、と全編がこれ旅の毎日である。そして旅を通じて「日本」を観察する。九州行きの前には、江戸から、蝦夷に渡ろうと津軽半島の突端まで行って、事情が許さず断念すると、その足で取って返して京都まで歩き、そしてまた直ぐに九州まで歩くという具合である。それも最短距離を行くのではない、知己・古蹟を訪ねて度々大きく寄り道をするのである。

 なぜ好んで旅をするかという問いに、「乱世には武芸者が武者修行をして歩いたが、それと同じように旅をして、学識のある多くの人たちに会い、知識を深める。それは読書にもまさる生きた学問なのだ」と答えている。

 小説の首題とは関係が無いことだが、これも日記が出典であろう、毎日泥だらけになって歩いていながら、当時は殆んど風呂に入っていない、そういうシーンが随所に出てくるのが印象的であった。また丁度薩摩に入る時期と相前後して、雲仙普賢岳の大噴火が起こり、近年の大噴火よりもはるかに大きい被害があったことが書いてある。「島原大変、肥後迷惑」ということばが生れたのも、この時のことのようである。


平成15年 6月22(日)

 本日夏至也、熊本では、日の出5:09、日没19:29の由、生憎の空模様で太陽は全く顔を見せず。終日静かな雨が降り続き、周囲はヒッソリと雨でかすむ緑に沈むように一日が過ぎていった。


平成15年 6月21(土)

 午前中、ジャガイモの収穫をする。収穫前に梅雨に入り雨が続き、台風もあったりで、少し掘る時期が遅れたかも知れない。かなりの数が腐っていた、しかし今年の出来自体は良である。メイクイーン、男爵ともよく育った。昨年の経験から、作付けの際に、よく耕し、堆肥もタップリ入れたのが良かったのだろう。

 農文協(農山漁村文化協会)の三島さんという女性が訪ねて来た。ホームページによると「農と食・健康・教育を軸心として「いのちの流れ」を呼びおこし、都市と農村の関係を変え、自然と人間の調和した社会を形成することをめざして、総合的活動を展開する文化団体」とある。主だったところでは、「現代農業」という雑誌など農業関係の書籍類をを発行しているそうだ。

 あとでカミサンに聞くと、メジャーな出版社だそうで、我が家にある農業指導書の何冊かは、ここの出版だそうだ。小生は今までの生活とは全く別の世界のことだったので寡聞にして知らなかった。そして何よりも、書籍名・著者までは関心があっても出版元まではほとんど注意を払ったことが無いからだ。ついでに言わせて貰えば、アパレルと言ったか、本来裏側の見えないところに遠慮がちに付けるべくタグを、これ見よがしに表につける昨今の軽佻浮薄な風潮を不愉快極まりないと常々思っている(関係なかったか)。

 言われてみれば「現代農業」、以前、本屋の棚で見たことがあるかもしれない。サンプルでもらったものを読んでみたが読みやすくて、色々農業の知恵が詰まったなかなか楽しい雑誌である。

 この三島さん、記事の取材や、雑誌のPRなどもを主な仕事として、全国を飛び回っているそうである。我が家には何処で聞き込んだか、定年帰農者と思って訪ねて来たらしい。生憎道楽で百姓仕事をしていて取材の対象にはなりませんよと言って、逆に小生のホームページのネタにと逆取材をさせてもらい、雑談をしただけでお帰りいただいた。

 聞くところによると、生活用具一式を運送屋に移動先まで運んでもらっては、一定期間そこで取材活動などをして、また別の地域に移動するそうで、ご本人は移動先ではオートバイで走り回っているそうだ、実に活き活きしている。

 若いうちに社費で全国を旅して周れる、なんとも羨ましい仕事である。感心したのはノートパソコンを携帯しており、PHSを使ってモバイル・コンピューティングをしている、これなら何処にでも行ける、小生の大好きな生活スタイルである、なんとなくガンバレとエールを送りたくなった。


平成15年 6月20(金)

 台風一過の気持の良い天気になった。

 午前中、台風で横倒しになったトウモロコシを起こしたり、剥がれたマルチを被せなおしたりと畑の復旧にカミサンと二人でひと汗かく。

 今日は、宮地の山口マス子さんという方が訪ねて来られた(厳密に言うと遠戚に当たるので対外的な文章では呼び捨てだろうが、ここでは敬語を使う)。

 山口さんは、我が家の先祖のことを調べた資料をお持ちくださったのだ。山口さんは嘉悦さんとは古文書の研究を通じての知り合いだそうで、山口さんの祖先が同じということもあって我が家のルーツも調べていただいていたのである。

 そもそもは、建久7年(1196年)に加藤若狭守なる者が大友義直に付いて大分に下向し、柏原城主に封じられたところから始るようで、その後八代目の時代に戦に敗れ浪人になって阿蘇に移り住み、その加藤の流れを汲む一人が、元文元年1736年に、当時このあたりにあった園田という地名から姓を取って地侍になったのが、我が家のルーツのようである。

 初代は園田清右衛門と名乗り、その後、六代目五郎次、七代目丈八(太邑)と(途中に養子縁組などが混じるなどあって)続いて、小生が十代目となることが古文書で分かったのである 。

 ついでながら、昔は子孫が先祖と同じ名前を継ぐことが多く見られて、五郎次という名も二代目に居り、丈八という名も過去にも居ることが分かった。先日確認した五郎次の肖像画に前五郎次と頭に「前(さきの)」という字が付いていたので、多分先代の五郎次の肖像画で、登母祖用水路の五郎次では無いだろうということが想像出来る。

 これらの事は「近世大名の領国支配の構造」という書物に収められている古文書から分かったそうである。記録するということが如何に大切であるかということがよく分かる。頭のモヤモヤが一度に晴れたようなスッキリした気分である。

 ただ、このような資料には所謂配偶者の記録というものが全くないので、せめて祖母から遡る係累を知りたいと思う。

 本日20日は娘夏子誕生10ヶ月目也。昼から三種混合ワクチン接種の二回目を阿蘇中央病院に受けに行く。今日も、病院中に鳴り渡るくらい大声で泣いた、女の子でよかった、男なら、この軟弱者!と活を入れなければならないところである。


平成15年 6月19(木)

  台風6号九州西方海上を通過する。
 
 昼を過ぎた頃、さしたる風もないままに、雨も上がり、太陽がでたので、おや、もうお仕舞いかいと思っていたら、突然吹き戻しが始まり、強風で竹林が倒れるばかりに傾き、トウモロコシの苗が軒並み横倒しになり、養生していなかった豆の支柱なども倒れ、更にどう展開するかと思って眺めていたら、いつもライブカメラに映っている征司さんのところのビニールハウスがめくれて風に翻弄されているのが見えたので、急いで征司さんに電話で通報して、小生も、応援にかけつける。

 トマトハウス側面の地表近くを、ハウスに沿って、ビニール幕を等間隔に押える為の紐を留めるワイヤーが走っているのだが、それが切れて押さえが利かなくなって、それで風に煽られていたのだ。

 小一時間ほどかけて、復旧を手伝ってから帰ってみると、我が家のサツマイモの畝を覆っていたマルチが強風で吹き飛んだそうで、哀れ地面が丸見えになっていた。

 さらには、入り口にある楠木の結構太い枝も折れており、また宿場会で植えた桜の木も強風でかなり傾いていたので、とりあず応急で添木をしておいた。

 結局6時過ぎまで風が強く、こちらに来てまだ台風らしい台風に遭遇していないし、今回の台風とて、ほんの少しかすった程度であったにもかかわらず、このくらいやられるのだから、直撃した場合を想像すると空恐ろしくなる。

 馬場の江藤要一さんが今回も牛肉の販売をするとの連絡があったので、買いに行く。丁度宿場会の俵さんも見えていたので、上がりこんで一緒にコーヒーをご馳走にりながら世間話をする。


平成15年 6月18(水)

 台風接近を前に梅雨前線が刺激され、思いっきり雨が降るかと思えば、阿蘇の山波がいつもより間近に見えるほどスッキリと雨が上がる、そんな一日であった。
 
 今回の予想進路図では、この辺りは台風の東側に入りそうなので、朝から雨の中、再度畑の養生をする。

 午前中いっぱい掛かって、竹を矢来のように組んで、作物の支柱を補強する、もし強風で矢来が持っていかれるようなことがあれば、一蓮托生、根こそぎ全部駄目になることになる。

 台風6号は明日昼頃熊本に最接近するとのこと。

平成15年 6月17(火)

 台風6号が近づいているので、カミサンと一緒に(というほど積極的にではなく、どちらかと言えば、カミサンに急かされて不請不請というほうが正しいが)、トマトやナスの添え木を強化する。最近は雨読に味をしめて屋外作業がすっかり億劫になってしまった。


平成15年 6月16(月)

 くもり、時々、小雨。

 古書店より「百枚の定家」書籍小包にて届く。

 午前中、熊本大学のY教授より五郎次に関する資料について照会の電話を頂戴するが、恥ずかしながら先祖のことは何も知らず、逆に皆さんに教えていただいている始末であると回答する。

 電話をきっかけに、以前から僅かばかり残っている資料の中に先祖達と思しき肖像画の軸が何幅かあるのを思い出したので、思い立って屋根裏から引っ張り出してみると、そのなかに五郎次の肖像画を確認した。

 五郎次が自刃したことは分かったが、当時のことだから、当然のこととして家は断絶されただろう、残された家族はその後どうなったのだろう、末裔は今何処かに居るのだろうかと、それが気になって仕方が無い。


平成15年 6月15(日)

 くもり、時々、小雨。


平成15年 6月14(土)

 如何にも梅雨らしい雨の一日、なべて事も無し。


平成15年 6月13(金)

 梅雨の晴れ間か、強い日差しの一日であった。

 御前中、母を大阿蘇病院へ。

 夜8時より会所にて宿場会6月例会。植樹木の消毒・下草刈り、天神橋清掃、滝室坂除草、豊後街道友の会フォーラムの件などなど多くの審議事項あり。


平成15年 6月12日(木)

 午後より、梅雨入り以来ようやくまとまった雨が降る。

 数日前、図書館で、たまたま目に留まって「百枚の定家」・梓澤要 著 という歴史ミステリーを借りてきて読んだ。600ページをはるかに超える大作である。

 「智で始め徳で納める小倉山」・定家の百人一首には、定家自身が選んだ百人の歌に込められた壮大なメッセージが隠されているという説があり、非常に興味があって、以前その謎解きをテーマにした本を読んだことがあるが、今回の本はそういった歌の内容とは直接的には関係が無く、その色紙自体の出自がテーマの小説である。

 藤原定家が書いたとされる「小倉色紙」(百人一首)は、いつしか散逸し、約半数は未発見・行方不明のままで、また相当枚数が後の世になって、たとえば連歌師の宗祇、利休、織部、織田信長、太閤秀吉、そして明治大正になっては井上馨、益田鈍翁ら次々と歴史に名を残すそうそうたる連中の手に渡り、歴史的な貴重な遺産として、あるいは茶道の道具として珍重される間に、それがなかば伝説化され、秘蔵の宝にされ、それに伴って贋作が多く出回り、と極めて数奇な運命を辿ているそうだ。

 定家自筆の書は殆んどが国宝や、重要文化財に指定されておりながら、小倉色紙だけは一点もそのような指定を受けていないということからも、定家の書であると断定するに足る材料に乏しいようで、そういった小倉色紙にまつわる「謎」をテーマにして、虚実取り混ぜて書かれた歴史ミステリーがこの本である。

 これも返却してしまうのは惜しいので、早速古本センターで安価な出物を見つけて注文しておいた。

 歴史を題材にして、分かっている事から、見えない部分をストーリー仕立てで推理する歴史ミステリーものは大好きで、半世紀とまではいかないが、もうそのくらい大昔に、高木彬光の「成吉思汗の秘密」という小説を読んだのがこういったジャンルの小説が好きになったそもそものきっかけである。そして、今でも半分以上は、義経が大陸に渡ってジンギスカンになったと信じている。


平成15年 6月11日(水)

 曇り時々小雨(は降ったかな、一歩も外に出なかったのでその点は不確か)。

 小生のホームページを見たと言って、神奈川県平塚市のWさんという人からメールが届く。平塚に移る前は小生が住んでいた茅ヶ崎にも居たそうで、その人も父君の住む阿蘇に移住しようかと思案中だとのこと。阿蘇を離れている人が結構ホームページを見てメールをくれる、ライブカメラが役立っているようだ。

 三時頃だったろうか、テニ坊さんが突然見える、しばし諸々歓談。


平成15年 6月10日(火)

 曇り時々雨。

 終日「雨読」。

 明日予定していたテニ坊さんとの企て、天候不良が予想されるため延期となる。


平成15年 6月 9日(月)

 九州南部が梅雨に入った模様、ここも昼過ぎた頃から、なんとなく怪しい雲行きになり、雨がパラつき始める。阿蘇は熊本県といっても直ぐ宮崎県だから、もう殆んど同時に梅雨入りだろうと、文章をひねくっている間に九州北部まで一気に入梅、これで当分大威張りで「雨読」が出来る。

 役場に印鑑証明や戸籍謄本を貰いに行ったついでに、二階にある教育委員会に足を伸ばし、「一の宮町史」全12巻を購入する。

 千葉のおじいちゃん、おばあちゃん宛夏子近況
平成15年 6月 8日(日)

 晴れ。
 
 夕方近くになって小さな畝を立てる手伝いと、畑の水遣りなど、本日もあまり仕事せず。
 
 数日前から、小さなネコが新に住み着くようになる。グレーの、縞模様のネコなり、結構人懐こい、これで都合三匹になる。

 地元のプロバイダー「阿蘇テレワークセンター」が無線によるブロードバンドを始める、新聞に折込が入っていた、大いに触手が動く。


平成15年 6月 7日(土)

 晴れ。
 
 少し雑草刈り、そして、週末につき安息日。


平成15年 6月 6日(金)

 晴れ。
 
 太陽光発電の業者選定で迷っている。決定するには、比較検討する条件が同じではないので、単純に金額からだけでは決められないようだ、その辺りを整理する必要がありそうだ。

 本日の作業も何となくサボリ。サボり癖がついたか、でもこういう自由が良いのだ(としておこう)。


平成15年 6月 5日(木)

 晴れ。
 
 午前中、カミサンは公民館に健康診断に行く。
 
 「死都日本」読み終える、面白かった、薦める。
 
 午後より図書館と床屋に行き、今日の作業は・・・無し。
 
 夜、カエルの観察に田に出てみたら、我が家の庭でも蛍が舞っていた。 


平成15年 6月 4日(水)

 晴れ。

 カミサンは一日中畑仕事をするも、小生、本日も「晴読」、デッキに座り阿蘇の噴煙(気)を眺めながら「死都日本」を読み続ける、読んでいながら今にも足元から噴火するのではと、些かスリリングな気分になる、舞台効果万点である。

 如何なる選考基準によるものかは不明なるも、町から「町村合併に伴うワークショップ(意見交換会)」参加の召集がかかり、夜7時から役場の会議室に出かける。

 町長挨拶の後、約50名くらいだろうか、五つのグループに別れ、各人が、合併に関する期待と不安について思い付いたままカードに記入して、それを系統別に分類して論点を整理して問題を解決していく手法(昔会社勤めをしていた頃やったなあ、kj法と言ったかな)で約2時間作業する。

 宿場会の赤星さん、石田順子さん、それに木村まりさんも出席、その他にも二三知った顔があった。

 今日の仁美さんの掲示板に、もうホタルが舞っているよ、とあったので、会の帰りに車を停めてみたら、確かに裏の小川でホタルが乱舞していた。去年もこんなに早かったかなと思って、記録を調べたら、確かに去年も6月5日にホタルのことを書いている。自然のサイクルは正確だ。


平成15年 6月 3日(火)

 晴れ。
 
 昨日インターネットで古本センターに注文しておいた書籍が、午前中にはもう届いた。

 テニ坊さんから情報を頂戴した、「新・阿蘇学」熊本日日新聞刊である。思ったほど大きな本ではないが、パラパラとめくってみると「阿蘇」が沢山詰まっていそうで、楽しみな本である。

 爆薬も無い時代に、12キロの隋道を掘って、結局、失敗に終わった「登母祖用水」の夢の跡も写真に載っている、この本は昭和62年刊だから、今は草に埋もれて探すのも大変だろうが、なんとか機会を作って訪れてみたいものだ。

 それにしても、あの読書量の多い(と容易に想像できる)テニ坊さんは、毎夜酒に浸っていながら、よくこのような断片まで覚えているものだと感心する、やはりタダモノではなさそうだ。この「やはり」の部分は、分かる人にしか分からないフレーズである。

 今、吉田さんの「火山な毎日。」<http://6030.teacup.com/terumitsu/bbs>で知った、死都日本シンポジウム<http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/hakyokusympo.html>につられて、小説「死都日本」石黒耀著・講談社を読んでいる。帯に、「日本沈没」以来の・・・クライシス・ノベル、とある。

 どういう風に物語が展開していくのか詳しくは分からないが、現に火口底に住んでいるので、内容が妙なリアリティーをもって迫ってくる、半ばゾクゾクしながら読んでいる。

 図書館で借りたのだが、フィクションとは言え、正確なデータによって裏付けがなされているようで、取っ付きにくい学術書と違って、素人にも解り易く、特に九州の火山のこと、名前や、種類や、爆発のメカニズムなど理解するのに、小生のように老化し始めた頭にもスンナリと入りやすい。

 まだ始めのところだか、古事記のイザナミ、イザナギが火山だとの解釈も面白い、返却するのは惜しいので、改めて蔵書として購入することにした。

 というわけで、今日の農作業は休みである、「晴読」とする。


平成15年 6月 2日(月)

 快晴、久しぶりに作業をする。午前中、草払い機で物置予定地(いつまでたっても予定地のままだ)の雑草を刈る。

 テニ坊さんから、園田五郎次に関する資料情報を掲示板に書き込んでいただいた。掲示板はその内に消えるので、ここに転載させていただく。そして、本日早速、この本をインターネットの古書センターに注文した。
 
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   登母祖用水 投稿者:テニ坊  投稿日: 6月 1日(日)

   風さん
   水路のトンネルを掘って失敗して切腹したという話は
   どこかで読んだ記憶があったので調べてみたら、
   「新・阿蘇学」の198ページに載っていました。
   登母祖用水というので、野尻・草壁地区に12Kmの隧道の
   用水路を掘ったそうです。
   着手したのは野尻手永横目役・園田季光(通称五郎)。
   季光は坂梨村の名門の出。測量ミスで完成間近になり
   水泡に帰す。下流部分が上流部分より高くなっていたことが
   わかった。季光は責任をとって文久元年(1861)坂梨の
   自宅で自決。48歳の非業の死をとげた。・・・とあります。

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平成15年 6月 1日(日)

 いやあ体力が落ちた、還暦だからか?そうじゃああるめえ、運動不足だ、情けネエ、が本日の書き出しである。

 つつじ祭りの掉尾を飾るイベント、高岳花見登山が本日行われ、小生も参加した。

 阿蘇に住み始めて天下の阿蘇山にまだ一度も登ったことが無いので、何とか機会は無いものかと待っていたのだが、本日ようやく実現した。

 殆んど登山らしき経験は無いので、一応の支度をして出かけたものの、登り始めるまで結構緊張した。

 町長挨拶では今年も600人くらいの参加者だそうで、仙酔峡の駐車場は登山愛好者グループが仕立ててきた観光バスを始めとして満車状態、小生はモチロン軽トラで出動。

 8時半過ぎにオープニングセレモニーがあったが、その時間には、もう殆んどのグループが山に取り付いていた。

 登山申込書を覗くと、恐らく、多分、もしかしたら、相当部分は小生より年長者ではなかったろうか、それも女性が多く、前後、結構賑やかに登っていた。

 そういう連中に遅れを取るのだ、悔しいけど。最近また腹が出てきた、少しくらいの畑仕事では駄目だ。都会にいた時よりもはるかに歩かなくなっているのだ。以前は車に乗るにも駐車場まで数百メートル歩いたが、今は玄関を出ると直ぐ乗られる環境にある。電車に乗るのにも階段を駆け上ったり、満員電車では立ちっ放しだったりで、結構自然に運動していたのだ。それに週に何日かは泳いでもいた。

 それでも、皆に遅れながら、喘ぎ喘ぎ登っていった。火山なので殆んどの行程、足元がゴロゴロしていて、足場が極めて悪い。だから躓いて転ぶのが一番危ないと思った。それ以外はそれほどの危険なところは無い、決められた所を登れば、滑落して谷底に落ちるということも無さそうだった(コースを外れると千尋の谷だらけだ)。急斜面を一気に登るので、苦しい、苦しい、と言いながらも、思ったより早く頂上に立てた。仙酔峡コース、通称バカ尾根コースを登ったのだ。途中、ちょいちょい休むので、その度に下界の景色を楽しむことができた。鷲ヶ峰、虎ケ峰の峻険も間近に見ることも出来た。

 頂上は予想を超えて、結構広かった、もっと狭い馬の背を想像していたが、そうではなかった。火山なので昔の火口の姿を留めており、南郷谷に向かって広い窪地になっている。今年は頂上のミヤマキリシマが害虫で壊滅状態だと聞いていたが、それでもその斜面を十分にピンクの絨毯が覆っていた。

 登り始めるまでの頂上は、雲がかかっていたが、その後、見事に晴れ上がり、これ以上ない登山日和になる。頂上からの景色は、これは素晴らしいの一語に尽きる。根子岳を下に見て、南郷谷を始め360度世界に冠たる阿蘇が広がっている。(写真1写真2写真3)


 この素晴らしさを上手く表現出来る筆力が無いので、ただ「素晴らしい」しか言えない。尤も、旨いものを食った時に、「ウマイ」の一言で全てを言い表せば良いのと同じで、何とかと何とかのハーモニーが絶妙に何とかで、マッタリとして、などと余計な事を言う必要など無いのだ(山に登って少々、ハイ状態だろうか)。

 背中に子供を背負ってゆっくり登って来られれば良いなあと思ったが、体力をつけなければ無理な話しだ。

 頂上から我が家が見えたので、家に電話を掛けて、双眼鏡で確認しろと言ったが、すこしモヤって見えないという返事だった。

 ハンディー機を持っていったので430でワッチしていたら、九重の黒岩山々頂からCQが出ていたので、コンタクトしたら、小倉から来たという局で、小生よりも大先輩の昭和7年生れだとのこと、脱帽である。6エリアに来て始めてのQSOである。

 youさんが会社の仲間と来ていた、いい句が浮かんだかと訊ねたら、まだだと返ってきた、帰ってからじっくりとヒネるのだろう。

 下りは、中岳コースを辿った。登りは仙酔峡コース、下りは中岳コース、このルートが一般的なようで、また合理的なコースどりだと思った。このコースで根子岳には行けないが、阿蘇の醍醐味を十分に味わうことが出来る。ゆっくりと下りながら、天空から、盛んに噴煙(気?)を上げる中岳第一火口や、月の世界のような静寂が広がる旧火口群を俯瞰できる。自然のエネルギーの力に文句なしに圧倒される景観が広がっているのだ。

 文頭の言とは裏腹に、十分に達成感、満足感を味わえた一日であった。

 夕方、緑さんが大分で潮干狩りをしたと言ってアサリを届けてくれる。