平成15(2003)年 8月の記録(新しい日付けの順)

平成15年 8月31日(日)

 晴れ。久しぶりに空気が澄んで阿蘇山が気持良く見えた、もう秋の空か。

 丁度今日、NHKで日本の夏山という番組があり、阿蘇山からの中継もあった。ただ阿蘇に住む者から見ると、阿蘇の魅力が十分に出し切れておらず、なんとなく中途半端な気がした。

 明日からの保育園入園に備えてカミサンは娘の下着類など、持って行く物に、ひとつひとつ油性ペンで名前を入れていた。


平成15年 8月30日(土)

 曇りときどき雨。
 
 夕方七時ころ、滉兄とウィーンから帰省中の薫ちゃんが市内での用件のついでにわざわざ訪ねてくれた。滉兄は普段、時々顔を見せてくれるが、薫ちゃんは丁度一年前に帰省の際に、一家で泊りがけで来てくれて以来だ。そう言えばあの時カミサンは里帰り出産で不在だった。今日は夕食を共にしながら二時間ほど歓談して慌ただしく福岡まで帰っていった。(写真


平成15年 8月29日(金)

 雨のち曇り。

 親子で、阿蘇方面から熊本市内に入ったすぐのところにあるショッピングセンターとその近くにあるパソコンショップに出掛ける。パソコンショップでは8ポート用のハブを購入する。


平成15年 8月28日(木)

 ほぼ雨。

 昨夜6万年ぶり?に火星が地球に大接近したとか、見損なったが、まあ暫くは大丈夫だ。

 ADSL環境が整ったので、静止画の次に動画ライブでもやろうかと資料を集め始める。併せて最近は固定IPを取らなくても、自宅でインターネット・サーバーを構築することが出来るようなので、そのほうも研究してみようと、雨天を良いことに、終日パソコンの前に座ってインターネットで情報蒐集をするが、どうも最近スタミナと根気が無くなってきたようだ。


平成15年 8月27日(水)

 晴れ、一時雨。

 午前中、母を宇治歯科へ。


平成15年 8月26日(火)

 雨。水俣などまた避難勧告が出たが、阿蘇はそれほどでもなかった。

 娘が保育園に持っていくマットレスなどを買いに大津まで出掛ける。(写真1

 役場で赤十字の献血があったので、久しぶりに出かける、今回で19回目である。なんとなくそういう回数になった、まあ20回という一区切りまでやるか。色々なシーンで出来るだけ写真を撮るように心がけているが、針が刺さっていて手が不自由なので、赤十字社の人にお願いして、一枚パチリ。昔は200ccだったが、いつのまにか400ccが当たり前になってしまった、牛乳ビン二本分である。健康でなければ献血はしないが、それでもコレステロールの数値や肝炎のチェックなど血液のデータを送ってもらえるので、健康チェックになる。(写真1写真2


平成15年 8月25日(月)

 晴れ、夕方一時雨。
 
 午後から、父母面接というほど堅苦しいものではないが、入園の挨拶と色々な注意事項の確認のために親子で坂梨保育園に伺う。

 大昔の話になるが、小生の子供の頃は、終戦後の混乱期で、まだ幼稚園や保育園と言ったものは、それほど普及していなかった。従って小生は行った事が無く、このような施設に立ち入るのは60年の人生で初めての経験である。

 保育園は丁度昼寝の時間で、子供がお世話になるクラスでも十数名の子供たちが見事に全員昼寝中であった。その傍らで岩永・坂本・川嶋の各先生に入園に関して色々お話を伺ってきた。園長の白石先生にもご挨拶をして子供のことをお願いをした(写真1)。

 9月からお世話になることになっているが、子供にとって初めての世界が待っている、子供は順応性があるので心配はしていない、逞しく育って欲しい。


平成15年 8月24日(日)

 晴れ、朝食前の涼しい時間に雑草刈り少々、以後終日怠惰にゴロゴロ。


平成15年 8月23日(土)

 晴れ。

 ボンにフィラリアの薬を飲ませる。ボンはどうもドッグフードが駄目なようで、殆んど食べていない、心を鬼にして空腹で食べざるを得なくまで、他の食い物を与えないようにしているが、この薬、ドッグフードスタイルであるが喜んで食べた。

 午前中、母を内牧の小野医院・眼科へ。

 午後から随分久しぶりに雑草刈り、もうとっくに我が家の畑は雑草に負けている、ジャングルのようである。

 昨日、阿蘇中部四町村合併について、産山村長が合併推進協議会からの脱退を表明をした旨のニュースが流れた。今、協議会の内部は大いに揺れていることだろう。阿蘇は一般の過疎地域に比べて、東京や大阪といった大都会が逆立ちしても適わない比類無く雄大な自然という財産を持っている、合併による財政援助という見返りを犠牲にしても、この財産をどう生かすか叡智を集めることで村の将来を切り拓いていこうという決断だろう、賢明な選択かも知れない。


平成15年 8月22日(金)

 晴れ、夕方にわか雨。

 母を、定期通院で大阿蘇病院へ、最近の不調も回復し、医師も特にコメントは無かったそうである。

 ボンの予防接種に行く。今回は内牧にあるもう一軒の松野動物病院にした。
 
 相談の結果、もっと多種目の混合ワクチンもあるが、五種混合でよいのでは、との有り難い判断をもらって、ジステンバー、伝染性肝炎、アデノウィルス2型感染症、パラインフルエンザ、パルボウィルス感染症の五種の混合ワクチンを打ち、その他にフィラリアの飲み薬を三ヶ月分処方してもらった。五種混合ワクチンは一月後にもう一回打てば、一生免疫が出来るそうである。

 往きに、ボンを軽トラの荷台に乗せて、ロープを短めにして繋いでおいたのだが、走行中に飛び降りようとして、首吊り状態になって体が車外にぶら下がってしまったので、急停車して、仕方が無いので、助手席に入れたら、汚すこと汚すこと、糞尿こそしなかったものの、シートは毛だらけ、ダッシュボードは、ヨダレだらけ、そういうことから考えると、家の中で飼っている人は余程の手入れをしているのであろう。


平成15年 8月21日(木)

 本日も猛暑、多分30度を超えただろう。
 
 本日は、村のお大師さん、薬師さん、地藏さんのお祭り。これは主に女性が中心の祭事のようで、カミサンは婆様と一緒に集会所に出かけて食事をしてきた。


平成15年 8月20日(水)

 八月二十日、如何にも夏らしい晴れ、夏子満一歳、健やかなり。

 娘を保育園にやるようになると、多くの子供たちとの交流が増えるので、とにかくハシカの予防接種だけは早く済ませたいというカミサンの希望で、本日、満一歳になると同時に古閑医院にてハシカ予防接種を受ける。

 そして、カミサンが働き出すと、小生の母親的、主婦的役割が増えるであろうことから、まず手始めに、今回は小生が子供を医院に連れて行くことになった。

 やれ問診表と母子手帳はこの中で、やれオムツはこの袋で、などなど言うカミサンの声を右から左へと適当に聞き流して、たくさんの赤ちゃん用品を詰め込んだ大きなバックを車に放り込んで出掛けた。

 そして、どうせ行くのなら、記念に一枚と、デジカメを持っていって看護婦さんにお願いして、注射の場面を撮ってもらった。

 注射自体の痛さではなく、聴診器を胸に当てられる異様さで泣き出したが、おかげで演出効果満点、先生にもポーズをとっていただき?いい写真を撮ることが出来た(写真)。


 昼前、シマの抜糸の日時が過ぎている、と阿蘇動物病院より電話がある。手術後は元気に飛び回っていたので、ボンのことや娘の予防接種のことなどですっかり忘れていた。連れて行こうと思って探したが、何処かに遊びに行っていて見つからない、明日のエサの時間にでも捕まえようと思っていたところ、丁度昼飯を食いに戻ってきたので、とっ捕まえて連れて行って、無事抜糸を終わる。


 この地にあるかどうかは知らないが、モチを一升搗いて担がせたり、踏ませたりして、初誕生を祝う風習が日本にはあるようである。まだ歩かない子の場合は、モチを踏ませるそうで、一升分を一つのモチに丸めるのが本来の姿だと思うが、そうすると後の始末が大変なので、一升分を幾つかに食べられる大きさに丸めて、娘に踏ませることにした。この辺りのことはカミサンが良く研究しており、小生は全然知らなかった。そして、仁美さんの店で作ってもらったバースデーケーキを食べて初誕生を祝った。

平成15年 8月19日(火)

 快晴に近し、猛暑。

 午前十時から約一時間ほど、後藤万十店先の滝室坂の入り口で、「参勤交代九州横断徒歩の旅」の小中学生に麦茶の接待をする。この徒歩の旅は今年で26回目、大分県野津原町から熊本城まで豊後街道を数日かけて、途中公民館などに泊まりながら歩き通すのである。

 総勢約200名の道中笠をかぶった一行が、10〜20名くらいのチームに分かれて、額を汗で光らせながら、先日宿場会で雑草刈りをした旧道の急坂を、波野のほうから下りてきて、坂梨の美味しい水で淹れた冷たい麦茶で喉を潤して一息入れては、次々と元気に今夜の宿営地内牧を目指して通過していく。

 お茶の接待は、後藤万十店の祐次郎さんとお母さん、テラサワのお嫁さん、志賀葉子さんなどであたったが、普段、砂糖や炭酸などが入った清涼飲料水に馴れた親しんだ子供達が、昔ながらの麦茶に心から喜んでくれる姿を見ていてこちらまで嬉しくなった。引率するリーダー達の指導もあってか、皆礼儀正しく実に気持のいい子達ばかりだった。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7

 目の下を蚊に食われて参ったな〜 ベッピンさんが台無しだ。

 婆様は今日は概ねいつもの元気を取り戻したようだ。


平成15年 8月18日(月)

 晴れ、暑し。

 婆様、昨日より少し体調を崩し、横になる時間が多かった。周囲から見ていている限り、変らないのだが、口がいつもより回りにくいし、足が重いという。

 また少し脳の毛細血管がプチッと切れたようだ。あっさりと言うようだが、婆様くらいの年齢になると、この程度のプチッは結構あるそうで、問題は、切れる血管が太いものか、細いものかだそうだ。

 今の医学では、昔と違って、絶対安静でなく、落ち着いたらどんどん運動させ、リハビリをさせるそうだ。我が家も本人もこの程度ではもう驚かなくなっている、週末にまた病院に行く予定なので、そのときに診てもらえばいいだろう(この記録は19日朝になって書いているのだが、タイムスリップして、19日にはもう元気を回復して孫のお守りに精を出している)。

 昼過ぎに哲兄が名古屋に戻る途中立ち寄ってくれる。予定では明日のフェリーだそうだが、キャンセルでもあれば今晩の船に乗るつもりで別府に行くそうである。

 婆様は高齢であるし、哲兄も間もなく70歳、小生とて他人事ではなく、この歳になると、お互いいつ何が起きても不思議ではない歳なので、別れの挨拶はいつも今生の別れ的な挨拶になってしまう。また次回の今生の別れを約して一時間足らずの休憩で発って行った、無事に乗れただろうか。

 今日は村の「妙見さん」のあつまりがあり、我が家が座元でサイ子さんと組んで準備方を受け持った。我が家といっても、カミサンが主役で小生は何もすることは無い。カミサンは初めてのこともあって、アキさんが手伝ってくださり、集会所で朝から料理つくりなどの準備に大忙しだった。小生の仕事といえば、後藤万十屋、テラサワなどに予約してある饅頭や料理を受取りに行く程度であった。午後三時から始まって、五時過ぎには滞りなく終了、カミサンご苦労さんでした。


平成15年 8月17日(日)

 曇りのち晴れ、夕方にわか雨。

 環境省自然環境局九州地区自然保護事務所・阿蘇地区パーク・ボランティア(注)主催の自然観察会に参加した。

 ボランティアの世話人に、宿場会の俵忠也さんがなっておられたり、日頃付き合っている仲間達も沢山参加していて、前々から機会があったら参加したいと思っていながら、なかなか出来ずにいたのだが、今回ようやく参加できた。

 今日は、山田東部馬場川支流の探索である。山田東部とは、ミルクロードを一の宮から阿蘇町に入ったところにある牧野組合の名前で、そのなかを流れる、馬場川の支流と言う意味である。この馬場川は杖立温泉を通って、筑後川に続いている、つまり筑後川の源流部分である。

 外輪山のなだらかな丘陵地帯にこのような秘境がヒッソリと存在するとは、阿蘇に住むようになって驚きのベスト3くらいの強烈なインパクトがある場所であった(別に1〜3まで列挙出来るということではなく、単なる言葉の綾である)。

 普段、一般の人は入れない牧野の、それも牛が群れているところをかなり奥まで進んで、ススキなどが生い茂った斜面をどのくらいだろう、感覚的には100mくらいだろうか、下ったところに、奥入瀬渓谷のような、いや、それ以上の手付かずの渓流が、ヒッソリと外輪山の牧野に降った雨を集めて流れているのである。しかもこの川床は、何キロにもわたって、9万年前に阿蘇が大噴火した際に流れ出た溶岩流の一枚岩で出来ており、流れ出た際に急激に冷えてヒビが入った状態が、丁度川床を大きな石を敷き詰めたようにみえる、なんとも不思議な造形美を形作っている。従って川床はほぼ平らで、水深も今日のような雨上がりでも精々膝下くらいなので、長靴で川中を歩いて進めるのである。

 参加総数約30名、常連もいれば、小生のような飛び入り参加もいる、午前10時から昼頃までの短時間、それも足元の野の花を観察したり、鳥の声を聴いたりとゆっくりしたペースなのでノンビリして実に気持がいい。なんとも贅沢な至福のひと時であった。秋には紅葉が美しいそうだ、また是非機会を作って来てみたい。

(注)
 「パーク・ボランティア」・・・国立公園においては、環境庁職員である国立公園管理官(レンジャー)が配置され、現地の管理業務 にあたるとともに公園利用者に対する自然解説活動の企画・実施等を行っているが、その他にも、大勢のボランティアが活躍している。 パークボランティアとは、これらのボランティアのうち、各地区国立公園・野生生物事務所に登録され、事務所との密接な連携のもと、 国立公園の自然解説や美化清掃等のボランティア活動を行う人々のことである。
(写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10写真11写真12写真13

平成15年 8月16日(土)

 朝、9ヶ月ぶりに犬の散歩を再会する。クマの散歩をやめたのはもっとずっと昔のような気がしていたが、まだ1年経っていなかった。僅かの距離であるが、久しぶりの散歩に息が上がる、夕方にも散歩に連れて行く。

 午前中、母を内牧の小野医院に連れて行く、ponta先生である。さすが仕事の時は威厳に満ちて凛としておいでだった。数日前より目ヤニが多くでて、もし伝染性の病気だと孫に悪いので、と言うわけである。結果、軽い結膜炎状態で、投薬を受けて帰ってくる。

 帰る途中封、仁美さんの店に寄って、娘のバースデー・ケーキを注文する。

 昼前、少し遅くなったが、裏山に登って、ご先祖様をあの世にお送りする。

 カミサンは、18日の妙見さんの初めての座元になり、ここのところ準備に走り回っている。形式的には戸主の小生であるが、実際の運営はカミサンがやり、渡辺サイ子さんと二人一組で料理などの準備を受け持つ。

 夕方、渡さんのところの明日香ちゃんと章吾君が友人と連れ立って、ボンを見に来る。普段、世帯主を中心とした付き合いはあっても、村の若者達との触れ合いがほとんど無いので、大歓迎、記念にここに載せようと写真を撮ったところ、見事にピンぼけの大失敗、写真掲載は諦める。

 本日、曇り、夕方から雨。本日は町の夏祭りで、会場は中学校々庭の予定であったが、空模様が怪しいので早々と体育館に変更になる、盆踊りや、歌謡ショーがあったらしい。夜は我が家の目と鼻の先にある遊水池で2,500発の打ち上げ花火大会が予定通り行われた。


平成15年 8月15日(金)

 曇り。
 
 東京の友人から訃報が届いた。小生より十数年は年長だったろうか、会社勤めをしていた時代の先輩の定方孝子さんで、気心の知れた間柄だった。こちらに来る前に病院に見舞いに行って、頑張るように力づけたこともあったが、二年ほどの闘病生活も空しく、昨日冥界へ旅立った由。

 丁度、一昨日、お盆の入りで、ご先祖様をお迎えするため、代々の墓がある裏山に登ってきたが、わが先祖の墓標が沢山苔むして、あるものは傾き、あるものは倒れ、半ば埋もれていた。このようにして人は次の世代に命を繋いでは、土に還っていくのだ、そう遠くないうちに、いずれ小生もこの一員になるのだと妙に得心して下りてきたばかりだった、諸行無常。

 この歳になってくると、やがて来るべくして来る自分の「死」に対しては、それほどの恐れという感情は薄れてくるものであるが、知った人への惜別の情というものはそれとはまた別のものである、合掌。

 夕方近く、隣の渡さんがイヌを一匹引っ張ってきて、くれると言う。なんでもトマトハウスに何処からかやって来て、居付いてしまったそうである。-捨て犬、迷い犬、はぐれ犬-(インターネットで飼い主が探すための検索用である)。

 柴ではないが、小生の好きな部類に属する犬相をしていて、随分と人懐こく付きまとう。首輪らしきものはしていて、結構小奇麗にしているので、その内に飼い主が見つかるかも知れない。それまで飼うことにして、早速「ボン」と名づけて、縁の下を整理して、居場所を作り、ホームワイドに走って、ドッグ・フードと、鎖を買って来た。

 「ボン」の命名は、お盆にやって来たからである、カミサンが言うにはフランス語でボンとはグッドのことだとか、これも何かの「縁」だろう。

 そのホームワイドで偶然、わからん犬、pontaご夫妻にお会いしたので、明日婆様を診察に連れて行く旨のご挨拶をしておいた。知らない人は、わからん犬?ぽんた?だろうが、分かる人には分かるのである。

 カミサンが9月から仕事をすることになり、娘の保育園の入園手続で民生委員のお宅や役場など走り回る。このことはその内にまた詳しく書く。


平成15年 8月14日(木)

 雨、全国的に雨である、気温も低かった。
平成15年 8月13日(水)

 曇り、夕方近くから雨になる、気温が低く肌寒いほど。

 旧のお盆の入りである。朝のうちに裏山の墓地に香華を携えて登り、ご先祖様をお迎えする。

 昼過ぎに、円通寺の公道住職がお見えになる。静之和尚はもう90歳になられ、今年は檀家回りはなさらないとのこと。

 今日から爆音機が鳴り出した。爆音機とは稲が実りだすと雀を追っ払うためにドッカン、ドッカンと鳴らすやつである。初めの頃は名前を知らず、雀オドシなどと言っていたが、爆音機というらしい。

 まだ少し遠くの田に置かれたものだから良いが、近くの田で鳴り出すと、娘が寝ている時など驚いて泣き出すのではないかと思うが、あるいは案外すぐに慣れるかもしれない。

 昨日、千葉のおじいちゃんから娘より大きいクマのプーさんが届いた。(写真1写真2



平成15年 8月12日(火)

 昨夜大雨が降り、今日も小雨の残る、生憎の天気になった。

 高田A太郎一行は、昨日は、午後からの半日を孫の聖莉奈ちゃんのリクエストで、ファームランド内にある小動物園で過ごし、小生はその送り迎えだけを受け持った。

 そして、昨日は頂上付近が深い霧で火口見物が出来なかったので、今日に賭けていたのだが、今日も残念ながら雨模様となり、火口見物の楽しみは次の機会まで延ばして貰うことして、高森の湧水トンネルと矢部町の通潤橋に案内した。

 彼らは、福岡に住みながら阿蘇は随分と久しぶりだとの事で、小雨のために、かえって普段よりも鮮やかに映える緑の山々を十分に堪能してくれたようで、夕方近くSL阿蘇BOYに乗って帰っていった。
写真1写真2写真3)


平成15年 8月11日(月)

 晴れ。

 高田A太郎とキヨ子夫人、孫の聖莉奈ちゃんがやって来た。高田A太郎は高校時代の友人で、卒業以来、実に40年以上の歳月を経ての再会である。

 小倉時代に近所同士でもあり、親しく交わっていたのに、卒業と同時にお互いに遠く離れてそれぞれの新しい生活に入っていったこともあったのだろう、いつのまにか音信が途絶えてしまっていた。

 小生がこちらに居を移すにあたって、昔住んでいた所で彼の消息を尋ね、現在筑紫野市に居る事を探し当てたのである。

 彼は現在、福岡市にある公立高校の国語教師をやっている、そういえばこの男、高校時代から国語は得意としていたことを良く覚えている。国語は、と言ったが、他の教科が良くなかったということではない。ある日、国語の授業中に、小生が知らなかったのは当然としても、クラスの誰も答えられなかった問題を、彼一人が指されて答えたことを鮮明に覚えているからである。小生は今で言う落ちこぼれであった。

 宮地駅に降り立った姿を見て、当然に歳をとり、以前よりも少し太りはしたものの、基本的には昔と少しも変っていない、あの当時の飄々とした姿がダブり、遠い昔が懐かしく蘇って来ると同時に、40年という本来長かるべき時間が、一瞬のうちに埋まってしまっていることに気がついた。

 夫人にお会いするのも、勿論今回が初めてであるが(以前、あるじ殿不在の折、玄関先で一度ご挨拶したことはあるが)、そんな気がまるでしないような昔からの気心の知れた自然体の気の置けない方であった。娘も本能的に年齢が近いことがわかるのか、聖莉奈ちゃんとは、ごく自然に触れ合っていた。
(写真1写真2写真3写真4


平成15年 8月10日(日)

 晴れ、連日の猛暑。

 朝一番で夜間電力給湯器のフィルター掃除をする、ここの水は美味いが、あまりにも自然過ぎて、ゴミが多く直ぐに詰まる。

 今日、ひとり軽トラで市内の鶴屋デパートとヤマダ電機に買い物に行く、下界は全く暑かった。

 我が家もとうとう世間並みにビデオ・カメラを買うことになった。不思議なことに小生はライブ・カメラをやっていながら、もともとホーム・ビデオというものに全く興味が無く、あえて言えば嫌いなほうであった、それは多分に自分が撮られるのが嫌だからだろう、それにどうもあのカメラを構えている図がね。

 それでもそこは親バカである、子供に動きが出てくるに従って、日々の動きを静止画像で記録するだけでは惜しいというシーンが幾つも出てきたので、如何にも中途半端ながら、生れて一年近くも経ってから、ようやく買う事にしたのである。

 そんなわけで、予備知識など全く無いので、折込広告で売れ筋という機種をロクに検討もしないで、エイッ、ヤッとばかりに買ってきたという次第。

 それにしてもこんなに小さいのか、とそのサイズに驚き、その小さななかに驚くほどの機能が詰まっていることでまた驚く。ワサモン好き、メカ好きの小生にとって新しい興味の対象がまたひとつ出来た、これをライブカメラに使えば好きな画面構成が出来るから面白かろうと良からぬことを考えたりしている。

 夕方、円通寺にお盆のお経のお願いに伺う、静之和尚はご不在で、公道住職にお会いする。


平成15年 8月 9日(土)

 曇りのち晴れ。
 
 午前中、緑さんが薪が欲しいと言ってヒョッコリ登場。理由を訊ねると、午後から浄土寺牧で子供会のキャンプをやるのだが、今朝まで残った雨で焚き木集めをしても湿って燃えないと思うので、我が家のストックを貰いに来たとのこと。

 彼の車の中は、釣道具や、無線機材、寝袋、どう見てもゴミとしか見えないものなどで一杯で、とても薪などが載る余地など無いのでどうするのかと見ていたら、車体の側面に器用にぶら下げて帰っていった。

 昼頃、「菓心なかむら」にケーキを買いに行く。昨日と今日は、「夏のお菓子まつり」で、ゼリーやショートケーキなど、何種類かの美味しいケーキ類がいつもの半額で求められるので、来客予定もあり、買いに行ったのだ。仁美さん以下スタッフの皆さん大忙しの様子だった。

 昼過ぎ、昨日名古屋から陸路市内近見の実家に戻ってきた哲兄が、伸兄と一緒に訪ねてくれる。伸兄は我が家は今回が初めてである。昼食を共にして、三時過ぎに帰っていった。

 夕方近く、墓掃除の残りをするために山に登る。

 娘近況(写真1写真2


平成15年 8月 8日(金)

 台風10号が昼頃九州の東方海上を北上する。一時雨風とも強かったが、昼過ぎには収まってきた。大した風でもなかったが、それでもヒマワリがすっかり倒れてしまった。

 雨と風に体力を消耗したのか、二階のデッキの物干し竿に燕が20羽ほど羽を休めていた、いままで燕のこのような行動は無かったので、これを機会に、来年はここに巣を作ってくれるといいわねと、カミサン。

 午前中激しい雨の中、シマを引き取りに阿蘇動物病院に行く。体を包帯で巻かれて少々痛々しくみえた。

 二三日は外に出さないほうがいいとのことで、ホームワイドでネコ用トイレを買ってきて二三日玄関内で飼う事にする。ついでに病み上がりの体力つけに、奮発して缶詰の餌を買い求める、全く手のかかるノラネコである。

 夕方近く、哲兄から電話が入る。予定では、今朝名古屋から別府にフェリーで着く予定だったが、台風で欠航になったので、東名・名神・中国・九州自動車道800kmを昼夜をついで走り熊本まで帰省してきたそうである、まもなく70歳になろうとするのだから、たいしたものだ。


平成15年 8月 7日(木)

 「大型」で「強い」台風10号が接近している、心持ち熊本は中心から外れているような気配だが、夕方近くから雨が激しくなった。明日未明に熊本に最接近するそうだ。

 今日は母を宇治歯科へ送りがてら、内牧にある動物病院にネコを連れて行った、シマという名前のネコである。

 我が家にはノラネコがいつの間にか三匹居着いてしまい、そのうちの一匹、一番の新入りシマがどうもメスのようで、まだ子猫だと思っていたところ、他の二匹のオス(リーダーのコラと色の白いクロ)のどちらかと出来てしまったようで、なんとなく怪しげな雰囲気になったので、手遅れにならないうちにと、今日病院に連れて行ったというわけである。

 我が家で飼えるのは三匹が限度で、もうこれ以上は飼えない、だからと言って子猫が生れても捨てるわけには行かないので、気の毒だとは思うが、不妊手術を受けさせることにしたのである。

 既に妊娠しているかどうか微妙なところであり、心が痛むことではあるが、これがノラネコたちと我が家とのギリギリの妥協点で、止むを得ない処置である、一晩入院することになった。

 病院の帰りにスーパーに寄ってみると、カミサンと娘が買い物をしていた。娘をなるべく人が居るところに連れ出すようにして、外界に慣れさせるよう務めている、そういう意味では、家の周りはあまりにも静か過ぎるのである。

 夕方近くカミサンと雨の中、家の周りの飛びそうなものを片付けたり、台風に備えて畑の作物の補強をする、多分これでトウモロコシやトマトなど滅茶苦茶になることだろう。素人農業でも然りである、農業を生業(なりわい)にしている家の苦労が思いやられる。

 片付けの最中、裏で、大きな蛇が小さな蛇を半分ほど呑み込んでいる場面にぶつかったので捕らえた。蛇は全く怖くない、小生が怖いのはクモである。毒蛇でなければ、一生懸命生きているのだから、なにも殺すこともないのだが、どうも蛇は損な役回りを演じる生き物のようだ、何分にも蛇に対する知識が無いので殺生は好むところではないのだが万一を考えて焼酎に漬けて標本にした。

 娘近況
平成15年 8月 6日(水)

 晴れ、午後に入って、にわか雨、これは昨日もそうだったが、スコールだろう、とにかく急に降りだして、その雨粒の大きいこと、さすが南国である。それに雷鳴が凄かった。

 昼前、茅ヶ崎時代のハム仲間・JA1GQV広永OMが我が家を訪ねてこられた。広永さんの実家は、ここ宮地から同じ豊肥線で一時間ほど熊本に寄った市内の竜田口の近くだそうで、年に何回かは戻ってこられるとの事。氏はハムの大先輩であると同時に、向うでは近所同士であった。

 小生のリグでQSOをしたり、裏カメラを室内に切り替えて、いま自分が映っているだろうと茅ヶ崎の自宅の奥さんを電話で呼び出して驚かせたり、向うに居たころの思い出話に花を咲かせたりと楽しいひと時を過ごした。

 送りがてら、中岳火口に案内したが、やはり最近の不安定な火山活動の影響だろうか、普段の白いだけの噴気に茶色を帯びた噴気が混じり、なんとなく荒々しく不気味な感じがした。

 午後四時半ころ阿蘇駅から帰って行かれた。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7)



平成15年 8月 5日(火)

 早朝深い霧に包まれる、涅槃像は見えただろうか。
 
 相変わらずの、朦朧とした晴れ、阿蘇もなかなか暑い、下界はさぞかしだろう。特に本日は、午前中は裏の草刈り、午後から墓地の草刈とサウナばりにタップリと汗をかいたので一層暑さが応えた。

 墓地の草刈りは、普段の管理の悪さが祟って、今日だけでは済まなかった、盆入りまでにもう一度登らなければならない。

 JA1GQV広永OMから、今熊本の実家に帰っているとの電話が入る、明日阿蘇でアイボールQSOの約束をする。昼頃になると思うけど、裏カメラをセッティングしようか、寺さん。


平成15年 8月 4日(月)

 晴れ、相変わらず視界悪し、昼過ぎてから一時にわか雨、畑潤う。

 昼前、母を宇治歯科へ。
平成15年 8月 3日(日)

 晴れ。
 
 朝から宿場会にて滝室坂の旧豊後街道の草刈りをする(新豊後街道なるものは無いのだから、旧を付ける必要もないのだが)。

 この19日に、毎年恒例の小中学生が数日間をかけて豊後街道を歩く「参勤交代九州横断徒歩の旅」という行事があり、そのための街道整備の草刈りである。ロータリークラブの要請で宿場会も助勢をしたのである。

 生憎と今日は、坂梨小学校同窓会による浄土寺牧の草刈りと重なってしまい、宿場会の何人かは、そちらのほうに参加したので、滝室坂のほうには、志賀昭男さん、志賀聡雄さん、高木茂博さん、田上恭一さん、坂本助義さん、それに兵站担当に高木立さんといった顔ぶれが参加した。

 滝室坂の途中から麓に向かって、今はこういった行事でもなければ全く使われることもなくなった荒れ果てた旧道を、刈払い機で刈りながら下っていったのだが、所々に苔蒸した石畳も残っており、刈り終わった木々で覆われて出来た緑のトンネルのようになった坂道を見上げながら、このまま朽ち果てさせるのは実に惜しい、何とかこの街道を一部でも復元・保存できないだろうか、何とか後世に残せないものかとしみじみ感じた次第である。

 午前8時から作業を開始して、途中まで下ったところで、下のほうは、過日既にロータークラブにより刈り取りが済んでいることがわかり、作業は1時間足らずで終了し、早めの昼食を摂って昼前には散会となった。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7


平成15年 8月 2日(土)

 晴れ、今日は爽やかな一日だった、まさに避暑地、稲田を渡って来る風が心地よい、娘の風邪も大したこと無いようで、まだ時々クシャミはするが、いたって元気である。

 ようやくクマゼミが勢い良く鳴きだした。クマゼミはワシワシワシワシと鳴く大きな美しいセミで、関東地方ではあまり見なかったと思う。もっとも広辞苑によると神奈川県以西にいて、それも「しゃあしゃあ」と鳴くとあるが。
 
 今日は坂梨財産区の水源の清掃だとかで、朝8時から午後3時まで断水した。坂梨財産区とは坂梨地区の簡易水道で、山の湧き水をほとんどそのまま水道として坂梨地区の各戸に送っている、だから名水そのままである。その水源もたまには清掃するのだろう、去年は無かったような気がするが。

 朝の内に浴槽やペット・ボトルや、ポリ・タンク、ヤカン、鍋などに、随分大昔やったように水を汲み置いたが、蛇口を捻ると、どういうわけかいつもどおり水は出ていた。

 ミニ田の稲がようやく穂を出し始めた。周囲の田も田植えの時期のズレで、もう穂が出ているところもあれば、未だの所もある、いずれにしても、ようやく暑さが戻ってきたので、遅れている田でも一気に穂を出すだろう。穂が出ることを「出穂」と言い、シュッスイと読む。

 午前中に、昨日切り出した竹を三又に組んで、4組分の物干し架台を作った。汗を沢山掻くので、洗濯機も当分の間フル回転である。

 午後、ホームワイドにて刈払い機をもう一台購入する。どうしても、円盤状のチップソーが付いたものと、ナイロン・コード式のものと二台必要である、我が家も物持ちになったものだ。

 そのホームワイドでテニ坊さんとまた会った、小さなカンナのようなものを手にしていたので、それは何かと問うたところ、キュウリをスライスするものにて、これを肴にビールを飲むのだそうだ。カロリーが少なくて太らないとのことで、これからアゼリアのサウナに行くと言い残して去っていった、今日の減量目標を聞いたが忘れた、いつもハードにテニスをやっていて減量の必要もないと思うのだが。そもそも、テニ坊さん、毎晩500ミリを4本も飲んでおきながら、カロリー云々もないものだ。

 そのうちに、彼奴にかかると何でも書かれしまい、プラバシーも何も無くなると、周囲から抗議がくるかもしれない。


平成15年 8月1日(金)

 早いもので、今朝一番で、高木義臣・直子夫妻から頂戴したスズムシが鳴き始めた。まだ弱々しいが、心が洗われるような美しい音色だ。

 晴れで暑かったが、この季節はどうも澄み渡るような晴れと言う訳にはいかないようで、山も霞んで見える一日だった。

 午前中、母を大阿蘇病院へ。一方、カミサンは娘が風邪を引いたので医者に連れて行った。予防接種などでは経験済みだが、病気での通院は今日が初めてである。

 今朝起きた時から盛んにクシャミをして、鼻水を出していたので、平熱で機嫌も悪くなかったから、本当を言えば、それほど心配する必要も無いのだろうが、乳幼児の場合、昼間何も無くても、夜になってから急に高熱を出すケースがよくあると聞いていたので、まあ、ホーム・ドクターに初お目見えの挨拶も兼ねて診ていただこうかということになったのである。

 このあたりは特に高齢化が進み、子供が少ないので、小児医療機関が稀少で、夜間などは非常に不安な所なので、医療制度上、安易に医者にかかるのは良くないことだとは分かっているが、まあそのへんは初めての事でもあり、ご勘弁願うことにした。

 手野にある古閑医院でシロップ・タイプの薬と、粉薬を貰って帰ってきたが、シロップ・タイプの薬はスポイトで飲ませ、粉薬のほうは食べ物に混ぜて飲ませた。夜、寝る時も普段と殆んど変わらない様子だったので大事にはならないと思う。

 今日の作業は、庭にある物干し棹用三叉式の架台が古くなったので、新しくするために竹を切り出したほか、刈払い機で雑草刈りをする。

 夕方遅く、中村浩さんが孟宗竹を取りに見えた。阿蘇青年会議所(JC)主催の子供たちのキャンプで使うカップ類をそれで作るそうである。

 中村浩さんはJCの理事長で仁美さんのご夫君、一緒に見えた坂本憲仁さんは事務局長で、今日話していてい分かったことだが、なんと宿場会の古木秋秀さんの女婿にあたるそうである。

 古木さんから、つい最近、嫁いだ娘が坂梨保育園に行っていて坂本という名だと聞いたばかりだったので、またこんなところで人が繋がっていると、久しぶりに大いに驚いた。

 我が娘もそのうちに保育園にお世話になるつもりなので、このような繋がりは本当に心強く思うのである。

 ほとんど明かりの無くなった薄暗がりの藪の中から、二人は大きな孟宗竹を藪蚊に方々食われながら切り出した、キャンプが上首尾に終わることを願う。

 お土産に頂戴したゼリー類は、仁美さんがいつも掲示板に書いている自慢のゼリーだろうか、ビールのゼリー、オレンジや、それにワインだろうか、「神の杉」のゼリーもあった、掛け値無しで美味かった。