平成15(2003)年11月の記録(新しい日付けの順)
平成15年11月30日(日)
晴れ。
廃材の整理などで11月最後の日を終わる。
平成15年11月29日(土)
曇り。
夜、坊中の中村浩・仁美家で開かれた「しゃぶしゃぶパーティ」に参加する。
一般的にはホウレンソウや春菊といった野菜はエグミが強くて生では食べられないが、今夜のメンバーの辻正之さんご夫妻のつじ農園で作る野菜はすべて生で食べられるように栽培したもので、これが同じホウレンソウか、春菊か、というほど普通に売っているものと違って、サラダで食べると美味しいのである。今夜はそれらをサラダとして、そして、しゃぶしゃぶに使って食べようという、考えようによっては大いに贅沢なパーティーだったのだ。
参加者は中村ご夫妻、辻ご夫妻、怪しい?整形外科医のテニ坊さん、中坊さん、町興しにご活躍のM下
(実名だとまずいのかな)さんといった顔ぶれで、辻さんと中坊さんには今回初めてお会いした。
中坊さんは火山の専門家だが、最近では阿蘇という環境ならではのあるものを使ってバイオマスの事業化の研究にも取り組んでおいでとのこと。
さて、ホウレンソウに戻るが、今夜のホウレンソウは見た目は緑の濃さが一般のそれに比べて薄い。
緑色が濃いのは、チッソが多いからだそうで、それがまたエグミの元になるそうである。辻さんは普通の品種のホウレンソウを、肥料などをコントロールするなど大変な努力で、エグミの少ない柔らかいホウレンソウを作っているそうで、極めてユニークで意欲的な農業経営者である。
今夜のしゃぶしゃぶは素材が主役で、地元の美味しい水を沸かして、これらこだわりの食材を泳がせて食べるだけの極めて単純で素朴な料理方法である。つまり要は素材なのである、料理の際の腕は全く必要ない。だからこの素材が手に入らなければ如何ともしがたいのだが、その肝心の素材が残念ながら一般に流通するほど生産量が無くて手に入らないのである。
もうひとつこだわりは豚肉のスライスする厚さが0.4mmとのことで、これもある肉屋さんでしか出来ない技術だそうで、確かにこの薄さでお湯の中を泳がせると普通のしゃぶしゃぶとは全く別物のしゃぶしゃぶになる、なんとも不思議なことである。
そのこだわりの辻さん、今度は中村浩さん・仁美さんたちと協同開発で、「ごパンですよ」というネーミングの米パンを菓心なかむらで大々的に売り出すことになり、今晩我々も完成したばかりの「ごパンですよ」を頂戴した。
米がこのようなパンになるのかと、その変身に驚き、そして味に驚いた、大変美味である、ヒット間違いなしである。
結局11時頃まで鍋を囲み、阿蘇のこと農業のことなどなど話に花が咲いた。
それより少し早い時刻、遠く茅ヶ崎では浜膳で恒例のハムクラブの忘年会が開かれたそうで、JG1GMMから懐かしい顔ぶれが並んだOMさんたちの写真が送られてきた。
平成15年11月28日(金)
曇り。
娘を保育園に送りがてら、婆様を大阿蘇病院へ定期通院のため送り届けて、その足で小生は古閑医院へインフルエンザ・ワクチンの二回目を受けに行く。
友人の武藤肇は、このたび目出度くサラリーマン生活から足を洗ったのは良いが、サラリーマン時代には電話機能しか使わなかった男が、小人閑居してと言うか、退職後携帯メールを覚えたのが余程嬉しいらしくて、矢鱈とスパムメールを送ってくる、困ったものだ。メール代は幾ら使ってもタダだと思っている。
夕方、娘を保育園に迎えに行って、その足でインフルエンザワクチンを受けさせるために古閑医院に寄る。
昼間小生が接種を受けた際に、当初の見込みを大幅に超えて此処のところ急に接種希望者が増えて、周辺の医療機関ではもうワクチンが底をついたので、受けるなら早い方が良いですよ、との先生のアドバイスだったので、明日受けるつもりだったが、急遽帰りに寄ったのである。
それでも、既に接種の回数が制限され、原則二回接種のところ、一回の接種のみになった。カミサンも今日仕事の帰りに二回目の接種に寄ったところ、一回に制限されて空しく?帰ってきた。と言うことは小生は二回接種のギリギリの時に行った事になる。
しかし、先生曰く、一回でも十分に効果があるから大丈夫だよ、とのことであるから、これで家族全員が接種したことになる。
平成15年11月27日(木)
夜明けと共に雨が降り出し終日雨の一日。
明け方近く防災無線からサイレンが鳴り渡り、出火との報、我が家から直線距離で4キロ足らず、赤々と燃え上がる現場が見通せるほどの大きな火災で全国放送でも流された。ニュースによると中通の町議の笹原範治氏宅からの出火だそうで、三人が焼死体で発見されたとの事であった。
暖・晴佳・大路一家が二時前、雨の中、別府港に向けて発って行った。彼らが去った後、急に訪れた静寂に婆様と二人だけなんとなく取り残されたような感じで一抹の寂しさを覚えた。
昼食に小生の蕎麦を供した。そして、我が家では、客出立の際には玄関先にて全員で記念写真を撮ることが恒例になっているが、カミサンは仕事、娘は保育園と二人共不在につき、今回は小生も不在家族に義理立てして、婆様だけが入った写真を撮った。婆様はこの写真が今生の別れになるかも知れないからである。そう言いつつも、「今生の別れの写真」がもう既に何枚にもなっているが。
今回は暖のパスタやイタリア料理を堪能させてもらった、ロースハムまで作っていった、見ていると、なんだか簡単に家庭でも出来るようである。
平成15年11月26日(水)
晴れ、ただし晴れの勢いが少し弱まってきてる。
先日注文しておいた、展示品現品処分の物置の解体が済んだので引き取りに来るよう電話があったので、昼から暖と二人で引き取りに行く。
ホームワイドの軽トラと我が家の軽トラの二台で運び込み、裏の勝手口に降ろし、早速ブロックを置いて水平器を使って傾きを測ったが、竹やぶを切り拓いて簡単に整地しただけだから三方向とも水平を作るのは難しく日没のため今日の作業は終わる。
平成15年11月25日(火)
晴れ。
晴佳体調を崩し今日一日家で静養する。一方、亭主の暖は一人で鹿児島に出かけ、夕方帰ってきた、何でも焼酎を買う為めだったそうだ。
小生は、午前中、娘を久しぶりに保育園に送り届けて、銀行や役場廻りなど溜まっていた仕事をこなし、午後は建築廃材の整理をする。
平成15年11月24日(月)
快晴、振替休日。
町主催の「健康ウォークin坂梨」が行われた。古城地区と坂梨地区で隔年毎に行われているウォーク・ラリーで、3キロ、5キロ、10キロコースに分かれ、参加者は体力に合わせたコースを選んで、三々五々晩秋の坂梨地区を歩くのである。
家族連れや友人同士、あるいは夫婦揃って、と総勢500人以上の参加者があったそうで、町内の幼稚園・保育園児も希望者は参加した。坂梨保育園の保母さんたちも白石園長さん始め皆さん世話役で顔を揃えておいでだった。(写真1・写真2・写真3)
ウチの娘もカミサン、暖・晴佳・大路ちゃんと一緒に参加するつもりだったが、家を出る直前に二人の子どもが相前後して寝てしまってタイミングを逸し、残念ながら取りやめてしまった。
健太郎君はママの麻理子さんに背負われた弟の直樹ちゃんとパパの貴之さんと一緒に元気に参加していた。
内牧の小野先生ご夫妻も参加されていた、youさんの顔も見えた。我が家の連中も後から遅れて顔を見せてくれた。
我々坂梨宿場會は、会場の一角にテントを張って、うどん、のっぺい汁、ゼンザイ、握り飯などなどを販売した。順子さんが中心になって、勢さん葉子さんたち女性会員が前日から仕込んだものだ。
もともと儲けようなどという気など全く無く、参加者・坂梨を訪れてくださった人達に少しでも楽しんでいただこう、そして町興しに少しでも役に立てればということが主眼だったので、材料費だけの、他所からみたらまるでタダのような価格設定だった。それには会員からの材料の寄付があったこともある。
そういうこともあってか、ゴールインした参加者が次から次に列の切れ目も無く寄ってくださって、先日の蕎麦屋転じて今日はうどん屋になった聡雄さん始め、会員の皆は客の応対にてんてこ舞い、沢山準備した材料も余すところ無く完売した。そして我々も十分に楽しんだ。(写真1・写真2・写真3・写真4・写真5)
山口定俊会員も交通指導員の制服に身を固め、交通安全に精を出しておいでだった。
夕方、暖にトラックのロープの掛け方の実地教習を受ける。いままで義父からもロープ掛けの分解写真を送ってもらったりしていたのだが、どうもうまくいかず、やはり実際に手取り足取り習うのが一番である。今はパスタ名人の暖も、昔アルバイトで車にロープを掛ける仕事をしたことがあるそうである。どうにか覚えたが明日になったら忘れてしまっているかも知れない。夕食は晴佳が腕に縒りをかけて美味しい和食を作ってくれた、至福、至福。
平成15年11月23日(日)
新嘗祭、快晴、国旗掲揚。
我がミニ田の新米はまだ稲の状態でデッキにシートに包まれている、手作業による稲扱きをする暇が無い。
阿蘇郡内町村対抗の阿蘇一週駅伝が開かれ、10時頃、我が家の前を選手達が通過していった。
午前中、上村さんから、木を切るから取りに来いという電話を受けて、暖と二人で「阿蘇の四季」の裏手の奥まったあたりに軽トラで出かけた。
大きな榎を伐採中で、上村さんの軽のダンプを借りて二三往復する。軽とは言えダンプだから素晴らしい、作業がうんと楽になる。
榎は一抱え以上ある大きな樹で、どうして倒すのか分からないが、切ってしまうのは勿体無いと思いながら貰ってきた。榎という木はあまり使い道は無いそうである。
昼頃作業も終わり、帰ってから、暖たちに蕎麦を供しようと、昨日波野神楽苑で買って来た新蕎麦粉で蕎麦を打ち、丁度茹であがったところに、上村さんがもう一台分持ってきたよと立ち寄ってくださったので、庭先で打ちたての蕎麦を食べていただいた。
昼食後、暖がチェーンソーと薪割りに挑戦した。
夜は一昨日に続いてイタメシのプロの暖が賄い方を受け持ってくれ、旨いパスタ類に舌鼓を打った。
平成15年11月22日(土)
晴れ。全国的に寒い一日だったようで、北日本からは雪便りが聞かれたが、朝起きてみると、ここ阿蘇も高岳山頂付近が白くなっており初冠雪を見た。平年より五日遅いそうだ。
午後も夕方近くなって、皆で出かけようとした時、妙法寺のほうから、犬のように首輪をつけたヤギがトコトコ歩いてきた。多分逃げだしたのだろうと、暖と二人で捕まえて門前の標識に繋いだところ、後から飼い主が追いかけてきた。
馬場の三森さんとおっしゃるそうで、首輪をしているところを見ると、ペットのように飼っていたのだろうか。このヤギはメスで、間もなく出産だそうだ、欲しければあげますよ、とのことだったが、ポニーを飼う話も出ているので、もし欲しくなったらその時はお願いしますとお応えした。
暖一家を荻岳に案内したのだ、小生も初めての場所である。(写真1・写真2)
波野村にある荻岳は一望三山と言って、頂上に立てば360度の眺望が開け、阿蘇山・九重山・祖母山が一望のもとに眺められる。残念なのはテレビ中継設備が頂上に建っており、せっかくの景色を台無しにしている、必要なのだろうが如何にも無粋である。
車で頂上まで簡単に登ることが出来る。標高は843mだそうだが、もともと波野村は700m以上はあるだろう、だから比高はたいした事はないのだが、ここは阿蘇神話の始まりの場所で、健磐龍命はこの山上に立ち、阿蘇開拓の構想を練られたのだとか。
今日のように晴れて冷え込んだ日には、空気が澄んでいて素晴らしく眺望がきく、その上に、西に傾いた太陽の角度が山襞、杉林の陰影をはっきりとさせ、地球が丸いことが良く分かる。あまりメジャーなところではないが、ここもまた素晴らしいお薦めスポットの一つである。
日も沈む頃 阿蘇望橋に回ってから帰る。この橋は多分、「マディソン郡の橋」に倣って造られたのだろう。
平成15年11月21日(金)
曇り、小雨模様。
今朝になって娘の熱も少し下がり、快方に向かっているのが分かったが、念のため古閑医院に連れて行き、薬を貰う。
娘の同じクラスの健太郎君の弟、直樹君も風邪だとのことで、ママの麻理子さんと医院でバッタリ。お兄ちゃんの健ちゃんから貰ったそうで、保育園では風邪を移したり移されたりの繰り返しで逞しくなっていくのだろう。
甥の暖・晴佳夫婦が長男の大路(6ヶ月)を連れて、フェリーに乗って豊田からやってきた。婆様には曾孫にあたる。婆様、孫と曾孫(写真1・写真2)を同時に抱けるとはと感無量の様子。娘も最初のうちこそ少々警戒気味だったが、そのうちに誰に教わったわけではないのに、そろそろと近づいてオデコをそっと大路にすりつけて親愛の情を示していた。
カミサンは今週一杯、残業で連日9時半過ぎのご帰還だった。
平成15年11月20日(木)
小雨。
大した熱ではなかったが、結局娘の保育園は休ませた。
志賀さんに今年の米を一俵届けていただく。
夜になって、娘、40度近くの熱を出す。が、もう慌てない。
平成15年11月19日(水)
曇りのち小雨。予報では「雨」だったが、少し外れたようだ。
屋外作業が出来ない天気の時に、それ以外のことをやろうと、今日は軽トラックの法定点検で菊陽町まで出かけた。ついでにユニクロでジーパンを二本買ってきた。
こちらに住むようになってジーパンが小生のユニホームになっており、スーツは確か二度だけ身に着けただけだ、その他に仏事で黒の礼服を二三度。明けても暮れてもジーパンだけ、従って消耗度が激しく最近になって二本とも破れて修復不能になっていたのだ。
昨夜風呂に入れてからか、娘が洟をズルズル流し始め、咳も少しでていた、今朝体温を計ったところほぼ平熱に近く、元気だったので保育園にやったが、夕方電話が来て熱が少しあり、それにダルそうだとのことだたので早めに迎えに行って、夜も早めに休ませた。元気だし、彼女自身も大分風邪に慣れてきているようで、大丈夫だろう。
平成15年11月18日(火)
晴れ。
デッキの雨除けフェンスを取り付ける。やっつけ仕事の名人としては、まあまあの出来だろう、ただ、強風に耐えられるかどうかは、吹いてみなければ分からない。
当初は取り外しが簡単出来るようにするつもりだったが、重すぎてそれが出来ないので、春先まで取り付けっ放しにすることで、釘で固定した。(写真1・写真2)
平成15年11月17日(月)
快晴、久しぶりに0度前後まで気温が下がる。
午後から廃材の整理と、雨よけフェンスの製作をする。
平成15年11月16日(日)
今日は絶好の小春日和のなか、阿蘇地区パークボランティアの会と環境省自然環境局九州地区自然保護事務所主催の自然観察会に参加した。冬場を除いて毎月開かれており、小生は、興味を引く回だけ参加している。
今回は、我が家から40分程度走った晩秋の南小国長者川と押戸石(おしといし)を探索した。
http://www.sizenken.biodic.go.jp/park/np/asokujyu/topics/8/
午前10時に国道212号線沿いコスモス園に集合して、数台の車に分乗して少し離れた牧野の管理小屋まで移動した。
そこから赤牛が放牧されている丘陵地帯をノンビリ歩いて晩秋の長者川・マゼノ渓谷に降り立ち、渓流沿いを、或いは川床を飛び石伝いに色々な植物を観察しながら移動した。渓谷は鬱蒼と緑が生い茂る夏と違って、すっかり葉が落ちて、秋の陽射しが十分に降り注ぐ水面はキラキラ光り驚くほど明るかった
この渓谷も8月に歩いた馬場川と同じく9万年前の阿蘇山噴火の際の火砕流の跡だそうだ。何処にも「マゼノ」とカタカナでしか書いてなく、どういう意味だかわからないが、ここの牧野組合管理事務所前にあった石碑に間瀬野牧野組合と彫ってあったので、「マゼノ」は「間瀬野」のことか。あるいは、後から間瀬野と宛てたのか。インターネットにも電話帳にも間瀬野という言葉では見つからない。あるサイトには「馬背野」ともあったが、なんとも気になる名前である。
草原の景色は、もうすっかり紅葉も終わって、黄褐色一色になったクヌギや楢といった雑木々、銀色に波打って揺れるススキの原、風も無く穏やかで本当に絶好の観察日和だった。杉林が多い阿蘇谷でこういった落葉樹林の中に分け入るとなんとも気分が穏やかになる。最近、夏から秋・冬にと移り行く景色を眺めては、少づつ制作意欲が湧いてきて、また絵具や筆類を買い揃えなければと思っていたが、ますますその気持が大きくなってきた。
渓谷逍遥の後は、程近い押戸石に移動して、そこで昼食を摂ったあと午後3時頃解散した。
この押戸石とは、このあたりの、なだらかな起伏に富んだ丘陵地帯のなかでも一際高い丘の上(丘と言っても、標高は800mはある、もともと高地にあるので標高差で言うと丘になる)、ある規則性をもって並んでいる巨石群のことである。(写真1・写真2・写真3)
凝灰岩で出来たこの岩々は、柔らかいので風化が進んで、よく読み取れないが、4000年前のシュメール文字が刻み込んであるとのことで、専門家によって確認されているそうである。
どうも小生にはよく分からなかったが、磁石を近づけると針が正反対に振れ、磁気を帯びており、なかなか神秘的でロマンを感じさせるストーンサークルではある。火山性の岩ではあるが、周囲は草原地帯で他には全くこのような岩は見当たらないので、一体何処から運んでこのように並べたのだろう。
そして何よりも此処が素晴らしいのは、360度何一つ遮るものが無く、雄大な阿蘇の丘陵地帯を一望に眺めることが出来ることである。天気次第だが、ここも一押しのお薦めスポットである。
平成15年11月15日(土)
曇り。
雨の予報だったが、どうにか夕方まで持ち堪えた。
朝飯前に薪割をして、朝食後は、デッキの雨除けフェンス作りをした。
雨が降るとデッキに降り込んで、薪が濡れるので、昨年はブルーシートを掛けたが、今年は透明の波板を貼って、デッキの前面の開口部を広く覆うことにした。
前面だけのサンルームのようなものである。雨が降り込まない程度の面積となると、3m*1.8m必要になり、そのために木材で枠を作り、ポリ・カーボネイトの透明波板を5枚貼った。百聞は一見に如かずだが、完全に出来上がってから写真を掲載するつもりである。
当初の漠然とした計画では、雨が降った際に、さっと吊るすなり、取り付けるなりするつもりだったが、これが結構重くて、とても付けたり外したりは出来ないので、一冬中取り付けっぱなしにすることにしたが、はて、どう取り付けるか思案中のところで日没となった。
平成15年11月14日(金)
晴れ。
明日は天気が崩れる予報なので、今日一日薪作りに精を出す。貰った廃材は釘だらけで抜くのが大変だが、乾燥しているので割ってすぐに燃すことができる、だから雨に濡れないうちに少しでも多く切っておこうと、夕方娘を保育園に迎えに行く直前まで作業に没頭して腰がパンパンである。
平成15年11月13日(木)
午前中曇り、昼から晴れる。
昨日貰った家屋を取り壊した廃材で薪作りをする。廃材という性格上、大きな釘が沢山打ってあり、まあ仕方が無いといえば仕方が無いのだが、釘を抜く作業に思った以上に時間が掛かり往生する。
ホームワイドで現品処分の展示品の大きなスチール製の物置( 約1.5坪)を予約する。自分で持ち帰って組み立てることにして、後日軽トラで運ぶことで話をつけてきた。以前にも同じような機会があったのだが、その時は、日を追って値が下がるのを待っていて、結局他の人に先を越されてしまった苦い経験があったので、今回は、少し早めではあったが手を打った。
婆様の血中酸素濃度がなかなか改善されないので、本日病院から自宅で酸素吸入をするようにとの指示が出て、夕方酸素発生装置が運び込まれた。
スポーツ後に吸うエアゾル式の缶程度のものを想像していたが、この装置は、空気中の酸素を濃縮して作るシステムだそうで、優に30キロはある相当大掛かりな装置である。
医療保険が利いて自己負担はそれほどでもないが、その大きさに婆様目を丸くする。動き回って息が苦しい時などに鼻孔に挿して使うそうで、外出用に車付きの携帯ボンベまでセットになっている。
一日かけて指先に付けた小さな血圧計のようなもので血中酸素濃度のデータを取って、明日から本格的に使うそうだが、試しに使ってみたところ、呼吸が楽になると言っていた。薪割りなどで息が上がった時に小生もちょっと借りるとするか。
夜、11月宿場會例会。寒くなったので、赤星邸を借りて開催。冒頭に緑貞二さんの冥福を祈って全員で黙祷する。嘉悦先生の緑さん追悼の談話に皆しんみりする。
11/24(月)の町健康ウォークin坂梨での宿場會出店の件、12/13(土)・14(日)のほっと一息ギャラリー開催の件、12/14(日)忘年会の件など審議。
平成15年11月12日(水)
晴れ、夕方一時パラパラくる。
娘無事に保育園に行く。
馬場のNさんの馬小屋取り壊しが本格化して、今日トラックが何台も往復して薪用の廃材が沢山運び込まれてきた。
一抱えもあって燃やしてしまうのが勿体無いような太くて長い材木もあれば、木っ端のような材木もあり、これからの選別が必要だが、結構な量の薪が取れそうだ。近々甥の暖が遊びに来るそうだから大いに薪作りに精を出してもらうことにしよう。
平成15年11月11日(火)
曇り時々小雨。
昨深夜、娘がまた突然39度台の熱を出したので、本日の保育園は休ませた。一歳になった途端に風邪ばかり引いている、母親の免疫が効いていたのだろうか、それまでは全く病気はしなかったのだが。
昼前に検温したところまだ38度台で体が熱くて如何にもダルそうだったので、この程度で医者にかかる必要があるのか無いのか父親初心者には分からず、町の保健財政もたまったものでは無いだろうと気にしながら、万一の場合を考えて昼前に古閑医院に連れて行った。
そしてシロップと粉薬を貰って帰り、飲ませてから一眠りさせたところ、見事に熱は下がり元気が戻ってきたのでひと安心した、このまま明日を迎えて欲しいところだ。
このたび小生が加入していたDream NetがOCNに吸収合併された結果、メールアドレスの変更は無いものの、Webアドレスの変更を余儀なくされた。
今までのサーバーから新しいサーバーへの引越し作業は面倒だが、個人個人が手作業でやらざるをえず、丁度雨で外で作業が出来なかったので、本日思い切ってやった。旧アドレスにアクセスすると新しいアドレスに自動的にジャンプするページまで各人で作らなければならないのだ。
ついでに以前容量不足の関係で過去の画像をかなり削除したが、今回のサーバーのレンタル料が以前のそれより安かったので、少し多めに借りて、削除した画像を復活させた。
面倒くさい、大変だとブツブツ言いながらも、このような作業は決して嫌いなほうではないので、色々と勉強になったと内心喜んでいる。また、近々自前のサーバーを運用しようと目下研究中なので、そういった点からも良い経験ではあった。
平成15年11月10日(月)
曇り時々小雨。
平成15年11月 9日(日)
小雨。
昼前、家族揃って馬場公民館に第43回衆議院議員選挙の投票に行く。
平成15年11月 8日(土)
晴れ、暦の上では今日が立冬だそうだが、それとは裏腹に暖かい一日だった。
馬場のNさんが、納屋を壊したのでと言って材木を持って来てくださる。
これからも方々から材木が入る宛があるので、積み上げる場所を確保するために以前水俣の滉兄宅から移殖したアジサイの株を移動した。
あとは薪を少し割って、今日の作業はこれだけだったか、それにしては一日があっという間に終わった。
平成15年11月 7日(金)
晴れ。
婆様がここ一日二日体調不良のようなので、昼から大阿蘇病院へ連れて行ったが、特に悪いところは無いそうで、婆様曰く、過労かしら。
平成15年11月 6日(木)
昨日の雨が午前中いっぱい残り、午後もどんよりした一日、おかげでノンビリ。
ネコのクロ(色は真っ白)の奴が、芽が出たばかりのたかな畑ほ掘りくり返してたので、石を投げて追っ払ったが、もともと警戒心が強すぎてあまり懐かないので、奴は所払いとする。
夕方娘を保育園に迎えに行ったところ、全員が表に集まって空を見上げていた、何事かと思ったら、風船飛ばしというものをやったそうで、沢山の風船に手紙をつけて大空に放ったそうである。昨年も思わぬ遠いところから返事が届いたそうで、娘も保母さんに抱かれて参加していた。先日は文化祭があったし、昨日はサツマイモ堀だった、子どもを飽きさせないよう何かと心配りがされている。
平成15年11月 5日(水)
雨。
午前中、婆様の小野医院(眼科)と宇治歯科の梯子に付き合う。
久しぶりに「雨読」を楽しもうと横になったが、睡眠不足が重なって、ついウトウトで娘を迎えに行く時間になり、ノンビリタイムもあっという間に終了。
平成15年11月 4日(火)
晴れ。
先日(10/30)蒔いたばかりのたかなの種がもう一斉に地面から芽を出している。上手い具合に種を蒔いた時以来寒さが緩み、その上に雨が降ったのが丁度良かったのだろう、あとはこれからの霜にやられないことを願うのみ。
お向かいのアキさんが我が家と同じ頃に菌を打った椎茸が出来たので、我が家の椎茸も出ているだろうと様子を見に来られたが、榾木(ほたぎ)を置いた場所が悪いのか、管理が悪いのか全く生えて来る気配も無い、どうも湿気が足りないようで、地面を掘って少し埋めたほうが良いのではというアドバイスを頂戴して、少し手直しをした。ついでに金槌で小口をトントンと叩いて刺激を与えておいた、こうすると冗談でなく椎茸菌が目覚めるらしい。あとから椎茸を届けてくださった。
婆様は終日デッキに座って稲扱きに精を出していた。小生は朝顔の棚にぶら下がった種を回収して、薪置き場のスペースを確保した。やった作業はそれだけか?それにしては一日があっという間に過ぎていった。
平成15年11月 3日(月)
天候は小雨、本日は明治節につき日章旗を掲揚す。
妹一家は別府から夕方のフェリーで帰るべく昼少し前に発って行った、発つ前に先日幌加内から取り寄せた秋新の手打ち蕎麦を供した。杏は土産に初めての経験だと嬉々としてカボチャとサトイモを掘っていった。
昼、緑貞二さんの告別式にカミサンと一緒に参列する、これも故人の人徳か、多勢の人が見送った。最近緑夫人とも顔見知りになったばかりで、これからの家族ぐるみの付き合いを楽しみにしていたのに本当に残念である。(写真1・写真2・写真3)
--滝室の坂に読経や散りもみじ--
--滝室に香華雨霧山もみじ--
平成15年11月 2日(日)
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宿場會の仲間緑貞二さんが昨日突然亡くなった、享年42、蜘蛛膜下出血だった由。
ほんの数日前、「きまぐれ蕎麦屋」で一緒に頑張ったばかりだ、予想だにしなかった人の
死に何と言ってよいか言葉も出ない、人の命とはこんなにあっけなく儚いものか、空しさを
覚える。
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昨夜のうちに降ったようだ、朝起きるとシットリと畑が濡れており、格好のお湿りになった。
終日小糠雨、異常にと言ってよほど暖かい。昨夜以来ストーブを焚かなくても室内はTシャツでも良いくらいだ。
昨日から細かな羽虫があたり一面異常発生して、周囲が粉雪のように煙って見えたが、昨年は10月31日に同様に発生した。この虫は一日か二日で消えるが何の虫なのだろう。
一日から三日まで熊本物産フェアがグランメッセ熊本で開かれており、本日カミサンは一応関係者として応援に軽トラックに乗って出かけていった。
夕方、聡雄さん、立さんと一緒に緑さんの通夜に出かける、若い人の葬儀は参列していてもつらい。
豊田組は本日は阿蘇周遊に出かけたが、奇跡的に火口を覗けたものの生憎の天候で雄大な景色は楽しめなかったようだ、それでも連中は遊び上手だから、それなりに上手く阿蘇の休日を楽しんだようだ。
平成15年11月 1日(土)
晴れ後曇り。
久しぶりに夕方から雨との予報だったので、掛け干ししてあった稲束を婆様と二人でデッキに座り込んで稲扱きをした。デッキに座り込んで稲扱きというのも変な話だが、道具が無いので、稲を一本一本手でしごいて籾を扱き取るのである。その効率の悪いこと、二三束扱いたところで嫌になってシートで覆って今日の作業は終わり。来年もまたやるなら千把扱きのようなものを作らないととてもではないがやってられない。
カミサンは久しぶりに畑に出てタマネギの苗100本を植え込んだ。
友人の武藤肇が昨日でようやくサラリーマン稼業から足を洗った、祝着である。あとはタップリある時間をどう使うかだ。
夜遅く、長崎方面に遊びに行っていた豊田組が帰ってきた、肥前長崎路を十分に堪能したようだ。長崎方面は夕方大雨だったそうだが、阿蘇地方は結局降らなかった。