平成16(2004)年10月の記録(新しい日付けの順)

平成16年10月31日(日)

 曇り一時小雨、午後遅くなって晴れる。

 恒例の町主催の健康ウォーキングが開かれた。一般参加の他に一の宮町内の公立・私立の幼稚園・保育園併せて五園合同で自由参加があり、娘も三キロコースにエントリー、お爺ちゃんと小生と三人で参加した。

 コースは、JA阿蘇本所をスタート、ゴールとして稲刈りの終わった田園を歩くもので、他に五キロコースもあり、多勢の参加があった。

 今にも降りだしそうな空模様だったが、かろうじてゴールするまで天気がもってホッとした。保育園の仲間達も沢山参加していた。(写真1写真2

 二歳児に三キロ徒歩は当然のことながら無理なので、バギーを持っていったが、八割方はバギーのお世話になっただろうか、それでもチェックポイントの少し前では歩かせて、自分の足でスタンプを押してもらっていた、まあ体の良いキセルである。

 ゴールしてご褒美にメダルを貰ってご満悦だった。解散後、昨日同様、「四季彩いちのみや」で昼食を摂って帰った(写真)。


平成16年10月30日(土)

 曇りのち晴れ。

 今日から三日間、一の宮町町制施行50周年記念イベントが開かれている。カミサンも職場がこのイベントに係わっている関係で、物産館「四季彩いちのみや」の仮設店舗で色々な物産の販売を担当している。

 昼食を食べに娘とおじいちゃんと会場に顔を出して、しばらく遊んだ。(写真1写真2写真3

 午後3時頃だったろうか、突然哲兄が妙齢のご婦人方を乗せて現われた。お聞きしたところ、哲兄の職場の同僚だということで、小松千鶴子さんと神山雪枝さんのお二人。二泊三日の九州旅行で、今日熊本に着いて、今晩の宿泊地、高森の温泉に向かう途中、我が家に寄ってくださったというわけである。時間が足りなくて三十分足らずの滞在だったが、色々な方に訪ねていただいて嬉しい限りである。

 今日義父は、タマネギの苗100本の定植と大根の種蒔きをやってくれた。


平成16年10月29日(金)

 曇りのち雨。

 朝飯が終わって、さあ一仕事という頃になって雨が降り始めて、今日の農作業は出来なくなった。それでも義父は小降りになるとカッパを着て雑草の始末をしていたが、それも本降りになり、さすがに屋外作業は出来ず、それでもデッキや玄関の掃除などをやってくれた。片や、小生といえば、義父の作業姿を横目に見ながら、悪いと思いながらもデスクワークで全く働かず。

 ようやく画材一式が揃う。ここに移り住んで、日々変化する阿蘇の山並みを眺めているうちに、また絵を描きたいなという気持が沸沸と湧きはじめ、そしてその気持がいよいよ昂じて、ようやく画材の準備にたどり着いたのである、結局三年かかった。少しずつ集めて全部揃うのに三年かかったということではない、絵を描きたいなという気持が起こって、具体的に画材の入手行動に移るまでに三年かかったのである。それ以上に、絵を描かなくなって何十年、さて実際に筆をとるのはこれから先、何時のことになるのやら(名人上手でもあるまいし)。


平成16年10月28日(木)

 晴れ。

 義父が畑の枯草を集めて堆肥つくりをするついでに、先日保護したカタツムリだかクワガタだかの幼虫20匹あまりを、その中に放して越冬できるようにしてくれた。その他にプランターに堆肥を入れてカミサンが買ってきて置きっ放しにしてあった草花の植付けをしてくれた。

 小生は、薪小屋を整理して薪を備蓄する準備をした、これだけでは到底間に合わないので、夏の間、朝顔棚を作ってあった窓の下にパイプを組んで仮設の薪小屋を作る準備のために、朝顔棚を撤去した。


平成16年10月27日(水)

 曇りのち、午後にはすっかり晴れわたる。

 午後、千葉から応援に飛んできてくれた舅殿を空港まで出迎えに行く。空港に行く途中、哲兄の悲鳴にも似た要請で、竹を十本ばかり軽トラックに積んで届けた。

 台風で老朽化した家屋の屋根を覆っていたシートが度重なる風に捲れて無惨な姿を曝していた、竹はシートの補強に使うそうである、まるで兵庫県や新潟県の被災地の様相を呈している・・・・・・・・・・・・・・
写真1写真2

 約半年ばかり前に数日会っただけだが、久しぶりに会うお爺ちゃんにあの人見知りが激しい娘が全く警戒もしないで、はじめから懐いて遊んでもらっている、血縁の故か。

 畑つくり、薪つくり、竹薮の整理、墓石の引き起こし等々助けてもらうことが沢山ある、しばらく滞在してくれる。


平成16年10月26日(火)

 終日降ったり止んだり。もう氷雨という言葉が似つかわしい。

 台風24号は台湾沖で、例によって急に進路を東に切って日本に向かっていたが、さすがに息切れしたと見えて、途中で温帯低気圧になってしまったようだ、もう今年は台風も打ち止めといきたい。

 一日かけて我が遊び場、ロフト部分を整理した。


平成16年10月25日(月)

 小雨。

 朝9時前、突然水道の水が止まった。どうしたのだろうと思っていたが、娘を保育園に送る途中、柿木で漏水の緊急工事をやっていた、豆札の水道管はこのあたりから来ているのだろうか。

 3時過ぎにほんの30秒くらいだろうか停電した。そしてその後で再び停電した。先日の18号台風の復旧工事がまだ終わっておらず、あちらこちらで倒れた電柱の建て替えなどをやっているので、まだ電力供給は安定していないようだ、事実、我が家の屋内引込み線用のポールがまだ倒れたままになっている。

 今日は屋外作業が出来ないので、物置の整理をした。

 夜、古川弘子姉より電話あり、長岡の山田一雄家は家の中は滅茶苦茶になったそうだが、幸にして人身に損害は無かった由。魚沼の治子さんの実家も同様に人的被害は無かったものの、ニュースで流れているように車の中での避難生活を余儀なくされているとの事。


平成16年10月24日(日)

 晴れ。

 昨日新潟中越地方を襲った地震の大きさに改めて驚きを覚える。人口密集地帯でなかったためだろうか、人的被害が阪神地方の地震の時ほどでは無かったようだが、各地で崖崩れ、道路の寸断が起きているようだ。新幹線が脱線で済んだのは奇蹟だろう。動かざるごと大地の如く、が大きく揺れるのだから怖いこと台風の比ではない、そして何時何処で起きるのかも本当は分かっていないのだから。

 行政の救援が余りにも遅いように思う、狭い国土で、どうして一日経っても食料が届かなかったり、毛布が届かないのだろうか、いくら道路が寸断されているといっても、わが国はその程度の機動力しかないのだろうか、首都圏で起きるであろう地震を考えるとゾッとする。

 天神社の社殿復旧作業で終日暮れる。

 今日一日で、台風でバラバラになった斗組や肘木を組み合わせることから始めて、補強材で四隅の支柱を補強するところまで終わった。風で一部吹き飛んで見あたらない部品も何点かあったが、改めて組み立ててみて、使用してある木材の質が良く、今でも全く狂いが無く、同時に、このような祠程度の社殿でも、昔の宮大工の腕の確かさには驚かされた。そして同様に現代の棟梁、柚上正昭さんの腕の確かさにも感心させられた。

 後は、吹き飛ばされて少し離れたところにひっくり返っている大屋根をクレーンで吊ってトンボして被せる大作業が残っているが、それは後日改めてということになって、その前準備として、古閑隆一さんが自分の商売用のユニックを操作して作業の邪魔になる杉の枝払いをした。今回の一連の公民館用建物の骨組みの解体や、天神社の復元作業で隆一さんのユニックが大活躍をしている。


平成16年10月23日(土)

 快晴、夕焼けが美しかった

 今日は、裏の竹藪に入って、台風で倒れた竹の整理をしたが、多すぎて、一度では片付かないので、舅殿の到着を待つことにする。仕事が溜まって一人では消化しきれないので、舅殿に応援を頼んだ、来週からしばらくの間、千葉から飛んできてくれることになっている。今日の作業はその他に、畑の草焼き。

 午後、山口ます子さんが息子さんの俊一さん、夫人の真理子さんと通りがかりだ、と言って寄ってくださった。

 夕方、天神社の復元作業で、倒壊前の姿が写真で残っていないかと、渡さんが言ってきたので、記録写真から幾つか探して持っていったが、生憎と必要な部分の記録が残っていなかった。復元作業の大工さんは、柚上正昭棟梁で、宿場通りの坂本助義棟梁も顔を出していた。


平成16年10月22日(金)

 快晴。

 畑の畝立てと、畑の雑草刈りをする。

 ガス溶断機の試運転をする、扱いを一歩誤ると非常に危険なシロモノなので、講習会での手順のを思い出して、慎重に且つへっぴり腰で作業を行った。酸素と、アセチレンの元バルブを開いた後、トーチのアセチレンのバルブを開いて点火して、その後で酸素のバルブを開く、消火の時は、逆に、酸素を先に止めて、その後でアセチレンを止めるという手順を踏まなければならない。


平成16年10月21日(木)

 台風一過の、とまではいかなかったが、まあまあの天気だった。

 午前中、民生委員の後藤光春さんに伴われて、一の宮町在宅介護支援センターの社会福祉士・高橋さんの来訪あり、面接形式にて婆様に聞き取り調査があった。現在実際に支援を必要として要請したわけではないが、今後の支援行政の参考にするのであろう。

 昼から、三十分ほど耕運機を動かす、この程度の農作業で済むなら優雅で良いのだが・・・・


平成16年10月20日(水)

 台風23号が昼頃、鹿児島、宮崎、大分地方を通って四国方面に抜けていった。熊本は奇蹟的に?直撃を免れた。その大きさの割にはここではそれほどの被害が無かったようである。それでも行く先々で大きな爪跡を残しながら今でも関東地方に向かっている。

 昨夜の予想では熊本も直撃を避けられないとのことで、保育園も休みになる予定だったが、平常どおりの扱いになった。カミサンも自宅待機ということだったが、普通どおりに出て行った。18号台風で壊れた近くのイチゴ農家のハウスも、ここのところの冷え込みで、ようやくビニールを張り替えたばかりだったので被害が心配されたが、どうにか大事に至らずに済んだようである。

 先日、娘の体温が高くて断念したインフルエンザの予防接種を保育園の帰りに受けに連れて行った。

 注射が痛いということを学んでしまったので、どうしたものかと古閑先生に相談したら、それではお尻に打ちましょうと、注射針が目に入らないように小生が抱いて、先生や看護婦さんが色々話し掛けたりして気を逸らしながら、あっという間の早業で、注射をしてしまったので、娘は泣く間も無くキョトンとしていた、流石プロの早業である。

 注文してあったガス溶接・溶断機が届いた (写真1写真2)。アセチレンは、昔、夜店のカーバイト・ランプで馴染み深いが、この種のガスの中では非常に不安定で危険なガスだそうで、その上に酸素も一歩扱いを誤ると大変危険なガスなので、もう一度よく扱いの復習をしてから使うことにする。


平成16年10月19日(火)

 台風23号がまた九州を直撃しようとしている、上陸は明日の午前中か、超が付く大型だそうで、強風域が日本列島がそっくり入るほど大きいそうである。

 気兼ねなく「雨読」。


平成16年10月18日(月)

 晴れのち曇り、夕方からシトシト降り出す、またまた台風が近づきつつある。

 今日は久しぶりに農作業をしようと思っていたところ、朝のうちに少しだけと思って始めたパソコン作業(カミサン用のPDAの環境整備)がうまくいかず、結局一日中、机の前に座りっぱなしだった。

 保育園に娘を迎えに行ったその足で、娘と小生でインフルエンザ予防注射を受けに古閑医院直行した。娘は今が絶好調なので大丈夫だと思ったが、車の中で注射をする話をしたところ、注射は痛いからイヤダと駄々をこね始めた。もう注射が痛いということを先日の三種混合で学習してしまっていた、言わなければ良かったと思ったが後の祭り、そのせいかどうか、医院に着いて検温したところ37度をかなり超えていたので、娘は今回見送りとした。追っかけて仕事が終わったカミサンも接種にやって来て、結局我が家では娘だけが今のところ未接種となった。


平成16年10月17日(日)

 晴れ、今年のそば切り隊の最終日。

 昨日の疲れも、ものかは、二日目であり最終日の蕎麦屋が元気に開店した。今日は、カンバン娘が遊学先に戻ったため、順子姐がカンバンママとして娘の分も頑張って接待にあたり、山口重子会員も応援に加わって一日大奮闘だった。

 竈の前に陣取っていると、座敷のほうの様子がほとんど伝わってこないが、接待にあたった立さんの話によると、道場破り的な雰囲気を漂わせた何人かのその筋の人が、どうせ素人が打った蕎麦だろうと、たかを括って箸をつけ、その質の高さに驚いて、かつ、感心して帰ったそうである。その筋とは、蕎麦の数奇者、好事家という意味である。立さんの話だから幾分割り引いて聞く必要があるかもしれないが、それでも聡雄さんの打った蕎麦は誰からも一目置かれる蕎麦であることには違いは無い。

 今年も、北海道幌加内産の秋新で打った生粉打ちの蕎麦と、葉子さん特製の蕎麦がき、木村豆腐店特製のおぼろ豆腐と蕎麦前(出羽桜)の品揃で臨んだ。

 今日も沢山のお客様においでいただいた、残念ながら繁忙時は竈前を離れられず、記録に撮る余裕が無い、一段落して知った顔を何枚かパチリ(写真1写真2写真3)、今日は、娘も母親に連れられて蕎麦を食べに来た(写真1写真2写真3)。この二日間で、蕎麦は、蕎麦がきとで、合わせて300食に少し足りないくらいの数を皆さんに楽しんでいただいたことになる。

 最終日は店じまいを午後4時にしてあったが、閉店後も何組かのお客様が見えて、最終的に暖簾をしまって打ち上げが始まったのは6時頃だったろうか。

 豪勢な鉢盛りに、勢さんの差し入れの特製だご汁、ワインと数々の銘酒、そして何より達成感と満足感と心地良い疲労感。飲み、喰らい、かつ、腹のそこから大笑いして、心から打ち上げを楽しんだ

 小生も早く堂々と人前に出せる蕎麦が打てるようになりたいものである。


平成16年10月16日(土)

 晴れ、蕎麦切り隊出場

 今年も今日と明日の二日間限りの蕎麦屋が中虎屋を舞台に開店した、今年で三年目になる。

 皆、もう手馴れたもので、開店を前に暖簾かけや、玄関先の飾り付け、厨房の準備など手際よく済ませて緊張の中にも余裕を持って11時の店開きを迎えた。(写真1写真2写真3写真4

 あの、朝が苦手な局長が、誰れに起こされることも無く、四時にムックリと起きだして、独り黙々と蕎麦を打ったそうで、皆が集まる頃には生船に綺麗に切り揃えられた蕎麦が並んでいた。

 今年の出場メンバーは、志賀局長以下、赤星会長、高木参謀、桐原行動隊長、石田順子、志賀葉子、岩下くに子の各会員。加えて、今年も順子さんの愛娘恭子さんが遊学先の福岡から応援に駆けつけてくれた。彼女はまさに蕎麦切り隊のマドンナ的な存在で、彼女が居るだけで座敷が一際華やか雰囲気になるだけでなく、気持の良い接待に店の回転が実にスムースにいく、おまけに隊の平均年齢を一気に下げてくれる欠くべからざる存在である。更には、今回のために、わざわざ東京から阿蘇大好きの、立さんの舎弟分、松岡さんが助っ人として飛んできてくれた。

 小生の役回りは今年も竈前で、ひたすら、茹で方に徹した。今年は作業環境が一段と良くなって、気持良く茹でることが出来た。

 厨房に居ると座敷の様子が良く分からず、ご来店のお客様は、どのような顔ぶれかなどサッパリ分からないが、今年は、何度も座敷から声がかかり、顔を出すと、インターネットを見て来ましたというお客様が何組もおいでで、インターネットの威力というものを改めた知らされた。(写真1写真2写真3

 一部分、小生が切った不出来な蕎麦を、パソコンの弟子筋にあたる木村家の一行や親しい間柄のお客になかば脅迫めいた勧めをして食べてもらった。切り方はヘタでも、蕎麦の素材自体が美味しいので、皆一応は喜んでくれたようである。

 第一日目は、全部で140食くらい出たと思う、夕方6時の閉店後、ささやかに初日の打ち上げをして、お互いの健闘を称えあった。打ち上げとは本来最後にするものであるが、うちの連中は好きだから、何か口実をつけては盛り上がりたがるのである。


平成16年10月15日(金)

 快晴、また昨日の最低気温を更新したようだ。

 今朝も我慢できないほどではなかったが、せっかくストーブの準備が出来ているので、この秋初めて火を入れた、はやり暖かくてホッとする、低めの気温に対して無意識の内に身構えていたのだろう、体の緊張が思わずほぐれるのがわかった。だが一方で、これから薪割りの毎日が続くことになる。

 今日は娘の遠足の日だ、母親が引率していった。場所は、阿蘇町の黒川(黒川温泉とは別地名)にあるカドリー・ドミニオンという、主に熊が居る(と聞いている。以前は文字通り「熊牧場」と言っていたそうだ)小動物園のような遊園地のような施設のようで、入ったことは無いが、結構人気の施設である、大型連休の県内の行楽客の入場者数の発表があるたびに結構上のほうにランクされている。

 娘と母親が留守中、カボチャの収穫と先日耕した畑に堆肥を撒く、体力勝負の苦労の割には、記述はたった一行で終わってしまう。

 堆肥の山を崩す課程でクワガタかカブトムシの幼虫が二十匹ほど出てきた、とりあえずスズムシの入っていたプラスチックの容器に堆肥を詰めて、その中に入れておいたが、超過密状態である、はてどうしたものか。

 最近は、金も無いことだし、本は買わずに専ら図書館で借りることにしている。しかし時々、これはというものは買う。そして久しぶりに「ダ・ヴィンチ・コード」という本を買った、これは面白そうである、推理小説か歴史小説か。

 何年ぶりだろうか、何十年とまではいかないが、それでも二十年くらいは経っているだろうか、Y原N治と連絡が取れた。敬称略で書いたが、「君」とすべきか、「さん」とすべきか、迷うところである。今年の欅グループ展に現われたそうで、K島さんに住所を聞いて手紙を書いたところ、早速メールが入った。非常に懐かしい人物である。学生時代の絵の仲間で、散々遊んだと見えて、大学に入るのが遅れて学年的には後輩になるが、実は人生では先輩になる。どうも学生時代の序列は、社会に出てからもずっとついて回るようで、そういうことであればY原君になるか。現在、つくば市に住んでおり、陶芸三昧の風流な日々を送っているそうだ、とにかく消息が分かって嬉しい限りである。

 夜、明日から二日間限りの蕎麦屋開店の最終打ち合わせを中虎屋でやる。殆んど準備は出来ているので、明日の集合時間だけを決めて直ぐに散会となった。


平成16年10月14日(木)

 快晴。今朝は初めて霜注意報が出されていたが、幸に霜は降りずに済んだようだが、この秋一番の冷え込みだったそうで、阿蘇乙姫で最低気温は4.9℃だったとのこと。このあたりはもう少し低かったと思う。夜九時の全国ニュースで、阿蘇山上で初霜が降りたと伝えていた。

 もう何時でもストーブを焚く準備は出来ているのが、室内の気温はまだ何とか火を焚くほどではなかった。

 婆様、大阿蘇病院で、早々とインフルエンザの注射を打ってもらう、我々も近いうちに打ってもらう予定である。

 今朝娘を保育園に送る途中、何気なくフロントガラスに貼ってあるステッカーを見ていて、なんと先月で車の車検が切れていることに気が付いた。ひとつには平成に入ってから、どうも今年が何年か、がよく分からなくなることがある。車検に関しては、平成16年は来年だとばかり思い込んでいた節があって、慌てて手許のカレンダー類をめくってみたが、最近は西暦でしか載っていないことが多く、カミサンに電話をして、確かに今年が平成16年だということを確認して納得した。基本的には自己責任なのだろうが、一体この件に関してディーラーは何をしていたのかということになるが、この件についてのディーラとの遣り取りは、もう書く気がしないのでやめることにする。とにかく今日そういうことで車を車検に出した。数日間は代車で過ごすことになる。


平成16年10月13日(水)

 気持のいい天気が続く、反面、関東地方は雨続きらしい。

 午前中、婆様は大阿蘇病院へ定期通院。

 昼から畑を少し耕す、明日肥料を入れることにする。

 娘、瞼を虫に刺されてお岩さん状態。

 夜、宿場會例会。本来は、今月から開催時刻は夜七時のはずだが、どういう訳だか今月まで八時開催となった。ここに来て急に寒くなって、急遽赤星邸に会場を移す。


平成16年10月12日(火)

 晴れ、ようやく天気が安定してきたようだ。

 午前中、昭元さんに台風18号で倒れた我が家の楠の処理をお願した。

 結構太い幹だが、楠は匂いが強いので、何か加工して使い道はあるだろうか、とりあえず道路脇に置いてもらった、いよいよとなれば玉切りして薪くらいにはなりそうだが、何か勿体無いような気がする。

 我が家のシンボル的存在だったので、無くなるのは非常に寂しいものである、新に何か植えたいと思う。

 昼からストーブの掃除をした。屋根に上がって煙突の出口を掃除して、室内側からは煙突を取り外して煤を払い、ストーブの天板を外して綺麗に灰を取り除いてと、タップリ時間を掛けて整備した、これでいつでも焚ける準備は出来た。



平成16年10月11日(月) 体育の日

 三連休最終日になってどうにか晴れた。

 阿蘇山を連なって下ってくる行楽の車のガラス窓が日に反射してキラキラ光って見えた。
 娘は三連休をしっかりと母親と一緒にスーパーなどに出かけた、今日はSLを見に出かけたようだ。小生は読書などをしてノンビリ過ごした。


平成16年10月10日(日)

 曇り時々小雨の陰鬱な一日であった。

 神楽苑に蕎麦粉を買いに行き、昼食は蕎麦にする。このあたりの新蕎麦は11月頃だそうだ、今が一番美味くない蕎麦粉ということになる。今日は一割つなぎを入れて打ってみた。一割でもつなぎが入ると打ちやすい事この上ない。


平成16年10月 9日(土)

 終日小雨混じりの天気。

 台風22号、今回は九州を完全に逸れてくれた。人間というものは身勝手なもので、来ないとなると殆んど台風のニュースも気にならなくなる、コースにあたる所では緊張の連続だろうが、テレビを点けていても音が耳を素通りしていく、まことに申し訳ないことだが。


平成16年10月 8日(金)

 終日小雨混じりの天気。

 大っぴらに、雨読とデスクワーク。


平成16年10月 7日(木)

 まあまあの穏やかな晴れ。朝晩の冷え込みに加えて、日中の直射日光も、もうそれほどの苦痛ではなくなってきた。

 今日ようやく、三年越し二年越しで我が家のミニ田の稲を精米することが出来た。

 一昨年、昨年とミニ田で育てた稲を刈り取って、掛け干しまではしたが、その後の工程の脱穀などの農具が無くて、一時手でしごいてはみたものの、その非効率さに諦めて、倉庫に入れっぱなしにしておいた二年分の稲束を、今朝春さんのコンバインで脱穀してもらったのだ。

 今朝春さんは米の生産農家で沢山の田を持っていて、ウルチの刈取りが終わったので、今日からモチの刈り取りにかかるので、その前に「脱穀してやるぞ」と言ってくれていたので、娘を保育園に送って直ぐに軽トラに稲束を積んで今朝春さんのお宅に伺った。

 最近は、千把扱きや唐箕(トウミ)などと言った農具が簡単には見あたらず、どこでもコンバインで刈り取りながら脱穀していくので、周囲の農家に我が家程度のわずかな稲の脱穀をお願いするタイミングを逸して二年分が溜まってしまっていた。

 今年はそういうこともあって、田植えそのものを休んでしまった。

 まだ乾燥していない稲を刈って脱穀するのと、二三年たって乾燥している稲束を脱穀するのでは、コンバインの処理に微妙な影響を与えるらしくて、何度か機械がヘソを曲げて止まり、この忙しい時期に迷惑をかけてしまったが、流石に機械力は大したもので、あっという間に籾になって出てきた。そして30キロ用の米袋に一杯と、4分の1くらいの量が穫れた。

 今朝春さんのお宅は自宅に籾摺り機まである大きな農家だが、わずかの米のために籾摺り機まで動かしてもらうのは悪いので、コイン式の精米スタンドで精米することにした。

 町内には玄米を精米するスタンドは結構あるが、籾から精米するスタンドはあまりないようで、古城の近くに一ヶ所あることを知っていたので、今朝春さんのお宅からそのスタンドまで直行した。

 籾の状態での保存だったので、それほど劣化はしていないと思う。真っ白な米が精米機から出てくるのを見た時は流石に嬉しかった、農家が感じる「コメつくりの喜び」を僅かながら味合わせてもらった気がする、帰ってからヘルスメーターに乗せて量ったところ、丁度20キロあった。

 早速、(神棚が無いので)仏壇に供えて、神嘗祭ならぬ仏嘗祭をした。六日の菖蒲・十日の菊・二三年遅れの神嘗祭?

 そして、夕食には我が家の米を炊いて食べた、新嘗祭である。



平成16年10月 6日(水)

 本日は久しぶりの快晴だった、今朝の阿蘇山も美しかった。

 体調は完全に復調したが、なんとなく過激な肉体労働を避け気味で(要するに楽をしたいからだ)、今日は畑の雑草焼きをしてお茶を濁した。隣の田では江藤亮二さんが牛の飼料にする稲藁のロール巻きの前作業をしていた、なんでも一年に使う飼料用の藁は数百町歩の田が必要だそうで、あちらこちらの田から藁を調達しているようである。

 今日、助さんの八反田の米を初めてコイン精米機に行って精米してきた、明日早速新米を食べることにする。

 本日、カミサン用のiPAQrz1717が届く。


平成16年10月 5日(火)

 曇り。

 娘がまた咳をしだしたので、戦々恐々であるが、本日はなんとか無事に通園した。

 本日は、デスクワークで一日が終わった。デスクワーク?そうデスクワーク。


平成16年10月 4日(月)

 うす曇り。

 娘が今日から冬の園服で出かけた。

 快晴ではないが、落ち着いた天気が続いていて、あちらこちらで遅れに遅れている稲刈りの真っ最中である。

 しかし、場所によっては、最早手遅れで、稲が腐り始めていて、今年の稲刈りを諦めたところもあると聞く、せっかくここまで来て極めて残念なことである。

 体調もようやく復調して、今日は軽く家の裏の雑草刈りなどをした。


平成16年10月 3日(日)

 薄曇り。

 体調万全とはいかないので、という理由にして、本日世間に合わせて安息日とする。


平成16年10月 2日(土)

 曇り、夕刻より霧雨。今朝の阿蘇

 久しぶりの休日、カミサン、娘と一緒に花の苗を植える。

 小生、昨夜は悪寒がするほど調子が悪かったが、風邪薬を飲んで早く寝たせいか、どうにかひどくならない内に収まりそうである。

 昼から、10月16日17日に予定しているそば切り隊の出店準備を中虎屋でする。昨年までは蕎麦を会所で打って運んでいたが、今年は中虎屋の台所に隣接していて、今は使われていない竈が置いてある一角を整理して、そこで蕎麦を打つことにしたのである。

 会長、聡雄さん、立さん、順子さん、葉子さんのメンバーで、積年の埃を払って、拭き清めて、破れたガラスを入替えて、延し台を設置して、なかなか趣のあるお膳立てが整った。そしてさっそく聡雄さんが蕎麦を打って、美味い蕎麦を楽しんだ。(写真1写真2写真3写真4



平成16年10月 1日(金)

 晴れ。

 娘の三種混合ワクチンの接種に昼から保育園を休すませて阿蘇中央病院に連れて行く。
 カミサンが言うには第一段階では、4回受けないとならないそうで、今回はその最後の接種になる。三種とは何と何か以前に聞いたような気がするが、忘れてしまって知らない。

 カミサンは本日は休めないので、小生が連れて行った。最近は昔と違って直ぐに注射は打たないので、お医者さん=注射という連想が無いようで、注射針が腕に刺さっても、最初のうちはケロッとしていたが、液を注入して、抜く段になってようやく痛さを感じたようで、ワッと泣き出したが、それも直ぐに泣き止んだ。

 二三日前から喉が少し痛かったが、夕方になって強烈な寒気を覚えたので、風邪薬を飲んだ。昼間の屋外作業でびしょ濡れになったシャツを扇風機だ乾かしながらあたると、非常に気持が良いので、よくやるが、カミサンが、風邪を引くのでヤメナサイと口うるさく言っていた。昔はそんなことでは風邪を引くことは無かったのだが、矢張りもう昔のような抵抗力が無くなっているのだろう。