園田五郎次 事蹟


 園田太邑(そのだたむら)の先代であり、小生の高祖父にあたりますが、幕末期に、園田五郎次季光(そのだごろうじすえみつ)という村役人がおりました。阿蘇南東部の原野、登母祖高原(とぼそこうげん)に三百町歩の水田を拓こうと野尻〜草部(くさかべ)に農業灌漑用水路の隧道開鑿に従事して、結果的に目的を達すること叶わず、責任をとって自裁したということです。この五郎次について、小生、最近までほとんど知りませんでした。なにかのことで偶然知ることになり、もっと知りたくなりました。用水路の遺構については小生も現地に立ち、少しは分かりましたが、大部分が分かっておりません。硬い岩盤をくり抜いて作った隧道ですから、そうそう簡単には無くなることはないと思いますが、それでも既にかなり埋もれてしまっていて全容が良く分かりせん。以前には分かっていたそうですが、時を経るに従ってそれを知る人も資料も無くなりつつあります、今、この先祖について、そしてそれ以上に登母祖用水路の遺構について知りたくてこのサイトに新たなページを設けることにしました。
 
 歴史の表舞台に華々しく登場した人たちは、放っておいても多くの人が注目をし続けてくれますが、その陰でひっそりとその時代を通り過ぎた人たちについては、一部、熱心に研究をしてくださる人たちがおいでですが、やはり最終的には、それを記すは子孫の務めだと思います。先祖が刻んだ足跡はやはり子孫がしっかりと残していくべきだと思います、そしてさらにその孫子へと引き継いでいかなければと思います。

 少々遅きに失する感はありますが、それでも今ならまだ少しは記録を残せるような気がします、そして、今それをやらなければもう永久に歴史の襞に埋もれ去ってしまう恐れがあります。

 残された印刷物などは、人の手を経るにつれて、かなりの脚色と美化もあるものと思われ、正直言って、子孫としては、誇りに思いながらも、かなり面映ゆい面があることも否めません、さらには、現役、つまり凡夫の典型のような小生が先祖と比較されることにもなり、こういった形で掲載することに内心忸怩たるものもありますが、それ以上に、これが目にふれることによってまた新たな情報が寄せられるのではという期待も大いにあります、そして、記録を残すことは、本人は勿論のこと、当時工事に携わった多く人たちへの幾ばくかの回向にもなるのではと考えております。

平成21年11月

 ページの構成などまだ未定です、今のところ知りえた文献の後追い程度の作業しかやっておりませんが、少しずつ資料を集め、未整理のままでも逐次載せていこうと思います、またこれからも現地にも足を運ぶつもりです。もし、五郎次や登母祖用水路に関して情報をお持ちの方がおいででしたら、文献や現地情報、是非ともご連絡いただければ有難く存じます。

 そのほかにも、わずか二三代前の坂梨の歴史などについてもほとんど分からなくなっています、地域の古老たちがお達者なうちに少しでも残しておければと思っています、こちらのほうは、「坂梨宿」で担っていただいた方が良いかもしれませんが、とりあえず、坂梨Archives、連携をとりながらここでも保存していこうと思います。

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(入手済み書籍)
阿蘇郡誌
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坂梨校百年誌
近世大名の領国支配の構造
草部村小史(写本)2011/11/11

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草部村小史


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