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風の便り 掲示板 別館(歴史など)
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1草部村小史  / 2無題 (5) / 3まったく別の話ですが (4) / 4何かのご縁でしょうか? (1) / 5古書入手  / 6掲示板別館開設しました  /



草部村小史 投稿者: 投稿日:2011/11/18(Fri) 08:00:57 No.18  引用する 
11月12日(土)午後、突然の来訪者あり。会社の作業服姿で玄関先に立たれたので、リフォームか何かの営業活動だろうかと一瞬身構えたが、ホームページを見て五郎次の資料を持ってきましたとのこと、お上がりいただいて、話を伺ったところ、阿蘇市内にあるS本建設の児玉さんとおっしゃる方であった。小生のホームページをご覧になって、小生が「草部村小史」を探しているのをお知りになって、わざわざ手持ちの分厚い村史のコピーを全部とって持ってきてくださったのだ。氏のルーツは草部村だそうで、併せて土木関係の技術者であることもあって、以前より登母祖用水路に興味をお持ちだったそうだ。「草部村小史」が上梓されたのは昭和二年、西暦1927年である。そして、五郎次が自裁したのは凡そ70年くらい前のことである。このくらいの期間であれば書かれていることは単なる伝聞だけではないと思う。むずかる太郎を抱いての応接だったので、なにもお構いが出来なくて、また細かなお話も聞けなくて失礼したが、これを機会にまた色々と事が展開していくことを期待したいと思っている。

無題 投稿者:火の神 投稿日:2009/12/06(Sun) 17:55:32 No.6  引用する 
坂梨宿の掲示板からこちらへ移るとのことで、私もやって参りました。 
ひとつ誤解してた点がありました。分氏は市原家の新宅の方だと思っておりましたが、内牧甲斐家の新宅の出身だったのですね。 市原家、甲斐家、坂梨家はみな先祖を辿れば阿蘇大宮司家に辿りつく名家ですね。

Re: 無題 投稿者: 投稿日:2009/12/07(Mon) 10:13:52 No.7  引用する 
 阿蘇の歴史は阿蘇家(現在は阿蘇神社、昔は統治者)の歴史と言ってもいいほどに密接な関係があり、その歴史も人間の歴史が始まる頃くらいまで遡るようです、足利尊氏の書簡なども以前公開されていましたし、徳川300年なんて目じゃないほどの古い家柄だそうですね、ですから、その臣下に関してもそれは古くから続いているのでしょう。北坂梨党と言われる三家についてのこと、今回の調査で小生は初めて知りました。

 ところで、火の神さんは、地元のかたなんでしょうか、などと、想像したりしています。

Re: 無題 投稿者:坂口健三 投稿日:2009/12/08(Tue) 20:23:36 No.13  引用する 
> ひとつ誤解してた点がありました。分氏は市原家の新宅の方だと思っておりましたが、
いや違います。内牧甲斐家から婿入したのが甲斐敬吉で、その長男が市原本家の家を継いだと言うことです。で弟の甲斐績氏こそ本家帰りと思っていたのですから社会主義活動に走った。兄が思想検事で弟が社会大衆党の大阪市会議員だった。それが自分の妹夫婦の窮状も救えなかったとは皮肉なものです。岩永家の遠縁に蔵原惟人が父親の保守系国会議員が

Re: 無題 投稿者:坂口健三 投稿日:2009/12/08(Tue) 20:34:25 No.14  引用する 
> ひとつ誤解してた点がありました。分氏は市原家の新宅の方だと思っておりましたが、
いや違います。内牧甲斐家から婿入したのが甲斐敬吉で、その長男が市原本家の家を継いだと言うことです。で弟の甲斐績氏こそ本家帰りと思っていたのですから社会主義活動に走った。兄が思想検事で弟が社会大衆党の大阪市会議員だった。それが自分の妹夫婦の窮状も救えなかったとは皮肉なものです。岩永家の遠縁に蔵原惟人がプロレタリア文学に走り、父親の保守系国会議員が市原分に外語大在学中の彼の説得を頼んだが。。という秘話もあります。

Re: 無題 投稿者:火の神 投稿日:2009/12/08(Tue) 23:06:12 No.15  引用する 
返事が遅れました。 
はい、地元は阿蘇です。
現在は阿蘇に住んでおりませんが、両親の実家が阿蘇ですので、ちょくちょく行き来しております。壮観な阿蘇外輪山や五岳、草原を見るたびに、ここ阿蘇が先祖代々の地元であることを心の底から幸せに思います。同時にそれは阿蘇(人)の歴史を知ることにもつながります。上に風さんも書かれてるように、阿蘇の歴史は阿蘇家抜きでは語れず、自ずと阿蘇家、その一族のことにも関心が生まれました。

Re: 無題 投稿者: 投稿日:2009/12/09(Wed) 05:05:22 No.16  引用する 
 そうでしたか、阿蘇のご出身でしたか。阿蘇は素晴らしいところですね、小生も戻ってきて良かったと心から思っています。

 今回は私的な遣り取りが主でしたから途中からこちらで話が展開しまいしたが、仲間が主宰しております「坂梨宿」のサイトは、広く阿蘇、坂梨がテーマで運営されていますので、これからも「坂梨宿」よろしくお願いします。

まったく別の話ですが 投稿者:坂口健三 投稿日:2009/12/06(Sun) 12:52:55 No.3  引用する 
最初にお詫び致しますが、ウェブログは理解に乏しく、時折、間違った操作をするかも知れませんが、お許しください。
さて、関連のない話になりますが、改めてお尋ねします。宮地在住の叔母は岩永ツテと申しますが、現在、推定95歳前後、何回か訪蘇し手紙のやり取りもありましたが、大阿蘇病院へ高齢介護で入院以降は音信がありません。私の母、甲斐ミナとは年齢がかなり離れており、父が神戸で薬局開業の頃、昭和5年に生まれた次兄のお産には手伝いに行った由です。その次兄も今年7月死去しましたが、存命であっても叔母は知らない筈です。当時、叔母は尚絅高女の女学生で、この兄には特別の思いがあった様ですが。私の父も岡山の伯父も熊本薬専卒で甲斐績氏も薬剤師ですから、朝鮮人参にゆかりの虎屋との関連もあるかも知れません。
それはさておき、気になるのは叔母の現状です。ひとり娘の瞳さんが熊本在住で、夫君も退職の今は時折顔を見せるとの話でしたが、会った事もなく音信もまったくありません。そう言うわけで、知りたいのですが、よろしくお願いします。

Re: まったく別の話ですが 投稿者: 投稿日:2009/12/06(Sun) 16:30:13 No.5  引用する 
 今日、内牧の甲斐家と宮地の岩永家をお訪ねして調べてまいりました。結果的には坂口さんがここに書き込まれたとおりでしたが、文章を読むだけではどうしても頭のなかで整理が出来ませんでしたが、御両家にお会いして話を伺ってようやくスッキリしたような気がします。

 内牧の甲斐家から、敬吉氏が坂梨で分家して、その子女が分(わかつ)、績(いさお)、ミナ、ツテ、それと「けぎゅうさん」に嫁がれた女性であり、分氏は長男でありながら、市原の御茶屋に養子に入って、ミナさん(健三さんの母上)は坂口家に嫁がれたということですね。ツテさんは、宮地の岩永家に嫁がれて、現在はやはり大阿蘇病院で大分弱られているそうですが療養中だそうです。このことは、宮地の岩永家のツテさんの御主人の従弟氏からお聞きしました。熊本のひとみさんについては、詳しい話は聞きませんでした。けぎゅうさんというは、丹羽屋というような屋号だそうで、お名前はド忘れしたから、思いだしたら連絡するとのことでした。

 ついでながら、甲斐ゆずるは甲斐弦と書きます、また森川譲とうペンネームでも著書がありますから、その譲と混同されたのだと思います。

 因みに、「阿蘇魂」山本十郎著に、惟敦大宮司曰く、今の市原等が先祖の坂梨は所謂城方の坂梨で後世分かれて三家となる。一は坂梨市原家、一は内牧甲斐家、一は狩尾坂梨家で之を総称して北坂梨党という・・・・という記述があって順を追って大要が記されております、大要と言っても全文引用するのは大変なので省略しますが、これらの家のことが詳しく述べられています。小生はネット古書店で入手しましたが、それほど高価な書籍ではありませんのでよろしかったらお求めください。

Re: まったく別の話ですが 投稿者:坂口健三 投稿日:2009/12/07(Mon) 11:56:37 No.8  引用する 
ご足労をおかけし、どうも大変有難うございます。叔母が元気な由、お知らせいただき安心しました。やはり水清く、空気も澄む阿蘇の地は、長寿を招来するのでしょう。先に書いたかも知れませんが、叔母は私の父が神戸に居た昭和5年、兄誕生のみぎりに出産の手伝いに行ったと聞いております。それだけに兄には特別の愛着があったようです。当時、尚絅高女の女学生だったと言いますから、15歳前後、すると今は94〜95歳くらいでしょうか。その兄も今年七月、亡くなりました。
ご存知と思いますが、市原分氏の妻 巳代は百四歳とかまで元気だったとか。馬見原の今は無き工藤酒造が実家です。東京で父方の叔母の葬式があって、定伯父の子らと出会った時に聞きました。年の頃は親たちが2歳違いでしたから、私らきょうだいとほぼ同年。九州大学卒業の同年生まれの従兄まで、一昨年に亡くなりました。人生の無常流転を感じます。その巳代叔母の姉が岡山在住の坂口本家の伯父 坂口定の妻女 つるとなります。昭和13年、私が数え7歳の時、5人の子を残して父母病没の際、母方の態度が専横であったと定伯父は一切、阿蘇のことは言いませんでした。しかし考えて見れば、転勤の多い検事という職業。それに思想関係が担当だったという市原分氏に養育を期待するのは無理だったでしょう。今ひとりの伯父甲斐績氏は当時は妻を亡くして独身でした。この伯父が阿蘇を知るきっかけになりました。初めて阿蘇を訪ねたのは昭和40年。母の一番上の姉が、流してくれた涙は未だに忘れません。息子の則継氏に命じて町をい連れ歩いてくれました。ところで、父も定伯父も熊本薬専卒の薬剤師でした。甲斐績氏も薬剤師でしたが、一族周辺、薬関係が多いのは朝鮮人参で財をなした虎屋の因縁もあるのでしょうか。定伯父が安定を求めて、玉野市の三井造船へと文録・慶長以来のふるさとを捨て、ようやく一段落した頃の話です。父は神戸に店を構えて、一時は2店舗を経営した時代もありました。そしてそこで兄が生まれて、当時、尚絅高女の女学生だった叔母が、お産の手伝いに来てくれたのだそうです。しかし昭和恐慌と店員の不始末などにより、事業に失敗。敢え無く大阪へと落ち延びたのです。
すべては私どもの両親の先見の闇が導いた結果です。書くことに際限なく、今日はこのあたりで止めておきます。では。

Re: まったく別の話ですが 投稿者: 投稿日:2009/12/07(Mon) 13:57:35 No.9  引用する 
小生は、甲斐家とは小生の祖母が甲斐家に嫁いだ女性の姉妹という関係で、その甲斐家に嫁いだ女性に連なる御子孫とはDNAが共通すると思いますが、その女性の配偶者の兄弟姉妹に連なる御子孫とはDNAがつながっていないことになりますから、坂口さんは、その兄弟姉妹に連なる御子孫に当たられ、小生とは血縁ではないと言うことになりますが、ただ、その一つ前の代も(姓が同じなので)同じ家から嫁を取っているいると思われますので、そうであるならば、血縁があるということになるかもしれませんね。それと、小生の曾祖父の妻女は御茶屋の出ですから、いろいろご縁はあります、そのほかにも当時は同じ階層と言っていいのか、相互に嫁を取ったり取られたりで非常に入り組んでいたよくわかりませんね。今後ともご連絡をすることがあるかもしれませんので、坂口さんのメールアドレスなり御住所なり、小生宛にメールを頂ければ幸いです。

Re: まったく別の話ですが 投稿者: 投稿日:2009/12/08(Tue) 12:32:02 No.12  引用する 
> 小生は、甲斐家とは小生の祖母が甲斐家に嫁いだ女性の姉妹という関係で、
メールアドレスが、どうすればつながるのかが判りません。昨日フト気がついて〔五郎次事蹟〕のホームページにアドレスがあったのでメールしましたがつながりません。アマ無線をやっている方の様ですが私も以前はJH1OTFなるコールサインでやってました。余談ながら。
なお阿蘇魂などのこと、ご教示頂きましたが必要な部分は複写して持っています。また甲斐弦氏がどこかで笑っていましたが甲斐氏系図書なる長大な巻物も持っています。どこかへしまいこんでいますが、今度探して見ます。敬吉という祖父は明治期に専修大卒なのですね。では。

何かのご縁でしょうか? 投稿者:おーさん 投稿日:2009/12/07(Mon) 23:47:39 No.10  引用する 
以前お話したと思いますが。。。。
子供の頃阿蘇方面で過ごされて、
(宮地も知っている。。としか詳しく場所は伺っていませんが・・・)
今は吹きガラスの先生のお名前も甲斐さんとおっしゃいます。
↓のお話のどこかで繋がっているやもしれませんが

Re: 何かのご縁でしょうか? 投稿者: 投稿日:2009/12/08(Tue) 05:33:36 No.11  引用する 
そうでしたね、どこかの甲斐家につながりがあるかもしれませんね、今度機会があればお聞きになれば如何でしょう。

古書入手 投稿者: 投稿日:2009/11/29(Sun) 18:39:01 No.2  引用する 
「近世大名の領国支配の構造」という古書を入手。
先祖の系譜が載っている、改めて詳細を記す。

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