平成14(2002)年 3月の記録(新しい日付けの順)


 平成14年 3月 7日(木)

 今日は晴れこそすれ、もう3日間続けて強風が吹いていてとても寒く感じる一日だった。
 昨年中途で退職したこと、家を建てるために財形年金などの積み立てを解約したりで一時所得があったことなどで、阿蘇税務署に確定申告に行った。最終日までにはまだ日数があるので、閑散としていてスムースに申告を済ますことが出来た。


 平成14年 3月 6日(水)

 今日は啓蟄。とは程遠い昨日からの冷たい雨と強風の一日であった。

 一昨日、滉兄経由で長崎の金子淑子伯母の訃報に接し、本日告別式に母と参列、92歳であった、とても穏やかな顔をしておられた。合掌。

 行きは熊本港から島原にフェリーで渡り、島原半島を反時計回りに半周する道をとった。ここには30分で渡るフェリーと60分で渡るフェリーとがあるが、その後の陸路が結構時間がかかり、帰りは長崎道〜九州自動車道にした。40年ぶりの長崎であろうか。

 通常会葬の礼状に添付されている「清め塩」に代わって、次の一文が添えてあった。
 (抜粋)生前には、父よ母よ、兄よ妹よ、友よと呼び親しんできた方を、亡くなったとたんに「穢れたもの」として「お清め」することは何とも無残であり悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。仏教では決して「死」を「穢れ」とは受け止めません。反対に「生と死は切りはなせない一体のもの」と受け止め、「今の命を精いっぱい生きていくことこそが、人間としての行き方である」と示しています。このことから仏教の教えに照らして「清め塩」を廃止させていただいております。・・・確かに言われてみれば尤もなことで、趣味の仏教者としては、随分長い間、何となく惰性でやっていたのだなと、改めて感じ入った次第。


 平成14年 3月 5日(火)

 雨と強風、まるで台風のよう。
 耕運機の坂田機械からTELあり、雨でグランド・コンディションが悪いので、納品と試運転は8日に延期。


 平成14年 3月 4日(月)

 ホームワイドでレーキを買う、農機具である。広辞苑によると、「レーキ【rake】農具の一。短い鉄の歯を櫛形に並べて柄をつけたもの。草掻きなどに用いる。手把(しゅは)・馬鍬(まぐわ)の類」とある。
 もう春の畑仕事が始まりだした、ホームワイドや農協の売店では春撒きの野菜の苗や種が沢山並んでいる、隣のイクさんも早く畑仕事をやりたくてソワソワしている。イクさんは隣家のおばあちゃんで小生の畑仕事の師匠の一人でもある。小生もおちおちしては居られない、早く耕運機が届かないものか。
 ナフコで携帯用のガソリンタンクを買う、耕運機はガソリンエンジンだ。以前軽率に扱ってガソリンの炎に巻かれて死にかけたので、少量のガソリンとて馬鹿にしないでポリタンクなんかに貯蔵せず、ちゃんとした専用タンクに入れることにした。死なない程度の痛い目には大いに会っておくものだ。膾も大いに吹いたほうがいい。


 平成14年 3月 3日(日)

 本日は町長選挙の投票日だった、馬場八幡にある投票所で投票した。
 8時頃には当落が判明してテレビでテロップが流れ、新人の渡辺力丸氏が現職の市原典太氏を破って初当選した、その差僅か100票ちょっとだった。町や村の選挙ではほとんどの場合僅少差で決まることが多いが、どうしてそんなに上手くと言うか、微妙にと言うか、そんな決まり方をするのであろうか、統計学で説明できるのだろうか。


 平成14年 3月 2日(土)
 
 今夜は往生岳の火文字焼きが行われた。阿蘇の火祭りの一環として行われる行事で、往生岳山腹を、「火」の字の形に燃やすのである。京都の大文字焼きをイメージすると良い、春の訪れを知らせる行事である。この時間帯、ライブカメラを往生岳に向けて画像を送ったが、位置的に横過ぎて火という字には見えないものの、山腹で大きく火が燃えているのは分かった。
 我が家では三人で車に乗って、阿蘇町の成川の農免道路まで出かけた(中島家の前である)。そこでは往生岳の「火」とは別に、阿蘇町にある本塚という小高い山でも同時に「火」という文字を焼くので、その二つを重ねて見ると「」という文字になるのである。なかなか勇壮で幻想的な火祭りである。


 平成14年 3月 1日(金)

 昼前に最後まで残っていたストーブの外気を導入する工事のために宮崎からストーブ屋さん三名やってきて夕方まで掛かって工事をしていった。



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 平成14年 3月 8日(金)

 昼前に坂田機械から待望の耕運機が届く、中古のヤンマーPMT320というマシンで、当然のことながら現行機種ではないと思うが、綺麗に整備してあって新品同様の輝きをしている。4気筒のガソリンエンジンだ。早速運転の要領を教えてもらって耕してみたが、思った以上に深く耕せるので満足である。

 昨年、我が農業生活の初農作業として植えた阿蘇たかなは、作付けの時期が遅かったので見事に失敗して、周囲では豊かに育っているのに対して所々に少しだけ生えている程度で、周囲からはもう諦めて耕してしまえと言われているのだが、未練たらしく今日の試運転でもその部分は避けてしまった。

 これから何処に何を植えたらいいのか計画を立てなければならないのだが、さあ何を何処に植えようか。 

平成14年 3月 9日(土)
 
 久しぶりの快晴、朝はマイナス7度くらいあったが穏やかな暖かい一日だった。
 溜まりに溜まっていた「日々の記録」の更新がようやく終わってほっと一息。

 裏の安喜さんの畑との境界の竹薮が伸び放題で以前から迷惑をかけているので、少し伐採をしたが、とてもじゃないけど追いつかない。

 薪を作る際に剥ぎ取った前庭に散らかった杉の皮を畑に集めて燃やす準備をする、肥料になるだろう。
 今日は二度防災無線から火災発生による消防団呼集のサイレンが流れた。外輪山の二箇所の牧草地から相次いで出火とのこと、大事には至らなかったようだが、何が原因だろう、放火か野焼きの飛び火か。


 平成14年 3月10日(日)

 今日は朝から一の宮全域で一斉に野焼きが行われた。外輪山のあちこちから煙が天に昇るのが見えたので、例によってカミサンは念のため留守居役で、婆様を乗せてやまなみハイウェイ方面に車を走らせたところ、道路沿いのいたるところでメラメラと赤い炎が立ちのぼり、風に煽られて渦を巻いてバリバリと音を立てて、これが「燎原の火」の語源かと納得させる迫力で茶色一色の枯野を舐めつくしていった。
 近くで見ていると熱気と黒い煙と煤とが容赦なく降りかかってきて怖くなるほどであった。
 そして炎が通った後には真っ黒な焼け跡が残り、燃え残った茶色とその黒が織り成すコントラストがなかなか鮮やかであった。
 この時期には阿蘇谷一帯に煤が降り注ぐそうで、洗濯物などが黒く汚れるとのことであった。
 今日の阿蘇山は立ち上る煙でモヤが掛かって山容が隠れるほどであった。
 
 間もなくすると、この真っ黒に焼け焦げた阿蘇の原野に牧草が一斉に芽吹き緑の絨毯に生まれ変わるのである。

 裏の畑の安喜さんのお婆ちゃんが娘さん夫婦とジャガイモを植えているのを発見して早速、実地見学をさせてもらった。種芋を二つに切って、切り口に灰をすり込んでとか、畝の幅や高さはどの程度にしてとか、色々教えを受けた。我々もノンビリしていられない。

 そういった生活の糧は別にして、今日はカミサンがホームワイドで水仙の苗を買って来て玄関先に植えた。殺風景な玄関先が少しは綺麗になったかな。


平成14年 3月12日(火)

 昨日今日と穏やかな天気だったので薪を割る際に出た杉の皮や竹藪の整理で出た竹を畑で燃やし、ついでに焼き芋を作って昼食は庭先で食べた。これから戸外で食事が出来る機会が増えるだろう。

 午前中婆様を美容院に連れて行く、カットのみで2,000円だったそうで、安いと驚いていた、こちらに来てから初めての美容院行きである。

 夕方渡辺昭元さんが山から楢の木を運んで来てくださった。薪かと思ったらシイタケを栽培する原木だそうで、以前我が家用に原木をくださるような話だったが、忘れずに届けてくださったのである。

 なるべく日が当たらない場所が良いそうで、丁度いい具合の場所があったので、そこでシイタケを栽培することにする。

 これからシイタケ菌を買って来て、ドリルで穴を開けて、コマ打ちというシイタケ菌を植え付ける作業をするのである。この原木の分量で300個くらい必要だそうだ。

 この木は伐採して2ヶ月くらい経っているそうで、更にこの木に菌を植え付け、ホダ木にしてから、早くて来年の秋に少し採れるかな、というくらい時間がかかるものなのだそうだ。

 ジャガイモの作付けとシイタケの栽培と薪割りとその他諸々忙しいぞ。


平成14年 3月14日(木)

 天気が崩れる方向に向かっているので、朝のうちから昨日のジャガイモの作付けの残りの作業を行う。

 種芋が足りないので朝一番で買いに行こうとしたところ、渡辺アキさんが見えて残っている種芋を下さる。

 作った畝に対して芋が数個余ったので、急遽種芋数個分の畝を継ぎ足してから、マルチを被せる作業をした。マルチの長さが50m巻きで、畝の長さに対して少し足りないので、一部はマルチ無しで作付けを完了する、作業が終わるのを待っていたように、少し雨がパラツキ始めた。

 マルチとは畑の畝に被せた黒いポリエチレンなどのシートを言い、保温や乾燥を防いだり色々の効用があるようであるが、今回の主な目的は、これを被せておく(マルチング)と雑草が生えにくいそうで、雑草抜きの手間が省けるようである。なぜこんなところにマルチと言う言葉が使われるのか知らない。和尚さんに使ったほうがいいか尋ねたところ、その必要ないとのことであったが、周囲がやっているので、これも見よう見真似でやることにした。

 都合、男爵を4キロ、メークインを2キロと12個(渡辺さんから頂戴した分、多分1キロはあるだろう)を作付けた。

 耕運機を操作して、畝立てをして、マルチングをして、と結構な肉体労働で、かなり疲れたものの、昨年初めて高菜を植えた時に比べたら、疲れ方がそれほどひどくなく、後遺症もないようである、数ヶ月間の薪割などで確かに体が出来てきていることが分かる、しかしまた一時に比べて腹が出て来つつあるのはどういうわけだ?


平成14年 3月13日(水)

 定期通院で母を大阿蘇病院に連れて行く。

 本当にいい気候になってきた、ウグイスは都会で雀が鳴いているように日常的に鳴いているし、ツバメが飛び出したし、沈丁花が咲いて馬酔木が咲いてその他いろいろな花が咲いている。
 
 本日は色々と買い物をした。農協でシイタケのコマ買おうと思ったのだが、1,000個入りが最低の単位で、趣味でやる向きには量が多すぎるので、ロッキーで250個入りを2パックとシイタケのコマ打ち用のドリルのビットを買う。農協では本格的な鍬を買った。

 ホームワイドでホークとジャガイモの種芋を買う。男爵を3キロ、メークインを1キロ、早速家族総出で?植える
 
  種芋は芽の位置などを考えて一個をそのまま植える場合と、二つや四つに切って植える場合があるようで、切った場合には、切り口に灰をすり込むそうである、なぜ灰をすり込むかは知らないが、周りでそうやっているので、とにかく見よう見真似でそうやった。
 
  ホークとはknife and fork のフォークのことだろうと思うが、藁などを掬い取る湾曲した細くて長くて鋭い銛のようなものが数本又状に付いた農具である。
 
 芋を植える間隔などを尋ねるために安喜さんのところのケサトお婆ちゃんと収穫の手伝いで戻っている娘さんの高菜収穫現場に顔を出したついでに高菜を収穫をさせてもらい、急遽我が家で高菜漬けをすることになったが結構大変な作業であった。

 夕方、「クラタケさん」の件で区長来訪、18日に集会所にて行われるそうである。クラタケさんというものが、どういうものか聞いたがあまり良く理解できなかった。年に数回行われる部落のお祭りの一つのようであるが、まあ今度出席してみると分かるだろう。


平成14年 3月16日(土)

 穏やかな晴れの一日。
 今夜は午後6時から阿蘇の火祭りの催しの一環として阿蘇神社境内で行われた薪能を鑑賞した。
 定刻6時を少し回ってから神主による芝踏之儀、火入之式などの神事が賑々しく執り行われ、薪に火が入れられて薪能が始まった。

 演者は金春流の一座で、演目は高砂と羽衣の仕舞と狂言の附子、それに能の田村であった。
 「高砂」は、高砂や この浦舟に 帆を上げて の、あの高砂であるが、この謡曲には阿蘇神社の神官が登場することを、今回の解説で聞き阿蘇と深い縁のあることを知った。

 家族三人篝火の揺らめくなかしばしの間幽玄の世界に遊んだ、とカッコいいが、基本的には、特に小生は能のことはほとんど知らない。しかし知らない中にもその素晴らしさは十分に解った。穏やかな日だったとは言え、流石に夜気は身に沁みたが、満天の星空の下、冷たい空気を切り裂くように謡と鼓と笛と舞台を踏む音が実に心地よく迫力をもって五体に伝わってきて、二時間以上の時間を全く飽きることなく過ごすことが出来た。都会だと鑑賞するのが大変だろうと思うのだが、車で数分の所で無料でこんな贅沢ができるとは、と家族全員満ち足りた気分で帰ってきた。


平成14年 3月17日(日)

 今晩は阿蘇神社の「火振り神事」に出かけた。

 阿蘇神社の一連の農耕祭事は、国指定の重要無形民俗文化財となっているが、その中で火振り神事は、ごぜんむかえ(御前迎え)とも呼ばれ、阿蘇神社十二祭神のうち、三の宮である農耕の神様「年祢神(としねのかみ)」とも呼ばれる国龍神の結婚の儀式である。

 祭りは三月の申の日に行われ、この日の朝、神職らは12Kmほど離れた阿蘇町赤水の吉松宮へ姫神を迎えに行き、御神体を御輿に入れ青年二人が担いで阿蘇神社に向かい、途中何ヵ所かの(たくまつり)宅祭など経て一の宮町にたどり着く。

 夕闇迫る阿蘇神社参道にはカヤを束ねたタイマツが用意され、やがて「姫神」の御輿の一行が参道に入ると、一斉に火が点じられタイマツが打ち振られる。火の輪は幾重にも重なり合い、ぶつかり合い、うなり声をあげ神様の婚礼を祝福する荒々しくも幻想的な迎え火となる。因みに、姫神サウンドの「火振り神事」という曲は、これがテーマになっているそうだ。

 会場では肥後のあか牛の消費拡大運動の一環として生産者直売の売店が出ており、そこで串焼きとダゴ汁の夕食を済ませて、阿蘇神社の参道に入った。

 大勢の人がカヤの束を受け取っているのを見て小生も思わず手を出してその束を貰ってしまい、参道に立つ破目になった。

 大きな枕状に束ねたカヤを荒縄で縛って長く垂らしてあって、それに火を点けてグルグル回すのであるが、大勢の人が火を点けたカヤを近接し合って回し、それが勢い良く燃えて、しかも荒縄も最後には燃えて、四方の何処に飛ぶか分からないので、なかなかスリルのあるものであった。

 前夜の薪能の人出はそうでもなかったが、今夜はかなり遠方から大勢の人が集まって、カメラの放列も沢山で大層な賑わいであった、もっとメジャーな催しになっても良いのに、と思うような一大イベントであった。

 会場で坂梨宿場会の志賀昭男会長に偶然お会いして挨拶をしてる時にカメラを落としたらしく、あとで拾得物の案内放送で気が付いて慌てて窓口に受け取りに行ったら、そこに志賀さんがおいでで、大笑いになったついでにスナップ撮影となった。志賀さんは一の宮観光協会の副会長でもあり、この夜も運営に大童だったようだ。


平成14年 3月18日(月)

 今日はクラタケさんの日である。クラタケとは鞍岳のことのようだ。熊本県の菊池郡にある山で1,119mとある。
 ここに馬頭観音が祀ってあって、昔から家畜(主に馬か)の神様として畜産農家の信仰を集めていて、阿蘇一帯でも年二回クラタケさんのお祭りがあるそうである。

 豆札では牛馬を飼っている家は二軒になってしまったが、今でも年二回の祭りはある。祭りといっても特にセレモニーは無い(と思うのだ)が、村の集会所に村人が集まって、まあ宴会のようなものをやるのである。
 この日は、昼前から村の女性軍が集会所に集まって料理を作り、男どもは買出しにいくなどの準備をして、3時頃からみんなで酒盛りを始めるのである。

 総戸数が我が家を含めて15戸の小さな部落であるが、なかなかまとまりが良く、親戚だらけで家族親類同士の身内の宴会のようなものである。

 我が家でもカミサンと婆様が昼間の準備に出かけて顔つなぎをして、婆様は宴会のときは疲れたからと遠慮したが、カミサンは宴会にも出席して楽しそうに時間を過ごしていた。


平成14年 3月21日(木)

 今日はお大師様の祭りの日だそうだ。部落内は幾つかの班には分かれて、交代で行事の準備をすることになっているようで、今回は我が家も当番になっているらしいが、来客中なので朝からの準備は勘弁してもらい、昼からカミサンが集会所に出かけていった。

 先日の鞍岳さん、今回のお大師さん、のほかにも妙見さんだとか色々部落の年中行事があるようで、最近では結構負担に感じる向きもあるとか無いとか、だんだん様変わりをしていくのは避けられないというところか。
 
 このお大師さんの祭りは年に二回あり、主に女性だけの祭りのようで、集会所で食事の用意をしておいて、一同には会しなくて、それぞれ都合の良い時間にやって来て、100円だかのお賽銭をあげて食事をして帰るとのこと、この日は、普段、村の何処かにおいでになるお地蔵さんを運んで来て集会所に安置して、翌日またお帰しするそうである。人づてに聞いたことなので正確かどうかは分からない。

 昼は例によって客人を小生の手打ちの蕎麦でもてなしたが、今回は(「今回も」が正解か)あまり上手い出来ではなかった、今日はほゞ一日雨で、せっかくの客人も何処にも出かけることが出来ず終日骨休みとなった。
 
 長瀬さんから電話があって早速高菜を漬けたそうで、浅漬けながらもう食べたそうだが美味しかったとのことだった、夕方アゼリアの温泉に皆で出かけた。


平成14年 3月20日(水)

 昼前に佐藤文雄さんから高菜の摘み取りに来ないかとお誘いがあったので、小生は先日体験したが婆様がまだだったので、昼一番で婆様を同道して佐藤さんのお宅に伺って、近所の知り合いの養鶏所の高菜畑に出かけて佐藤夫人と一緒に高菜を摘んできた。帰って計量したら13キロあった。

 午後遅く従兄姉の古川信昭・弘子夫妻が遠路横浜からやってきた。熊本空港からは市内に住む信昭兄の友人の永瀬夫妻の車に同乗しての来訪である。

 糧秣持参というか、別便で届いた大きなブリを婆様のアドバイスのもとで生れて初めて捌いた。これだけ大きいと頭を落とすのが大変で、我が腕とそれに加えて我が家の切れない出刃包丁では如何ともしがたく、結局金槌の力を借りて頭を落とし、三枚に下ろした

 初めてにしては我ながら上手く捌けたと思うが、こういう機会は今後なかなか有りそうにも無く、また機会があればもっと上手くやれるのにと思うのであった。

 その夜は当然のことながらブリ尽くしの酒盛りとなった、永瀬ご夫妻にもお泊まりいただきたかったのだが、固辞されてその日のうちに帰られた。

 せっかくなので、昼間婆様と摘んできた高菜を持って帰っていただき、ご自宅で高菜漬けに挑戦していただくことにした。

 信昭夫妻が滞在中の天候が気になるところであるが、どうも明日は天気が崩れる方向に向かっているようである。


平成14年 3月28日(木)

 午前中家族総出?でシイタケのコマ打ちをした。
 
 その昔、深澤氏に使う溶接棒の直径と必要アンペアの数式を教えてもらったことがあるが、シイタケのコマ打ちにも公式のようなものがあって、原木の径から一本の原木に打つことが出来るコマ数と列数が割り出されるようだ。

 一本の原木の長さは大体90cmが標準のようで、直径の3倍のコマ数を打つことが出来、それを直径の1/2の列数に打つようである。直径12cmの原木なら、36個の菌を6列に打ち込むことになる。

 用意したコマは250個入りを2パックなので500個ということになるが、一本の原木に多く打ち込みすぎたのか、原木が余ってしまった、コマを買い足すか、ここでやめておくか悩ましいところだ。

 あとはこれを日陰に立て掛けて、場合によってはシートで覆ったり結構繊細な管理が必要な気がするが、さて何処に置くか。


平成14年 3月25日(月)

 今日は信昭弘子夫妻が阿蘇を去る日である。去るといっても帰るわけではなく、次の訪問先、熊本市内の友人、永瀬家に移動するのである。

 弘子姉のたっての希望で山鹿市経由で送ることにした。ついでに水俣の滉兄の所にも行こうという事になった。ついでと言うには北と南という正反対の位置関係であるが。

 山鹿市には丁度一時間半で着いた。菊池渓谷を通るこのコースは初めてで、もう下界は桜が見頃になっており、桜、桜の素晴らしいドライブであった。

 山鹿市は温泉のほかに山鹿灯篭と八千代座で有名で、落ち着いた静かな町で大いに気に入った。八千代座は、明治時代に建築された江戸時代の伝統的な芝居小屋の様式を今に伝える芝居小屋で、一時は朽ちかけたが大修復でよみがえり、現在は国指定重要文化財になっている。

 八千代座のある所は旧豊前街道で、今や豊後街道の住人としては町並みの佇まいなど非常に気になるところであった。ここの道は石畳ではないが、無味乾燥のただの舗装と違って小さな砂利の混ったコンクリート製で、それも砂利の色が茶系統で非常に落ち着いた雰囲気のある街道である。

 日本舞踊の師匠をしている弘子姉は、何としても灯篭踊りの時に再度訪れたいと言っていた。

 水俣の滉兄は来月福岡に拠を移す予定で、今回を逃すと水俣に行くチャンスは無いだろうとトンボ帰り覚悟で山鹿市から水俣まで走ってヒロ子さんの顔を見ただけで、滉兄には業務多忙で迷惑になるので会わずに戻り、夕刻長瀬家に無事送り届けて帰ってきた。


平成14年 3月24日(日)

 本日は坂梨宿場会の植樹の日である。昨年に続いて2回目だとのこと。周囲山で緑ばかりの町に何故という気がしないでもないが、それはそれで、古い豊後街道沿いの家並に沿って桜やもみじを植えてより美しい町並みを作ろうという主旨なのだと思う。

 8時に山村家具店の前に集合して十数名、ここに2本、あそこに3本と事前に計画した場所に街道を滝室坂方面に移動しながら桜ともみじを合わせて50本、街道沿いの空地庭先に植えて回った。我が家にも宿場から離れているが桜を1本植えてもらった。

 夕方まで掛かる予定が皆の手際の良さ?で昼までに終わってしまい、急遽昼飯兼慰労のバーベキュー大会と相成った。

 会所では石田・坂本・志賀の各女性会員が賄い方を受け持ってくれていて、地元産の旨い米で炊いた握り飯、たかな漬け、トン汁などが用意してあり、さらに飲兵衛どもには、本格的な生ビールのボンベが用意してあって、昼間っからの大宴会になってしまった。

 植樹も勿論大事だが、こちらはもっと大事という連中ばかりだから盛り上がらないわけが無い、そんな楽しい一日であった、肝心の来客をほったらかしにするわけには行かず、無念にも中座した。
 

平成14年 3月23日(土)

  ようやく天候が回復、滉兄が帰った後の午前中、米塚、ファームランドを経由するルートで長陽村へ。
 昨夜、30年ほど前に信昭夫妻が子供を連れて滉兄の案内で行ったと言う阿蘇の露天風呂の話が出て、そこが何処だったかということになって、長陽村の小山旅館だと判明した次第。

  国道57号を阿蘇の入口の大阿蘇橋で折れて南郷谷に向かう直ぐの所で、非常に深い渓谷になっていて、もうすぐダムの底に沈むという所に在る。いつも57号線を真っ直ぐ走るので、その下にこのような渓谷があることなど知らなかった、なかなか素晴らしい渓谷である。

 昼から明日の宿場会の植樹の準備で会所に出かけ、皆で植樹用の穴を掘る。といっても実際に掘るのは坂本助義棟梁運転のユンボで、明日は50本植えるそうで、今日だけでかなりの数の穴を掘った。
 小生はほとんど眺めているだけで何の手助けにもならず、普段車で通り過ぎる坂梨宿をじっくり見学して過ごした。


平成14年 3月22日(金)

 前日からのの雨、今日もほぼ一日振ったり止んだり。

 折角の来客も雨で動きがとれず。彼らに言わせれば普段ノンビリ出来ないので却って休養になって良いとゴロゴロしていたが、どうも気の毒で昼から思い切って外輪山の上に出かけたところ、雨は降っておらず曇天ながら見通しも良く、池山水源まで一っ走りした。

 滉兄が泊りがけで水俣から来てくれて、夜は久しぶりの従兄姉同士の集まりとなった。


平成14年 3月31日(日)

 近々引越し予定の水俣の滉兄のところに植木をもらいに行く。朝6時に出発してして8時過ぎに到着、時間が早かったので水俣の市街を少し流す。水俣駅を見る、駅前の交差点が即チッソの正門、正にチッソの町である。

 徳富蘇峰と蘆花の生家を見学、古い町屋作りのしっかりした家である。

 金柑とアジサイいなどを掘り起こして、その他たくさんの鉢をもらって昼頃出発、3時過ぎに帰り着き早速植え替えた、もう一度くらいは行かなければ。

 留守中に長崎大村の従兄姉山口末男さん一家が一心行の大桜の見物の帰りに寄ったそうだ、会えなくて残念。


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