日々の記録目次へ ホームページへ
平成20戊子(2008)年1月の記録(新しい日付けの順)
平成20年1月31日(木)
曇り、時々晴れ、今日も気温は低くなかったが風があって寒かった。
婆様デイケア。
平成20年1月30日(水)
曇り。鈍色の空が広がり気温はそれほど低くは無かったが寒い一日であった。
午後から道楽の工作をする。鉄鋼ドリルでパイプに穴をあけて部品を取り付けた。
平成20年1月29日(火)
今日も思い出したように時折霙交じりの冷たくて細かい雨が降っていた。この雨で犬もネコも手持ち無沙汰と見えて一つ家で仲良く戯れていた。
何やかやで年末年始ずっと時間がとれずに休んでいたプール、今日随分久しぶりに泳ぎに行った。何時が最後だったろうと振り返ってみたら、11月29日が最後で、そのあと12月7日に一度行っているが、結局2ヶ月ぶりということになる。2ヶ月も休んだので体力的に落ちたかなと思ったがブランクは感じなかった、体重も思ったほどは増えていなかった。2000m、65.3。
平成20年1月28日(月)
朝起きてみると細かな雪が降っていて周囲の景色は真っ白になっていたが、積雪量は大したことなく、その雪も間もなく霙から雨になっり、終日降り続いた。
今日の天候が分かっていたわけでは無いが、昨日薪つくりをしておいて正解だった。
婆様、デイケア。
今日はやることも無くダラダラ過ごし、午後に入ってから思い違いで道楽用の工作部材に不足が見つかったのでハンズマンまでひとっ走りして買ってきた。
平成20年1月27日(日)
風も無く穏やかに晴れる。
今日はカミサンが家に居るので、奥向きの諸事万端気にすることなく、昼飯に屋内に入った程度で、終日薪作りに没頭する、只ひたすら薪を作る。暮れに頂戴したクヌギを切りまくったが、重いので背中の筋肉が悲鳴を上げている。
平成20年1月26日(土)
薄曇り。
今朝は3時過ぎに起きてしまった。婆様の、夜中にベッドから降りてポータブルトイレで用を済ませ、またベッドに這い上がるという一連の行動が、ただでさえ動かない体に加えて睡眠薬とアルコールとで、さらに動きにくくなっていて、時々床面に座り込んでしまうと、そこから立ち上がる筋力が極めて減退しているので、ベッドまで這い上がることが出来なくなってしまうことが最近は時々ある。ここのところ続いたいた体調不調で、不測の事態に備えて小生のみ二階の婆様の部屋近くで簡易ベッドを置いて寝ていたが、今朝も立ち上がれなくなったようで、起こしてくれと言うので、手助けをしていてすっかり目が覚めてしまったのでそのまま起きてしまった。計算すると5時間近くは寝ていることになるので睡眠時間は十分だろう、また二度寝することもないだろうと思ったのである。
ついでながらに二階の簡易ベッドの寝心地が良いのである、小生の書斎スペースと言うか、遊び場と一体化しているので、便利このうえなく、何よりもストーブの暖気が二階に昇るので快適なのである、当分簡易ベッド暮らしがやめられそうにない。
娘の昨日の嘔吐は一過性のものだったようで、嘔吐下痢症の下痢に関しては全く無く、嘔吐も昨日の一回きりで、今朝には常態に服していたので、まあ一安心であろう。
昼前に、従兄のT兄が所用で長崎から出てきた従妹のM子さんを伴って婆様の顔を見に訪ねてくれた。M子さんは数年ぶりだろうか、血は争えないというか、やはり母方の一族だなと顔を見ていてそう思った。
夕方近く、菊陽町に最近出来たホームセンターのハンズマンに道楽用の工作部材を買いに出かけた。やはり品揃えが多くて欲しい材料を手に入れることが出来た。
平成20年1月25日(金)
午後、TOMUさんのお宅に預かっていたPCを届けて、ライブカメラ第二弾の設定をする。氏は高岳に余程思い入れがあると見えて、二台とも高岳をアップで捉えている。
今回の環境設定、最終的には完全でないまでも一応稼動するところまで持ってきたが、どうしても説明のつかない動きをして、何十回となく順番を入れ替えてドライバーやアプリケーションのインストール、アンインストール、再起動を繰り返したりと、思いつくことは全部したがどうしても原因が分からない。ほぼ同じ型の小生のPCでもうしばらく試してみることにした。
夕方、TOMU邸から戻って、ストックが危なくなってきた薪つくりをしてから娘を保育園に迎えに行った。
保育園の先生から、昼寝から覚めてからおなかが痛いというので、トイレに行かせたが下痢は無く、体温も平熱でしたが、所々で嘔吐下痢が状流行っているのでお大事にという言葉を聞いて帰ってきたとたんに、派手にトイレで戻して吐瀉物だらけになった。慌てて古閑医院に連れて行ったところ、吐いてしまったからか、腹痛も治まって痛みも無くなったというが、お宅には感染性腸炎の患者が居たし、もしかしたらということもあるので、薬を出しておきましょうということで帰ってきたが、希望的観測もあるが、なんとなく食いすぎが何かで一過性のものではと思っている。ウチの連中、まあ次から次に病気をしやがって・・・というところである。
平成20年1月24日(木)
曇りのち晴れ。昼頃から久しぶりに太陽が顔を出して、風も無く穏やかな午後になった。
婆様デイケア、新しい歩行器を持って行った。顔面の末梢神経障害、調子が良いみたいだ。
午前中、馬場公民館のN川館長、馬場八幡と共用の電気・電話料金の精算事務で来訪。
午後、TOMUさんが久しぶりに顔を見せる、納品遅滞の催促でもなさそうだったが、とりあえず、不完全ながら明日納品予定旨約束をする。
「風の便り」のアクセス数が、今朝のうちにカウンター設置以来 400,000万を超えた、コツコツ、コツコツの積み重ねだ、調べてみたら、300,000件に到達がH18.12.20で、200,000件の到達がH18.06.09だったようだ。その前は調べなかったが、20万から30万が約半年で、30万から今回の40万が1年掛かっている計算になる。今回の所謂キリ番の記録を撮って下さっている方、おいでにならないだろうか。
平成20年1月23日(水)
曇り。
婆様の処方してもらった薬が今回は効いているようで、ずっと続いていた我慢出来ないほどつらい顔面の不快感が今日は無いという。前回も同じ薬だったが、前回は朝と昼一錠ずつ飲むように処方されて、結果、薬が少し強すぎたのか朦朧となったこともあって、服用を中止したが、今回は一日一錠にしてみたところ、丁度体に合ったのだろうか、眠くもならないということだ、このまま良い状態が続けば良いのだが。
今日もPCと格闘する、不具合の原因がさっぱり説明つかない。
夕方、娘を迎えに行った保育園の園庭で突然防災無線を通して火災を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響いた。先生方と周囲を見回してみると古閑の滝方向から真っ黒な煙と真っ赤な炎が上がっていた。
ここにはインターネットのメールや携帯メールで地元の安全に関する情報がリアルタイムで入ってくる。ASO安心安全情報という。
「ASO安心安全情報」
題名 : 火災情報
16時39分一の宮町坂梨 高木明男さん宅の建物火災です。
「ASO安心安全情報」
題名 : 火災情報
先ほどの火災は17時42分に鎮火しました。
場所は古閑の滝の近く、あのあたりは神石地区だろうか、周囲に家が無かったので延焼は無かった思うが二階建て家屋が全焼だった。
平成20年1月22日(火)
雨。陰鬱な空が続いている。もう何日も雨続きのような気分である(実際はそれほど長くは無いのだが)。
午前中、顔面を中心とする末梢神経障害の治療のため、婆様を内牧の温泉病院へ。治療と言ってもこれだという方法は無いそうで、沢山ある薬の中から根気良く自分に合った薬を探し出すしかないようだ。今日もまた前回の薬と違う薬を処方してもらった。ところがこの薬、先日頓服としてY病院で出してもらった薬と同じ薬だったが、ここ数日呑んでいて少し楽だというので、この薬を暫く続けることになった。
午後一番で、福祉器具のA屋さんから新しい歩行器が届いた。最近、歩くのがだんだん覚束なくなって、外出に使う歩行器に替えて車椅子にならないだろうかと、市の包括支援センターに相談したところ、婆様の介護保険の等級では、車椅子を借りる、つまり保険適用でレンタルする資格が無いので、あくまでも歩行器で、車椅子ではないけど「車椅子にもなる歩行器」がありますよ、と言って紹介してもらったのである。婆様のように、要支援2のようなクラスの人たちの中には、歩行器で歩くことは出来るが、少し距離があると歩けないという人が結構いるようで、車椅子ほどの機能までは無くて、あくまでも歩行器ですよと言って法律に反しないように知恵を絞った道具が出来たのである。結構ガッチリしていて、立派な車椅子である。
2年に一度発行されるハムのコールブック(無線の電話帳のようなもの)が届いた。20数年ぶりに買ってみた。小生が無線を始めた頃のコールブックは毎年発行されて今のコールブックの3倍くらい厚さがあったような記憶があるが、ハム人口が減ったのだ。
最近は個人情報がなんだとかで、本屋でも売らなくなって、会員にしか売らないそうである。どこか「個人情報」はオカシイ。
平成20年1月21日(月)
終日曇り、鈍色の空。
婆様デイケア、月曜日のデイケアは送迎のスケジュールの関係で、朝の迎えが早くて起きるのがつらいと言うので小生が娘を保育園に送りがてら、送り届ける。
今日一日とりとめもなく終わる。
平成20年1月20日(日)
雨、終日雨が降り続いていた。前夜の予報では雪かもしれないということだったが気温が高めで朝から雨だった。気温が高めでも今の時期の雨は雪よりも冷たさを感じる。
終日室内で過ごす、預かり物のPCの設定が上手くいかず、ドツボにはまった感じだ、初期化とOSの再インストールからやり直すことになりそうだ。
平成20年1月19日(土)
晴れ。
小学校の廃品回収があり、村の子供たちと母親たちが声を掛けに回ってきた。クラブ活動の備品などを買うのだろう。ヨチヨチ歩きだった子供たちもすっかり成長して、この写真には小学1年生が1名と今度入学する子供が1名、それに来年入学する子が2名写っている。この村で大将格の2年坊主は、写真なんて可笑しくって、と言って入らなかった、もうそんな歳になるのだ。
(写真1・写真2)
カミサンと娘、午後から熊本市内に出かけていった。小生は家事の合間合間にPCの調整などして過ごす。
明朝、もしかしたら雪になるかもしれないので、雪避けの板を張る。
平成20年1月18日(金)
晴れ。
婆様、満92歳の誕生日、大正5年の生まれである。小生から見ると驚異的としか言いようが無い、でも最近はそろそろ息切れ気味で、生きているのがしんどいようで、本人ももう十分だと言っているが、神様にも色々都合あって勝手にこちらで順番は決められないのだからと慰めにも励ましにもならない言葉をかけている。夜、我が家恒例のバースデーケーキで祝う。
TOMUさんの所にPCを届けてセッティングをしたが、また別のステップで上手くいかず再度持ち帰る、う〜ん。
平成20年1月17日(木)
晴れ。本日の最低気温、阿蘇乙姫 -3.8℃(04:40)、前日の予報ではこの冬一番の寒さが予想されるとなっていたが、思ったよりは低くなかった、かえってここより低地の鹿北や菊池の方が低かったようだ。さすが阿蘇山、-8.3℃(07:46)だった。
カミサンも今日から出勤して、婆様も久しぶりにデイケアに行ってようやく一人ノンビリであった、が、急に思い立って得意のやっつけ大工仕事をした、婆様の明日の誕生日に何かプレゼントをと考えたが、今や特に大好物といったものも無く、もう欲しいものも無いそうなので、テーブルを作ることにしたのである。我が家の食卓は椅子式ではないが、婆様は立ち居が不自由なので椅子に座って食事をする。その場合食卓が低くて普段から使いにくそうなので、椅子に座って食べられるテーブルを、食卓の袖の下に噛ませるように簡単に取り付けて、また簡単に取り外せるような構造で作った。婆様は最近インターネットを見ていないので前日にこの記事を書いても知らないから明日披露ることにする。最近では階段の昇り降りがここのところの体調不良もあってキツイというので自室で食事を摂ることが多いが、明日は降りてもらおう。
(写真1・写真2)
夕方作業が終わって山のほうを見たら噴煙の右方向に虹が立っていた、快晴なので雨上がりの虹とは違う、珍しい光景だが、はて瑞兆か凶兆か、まあ単なる自然現象だが。
平成20年1月16日(水)
晴れ。カミサン仕事を休んで寝ていた。
昨夜、婆様がかねてより不調を訴えていた顔面の末梢神経障害の症状が昨夜は特にひどくて、気が変になりそうだから何処でも良いから医者に連れて行ってくれと悲鳴に近い声をあげたので、午前中、直ぐ近くのやまなみ病院に連れて行った。日常的に大阿蘇病院にかかっていながら、平行して別の病院にかかるのに少し躊躇があったが、大阿蘇病院は内科、循環器科でお世話になっていて、今日は神経・心療系の科で、緊急避難的な状況でもあるのでまあ良いかと結論付けたのである。
結論的には以前かかっていた温泉病院での末梢神経障害の治療を続けたほうが良いでしょう、ただそれまで我慢が出来ないでしょうから、昨夜のような発作というか、パニック的な症状が出たら呑みなさいと言って頓服を出してもらった。18年11月21日と19年6月26日に温泉病院にかかっているが、なかなか適した薬に出合うわず、また他の事由で通院が中断してそのままになっていたのだ。
小生が見たところ、本人も分かっていると思うが、多分にメンタル面の要素が大きいので、専門医に診てもらったという安心感からだろう、本人も今は大丈夫だからと言って薬を呑んでいない。全く人騒がせだがまあ仕方のないことなのだろう。
昨日はカミサンの感染性腸炎、そして今日は婆様の末梢神経障害騒ぎで晴れ間を縫ってやる予定にしていた薪つくりが全然出来ない。今日は昼から短時間ながら薪つくりをした。
明朝はこの冬一番の冷え込みだそうだが・・・・
平成20年1月15日(火)
晴れ。最低気温、阿蘇乙姫 -4.2℃(07:20)
カミサンが昨夜から下痢と嘔吐を繰り返しているそうで、同じ部屋で寝ていながら今朝になって知った。インフルエンザは陰性、感染性腸炎だろうということで、古閑医院で点滴を打ってもらって終日ダウン。
カミサンが病気をするといつも腹が立つ、何故かというと、我が家で一番衛生観念が発達しているというか、綺麗好きというか、ついでに神経質というか、食べ物が床に落ちた時、我々だったら、ちょっと拭いて食えよ、ということになるが、カミサンはそうしない、風呂も毎日入らないと気がすまない、人間すこしばかり汚い環境の方が丈夫に育つんだよ、あまり綺麗にすると免疫が弱くなるんだよ、最近海外で他の国の人が感染しないのに日本人だけが直ぐコレラだったかに感染するのは、最近の、特に若者の、やれ抗菌グッズだのやれなんだとという行き過ぎた綺麗好きからくるんだよ、と何時も言っているのに聞かないからである、そして我が家で一番最初に病気になるのである。あの若さでどうして我々老人より弱いのか、これは決して体質ではない、体質ならば同情もするが、決してそんな柔な体をしていない、日頃の生き方の問題なのである、生き方を変えれば自然と治るのである、と本人が知らないことを良いことに言いたい放題言うのである。
ここ数日、ヒマさえあれば(そしてヒマがなくても)TOMUさんから預かってきたPCにライブカメラ用のドライバーを組み込むことに没頭していた。最初のうちは基本的にライブカメラのソフトがビデオキャプチャーカードのドライバーに対応していないのかと思っていたが、しばらく経って、T雄さんに聞いたところ、古閑の滝のカメラと同じビデオカードだということが分かった、同じOSで、どうしてあちらで動いていて、このPCでは動かないのだろうか、他の何かのソフトが邪魔でもしているんだろうか、などと関係ありそうな常駐ソフトを削ったり、ドライバーの組み込みの順序を変えたり、ポートを変えたりと考えられる手立てという手立てを試みたがどうしても動かない、そろそろギブアップだなと思いかけた時に、もう一つやることがあるな、とふと思い付いて今日やってみたところ、これが所謂「ビンゴ!」というやつで、ウマくいった。何をやったかというとドライバーのアップでなくて、ダウンバージョンをやってみたのである。T雄さんが動いているというのだからもしかしたらドライバーが今のバージョンではないのではないだろうかと思って双方の時期から判断して古いドライバーをダウンロードして入れてみたのである。理由は分からないがそういうわけで無事に動いた、「執念」である、「ナントカの一念巖も通す」、コンチキショーめザマーミロである。
平成20年1月14日(月)成人の日
曇りのち晴れ。その年によって変わる祭日というのはどうも馴染めず、国旗の掲揚もしなかった(やはり祭日は動かないほうがいい、尤も、サラリーマンを続けていればそうは思わないだろうが)。
昨夜少し降ったのだろうか、朝のうち、田のコンディション不良のために、予定されていた馬場・豆札地区の「どんどや」(一般的にはどんど焼きと言う)が一旦中止になったが、その後天気が急速に回復したので実施することになり、昼から竹の切り出しを始めて、午後4時ころから馬場の田で「どんどや」を行った。
どんどやの火で餅を焼いたり、焼肉をしたり、飲兵衛どもはカッポ酒を呑んだり。馬場・豆札に加えて北坂梨の子供達も集まって結構な賑わいになった、もう阿蘇に移って丸6年になるのでいつの間にか殆んどの皆さんと顔見知りになり、緊張することも無くなって、すっかりこの地に溶け込んだな、と思いながら立ち昇る炎と煙を眺めやった。このあたりでは昨日からあちらこちらの地区でやっている、今日も直ぐ近くで柿木集落がどんどやをやっていた。
以前はギャラリーとして参加するだけだったが、今年は竹の切り出しから参加して、一人工の役割を果たした。
(写真1・写真2)
帰りに黒く焦げた竹を二本持ち帰り玄関先に立てかけた。皆さんにそうするように教えられた。何でも「魔除け」なんだそうだ。正式名称は何だと問うたところ、「魔除け」だ、昔からそう教わってきている、だそうだ。
どんどや連続写真(1/3) 全12枚
どんどや連続写真(2/3) 全12枚
どんどや連続写真(3/3) 全11枚
平成20年1月13日(日)
曇り。
この集落の「初寄り」があった。初寄りは各地区、各地区でその年の最初にある寄り合いで、一年の会計報告や、年会費の徴収や、役員の改選などをやる村の年次総会のようなものである。大体一月の適当な日曜日にやるところが多くて、今日は我が豆札以外でもあちらこちらで初寄りがあったようである。そして事務的な会議の後は恒例の宴会が始まるのである。
夜は、宿場會の新年会を兼ねた1月例会が坂梨公民館であった。
平成20年1月12日(土)
昨夜は少し風雨が強かったようだ、それでもいつもの阿蘇の風雨に比べたら大したことは無かった。今日になって雨も上がり曇りの一日だった。
TOMUさんのPCを預かってライブカメラが使える用に設定をするが、どうしても上手くいかない、今回、それ用に買ったキャプチャーカードを認識しない、ドライバーバーが合っていないのだろう。昨日から二日がかりで何とかしようとPCの前に座りずくめで呻吟したがどうしても駄目だ。これが全く駄目なら諦めもつくが、何かの拍子でちっとだけ動く、これが後を引く原因となった。結局最後にギブアップ、また別のカードを手当してもらうことになる、小生が薦めたカードだけに責任を感じる。
先日結婚したH幸さんとA子さんのお茶入れがあり、カミサンがご案内を頂いて娘と一緒にH幸さんの実家にあたるM士さんのお宅にお祝いに伺った。この「お茶いれ」という言葉少し説明が要るかもしれない。このあたりでは、結婚披露宴とは別に、ご近所の女性たちを招いて披露宴の二次会のようなものをする風習がある。新婚夫婦は勿論、お仲人さんや両家のご両親なども出席されて「お茶いれ」というような軽い響きでなくてまさに披露宴そのものだったそうだ、男は出席しないので実際の様子は分からないが、カミサンのいうことにはそういうことであった。
平成20年1月11日(金)
ほぼ終日、量は少なかったが雨。夜になってから激しく降る。
婆様、大阿蘇病院通院日。ここのところ体調不良が続き体力的に応えるようなので、今日は朝早く小生が受付のみを済ませて、後からゆっくり出かける。
いつもは送りっぱなしだが、今日は要所要所小生が付き添った(間あいだに、TOMUさんを訪問したり、用を足したりしたが)血液検査の結果、炎症を示す数値がすっかり元に戻っておるのでもう何処も悪いところは無いでしょうとのこと、しかし婆様納得せず、胃の調子がずっと悪くてものが満足に食べられないと言い張る、仕方が無いので、本人もこう申しておりますので後日改めて内視鏡検査してくださいとお願いしたところ、明日から三連休になることでもあるので、それでは午後から内視鏡検査をしましょう、体力が大分落ちているように見えるので、検査しながら、栄養剤を点滴しましょうということで、多忙にも拘らず点滴を打ちながら内視鏡検査をしてもらった。
内視鏡検査の結果、胃は全く異常が無くて綺麗なもの。加齢により摂食中枢が少し弱っているのかもしれません、内臓的には大丈夫なので、胃のほうを気にしないで意識して食べるようにしてください、お薬も出しましょうということで、結局夕方まで婆様に付き合う羽目になった。悪寒も、体のどこかで起きていた炎症が原因だったのかどうか少し様子を見ましょうとのことだった。さすが医師である、いくら本人が異常を訴えても内視鏡検査をするまでのことは無いと分かっていたのだ、検査をすることで本人が安心するならとやってくれたのだろう、まあ病は気からという面が大きいし、小生が見るところ、婆様に関してはその「気」が大きなウエイトを占めている気がしてならない、婆様はそれを言うと怒るが。歳を取るにつれて体のあちらこちらのバランスが崩れていくのは仕方のないことなのだろう。
平成20年1月10日(木)
晴れ。
婆様、体調不良につき本日もデイケアを休む。
一昨日亡くなられた寺澤キミ江さんの葬儀が坊中の市民斎場で執り行われ、多勢の皆さんがキミ江さんと最後のお別れをした。最後に和男さんが遺族を代表して挨拶をされたが、母を亡くした悲しさと無念さと、もっと何か手立てがあったのではという残された人間が誰でも感じる後悔の念と、これから一人で背負って行くことになる経営者としての責任の大きさとで、声を詰まらせながら腹の底から必死で振り絞るように発せられる自然体の言葉を聞いていて、心を打たれ必死に堪えたが不覚にも涙が止まらなかった。
併せて、今日は葬儀を挟んで、馬場八幡の財務関係の用件で代表役員と総代会長と三人で金融機関二箇所をまわるなど、久しく慣れないことをしたので、精神的に疲れた一日だった。
平成20年1月9日(水)
晴れ。今朝も深い霧が立ち、長い間晴れなかった、多分見事な雲海だったことだろう。昼間は春のような暖かい一日だった。
テラサワのキミ江さんが昨日亡くなられた、暮れから体調を崩されて入院中だったそうで、くも膜下出血だったそうだ、突然の訃報に接し本当に驚いた、70歳台半ばくらいのお歳だろう、まだまだ早すぎる、年末の宿場會の忘年会でもご一緒してお元気だったのに、このように突然逝ってしまわれると本当に動揺する。改めて人の命の儚さ脆さを実感した、午後6時からご自宅で通夜が営まれ、小生もご焼香に伺った。合掌。
このことより前、今日午前11時から日本山妙法寺の開祖日達さんの24回忌が妙法寺で営まれ、ご案内を頂いたので法要に参列した。日達さんは昭和60年の今日、遷化したことになる。日本山妙法寺は日達さんがここ豆札で興した日蓮宗の一つの宗派で、平和を祈願して日本各地、そして広く海外にも仏舎利塔を建立されていることで有名である。
(写真1・写真2)
妙法寺の境内は日当たりが良くて、もうフキノトウも芽をだしていた、確実に春が近づいている。
。
法要の参列者のなかに中通のT宮さんとおっしゃる方がおいでで、お斎の席で向かい合わせになった縁で色々話を伺っていると、T宮さんのご先祖が曽祖父太邑と親交があたという話をされたので、法要のあとで我が家にお立ち寄り頂いて色々と話をお聞きした。
平成20年1月8日(火)
晴れ。終日霞がかかったような天気だった。
午前中、何をしたかよく覚えていない、多分何もしなかったのだろう。
午後、TOMUさんの薪材の切り出しの手伝いに行く。氏の住居のエリア内に土地造成中のところがあって結構太い木を伐採しているのを見つけて薪材として貰い受けることに成功したらしい。一抱え以上の太さのある杉の大木など薪にするには勿体無いような代物で大いなる収穫にTOMUさん満足げであった。
夜、ご近所のW辺さんのお宅にプリンターの設定に伺う。ようやく正常に動き出した、一時はPCごと持ち帰って我が家でじっくりと設定をしようかと思ったが、そうしないで済んで内心ホッとしたところである。
平成20年1月8日(火)
晴れ。終日霞がかかったような天気だった。
午前中、何をしたか忘れた、多分何もしなかっただろう。
午後、TOMUさんの薪材の切り出しの手伝いに行く。氏の住居のすぐの所で土地を造成中で結構太い木を伐採しているのを見つけて薪材として貰い受けることに成功したらしい。一抱え以上の太さのある杉の大木など薪にするには勿体無いような代物で大いなる収穫にTOMUさん満足げであった。
夜、W辺家にプリンターの設定に伺う。
平成20年1月7日(月)
何時頃から雨だったのだろう、朝起きたら雨が降っていた。その雨も午前中には上がりその後は綺麗に晴れ上がった。雨の予報はでていたのだろうか、ずっと晴れと思い込んでいた。
正月休みも終わり今日から平常に戻るところが多いのでは無いだろうか、カミサンも今日から本格始動だと思う。娘も今日から元気に登園していった。
婆様も朝から病院に行く、今日も血液を採って点滴をして帰ってきた、悪寒の原因は直ぐには分からないのだろう。直接関係があるかどうか分からないが食欲不振が続いていたが大分改善されてきたと本人は言っている。
馬場八幡の大祓い、元旦祭の支払いなどで金融機関や商店を回る。
夕食は、故事に倣い七草粥だった。
平成20年1月6日(日)
文句なしの晴れでる。風も全く無くて陽だまりが気持ちよかった。
今日は典型的な放射冷却現象、最低気温、阿蘇乙姫 -6.6℃(07:10)、 阿蘇山 0.4℃ (01:11)、阿蘇山の最低気温が午前一時過ぎなので朝はそれより高かったということだろうが、乙姫の気温との差がちょっと大きすぎる、データに間違いは無いだろうか。
そういうわけで、朝から深い霧が立ち、阿蘇山も雲海に浮かんだことだろう。
婆様、一晩たって平常に復した、原因は何なんだろう、明日改めて病院に行く予定であるが。
村内のW辺さんのお宅にPCのトラブルシュートに伺う。プリンターが動かないのだ。一昨日だったか伺って調べたが原因が分からないので、プリンターを持ち帰って我が家でOSの違うPC二台で試したが、従来からあるプリンターケーブルではどちらのPCでも動かなかったが、USBケーブルで試したところ我が家では二台とも動いた、ポートの問題だろうか。そこで今日また伺って先方のPCで試したがこれが動かない、またプリンターを持ち帰ってきた。
平成20年1月5日(土)
晴れ。今朝も冷え込んだが、昼間が暖かかったのでここ二三日の寒さで見事に成長してた古閑の滝の氷瀑も少し崩れ気味のように見受けられた。土曜の夜にライトアップのスケジュールのようだが大丈夫だろうか。
婆様が朝、悪寒がすると言って布団を被って震えだした。いくら布団をかけても治まらないようなので湯たんぽを抱かせたり、ドライヤーで熱風をおくったりした。しばらくして今度は熱が上がりだしたので、検温したら8度6分くらいあった、まるでマラリア(本当はどんな症状か知らないが)のような症状で驚いたが、間もなく悪寒も無くなり熱も下がってきた。幸いに今日はいつもの病院がやっていたので連れて行ったが、今日は代診の先生で、インフルエンザでもないしと医師も首を傾げ気味で、胸のレントゲンと血液検査をしたが、白血球が多いので今日は点滴を打って、抗生剤を出しておきましょうということで、改めて月曜日に診てもらうことにして帰ってきた。12月11日に一度こう言うことがあって、今日で二度目である。そういえば、大晦日に風呂に入った際に、ヒステリック気味に寒い寒いと大騒ぎしていたが、今から思えばそれほどの寒さでもなく、湯冷めしたのかなと思っていたが、その時も同じ症状だったのかもしれない。
婆様の日頃の抹消神経症的な症状といい、不眠症といい、素人判断だが自律神経失調症というやつでなないだろうか。この分野は心療内科の領域らしいので、近いうちに連れて行こうと思う。
平成20年1月4日(金)
晴れ。昨日よりも更に晴れて雲ひとつ無く空が抜けるような青さだった。
今日から仕事始めのところが多いのだろうか、カミサンも今日から出勤した。娘の保育園も今日から始まっているが、ちょっと風邪っ気が抜けないので休ませることにした。
朝一番で、年末に市役所から拝借した車椅子を返却に行った、おかげさまで初詣に行くことが出来た。
美しい夕焼けが広がり、風も無く中岳の噴煙が真上に登っていた、この分では明日も天気だろう。
(写真1・写真2・写真3)
平成20年1月3日(木)
晴れ。今日の朝、元旦に欲しかった。(写真1・写真2)
結局今日も終日、QSOパーティのために無線機に齧りついてしまった。ようやく7MHzで20局ちょっと、144MHzでギリギリ20局稼いだだけだった。今回の教訓は両バンド共にアンテナをもっと整備する必要があるということである。ワイヤー程度では100Wくらいではパイルに歯が立たない。それに144もほんのローカル用にGPをちょっと上げてあるだけだが、我が家のロケーションではそれでは駄目である、固定ビームでも良いから阿蘇山にアンテナを向ける必要がある。昨年から十年ぶりくらいに再チャレンジしたQSOパーティ、今回ほど疲れたことは無かった(しかし、同じ条件ながら昨年はもっと楽だったがどういう原因だろう)。
平成20年1月2日(水)
晴れ。薄っすらと白くなっていたが幸いに昨夜の大雪注意報は空振りに終わった。
元日は天気が良くなかったことや、公務?があったので、今日午後、阿蘇神社に初詣をした。おかげさまで市役所から拝借した車椅子が役にたった。ただ拝殿下から拝殿までは車椅子を押して登ることが出来るようにスロープがついているが、神社の(玉)砂利は車椅子では非常に押しにくいことが分かった、自分で漕ぐのはもっと難しいだろう。
昨年から10年ぶりに二巡目に挑戦を始めたQSOパーティ、今朝から7MHzで始めたがパイルが凄くてなかなか取ってもらえず明日再チャレンジすることにした。100Wのダイポールくらいでは駄目なようだ。自分でCQを出せば簡単だが、これもまたパイルになるのが面倒である。それから、近年はVHF帯が昔では考えられないくらいにQRVする局が減って、2mでは無理かも知れと思ったが、こういう機会でもないとローカル局とコンタクトする機会が無いだろうと、今年は144で20局稼ごうと思ったがこれがなかなか至難の業のようだ。
平成20年1月1日(火) 元日
西暦2008年、皇紀2668年は雪で始まった。前日一旦消えた雪も今朝にはまた薄っすらと積もっていて、気温が低くて硬く締まっていた。
午前8時から村内の公民館で恒例の賀詞交換が簡単にあって、その後、我が家に戻って家族で元日の祝い膳に向かい、慌しく馬場八幡宮の元旦祭に出かけた。
厳しい寒さの中、午前11時より、多勢の来賓を招いて厳かに元旦祭が執り行われ、引き続き社務所で直会が昼過ぎまで行われた。今日の祭祀で一年の主要な行事は終わった、年が改まったばかりで「終わった」とは変な表現だが、役員に就いた時期から行われたいくつかの年間行事がたまたま元旦祭で一巡りと言う意味である、夏祭りまでの間は特にこれといった大きな行事は無い。(写真1・写真2)
夕方には、五岳も姿を現して、なんとなく明日の天気の回復を予感させる夕映えが見られた。と書いたところで天気予報がまた今夜の大雪注意報を告げていたので慌てて一旦巻き上げた薪小屋のシートを掛けなおした。
今年の小生の年頭の願いはささやかであるが「家族の無病息災」、この一言に尽きる。大年寄りと幼い子供の両極端を家族に持つと、願うはただそれだけである。
このページ先頭へ 日々の記録目次へ ホームページへ