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平成20戊子(2008)年3月の記録(新しい日付けの順)

平成20年3月31日(月)

 曇り。天気の回復が少し遅れている、一頃の寒さはもう無いが、それでも寒さがもどってストーブが相変わらず活躍している。

 婆様、デイケア、送り届けた足でGYRのところに寄って午前中いっぱいメンテナンス。

 今日は年度末で、夕方、保護者が子供を迎えに集まる時間を利用して先生方とのお別れ会があった。事前にご本人たちには知らせていなかったようで、遊戯室に園児たち、保護者の皆さんが集まって、今日でお別れの先生たちをお迎えして花束の贈呈や別れの歌などを歌って、皆で別れを惜しんだ、園長先生、K代先生、M幸先生、E里先生、皆さん有難うございました、お元気で。

先生方の旅立ち 連続写真 (1/5)全9枚
先生方の旅立ち 連続写真 (2/5)全9枚
先生方の旅立ち 連続写真 (3/5)全9枚
先生方の旅立ち 連続写真 (4/5)全9枚
先生方の旅立ち 連続写真 (5/5)全9枚


平成20年3月30日(日)

 雨。予定では昼から晴れ方向に向かうことになっていたはずだったが、結局終日雨が降り続いた。

 カミサン、仕事で不在、娘は一人でゲーム機などで遊んで、小生、ゆっくりした一日を過ごして、さて締めくくりに犬の餌でも買いに行くかと表に出たところ、なんと車がパンクしているではないか。

 最近のタイヤは一度に空気が抜けることもなく、大抵は半分くらい空気が減った状態で修理屋まで転がしてゆくことが多くて、自分でタイヤの交換などすることなど先ず無いので、ハテ?ジャッキは何処に格納してあったろうか、ジャッキポイント何処だったろうと古い記憶を呼び起こして雨の中、スペアタイヤ交換を始めたが、ナットが強く締めてあって、車に備え付けのレンチの柄が短いので、力が入らずになかなかナットが外れない。

 レンチのレバーに乗って体重を掛けてナットを外したが、2個だけ、レンチがうまくハマっておらずに、ナットを少しナメてしまって、レンチのかかりが悪くなってどうしてもナットが外れない。

 竜一さんのところに、インパクトレンチを借りに行こうと、軽トラで出かけたが、途中で、インパクトレンチはエアーで回すはずだから、借りて持ってくるわけにはいかないなということに気がついた。それじゃあ柄の長いレンチでも借りようかと思ったが、そこでまだ試していない方法があったと、途中で取って返して、その方法を試みたところ、所謂ビンゴというやつで、上手く外れた。

 ナメたナットは一箇所だから、別角度ならもしかしたらと思って、ジャッキアップして、タイヤを半分ほど回してから改めてレンチでナットを外しにかかったところ、今度は上手く外すことが出来た。

 スペアタイヤに履き替えていつものスタンドに行ったところ、先約の車が入っていてしばらく待たなければならず、他のタイヤ屋に行ったらそこは日曜日で休み、ようやく三軒目のスタンドでパンク修理が出来た。結局全部で2時間ほどかかってしまった。これが今日で良かった、明日の朝だったら大変なことになっていた。

 今日は日記のネタが無いなと思っていたが、最後になってネタができたというわけである。



平成20年3月29日(土)

 穏やかに晴れる。

 保育園の進級面接があり、娘、母親と一緒に出かける。いよいよ4月から年長組になるが、担任はY永先生になったそうだ。

 昼から、子守を兼ねてトラクターに娘を乗せて畑を耕す。DI局がフラリと立ち寄る。


平成20年3月28日(金)

 晴れ。うわー暖かい、というほどではなかったが、まあ今の時期、こんなもんだろう。

 午後から、ノンビリと薪つくりをする、もうあくまでもノンビリとである。

 春、異動の季節、保育園でも異動の発表があった。去る人、来る人のうち、今日は去る人のみの発表だけだったが、園児数も保育士の人数も、都市部に比べたら遥かに少ない、だから皆んな身内のような間柄になる、その先生たちが数名転勤や退職で去られることになった、なんとも寂しいものである、人生別離足。


平成20年3月27日(木)

 午前中晴れ、午後から雨が降り出し、一時強く降るも夕方には上がる。雨が上がって姿を現した阿蘇山の頂上付近がまた真っ白になっていた。

 婆様、デイケア。

 娘が、朝、駆け出そうとした時に足元にまとわりついた猫を避けようとしたかなにかのはずみで、派手に転んで膝小僧をすりむいて結構血が出た。赤チンを塗ってやったが彼女にしては大惨事らしくてしばらく大泣きして、歩くのには全く支障が無いにもかかわらず今日保育園でも大袈裟に足を引きずって歩いていたそうである。

 ところで、赤チン、正確にはマーキュロだったか、小生の子供の頃は万能薬で、切り傷擦り傷なんにでも赤チンだった、そして良く効いた。それがいつの間にか姿を消した。たしか水俣病の有機水銀中毒あたりからだったとも思うが、赤チンに使われている水銀化合物は水俣病のそれとは違うようで全く問題が無かったにもかかわらず風評で使われなくなったようだ。それでも今でも薬局にはちゃんと売っている。小生は昔人間なので赤チン礼賛派で、もう赤チンなんか知らない世代が多いのだろうが、我が家には赤チンが常備してある、そして、娘の切り傷などには塗ってやっている。

 雨が降り始める前に、と午前中、少し薪つくりをして、さあ今日は働いたぞと、午後から雨降りを良いことに、本を開いたりネット検索をしたりと道楽三昧。これから先の計画として、気象観測をAPRSに乗せた後には、そのうちに地震計を取り付けて計測してみたくなったのである。


平成20年3月26日(水)

 曇り。昨夜、突風に近い風が吹いていたが、今日も結構風があって気温は低くなかったが体感温度が低くて寒かった。

 今日も特に仕事はしなかった、と言ってもいつも午前中はおさんどんであっという間に過ぎて、何かをするのは午後になってからだが、今日もGYR邸にサポートに行って、直ぐ終わるつもりが時間が掛かってしまった。


平成20年3月25日(火)

 概ね晴れ。黄砂は無かった模様なので春霞とでも言うのだろうか、一日中遠景が霞んでいた。

 ここ二三日、「ちょっとこい、ちょっとこい」とコジュケイが派手な声で鳴いている。留鳥だそうだが、普段は鳴き声を聞かないので、今の時期、縄張りの主張か繁殖に関係があるのだろうか。

 まだ完全にではないが薪つくりから大部分開放されて、畑作りまでまだ少し間があるせいか、中だるみというか今日も一日何もしなかった。ただ昼からちょっとGYR局のお宅にサポートにでかけて、日没後、豆腐屋にサポートにでかけた。


平成20年3月24日(月)

 曇りのち晴れ。

 婆様、デイケア。

 午前中は雲が垂れこめて風もあり肌寒かったが、午後から天気が回復して暖かくなった。

 午後からGYRのところで、三台目のライブカメラの立ち上げのサポートをする、PCとビデオキャプチャーカードとの間に色々いわゆる相性というものがあって、なかなか一筋縄では行かずに、ほぼ夕方まで掛かって無事設定を終わる。上手く配信が出来たときには、冗談半分でペースシャトルの管制室のようにバンザイをした(管制室でバンザイなんかしたかなあ・・・・)。


 今日突然にAPRSのAGWTackerにアフリカ、コートジボワール(象牙海岸)のTU2FQ局から「?APRST」というメッセージが入っていた。意味が分からない上に、どうして敢えて当局あてにこのメッセージが入ったか理解できないので、返信はしなかったが、どういう意味だろうか。
 
平成20年3月23日(日)

 終日細かい雨が降り続いた。

 今日は潮谷義子知事の任期満了を受けて行われた県知事選挙の投票日だったが、あまり気が進まないこともあって夕方になってようやく清き?一票を投じに小雨降る中を出掛けていった、まあ、誰がなっても大した違いは無いだろう、小生にとってはそれほど盛り上がりに欠け、また関心が低い選挙だったが、とにかく権利というよりは義務感だけで投票したようなものだ。

 午後8時になって開票が始まったばかりで早々と蒲島郁夫氏の当確が出た。

 今日は終日ゴロゴロして過ごした。


平成20年3月22日(土)

 熊本市で桜の開花宣言があったそうだ、今日は全国で何箇所か開花したそうだが、今日の開花は全国で一番早い開花日になるそうである、阿蘇はまだもう少し先になる。

 今日は風も無く暖かい一日で、木々の花々も次々に開花していてもう文句なしの春である。こんな風が無いときには阿蘇町から熱気球が上がり、ゆっくりと空気に乗って近くの田んぼまでやってくる(そしてここで畳んで車に積んで帰ってゆく)。

 春を告げる阿蘇の名産の阿蘇たかなもいよいよ収穫の時期を迎え、そこここの家庭菜園でもたかな折りが始まっている、そしてたかな生産農家で折ったたかなを満載にして漬物工場に運ぶ軽トラックがあちらこちら走り回っていた。我が家のたかなは種蒔きが遅かったこととと追肥をやらなかったこともあって収穫はもう少し先になりそうである(出水の菜の花さん)、今日、尿素を施肥した、これは茎や葉を柔らかくする効果があるそうである。

 カミサンは仕事、小生は保育園、留守中に従兄の哲兄が婆様の顔を見にちょっと寄ってくれたそうである。

 今日は娘の通う坂梨保育園の卒園式で、卒園児の保護者は式に参列するが在園児の保護者は参列しないので式の様子は分からないが、可愛いわが子の卒園で両親は涙々、先生方も涙々だったとのこと、来年は我が身だと思うと今から少し気が重くなる。

 かんぽの宿であった式後のお別れ会は、小生、保護者会の役員だったので卒園児の保護者ではないが出席した。

以下、その時の連続写真である。
保育園お別れ会連続写真(1/3)9枚
保育園お別れ会連続写真(2/3)9枚
保育園お別れ会連続写真(3/3)8枚



平成20年3月21日(金)

 快晴。午前中は風が少し強くその分寒かったが、真っ青な空が広がり、午後からは風も止んで屋外で作業をしているとシャツ一枚で汗ばむほどだった。

 山はその日の天気などによって、遠くに見えるときと驚く近くに見えるときとある、今日は手を伸ばせば届きそうなとは少しオーバーだが、随分と近くに見えた。野焼きが終わった山肌が真っ黒で、これも間もなく緑に変わる。
写真1写真2写真3

 先年(H16.9.7)、台風で家から数メートルのところに生えていた杉が地上から3メートルを残してポッキリへし折られた(その時の烈風で隣家も壊滅的な破壊を受けた、我が家でももう少し方向が違っていたら倒れた杉が家屋を直撃していたはずである)。その時に倒れた杉約10m、ずっと放置してあったが今日薪にした。ついでに同じ台風で倒れて放置してあった入り口付近にあった楠木も薪にすべく玉切りした。しかし薪にした部分は先端部分で、下のほうは立派な幹なので、何かに加工できないとまだ寝かせたままである。

 今日はほぼ一日薪割りをしていた、今の時期の薪割りはもう切実さが無いのでノンビリしたものである。

 娘の成長には目を見張るものがあり、今朝は、母親のまねをして縫い物に挑戦していた。出来具合は母親と大差ない。母親くらい上手く縫えたということではない、母親の腕もそんなものだという意味である。

 今晩は、阿蘇神社で火振り神事が行われた。
JR6IES提供 写真1写真2写真3写真4

平成20年3月20日(木)春分の日(春季皇霊祭)

 晴れ。昨日の天気を今朝になっても引きずっていて、朝のうちは細かい雨が降っていたが、昼前になってようやく雲が晴れて春分日らしい青空がのぞいた。

 今日はAJY局のタワー建立の手伝い(というかヒヤカシというか)に参加した。参加メンバーはDI局、OZC局と小生の三人である。AJYとOZCがタワーに登って、DIと小生が下で滑車のロープ引きを担当した。

 AJYは20年ほど倒しっ放しにしてあったタワーを今回再び建てたのである。小生のタワーが建つのが先かAJYのタワーが先かと言っていたがとうとう先を越されてしまった。
(写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7

 午後にはいって、GYRがジャガイモ作りの件で訪ねて来る。今年は少しジャガイモ作りに挑戦するそうで、畝の立て方、種芋の植え方マルチの張り方などを訊いていった。

 春分の日の太陽はここに沈む、電話局のアンテナ付近だ(時刻は16:20くらい)、冬至は天気が悪くて写真が撮れなかったが、1/4に撮った写真がここだ、米塚あたりだ、大分北に寄った。

 今日のボン、特に意味は無い、日没を撮っていたときにカメラを見上げていたのでシャッターを押した、飼い主の言うことはあまり良く聞かないが、なかなか良い面構えをしている。


平成20年3月19日(水)

 午後から晴れると思っていたが終日断続的に小雨降り続いた。

 昨日、畑に肥料を入れておいて正解だった。

 今日は実に静かない一日で、雨のために外に出ることも無くおおっぴらに室内で道楽三昧だった。

 卯の鼻の最突端妙法寺の崖がえぐられたように崩れていた。特に雨が強く降ったわけでもなく、自然に崩れたのだろうか。この石垣は妙法寺が出来たころに築かれた石垣だろう、昭和の初め頃だろう、最近の石垣は手当たり次第にただ積み上げて、隙間にセメントを流し込んで築く傾向が強いが、この頃の石垣はまだひとつひとつ石の形状に合わせて昔の城の石垣のように丁寧に組まれていて美しい、この修復、どういう方法でやられるのだろう、綺麗に組まれると良いが。


平成20年3月18日(火)

 晴れ。天気下り坂。

 午前中、畜協から堆肥を買ってくる、バケットローダーのバケット一杯分500円也。一杯で丁度軽トラ摺切り一杯分になる、バケット二杯になると軽トラ山一杯になり堰板がないとこぼれる。

 午後から、ジャガイモを植える場所に堆肥を鋤き込んだ。ジャガイモは連作が駄目だそうだから、今年はハウスを挟んで反対側にした。本当は5年くらい置かないといけないらしいが、そんなに休ませるほど場所がないので、昨年植えた場所をとりあえず避けることにした。ハウスの中にも堆肥を鋤き込んだ。ハウスは昨年一年の期間限定のつもりだったが、しっかり作って、撤去するのが惜しいので、今年もまたここでトマトを作ることにする、トマトも連作は駄目なはずだが、トマト農家のハウストマトは同じ場所で毎年作っている、何故だろう。

 数日置いてから畝を立ててマルチを張ってジャガイモを植えることになる。


平成20年3月17日(月)

 晴れ、霞空。

 婆様デイケア。

 有朋自遠方来不亦楽乎、武藤肇夫妻が東京からやってきた。熊本・長崎を中心の2泊3日のツアーの途中に寄ってくれたのだ。彼は小生がここに住むようになって直ぐ(平成14年8月3日)に夫婦で一度訪ねてくれている、心から懐かしく嬉しい、大学に入った年からだからもう45年以上の付き合いになる。

 今日はファームランド泊まりで明日早朝に次の目的地に向かって発つという慌しい旅程なので、小生がホテルで夕食を終えた頃を見計らって、娘を連れてホテルに訪ねていって我が家に来てもらって、一時間そこいらの短い時間だったが、積もる話に花を咲かせた、婆様も非常に懐かしがっていた。


平成20年3月16日(日)

 穏やかに晴れる、ただ黄砂だろうか、遠くが霞んでいた。

 一週間遅れの北外輪一帯の野焼きが実施され、小生も馬場豆札牧野の野焼きに参加した。昨年は白内障の手術とぶつかって不参加だったので、こちらに来て5回目の野焼き参加となる。5回目となるともうベテランである、と言っても火消し棒を持って飛び火を消すベテランである。と言ってもそうそう飛び火など無く、火消し棒を持って移動しながら盛大な炎を見物しながら写真を撮るベテランである。

 初めて野焼きに参加した時(H15/3/21)には大興奮してその日の記録は随分と気負ったものになったことを覚えている。さすがにその時のような興奮はしなくなったが、それでも野焼きの度に、他所では決して味わうことが出来ない広大無辺の天地の真っ只中に身を置く贅沢に喜びを感じる。
写真1写真2写真3

 村では毎年、3月18日は鞍嶽さんの日で、牛馬を祀る日であるが、今年は一同に会する皆さんの負担を少しでも軽くするために、野焼きの日に合わせて一緒に執り行うことになって、今日、野焼き終了後、夕方から皆さん、村の集会場に集まった。

 最近では有畜農家は二軒のみになったが、昔からの習慣で村中が集まって、この日は子供も参加してお菓子などを貰う、良い習慣である。
写真1写真2写真3写真4写真5

 今日は広い牧野を歩いた、歩いた・・・・・これでようやく広い牧野に春が来る。



平成20年3月15日(土)

 晴れ。最低気温は阿蘇乙姫 -1.8℃(06:20)だったが、それも朝のうちだけで暖かな穏やかな一日であった。

 午前中、確定申告をe-TAXで済ませる。このシステムはまだ極めて完成度が低くて、確定申告書を作成する手順の自動化が全くといって良いほど進んでおらず、転記作業をほとんど手作業でコピー&ペーストでやらなければならない。単純な縦方向の足し算引き算くらいしか自動化されておらず、ある数字がでた場合にその数字が10万円より少ない場合はその数字を、多い場合は10万円を記入せよという欄すら手入力しなければならない、なんちゅうこっちゃである。そのほかにも条件分岐で数値を出す場面がいくつもあるが、そんなもの原始データをいれたら自動的に計算してくれと言いたくなる。要はこのシステム、申告書作成事務の自動化というより、出来た申告データをオンラインで送るということに力を入れたシステムのようである。このe-TAXを普及させようと、今年か来年かのどちらか一回に限って5000円の税額控除が出来るが、今回は見送って来年控除を受けることにした。とにかくこの電子申請、普及にはまだまだ改善点が多い。

 午前中、T代さんから電話があり、今お店に宿場通りの案内を求めて人が見えているけど小生しか思い当たる人間がいないので電話をしたけどどうしたものかとのこと。小生のほうで事務局に相談したが、生憎今日は関係者全員都合がつかない様子、行きがかり上、已む無く小生が出張ることになった。

 頂戴した名刺に、「熊本さわやかシニアくらぶ」の世話役さんで、南さんとある。高齢者の生きがいと健康づくりを目的として小さな旅行やイベント参加をやっておいでだそうで、今回も会議が内牧であったついでに、この秋の波野の神楽フェスティバルに見物のなかに坂梨宿場通りの散策も計画に入れようかと下見においでになったということであった。

 小生では案内人として少し役が重いが他に人がいないので致し方なし、我慢していただいた。暑からず寒からず、散策にはまたと無い日和で、浄土寺から参勤交代道に抜ける道、チトンフィットたっぷりで、思わぬウォーキングにお付き合いできて良かった。

 今晩は、往生岳の火文字焼きが行われて我が家からも良くみえた。例年だと、往生岳の北斜面に「火」という字が燃えるのだが、今年は裏側からも黒煙と炎が広範囲に広がっているのが遠望されたが、これもイベントのうちなのだろうかと思ったら、これは原野火災だったようだ。このあたりの山は殆んどがブッシュなので、たとえ火災になっても(消防は別にして)それほどの大騒ぎにはならないようで、事情を知らない見物人は今年は盛大だなあと喜んだのではないだろうか。

ASO安心安全情報(e-mail 及び携帯メール配信)
題名 : 火災情報
18時45分に阿蘇市黒川杵島岳付近の山林火災を入電しました。

題名 : 鎮火報
21:06阿蘇市杵島岳付近の山林火災は鎮火しました。

平成20年3月14日(金)

 小雨模様の一日。昨夜から雷注意報がでていたが幸いに鳴らなかった。

 ハテ、今日は何をしただろう。

 いよいよ期限が迫っているので、ようやくのことで確定申告書の作成作業に手を付け始めた。昨年、白内障の手術をした時の領収書が見当たらず、半日かけてようやく探し当てたが、考えてみたら、その分については保険会社から入院給付金を貰っていることを思い出して時間の浪費だけに終わった。
 更に、e-TAXで申告しようと思っており、ネットに繋いで申告書を作り始めたが、どうもオカシイ、よくよく考えたら、まだ19年度の申告用紙のフォームが決まる昨年暮れに、既存のフォームを腕力で19年度に作り変えて、それに数字を入れていったので、途中で立ち往生して、新たに19年度の申告フォームを呼び出して作り直したので、途中までの作業がパーになって今晩中には出来ないだろう。

 今日の弱い雨、明後日の野焼きに影響が無ければよいが。

 明日の夜、阿蘇の火祭りの一大イベント、往生岳の火文字焼きがある、もうそんな季節になったのだ、ライブカメラを往生岳方向に向けてみようか。


平成20年3月13日(木)

 晴れ。暖かし、少し天気が下り坂である。

 婆様デイケアを休んで大阿蘇病院へ。ここ数日、咳と痰が激しいことと、排尿が困難だというので、急遽今日のスケジュールを変更したのだ。排尿困難については、数日前にも一度同じような症状があって、そのあとなんとなく解消したことがあり、今度で二度目である。もしずっと出ない状態が続くと大変だという不安があって今日病院に行ったのだが、あれだけ出ないと苦しんでいたのに病院で診てもらうまでに病院のトイレで二回も出たので、医師には症状を告げなかったそうで、レントゲンを撮ってもらって、胸の方は異常なしということで、咳と痰の薬のみ貰ってきた。

 歳を取ると次から次に何かしら起きるが、この排尿困難は小生が見るに多分に神経的なものだと思う、尿毒症を起こすくらに溜まってそれでも出ないという段階のはるか手前で、出ない出ないと騒いでいる節がある。実際に溜まっていないにもかかわらず尿意を催すのだろう、溜まっていないから出るわけが無い、そのうち実際に溜まってくると自然に出るようになるのだろう、婆様のあちらこちらの体調不良の原因のかなりの部分が神経性のものだと思うが、自分の意志だけではどうにかなるものでもなさそうで、困ったものである。泰然自若、もっとノンビリ生きろ、と言うのだが、性分なのだろう。(もしかしてまた尿路感染症か・・・・)

 婆様の送迎で家を空けている間に、A元さんがトラックで薪を山ほど運んで綺麗に積み上げて下さっていた、この時期一度に大量の薪、本当に有り難い。

 今晩は鍋にした。厳冬期を過ぎて鍋には少し遅い時期かもしれないが、野菜を沢山食べさせるのには鍋がいい、歯の悪い婆様にも良い。我が家では昔から鍋というと、100%、ポン酢で食べるスタイルの鍋できたが、最近婆様が酸っぱいものが苦手になってきており、娘も酸っぱいものをあまり好まないので、先日下味のついた鍋をしたところ、新鮮で好評だったので、今晩も最初から味がついた鍋にした。

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平成20年3月12日(水)

 昨日、あまりの暖かさに、春だなあ、と思わず感じてしまったが、今朝、裏山から鶯の初音が聞こえてきた、やはり自然は正直である。もしかしたらもっと以前から啼いていたのに、寒さの方に気がとられて周囲の春の音にまで注意を向ける気持ちのゆとりが無かったのかもしれない、そして今日も昨日に増して暖かい一日になった。

 午前中、高岳の麓で林野火災が発生して、山麓を炎が頂上に向かって少しずつ燃え広がって行くのが見えたが、上の方に行くに従って燃えるような草木が乏しくて、また燃えては困るような植物は生えていないのだろう、消火活動にそれほどの緊迫感は伝わってこなかった、それでも消化剤を撒くヘリが飛んでいたし、分団の消防車の車庫は空っぽだったから出場したのだろう、夕方には鎮火した、ちょっと予定外の野焼きといったところだろうか。

ASO安心安全情報(メール及び携帯メール配信)
題名 : 火災通報
火災通報がありました。
覚知:10時38分
場所:阿蘇市 泉牧野組合牧野
種別:林野火災

題名 : 鎮火報
阿蘇市高岳の火災は18時7分鎮火しました。


 昼前、TOMUさんが久しぶりにやってきた、最近は小生が出張ることが多くて逆のケースが無くなっていた、今日久しぶりにXさんがデイケアに出かけて一日フリーになったそうである。以前、我が家の土手にフキノトウがあることを話したところ、自分の家の土手にもフキノトウを育てたいから苗を呉れということだったので、掘って持って帰ってもらった。
 フキノトウは芽だけしか採らないので、地下部分がどうなっているか全く知らなかったが、随分太い根が横の方に長くしっかりと張っていて、こんなに太いのかと驚いた。その根に添ってポコポコとフキノトウが芽を出すから、あるところには固まってあって、無いところには全然無いのだということが分かった。

 午後、市包括支援センターのM垣さんが月例のケアプランの件で来訪。M垣さん、出産のために今月一杯で退職されるそうである、せっかく親しくなったのに残念である。

 今晩の献立、鮪赤身と鰤の刺身、大根とサトイモとイカの煮物、若布の酢の物、白菜と南関揚の味噌汁、煮豆。
娘は何かというと「カレー」と言うが、カレーも時には良い、菓子パンも時には良い、でも豊かな味覚を持った人間に育って欲しいとオヤジ腕を振るう、肉食も良いがなるべく和食を、と心がけている、もちろんチャイナフリーでである。


平成20年3月11日(火)

 晴れ。最低気温、阿蘇乙姫 -3.2℃(07:00)、ということは、昼間は逆に気温が上がるということで、事実午後には17.9℃まであがった。梅や水仙など一気に開花に向かって動き出し、いよいよ春到来という雰囲気いっぱいである。

 午前中、会長と馬場八幡の財務の件で農協に出かける。

 午後から、トラクターで畑を耕す、そろそろ堆肥を入れなければならない。

 今晩の献立、鰆の味噌漬け(昨日味噌に漬けておいた)、豆腐とニラの味噌汁、モズク、トマト、ほうれん草のお浸し、デザート(杏仁豆腐)。


平成20年3月10日(月)

 小生が今寝ているところは婆様の部屋に近い小生の遊び場である(有事即応体制のためであるが小生大イビキでほとんど機能していていない)、大屋根の直下の天井が無い場所で、オマケに屋根材が瓦ではなくてコロニアル(と言ったかな)というパネル張りと来ているので昨夜の一時激しい雨が降った際には大きな音を立てていた。

 今朝は打て変わって青空が広がったが風が結構あった、最低気温、阿蘇乙姫 6.2℃(07:40)、暖かい朝だった。

 婆様デイケア。誰もいない日で、ホッとして気が抜けて、色々やることがあっても結局ノンビリと道楽の方に走ってしまい終日PCの前で過ごしてしまった。

 今晩の献立、マーボ豆腐、玉子焼き、ナメコのおろし和え、アサリの味噌汁。


平成20年3月9日(日)

 曇りのち弱い雨、朝のうちに今日予定の北外輪一帯の野焼き延期の放送が入る、天候不順で延期はいつものことである、次回は来週の日曜日である。そうとなれば玉名郡長洲町(我が家から真西の海岸地帯)で開催される西日本ハムフェアーに行きたかったが、どっこい、カミサン仕事で子供の面倒を見なくてはならず断念。

 終日PCの前に座り込む、夕方、ハムフェアーからの帰途だといってDI局に、APRSのブースで受け取った資料など届けていただく。


平成20年3月8日(土)

 穏やかに晴れる。最低気温、阿蘇乙姫 -3.9℃(06:40)

 保育園の保護者参観日、カミサン仕事のために小生参観する。その後で、保護者総会があり、今回も小生が議長を担当する。総会の後で来年度の新役員の役職分担が決められた。これでようやくお役御免になった。
写真1写真2写真3写真4

 APRSで移動局を運用する場合にはTNCが必要であるが、小生の目的は気象観測情報の発信で、今のところ移動までして運用をする予定は無い。しかしGMM局からQSYしてきたTNC-231と小生が昔移動局用に持っていて、小さいがゆえに処分されずに奇跡的に残っていたTNC-210があったので、まだ動くかなと思って屋根裏から取り出してみた。

 とにかく20年近く昔のことである、このTNCを使ってパケット通信をやったのは。もう完全に忘れていたが、PCをターミナルモードにすることをようやく思い出した、そうだ、当時は通信ソフトなどという気が利いたものなどなくて、コマンドモードで設定した。さらにシリアルケーブルが必要なことも思い出した。最近ではパソコン通信などしなくなったのでシリアルケーブルなど使うことも無くなって探し出すだけで大変だった、しかも昔は25ピンのコネクターだったが、最近はD-SUB9ピンのケーブルでなくてはならない、それも箱をひっくり返してようやく25ピンと9ピンの変換コネクターを見つけた、更にジェンダーが必要だということがわかりこれもなんとかあった。というわけでようやくPCと繋ぐことが出来て、電源を入れると二台ともROMのオープニングメッセージが流れるところまでは確認できた。しかしピー・ギャーを入れてやっても受信信号が画面に出てこない、まだもうすこし試行錯誤が必要であるが、これだけの作業だけでもあっという間に時間が過ぎてゆく。


平成20年3月7日(金)

 晴れ。今朝は氷点下にならずに暖かい朝を迎えて霧が出る。

 午前中、薪つくりをして、午後から、TOMUさん宅へ出張サービス。

 今日もなんとなく慌しく過ぎていった。今20年くらい昔のTNCを引っ張り出して使い物になるかいじくりまわしたりしていて、それが時間の浪費の大きな原因になっている。


平成20年3月6日(木)

 昨日同様に晴れ渡る。最低気温。阿蘇乙姫 -6.2℃(06:50)。

 婆様、デイケア。

 午前中、Xさん骨折以来久しぶりにTOMUさんのお宅へ伺う。

 午後、馬場八幡の火災保険のことで保険会社の調査に立ち会う。

 これといったことをしているわけではないがあっという間に慌しく一日が終わってゆく。


平成20年3月5日(水)啓蟄

 昨夜、阿蘇地方に大雪注意報が出されていたが見事に空振りだったようで、阿蘇山には相当量降ったようだが、平地(下界から見ればここは平地とはいえないが、ここでは平地である)は殆んど降らずに、申し訳け程度に白くなった畑の向こうに五岳が朝日に光り輝いていた。
(写真1写真2写真3写真4

 昼頃までは良い天気だったので、急に思い立って畑に出た。とにかく何事につけても急に思い立ってやる主義である。去年からのマルチを丁寧に剥いでから、久しぶりにトラクターを動かした。午後に入って雪が時々ちらついてトラクターに乗っていると寒かった、まだまだ寒い中、トラクターで無理やり土を掘り起こしたので、虫どもにとっては強制的な啓蟄になったことだろう。
トラクター前トラクター後

平成20年3月4日(火)

 雪のち小雨。朝のうち薄っすらと白くなっていたが直ぐに融けてそれ以降は積もることも無かったが、終日断続的に白い雪が舞っていた。

 娘が今日は保育園に行ってくれた。以前よりは手が掛からなくなったが、「父ちゃん殺すに刃物は要らぬ、娘が三日も居ればいい」と言ったら、娘はそれなんね?と問うので解説してやったら、「うんそうね」、分かったのかどうだか。

 顔面の末梢神経障害の受診で婆様を阿蘇温泉病院に定期通院。


平成20年3月3日(月)

 曇り、時々小雨、黄砂ひどし。

 昨夜、0時を過ぎた頃、突然家が揺れるくらいの強風が吹いて目が覚めた、突風だったのだろうか、なんだったんだろ。

 婆様、デイケア。

 娘、結局今日は保育園を休んだ、しかしネブライザーをかける必要は無いようで家で遊んでいたが、父親はタマラン。

 黄砂がひどくて雨に融けた黄砂が車などにべっとり貼りついていた、ゴビの砂漠の砂だけであればまだ良いが、これに大気汚染物質が確実に混じっているので迷惑この上ない、、これが大気圏内の核実験だったり、原発の事故だったりしたらどうなるのだろう、隣人は選ぶことが出来ないだけに考えてしまう。


平成20年3月2日(日)

 晴れ、煙か霞みか、視界悪し。

 今日は予定通り、阿蘇山麓の野焼きが実施された。春霞に加えて野焼きの煙で視界が悪くて山は良く見えなかった、そして、真っ黒なススキなどの燃えかすがどんどん降ってきる。この燃えカスも今の時期の阿蘇の風物詩である。

 娘が今朝から咳が止まらなくて、午後になって苦しいというので、医者に連れてゆく。幸いに坊中の「たくもと小児科クリニック」が休日当番医だったので助かった。この当番医制、当番医に合わせて急病にならないといけないので変なシステムである。整形外科などが当番の時は小児の発病はどうなるのだろうか。

 直ぐに診察してもらって、ネブライザーを吸って薬を貰って帰ってきた、大したことなさそうなので、魔の週末から魔の平日につながらないことを願うばかりである。


平成20年3月1日(土)

 晴れ。今日は久しぶりに明け方も氷点下まで気温が下がることはなく、日中も暖かな一日だった、ただ少し風があったので、気温よりは体感は低かった。

 今日からいよいよ三月である。そんな風に書くなら、毎月、今日から一月である、二月であると書かなければならないが、はやり三月は少し気分が違うような気がして書いてしまった。

 午前中、宮崎からじっちゃい夫妻と孫一号ちゃんがやってきた。三ヶ月ごとの熊本での健康チェックの帰りに必ず阿蘇で一泊してゆく。単なる健康チェックではなくて真剣勝負の健康チェックで、無事にクリアして大好きな阿蘇で一泊して帰ってゆくのである。(じっちゃいのてげてげ日記

 丁度一年前の今ごろ(3/11)、初めてじっちゃいとのかかわりが生まれた、日記を読み返して一年前が懐かしく思い出される、誠実な友人の一人である。友人の選び方、子に宣ふていただくまでもなく巧言令色鮮矣仁剛毅木訥近仁である。




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