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平成20戊子(2008)年12月の記録(新しい日付けの順)


平成20年12月31日(水)

 曇り。夕方少し白いものがチラついていた。

 9時頃、婆様の外泊の迎えに病院に行く。昨日はあれほど楽しみにしていたのに、婆様、怪訝な顔をしている。オイオイ、しっかりしてくれよ、昨日あれほど念を押していた外泊のこと忘れている、認知症が始まったのだろうか、一過性のものだろうか。よく説明したら、苦笑いをしていたが、なんとなく気になる症状である。

 病院の皆さんの励まし?祝福?に送られて二泊三日の一時帰宅する。想像以上に筋力が衰えていて、玄関先の数段の階段も引きずり上げるようにして上がる。

 もしかしたら必要ないかもしれないが、と半分遊び気分で作った昇降機、やはり必需品になった。怖がるかと思ったが、全然怖くなかったと言う、いやあ、作っておいて良かった。絵的には一番高い位置での写真を撮りたかったが、オペレーター兼カメラマンなので吊り下げた状態で昇降機のリモコンを置いてカメラに持ち替えなければならず、その間空中に静止状態になりこれは顰蹙ものなので一応安全ポジションまで移動させてから記念写真を撮った。これを市販のものを取り付けたらウン十万円掛かるところだが、十分の一の費用出来た、工賃は固定だからだ、苦労した甲斐があったというものである。。

 夕方、師匠のお内儀が蕎麦を届けてくださった、今年はとても心静かに蕎麦を打つ時間も心境にもなれず、年越し蕎麦は無しだなと思っていたところなので有り難かった、これで我が家は年を越せる。我が家は、と書いたのはちょっと意味がある、申し訳けなし。

 カミさんと娘、5時頃ノンビリと、或いは、あたふたと帰ってきた。婆様の帰ってきた娘たちとのやりとりを聞いている限りではしっかりした受け答えをしていたが、病院から帰ってから自分のベッドに入って、気が抜けたのか寝てばかりいる、大丈夫だろうか。それにベッドで横になっている以外の行動は概ね要介護状態になっている、あまり目が離せない、二か月間、ずっとベッドで寝ていたのでやむを得ないところか。ただ小用は自動採尿機があるので自分で出来るのでこれは助かる。

 なんだか最後にきて、忙しい日が続いたので、一年中忙しかったなあという気になる。年内にやり残したことがまだ二三あるがこれは年が明けてからだ。

 かくして、西暦2008年、平成20年、平成戊子、皇紀2668年 大団円、お歴々どうぞ良いお年を、である。


平成20年12月30日(火)

 曇り、風が強く体感温度が低くて寒い一日だった。

 馬場八幡宮の今年最後の神事、大祓いがあり、そのほか打ち合わせや、新年を前に拝殿や鳥居の大しめ縄などの架け替えなどで忙しい一日だった。小生、直会は家事都合でご無礼した。

 婆様の外泊許可がおりた。ただし、明日大晦日と元日の二泊だけである。明日は朝食が終わったころを見計らって迎えに行くことにした。

 お歴々、ご容赦を、結局、年賀状は新玉の年を迎えてから心新たにして認めることになりそうである。


平成20年12月29日(月)

 晴れ、あるいはうす曇り。今日は確か雨のはずだったが、朝起きて少し湿っているなとおもったらそのまま晴れてしまった。

 今日も、色々やりながら、昇降機工事の足場を撤去した。下から見上げると結構高いようだが、安全には自信がある、一つ一つ部品の耐荷重を調べた、ただ、ただ、ホイストクレーン本体が、中国製なのである、シングルで100キロ、ダブルで200キロまで大丈夫だそうで、ISO認定工場だそうだが、どうも信用できない、ISOじゃなくてきっとUSO(ウソと読む)だと思う、しかし、価格の誘惑に負けた、1万円そこそこなのでる、だからこそ危ないという気がしないでもないが・・・・・。そのうちにもっと安全なクレーンに交換しようか。

 あとはお客さん待ちだが、明日あたり外泊許可が降りるだろうか、夕方様子を見にいたら、ベッドから足をおろしていたので、どうしたんだと問うたら、外泊していいかどうかこれからナースステーションに聞きに行こうと思っていたという、無謀にも自分で車いすにでも乗るつもりだったのだろうか、明日になれば分かるから待っていろと言ったが、気が逸るのだろう、気持はわかるが、下血でリハビリを中止してずっとベッド中だったので筋力が極めて弱くなっているのが分かっていない、全くしょうがない婆さんである、バカタレである。

 今日、ちょうど病院に顔を出している時に、看護婦さんが、今日はお風呂入れますよお、と伝えに来られた、下血以来である、うわあーと喜んでいた。


平成20年12月28日(日)

 晴れ。最低気温、-4.8℃、今朝も畑が真っ白だった。その分、日中は穏やかに晴れ渡った。

 昇降機、座席部分のヘッドクリアランスがありすぎて、その分、高度が稼げずに、二階の手摺に尻が引っかかるので、色々工夫を重ねているところにtomuさん夫妻が視察に見える。概ね合格点を貰えたようだ、朝にはS本棟梁が別の用件で見えたので、見てもらったが、問題ないだろうとのことだった。

 夕方になってようやく座席の位置を上に動かすことが来てギリギリセーフになった、座席はハンモックチェアを使った、見てくれはあまり良くなさそうだが、体形に合わせてソフトに体を包んでくれるので安定性は高い。あともう少し改善できる場所があるので、それは追い追いということで、とにかく終わらないと次の仕事が出来ない、仕事と言っても、当然道楽である。一日の時間が全部自分のために使えるの本当に良い。

 婆様、体調が回復してきていると見えて、今日、腹が減って目が回るので何か食うものをこっそり持ってきてくれ、と電話をかけてきた、食事はちゃんと食べているのかと問うたところ、勿論全部食べているがほんのちょっとなので直ぐに腹が減る、とのたもう、二三日前までは、昼食が消化しきれないので夕食は断ろうと言っていたのだから現金なものである。こっそり菓子類を持って行ったが、考えてみたら、腸から出血したのだから、病院食以外に食うのは駄目じゃないかと言っておいたが、まあ自己責任でやってくれ。


平成20年12月27日(土)

 晴れ。今朝も、少し雲があったせいか、氷点下5.5℃どまりだった。

 カミさんと娘、今日から千葉の実家に里帰り。新幹線に乗ってみたいとのことで、博多から東京まで新幹線で行った、その前に博多まではここからJRを乗り継いで、と言っても、宮地から普通列車で阿蘇を下りた所にある大津まで出ると、そこから博多まで特急が出ているそうで、ともかくも、朝7時半ころ宮地駅を発って行った、大晦日には帰ってくるそうだが、しばらくは、ヤッホーである。

 今日一日、昇降機の座席部分、あーでもない、こーでもないと頭をひねって過ごした。

 婆様、今日は調子が良いみたいだった。これなら帰れそうだねと外泊を期待しているようだ。出来れば連れて帰ってやりたいが、病院でどういう判断をするだろうか。

 今日もまた年賀状まで手が出なかった。


平成20年12月26日(金)

 晴れ。今朝は予報では低温注意報が出ていたが、氷点下ギリギリくらいだった、明日は氷点下8℃の予報が出されているが、日没後の空は全く雲もなく冴えわたっているので、多分予報通りに気温が下がる気がする。

 今朝は、4時前に目がパッチリである。もっとも9時過ぎにはとっとと寝てしまうので、タップリ睡眠時間を取っている、健康優良児である。当然娘より早く寝る、お父さんいつもイビキかいてるよと言われる。

 今日は官公庁の仕事納めで、準じるカミさんの仕事も今日までである。保育園も土曜保育を受けていないので娘は今日が最後である。

 今日は昇降機の工事を一気に進めて完成した。その前に、一番奥の一番高い場所にアイボルトを取り付けた、今直ぐの目的があるわけではないが、あそこに何か引っかけるものがあれば後々都合がいいので、足場を組んでいる機会を利用して取り付けた、125kgの重量に耐えるそうだから、色々な使い道がある。

 ところで昇降機、米袋を3袋、90kgを上げ下げしてビクともしないので、小生も早速乗ってみた、コントローラーのコードが長いので、自分で乗った状態で上げ下げできるので人の助けが要らない。ただ、今の座席では二階の手すりがどうしても邪魔するので、そのあたり、もう一工夫必要である。

 婆様は、朝顔を出した時、今日は読書の意欲があると言って、磐音を読んでいた。夕方寄った時に、憩室の出血以来久しぶりに昼から経口で食事をしたそうである。寝てばっかりなので、夕方はまだ腹が減っていないので、断ろうかと言っていた。



平成20年12月25日(木)

 曇り、気温緩む。

 娘、朝起きて枕元のプレゼントを開いて、やったあ、やったあ、を数知れず口にしていた、よほど嬉しかったと見える。子供用の化粧道具で、実際に爪に色をつけたり、口紅を塗ったりできるものである、イヤハヤ末恐ろしい、双葉より芳しである。

 年末になると、「これ」で忙しいということではなく、とにかくあれやこれやで忙しい、席の温まる暇がない、今日もほとんど家にいなかった、風師走である。

 そうだ、今日は産山まで買い物に行った。それから、特に何もしないつもりでも一応は正月の準備があり、そのあたりの商店に買い物に行く、一日走り回っていたような気がする。

 A星さんから庭の木を切ったので取りに来いと言われていて、そのままになっていたが、ちょうど通りがかったので、積んで帰ってきた。これで今年の薪集めも終わりだろう。

 朝夕、婆様のところによる。夕方、娘が小生のカメラのスイッチを勝手に押して、どんどん撮る、婆様にVサインを要求していた (これが娘の身長からくるアングルである)。あすの昼から食事が出るらしいが、最近は気力が無くてと、読書もあまり捗っていないようだ。

 ああ、まだ年賀状にまで手が出ない・・・・・



平成20年12月24日(水)

 曇り。今朝は氷点下5度近くまで下がった。

 サンタさんの代理で、熊本市内までプレゼントを仕入れに行く、保育園では、サンタさんなんておらんバイという友達もいるようだが、うちの娘はまだサンタさんは実在すると思い込んでいるようだ。まだ物欲がないので欲しいものは極めて安価なもので済んでいる。

 今日、娘の入学通知書なるものが教育委員会から送られてきた、入学適齢期になるとこういうものが送られてくるのだ、へえ〜、である。いよいよ現実的な問題になってきた。

 娘が昨日、ホームワイド(ホームセンター)で手袋を片方落とした。お店に一応届けておいたところ、今日ありましたよと電話があった、さすが阿蘇である、いままで何度か落し物、忘れ物をしたが、すべて出てきた。夕方、園から婆様の病院に寄って、その足で、手袋を受取りに行った。

 今夜は、例年の如く一夜だけの基督教徒である。今年は、枕もとに靴下をぶら下げておいて、明日目が覚めた時にプレゼントがあるという風に改めた。


平成20年12月23日(火)天皇誕生日

 曇り。昨日の雨、山では雪だったようで白さを増していた

 祭日の遅い朝食摂っていると、福原の慎雄さんから、鬼塚で木を切るぞ、取りに来るかと電話が入る。モチロンである、薪取りはすべてに優先する。今日のスケジュールを全部キャンセルして出かけた。

 北隣村の鬼塚にある慎雄さんの二軒続きの親戚筋の屋敷の栗の木と欅の木である。結局一日がかりで、三往復(第1車第2車第3車)、おまけに、日を改めて取りに来ようと置いてきた欅の幹、慎雄さんが帰りがけに、我が家の庭先に落していってくれた。現場では軽トラックが泥濘にスタックして動けなくたってユンボで引っ張ってもらったり、トラックは走りやすいように道を付けてもらったりと大変だった。これで今シーズンはもう完全に大丈夫だろう。今日はとにかくヘトヘトになった、今年最後の薪取りといきたいところだが、実はもう一軒約束してあるところがあるが・・・・。
(写真1写真2写真3

 薪運びの間を縫って、娘を連れて婆様の様子を見に行く、婆様、今日は落ち着いているようだった。夕方はカミさんと娘が行った。

 娘は、馬場公民館での村の子供会のクリスマス会に参加したそうだ。(写真1写真2写真3 M理子さん提供

平成20年12月22日(月)

 細かい雨の朝を迎え、終日重い雲が垂れこめた冷たく寒い一日だった、夕方には白いものが舞っていた。

 午前中、役場に用を足しに行ったところ、献血車が停まっていたので、久しぶりに献血をした、記録によると今回で28回目とある。

 昇降機の横方向移動用のレールの取り付けが完了した。これほど丁寧にやった仕事は未だ嘗てない。慎重にも慎重を期して作業した。手持ちのレベルが小さくて見にくいので、わざわざ大きなレベルを買ってきた。また、家の梁(本当は母屋という部分なのだが、あまり知られていない用語なので、梁という言葉を使う)に穴を開ける間隔も、例えば、レールに5ケ所、等間隔にブラケットを付けるとすると、両端に各一個だから、中間に3個付けることになる。その場合、各ブラケット間の間隔は、レールが4メートルだとすると、4m÷4=1mとなる、そこで、梁に1メートル間隔で5個の穴を開けて、ハイOKとなるハズである。今回は、しかし、ここで考えた(家屋に穴を開けるのだから間違いだったら大変だと思ったこともある)。実は、ブラケットの穴の位置は、当然端から少し内側に寄った所に開いているのである。両端のブラケットでそのような事情があるので、4mからその長さを差し引いてから、それを4等分しなければ、穴の位置は等間隔にならないのである。全く大勢に影響のない誤差であるが、まあそういうことである。また出来ればブラケットを梁の出来るだけ上部に取り付けた方が、レールの下の空間が広くとれるので、今までだったら、疑いもせずに一番上の方に穴を開けていただろうが、我が家の建物は構造上、梁の反対側は屋根の下り勾配が邪魔をして、一番上に穴を開けたのではボルトが向こう側に通らないのである。という風に我ながら驚くほど慎重であった。その結果、全く計算違い無しでメイン部分の工事が完成した。どれもこれも当たり前のことだ、自己満足である。今回は、2,700ミリの長さに切ったレールを、8個のブラケットで8Mの通しボルトを使って梁に取り付けた。

 朝夕、婆様の所に顔を出す。今日二度目の内視鏡検査があったそうで、憩室からの出血、まだ少し傷が残っているが、少しずつ治っていくと思うので、今週末あたりから食事が出来るでしょうとのこと、「骨折」が思いもしない事態になってしまったが仕方がない。ここのところ、夜、もらっている睡眠薬だけは眠れないといって、少々ノイローゼ気味だったが、そういったことがストレスとなって、出血するのだぞ(事実かどうか知らないが)、寝よう寝ようとするから眠れなくなるのだから、眠れなければ朝まで起きているつもりでいればそのうちに自然に眠られるし、仮に眠れなければ翌日いやでも必ず眠くなるんだから、もっとゆったりした気分で居ろよ、開き直りが大事だよと言って聞かせるが、そこが病気なんだよと、妙に冷静に自分を分析している。それでも、そうだね、同じ時間ならイライラしない方が良いね、と少し落ち着きを取り戻しているようである。

 今、日記を書きながら、テレビを見ていたら、チャイルドシートの特集をやっていた。チャイルドシートの取り付け方はとにかく面倒で難しい、7割が不十分な取り付け方をしているそうである。自動車メーカーがどれだけチャイルドシートに本気で取り組んでいるかである、仕方がないからというところが本当であろう、その基本にチャイルドシートを取り付けるという設計思想が無いので、後から無理して載せようとして無理が生じる、メーカーの力をもってすれば、もっと使いやすいチャイルドシートが出来ない訳はない、あれだけ自動車の性能向上に力を入れるメーカーが如何におざなりの姿勢であるかということがチャイルドシートを見ているとよく分かる。売上が世界一だとか、下請けを犠牲にして利益が一兆円だとか、配当性向がアメリカなどに比べて低いのは、会社の財務体質を強くするためだとか、そう云いながら一時的な業績不振で非正規社員を部品と同じに考えて平気で首を切る、明日をも知れぬ中小零細企業ならまだ分かる、自分たちだけが良ければ良いというこの浅ましさ、社会党や共産党とは立場を異にするが、この自動車メーカーの驕りには本当に腹が立つ。まさに至誠に悖る輩だ、なんちゃって。

平成20年12月21日(日)冬至(一陽来福)

 昨日のあの良い天気はどこへ行った。雨が来そうなので、夜が明けたら昨日切って放置してあった薪を小屋に取り込もうと思っていたが、7時頃まで暗くて作業ができず、ようやくいわゆるカワタレ状態になったので急いで小屋に運び込みはじめたが、時すでに遅く、小雨になっていた。日中は時々ゴロゴロ混じりのかなりまとまった雨になり、結局一日中冷たい雨が降り続いた。こんな天気では日没時の太陽の写真なんか撮れない。

 しかし、しっかり柚子湯の定点観測写真は今年も無事に撮ることが出来た。(アーカイブス昨年二年前三年前、四年前(オタフク風邪で実家)、五年前六年前)

 娘は、ピアノのなんとか(発表会だか、コンテストだか)があるといって朝から母親と多分熊本だろう、こちらが全く関心がないので敵も端からどこに行くとも言わずに出かけて行った。

 婆様のところに顔を出したあと、午前中いっぱいは豆腐屋のPC関係のサポート作業。宿場通りのライブカメラが、カメラかPCかネットワークか、どこかで不具合が生じていて止まったまま、不具合の原因を特定する時間と意欲が無くて当分の間は休止状態が続く、そのサーバーを横目に見てオカミさんのPCのメンテナンスだけをしてきた。

 カルデラ内で144と430は軒先にGPを立てているだけで、外輪に囲まれてすこぶる飛びが悪い。そこで、前々から山にぶつけようと思いつつ早や数年、今回壁に穴を開けたし、塗装用に足場も組んであるので、ようやく計画実現の運びになった、通販で取り寄せた144の3エレと430の6エレをスタックのように一本のブームの両端に取り付けて小さなローテーターで回そうと思い、注文してあった八木が届いたのでちょっと組み立ててみた。


平成20年12月20日(土)冬至(一陽来福)では無かった・・・

 最低気温、阿蘇乙姫 -5.7℃(07:28)、結構冷え込んだ、その分、日中は穏やかに晴れて、暖かかった、日没時も雲ひとつなかったが、ちょっと買い物に出ていて、一年で一番短い日の日没の写真を撮りそこない、気がついた時には残照の空だった。恒例の柚子湯、娘の風邪っ気が抜け切れていないので、今年の定点観測は娘一人の「足湯」にしようかと思いつつ小生一人だけ柚子湯に入った後、どうも冬至の風景がニュースで流れないなと思って確認したら、冬至は明日だった、とんだ早とちり、どうして今日かと思ったのだろうか、今年は「四日のアヤメ、八日の菊」になってしまった、明日改めて仕切り直しだ。

 小学校の保護者会が行っている廃品回収があった、来年はこのなかに娘も(そして我々親も)正式メンバーとして加わることになるのだろう。

 今日は休日でカミさんも娘も家にいたので、のんびりとして過ごす、夕方になって少し薪を切る。

 午前中は小生が、午後はカミさんが、婆様のところに顔を出す。


平成20年12月19日(金)

 晴れ。今朝は氷点下5度まで下がって、霜で真っ白になっていた。

 娘は、皆さんにご心配いただいた喘息のほうは完全に治まったようでケロッとしている。七転八倒するくらい苦しんだのがウソのように何ともなくなるのだから、経験したことがないのでわからないが不思議なものだ。風邪部分が少し残っているので今日は保育園を休ませたが、図書館に連れて行った、アニメの借り換えをやっていた。小生、さすがに昨夜は一度も目を覚ますこともなく5時までグッスリ眠った。

 小生は、今日一日、娘の動静を横目で見ながら、昇降機のメイン工事のレールの取り付け作業をやった。レールや車やブラケットの総重量は計算してみると12キロ以上になる。今日はレールの両端の二か所を正確に水平を出してボルトを通して取り付けた。あと数個ブラケットが残っているがもう山は越えた。

 ちょっと前の日記に、我が家のプリンターで往復はがきが印刷できないと書いたところ、阿蘇坊主どのが、うちに余ったのがあるからと、わざわざスキャナーまで付けて届けてくださった、なんだかいつも皆さんに助けられているようで有り難いやら恐縮するやらである。

 娘を留守番させて、朝と夕方、婆様の様子を見に行く、おなかの不快感も全くないそうで、落ち着いているようだ。従兄のT兄がちょっと様子を見に病院に寄ってくれたそうだ。


平成20年12月18日(木)

 今日の天気は日中は薄日が差しているが、朝がどうだったか全然分からない。というのは以下の事情による。

 昨日の日記に、・・・かくて忙しい一日が終わった、やれやれ。・・・と書いたが、どっこい、そうは問屋が卸さなかった、一日は終わらなかったのだ(正確にいえば、一日が終わって、次の日になっていたのだが)。

 娘、夜になってから、喘息の発作で苦るしがるので、エアゾルタイプの気管支拡張剤を吸引させたが、なかなか効き目が表れない。この薬は強い薬なので、使用回数が制限されているが、目の前で苦しがっているのを見るとそのままにすることが出来ず、回数を無視して何度か吸引させた。しかしそれでも効果が無くて、そのうちに身をよじって苦し〜い苦し〜い、と泣き叫ぶので、市の中央病院に電話をして、ネブライザーをやってもらえないかと頼んだところ、今夜の当直医は整形外科医なのでネブライザーなら出来ますが、それ以上になると出来ませんがそれでも良ければいらっしゃいとのことだったので、直ぐに連れて行ったのが午前〇時近く、受付も、医師も、看護師も非常に親切で、気持ち良く対応していただいた。ネブライザーをやってもらって少しは楽になったようだが、まだ喘鳴が残っており、血中の酸素濃度も低いまま(84くらいだったか)。もしまた発作が起きたら、熊本市の地域医療センターに行くしかありません、とのことで帰ってきたが、やはり午前3時頃になってまた苦しがり始めた。親はただ手をこまねくだけで何の役にも立てず、この後どう容態が変化するのか予測つかないので、遠距離のこともあるのでとにかく、行ってみようということになり、カミさんと地域医療センターまで飛ばして一時間あまりかけて娘を搬送した。結局、午前4時頃に着いて、ネブライザーと点滴とで、治療が終わったのが午前8時過ぎ、後はかかりつけの医師に診てもらうことで、家に戻ってきたのが、10時頃、娘はようやく落ち着いたようだが、カミさんと小生は睡眠不足である、それでもカミサンは昼から仕事に出て行った。地域医療センターとは昼間は普通の病院だが、夜間や休日は周辺の開業医や大学病院から各専門医が詰めて、急患受入れ専門病院になる、ここでも非常に丁寧に対応してくれた。警察や消防が365日休み無しであるようにもっとたくさんの医療施設がかくあって欲しいとつくづく感じた一晩だった。

 夕方近くになって、地域医療センターの経過報告を持って古閑医院に娘を連れてゆく。まだ少しゼーぜーがあるので、もういちどネブライザーをしましょうとの診断で、昨日から三回目のネブライザーをやってもらってスッキリして、薬をもらって帰ってきた。24時間、いつも居るとは限りませんが、結構いることがあるので、今回のような場合は一応電話をしてみてくださいという有り難い言葉を頂戴した。

 地域医療センターの帰りに婆様のところに寄ってみたところ、昨日、大量の出血したうえに、食事も全く摂っていないのに今朝は放ったらかしで全然薬もくれんと、少々ヒガミ気味だったので、看護婦さんに確認したところ、これからちゃんと点滴を打ちますよ、とのこと10時になるかならない時間なのに相変わらずのセッカチぶりでその上に少々ヒガミっぽくなっている、少しくらい放ったらかしでも大丈夫くらいの病状なのだと思えばいいのに、まあやむを得ないところか。夕方電話をしてきて、火曜日から食事が出ると言われたと報告してきた。が、夜、様子を見に病院に行ったところ、その後、また出血したそうで、ガッカリしていた。憩室は腸にたくさんの窪みができたもので、複数個あるので、また破れたのだろう、気長に治すしかないのだろうか。

 先日電子申請をした移動局の更新免許状が今日送られてきた。有効期限は平成26年2月15日である。

 今晩はとっとと寝よう。


平成20年12月18日(木)

 今日の天気は日中は薄日が差しているが、朝がどうだったか全然分からない。というのは以下の事情による。

 昨日の日記に、・・・かくて忙しい一日が終わった、やれやれ。・・・と書いたが、どっこい、そうは問屋が卸さなかった(正確にいえば、一日が終わって、次の日になっていたのだが)。

 娘、夜になってから、喘息の発作で苦しがるので、エアゾルタイプの気管拡張剤を吸引させたが、なかなか効き目が表れない。この薬は強い薬なので、使用回数が制限されているが、目の前で苦しがっているのを見るとそのままに出来ず、回数を無視して何度か吸引させた。それでも効果が無くて、そのうち身をよじって苦し〜い、と泣き叫ぶので、市の中央病院に電話をして、ネブライザーをやってもらえないないかと頼んだところ、今夜の当直医は整形外科医なのでネブライザーだったらやりますが、それ以上になると出来ませんがそれでもよければいらっしゃいとのことだったので、連れて行ったのが午前〇時近く、受付も、医師も、看護師も非常に親切で、気持ちよく対応していただいた。ネブライザーをやってもらって少しは楽になったようだが、まだ喘鳴が残っており、血中の酸素濃度も低いまま(84くらいだったか)。もしまた発作が起きたら、熊本市の地域医療センターに行くしかありません、とのことで帰ってきたが、やはり午前3時頃になってまた苦しがり始めた。我々は何もしてやれず、この後どう容態が変わるか予測できないので、遠距離のこともあり、行ってみようということになり、カミさんと地域医療センターまで飛ばして一時間あまりかけて娘を搬送した。結局、午前4時頃に着いて、ネブライザーと点滴とで、治療が終わったのが午前8時過ぎ、後はかかりつけの医師に診てもらうことで、家に戻ってきたのが、10時頃、娘はようやく落ち着いたようだが、カミさんと小生は睡眠不足である、それでもカミサンは昼から仕事に出て行った。地域医療センターとは昼間は普通の病院だが、夜間休日は周辺の開業医や大学病院から各専門医が詰めて、急患受入れ専門病院になる、ここでも非常に丁寧に対応してくれた。警察や消防が365日休み無しであるように医療施設もかくあって欲しいとつくづく感じた一晩だった。(昼時点)


平成20年12月17日(水)

 今朝はちょっと氷点下、また霧が出る。終日穏やかな天気。

 娘が昨日あたりからまた少し咳が出るので、熱は無いが、用心のために、保育園に行く前に古閑医院に寄って薬を出してもらう。聴診器で聴いて、少し右の方から喘鳴が聞こえますね、ということだった。(それで終わるかなと思っていたところ、結局夜になってまた苦しがって、スプレー式の薬を吸引させる。)

 保育園に娘を送って婆様の病院に寄ったところ、今朝ほど下血があったということで、その跡を診せてもらったが、鮮血と少し黒みがかった血液がかなり出ていた、腸あたりで出血が見られますね、婆様に、何か心配事(ストレス)でもありますか、とのことだったが、婆様、何もありませんと答えていたが、入院が長引いて早く退院したいと言っていたのでそれがストレスになったのだろうか、いつも病院にかかっていて折々健康チェックを受けているようなものだからそんなに悪い病気ではないというなんとなくそんな自信があるが、ともかくも骨折の入院で下血なんか予想もしてなかったので少々驚いた。

 夕方、娘を迎えに行って、その足で婆様の病院に寄って、娘は咳をするので、車の中に待たせて婆様の様子を見に行くが、主治医が手が離せない患者にかかっておいでだとかで、一旦帰宅後に改めて病状を聞きに伺う。

 内視鏡で検査をしたそうで、小腸の入口まで大腸全部の見事なまでに詳細なカラー写真が撮られていて、そのなかに完璧に患部が写っていた。憩室からの出血だった。婆様は昔から憩室があるのは分かっていたが、それが偶然今回の入院中にそこから出血したのだった。小生の昔の同僚が同じように憩室で大出血をしたことがあったので、どんなものか知っていたので冷静に先生の話を聞くことができた。数日安静にしていれば食事も摂られるようになるでしょうとのことで、小生もなんとなく憩室からの出血だろうなと思っていた。本人も落ち着いているから、まあ大丈夫だろう、入院中で幸いだったと言うべきか。でも考えてみたらポンコツもポンコツ、大ポンコツである、どれもこれも部品は相当ガタがきているわけである。


 以前、薪をもらいに行った古城のI入さんが、屋敷の一部に生コンを打つということなので、午後から手伝いに行った。ミキサー車が狭くて奥まで入らないので、I入さんの組うちの方お二人と小生の三人で三台の一輪車で少し坂になった道を往復してミキサー車二台分、計4立米の生コンをピストン輸送で運んだがさすがに体が悲鳴を上げていた。


 午前中、仲間内の坂本棟梁から、沖縄に納める水車が完成して仮組をしたという連絡をもらったので見に行った、その大きさに驚いた、年明けに現地で組み上げるそうである。

 そういった合間を縫って、昇降機のレールを金ノコで必要な長さに切断した。

 かくて忙しい一日が終わった、やれやれ。明日はまた終日子守かあ・・・・・


平成20年12月16日(火)

 晴れ。朝、氷点下4℃、日中は11℃を越して穏やかに晴れる、澄み渡った空に噴煙が夕日に赤く染まっていた

 年金が振り込まれた後ということでもないが、あちらこちらの支払いに回る。

 朝と夕、婆様の様子を見に行く。夕方、病院の帰り途、娘の図書館行きに付き合う。娘、自分の図書カードを持っていて、最近、アニメのDVDなどを借りているようだ。

 夜、おさんどん。牡蠣とホウレンソウのバターレモン炒めと、柳川もどき(ドジョウの代わりに牛肉を使う)と大根と柿の膾を作る。カミサンが牡蠣を食うと、アナフラキシーを起こすので、カミサンが居ない時にしか牡蠣を食べられない。娘はカミさんが牡蠣にアタるのを知っているので、先入観からか、好カンという。とんだ災難だ、勿論小生がである。膾、柚子が無くてちょっとしまらなかった。

 恐る恐る母屋に10ミリの穴をあけてボルトを通して一番高い所に アイナットを取り付ける。無事水平に穴を開けることができた、緊急時などにロープを掛けるためのものである。100キロ以上の重さに耐えることになっている。


平成20年12月15日(月)

 小雨のち曇り。

 今日もDI局と久木野村にクヌギの切り出しにゆく。朝起きた時には弱い雨が降っていたので今日の予定が危ぶまれたが、出発のころには天気も回復に向かい、予定通り今日の作業を終わることができた。先日も書いたが、少しくらい樹が不本意な方向に傾いていても、その傾きと違う方向に倒す場所を決めて、ほぼピタリとそこに倒すことが出来るようになった。薪材を軽トラに積んで帰って来る時にはいつものことながら気持ちが豊かになる。猟や漁に出て満足いく収穫があった時はきっとこういう気持ちになるのだろう。

 朝夕、婆様の様子を見に行く、今日は新聞休刊日で届ける新聞は無し。年末年始の一時退院はどうも3泊4日くらいの許可しか降りそうもない感じだ、そうなると、31日、1日、2日ということになるか。


平成20年12月14日(日)

 曇りのち晴れ。昨夜の雨で、朝は路面や畑などは濡れていたが、その後、回復に向かい、夕方には間もなく一番南に寄った位置に沈む山の端からほんの少しだけ北側に寄った場所に真っ赤な夕日が沈んで行った。

 今日は毎年恒例の年末のお神札配りに村内の各家を回る。家庭にある神棚は大体、神様の中心に位置する天照大神と氏神様と鎮守の神様との御三体祀るように出来ている。ここの氏神様は阿蘇神社で、鎮守の神様は馬場八幡宮ということになる、その御三体の御神札を配ったのである。

 午前と夕方、婆様のところに顔を出す、今日は休診日で、病院内は総じて静かだった。


平成20年12月13日(土)

 氷点を少し下がって夜が明け、昼近くから弱い雨になる、天気予報通りだった。

 昨年に引き続いて、DI局の御好意で、久木野村の氏の隠れ家のクヌギの木を伐り倒しにゆく。何時もながら立木を倒すのは、何年もかかってここまで育ってきた木の命を絶つという申し訳なさを感じる。そして、一歩間違うと大きな事故につながるという緊張感を覚えるが、一昨年(村の公民館の木の切り出し)より昨年、昨年より今年と、倒す方向を定めて切り込みを入れたりする技術がだんだんと上達しているのが自分でもよく分かる。それにしても、立っている木はそれほど大きさと重さを感じないが、倒してみて改めてその長さと重さに驚く。切断して、2mに満たない短い幹でも簡単には重くて持ち上げられないくらいだ。今回は、入口近くにあって隣家方向に少し傾いている木を倒す必要があり、梯子で上の方に登って、太い枝をまずチェンソーで切り落として、なるべく軽くしてから、ロープを掛けて、家屋と反対方向に引っ張ってもらってから切り倒した。そのほかに数本切り倒して、DI局の軽トラと二台に載せて昼過ぎに帰ってきた。シイタケのホダ木にちょうど良い木ばかりだが、ストーブにくべて燃やしてしまうのだから、なんとも贅沢な話である。

 久木野から戻ってから婆様の様子を見に行く。歩行訓練のリハビリでシルバーカー(バギー)を使うので、家にあるやつを持ってくるようにという指示があったそうだ。

 娘は、保育園のクリスマスイベント(お楽しみ会という名称)に母親に連れられてい出かけて行った。大分前から練習していたいろいろな出し物の成果発表である、夜、カミさんが撮ってきたビデオを見せてもらった。

 夜、「なごみ野」で宿場会の忘年会があり、今年の会の活動を締めくくった。恒例のビンゴゲームで、くじ運の悪い小生が一等賞を当てた、年末ジャンボを買ってあるが、瑞兆か・・・・


平成20年12月12日(金)

 晴れ。今日も午前中、長い時間、阿蘇谷はしっとりと深い霧に沈んだ

 午後から、阿蘇郷土史研究会の例会に出席する。

 朝夕、婆様の様子を見に行く。今日も婦長さんに呼ばれて、注意を受けた。婆様はベッドから降りる程度なら構わないと思っていたようだが、まだ筋力が付いていないのでフラついて転ぶと危ないので、自分で昇り降りをするのは構いませんが、必ず係りの者が傍で見ている状態でやってくださいということだったので、そのことを婆様に伝えたら、分かったと言っていたので、今後は大丈夫だろう。

 筋力がつかないと退院しても危ないので、年末年始は一旦外泊という形で家に帰って、年が改まってまたしばらく入院をしなければならないようである。今日は、インフルエンザの予防接種をしてもらっていた。

 明日は、朝から薪材の切り出しに出かける予定である。(Yコネクション)


平成20年12月11日(木)

 晴れ。午後にわか雨。朝は氷点下3℃くらい、日中は15℃くらいまで上がる。

 従兄の伸兄が一昨日亡くなり、今日、大津で葬儀がしめやかに執り行われた、家族を代表して小生、謹んで参列する、色々な思い出が脳裏に去来する。享年76、合掌。

  朝早く友人にメールを書いていて、そのなかで一年を振り返ったところ、完全に忘れていた、この2日が阿蘇に移住してきた日だったのだ、丸七年になる、早いものである、その分、歳をとったということだが、本人はまったくその自覚がない。

 朝夕、婆様のところに顔を出す、ついでだから入院中にインフルエンザの予防接種をしてもらうようにナースセンターに頼んでおいた。
平成20年12月10日(水)

 晴れ。朝は氷点下になることもなく、日中も15℃くらいまで上がったが、特に気温を体感するような活動をしなかったので、暖かかったのかどうかあまり印象がない。

 朝は、深い霧に包まれて、今の時期には珍しいそうだが雲海が発生した。我が家の周囲は田畑なので、他の場所ではとっくに見通しが利く状態になっていたのに昼頃まで立ち上る水蒸気で煙って見えた

 八幡様の元旦祭の案内状を発送しようと思って往復はがきに印刷をしようしたら、我が家のH社製のプリンターは古いせいか、往復はがきに対応していない。古いから往復はがきが印刷できないというよりはアメリカが本家のPCの会社なので、日本の印刷フォーマットに対応しておらず、リーガルだとかなんだとか日本では必要のない欧米の用紙の規格しか見当たらなかった、何か方法があるのかもしれないが、時間が勿体ないので、tomuさんのところからプリンターを借りてきてとりあえず対応した。

 今日も足場の手直しをした。どうも屋外の塗装用の足場にしても、今回の足場にしても、足場を組むことが目的のようになって、足場を組んだところで安心してしまっているようである。今日は背中に当たる部分に手すりをつけた。全体重をかけるほどの丈夫な手すりは構造上無理だが、後ろ向きでも背中に当たることで、それ以上は後ろに下がれないぞ、という意識を体に感じさせることができるので、あるのと無いのとでは大違いである。

 朝晩、婆様の様子を見に行く、ちょっとブルーだと言っていた、気分が沈みがちのようなので、気合いを入れてきた。夕方にはちょうど食堂に行く準備でベッドから足を降ろしていたが、この段階までは禁止されていないようである。

 ところで、先日、裁判員の候補者の通知が発送されて、届くところには届いているのだろうが、我が家には全然届いていない。良いクジも悪いクジも我が家にはどうも縁がなさそうである。

 候補者の通知があったということも公表してはならないものなのだろうか。そもそも小生は裁判員制度には反対である、迷惑である。日本にはもともとそういった土壌が無い、社会風土がない、子供のころから自分の考えや意見を人前で述べるといった訓練ができていない、今のメディアに代表されるように一つの意見の流れができるとヒステリックにその流れに決まってしまって、他の意見が出てきにくい。もし実施するのであるば、今の子供たちが将来成人して裁判員制度に馴染めるようになるまで、公開の場で自由に自分の意見が発表できるような訓練を経てから実施すればよい、性急に過ぎる。

 憲法に国民の義務として教育、納税、労働の義務があるが、国民全員に義務を課すことになる裁判員制度はこの三大義務のどれに属するのだろう、属さないとすれば、憲法の精神に反するのではないだろうか。小生は過激で、厳罰主義で、直ぐに「こんな奴は死刑にしろ!」と叫ぶので裁判員には不適格である。


平成20年12月 9日(火)

 小雨のち曇り。昨日までとは違って寒さが緩む。

 昇降機のレール取り付け工事のための足場、少しでも作業の安全性が高まるように若干の手直しをする。若干でも結構時間がかかった。

 朝夕、婆様の様子を見に行く。


平成20年12月 8日(月)

 今日は12月8日だ。
 
 晴れのち雨。今朝もしっかりと氷点下5℃まで下がった。昼前頃から冷たい雨がポツポツと降り始めた、このような天気日は氷点下より寒い。

 娘、本日より元気に保育園復帰。

 昇降機のレール取り付け用の足場を組む、やはり高い、少し大げさだが安全第一である。手摺を作っていないので仙酔峡あたりからダメ出しがでそうだが、その分は安全帯でしっかり安全を確保する予定である。(写真1写真2

 朝、病院に顔を出すと、いつもの場所に婆様が居ない、同室の人が隣に移りましたよと知らせてくれた。婦長さんも顔を出され、ニコニコされてお移ししましたよ。婆様は、ああ、左遷された、と憮然としていた。介護士さんが、左遷ではありませんよ、栄転ですよと、慰めとも冗談ともとれる言葉を掛けていた。

 今度は、ナースステーションから一番近くて、一番目の届く場所である。婆様に、「要注意、問題患者だからだぞ、それ見ろ、自業自得だぞ」と言ってやった。自業自得と言えば、うちの娘は三〜四歳くらいの頃からこの言葉を知っている。小生が注意してもやめずにその結果泣きを見ることがあると、冗談に、それみろ自業自得だ、と言っていたのでいつの間にか覚えてしまって、娘もよく「じごうじとくバイ」と言う。尤も、婆様は今まで居た部屋が特に良いということではなくて、突然環境が変わったので落ち着かないから左遷だと言っているのであって、それを受けて小生が自業自得だぞ、と言ってはみたが、考えてみたら、今度の場所は一番良い場所だと思う。

 本人は痛くないので、もうほぼ治っていると思い込んでいた節が無きにしもあらずだったかもしれないので、改めて、「骨には神経がないから自覚症状も無いし、手術した傷痕も治って、痛くもかゆくもないからもう治ったつもりでいるかもしれないでけど、今はボルトで骨をくっつけているだけで、最終的には骨と骨が組織的にくっつかないと治ったことにはならないんだよ、高齢だから骨がくっつくためにはもっと時間がかかるから、今、もしまた転倒でもしてしまったら元の木阿弥なからね」と、諄々と説いてやった。どうも年齢の自覚がないようだが、それでようやく分かったようだ。娘もおばあちゃんに手紙を書いて養生を願っていた。(写真



平成20年12月 7日(日)

 晴れ。今朝は九州各地の期並みの今季最低気温、阿蘇乙姫も氷点下8℃を記録した、風がなくて晴れの天気だから放射冷却、気温がぐっと冷え込むのである。こんな朝は実に気持ちがいい、ボンの散歩、軍手はさすがに冷たくて、帰ってからもしばらくの間は指先の痛さが取れなかった。

 午後から、急に思いついて東側に長期間放置してあった竹や雑草類を燃やす。燃やそう燃やそうと思いつつ先延ばしになって、そのうちに、乾いたかなと思ったら雨になるという天候が続いて、燃やす機会を逃していた。明日あたりからまた雨になりそうなので、急きょ燃やすことにしたのである。 小生の日常、すべからく、「思い立ったら」主義で、計画性が全くない、もっともこれがここの生活であり、これで良いのだ。

 朝、婆様の様子を見に行く(夕方はカミさんと娘)、どうも言いつけを守っていないらしい、看護婦さんから、今日も食事で一旦食堂に集まったあと、尿意を催したらしくて自分で勝手に車椅子で病室まで戻り、ポータブ便器に座ろうとして、転んだか転びそうになったかの事件があったらしい、ナースセンターから常時監視が出来るよう、ナースセンターから一番近い病室に移そうかと相談中だそうだが、しょうがない婆さんである、まったくバカタレである。


平成20年12月 6日(土)

 曇り、時々小雪チラつくが、予報のような雪にはならなかった、ただ終日0℃前後の気温で推移して、2℃まで上がることはなかった。

 午前中、娘を連れて婆様の様子を見に行く(夕方はカミさんが行く)、娘は、点滴の跡を自慢そうに婆様に見せていた

 じっちゃいが、熊本での治療の帰り道にちょっと寄ってくれた。「磐音」が今度は宮崎で活躍している。昨夜の病院のベッドで一気に(事前に送ってあった)2巻読み終わったそうで、今日は3巻以降、婆様が読み終わった分をまとめて持っていった。

平成20年12月 5日(金)

 曇り。昨夜降ったようだ、ここが雨の時には山の上はもう当たり前に雪になるようで、また頂上付近が白さを増していた。

 娘、劇的に回復する、朝、まだ5時台なのに、小生が寝ているところを起きろと言って起こされた。起きるなり、腹が減ったという。子どもというものは病むのも早いが回復するのも早いようだ。昨夜は、夕食を少し摂ってから薬を飲ませたところまた気持ちが悪いと言ってもどした。せっかく飲んだ薬が吸収されるまで我慢しろと言って小一時間我慢させたが結局もどした。そういった経過があったので今朝の回復ぶりには驚かされた、その後は、どんどんと回復していった。ノド元過ぎれば何とやらで、あれほど殊勝であったのが、いつものワガママが顔を出し始めた。夕方、カミさんが帰ってきて、業務引き継ぎをしてようやく解放された、いやあ長い二日間だった。

 朝、娘に留守番をさせて、婆様の様子を見に行く。O野婦長さんに呼び止められて、天使のような微笑みで(事実そうなのだが)、「お母さまが、勝手にベッドを下りて自分で車椅子を乗り回しておいでなので、今が一番大事な時で、もしものことがあると大変だから自分ひとりで絶対にベッドから降りないように、少し強く注意をしておきましたので、息子さんからもどうぞよろしくお伝えください」と注意を受けたので、その旨、強く申し渡した。本人はケロッとしてたが、まあ二度としないように約束させた、それほど回復が進んでいるのだろうが、ちょっと転んだだけで骨折するほど老化しているという自覚が足りないようである。事実、夕方、顔を出した時に、再確認したところ、一回だけ、(ポータブル)トイレに降りた、と言うので、それも駄目だぞと再度強く言っておいたが困った婆様ではある。

 今夜は雪になりそうだ、夕方、仙酔峡の麓で、ここから100mほど上に位置する病院に行った時に少し白いものがチラついていた。


平成20年12月 4日(木)

 晴れのち曇り。今朝も凍らず、霜降りず、日中も穏やかに推移する。

 娘、やはり喘息を起こす、熱は7℃ちょっと。明け方近くになって、苦しいというのでプッシュ式のエアゾルを都合3度吸引させたが、収まらず、二度ほど気持ちが悪いと言って嘔吐する。いつもより症状が重いと思ったので、いつもなら空いた時間を見計らって連れてゆくのだが、朝一で古閑医院に連れてゆく。

 例によってネブライザーをやるがあまり効果なし、点滴やりますかということで、生まれて初めて(だと思う)点滴をやってもらう、点滴の間にも二度ほど嘔吐する。11時半ころ診療が終わって、婆様の病院に寄って新聞と頼まれたものを届ける、こんな状況だから夕方は来ないよと告げる。今日は4度目の入浴があるそうである。娘は駐車場の車の中で待機。疲れたと見えて帰りつくと直ぐに寝入っていしまった、そして、午後からもずっとウツラウツラ。あまり劇的には症状は回復を見せないが、好きなテレビ番組を見るのを楽しみにしているので、まあ、大丈夫だろう。

 間の悪いことに、カミサンは職場の研修旅行とやらで泊まりがけで不在、久しぶりにクレーマークレーマーである。以前にもクレーマークレーマーというフレイズを使ったことがあるので、父子二人だけの夜というのは過去にもあったのだろうが、いつだったか記憶にない。

 ほぼ終日娘に付きっきりで何もできず、小生はオサンドンに長けているのでカミサン不在でも大いに一向に構わないが、娘はやはり母親が良いようで、こればかりは、父親は敵わない。


平成20年12月 3日(水)

 晴れ。暖かい朝を迎えて一日穏やかだった。暖かいといっても氷点下にならない程度の気温で、車のウインドウも凍っていなかっただけで、下界ではやはり寒い朝と言うだろう。

 体調は鼻を少しグスグス言わせているが昨日と違って気力横溢する。その証拠に、何を思ったか突然、随分と長い間ペンディングになっていた壁の穴開けを始める。今まで、外部から同軸ケーブルやライブカメラのケーブルなど何本も一つの穴から屋内に引き込んでいたので、無線の電力が他のケーブルに干渉して色々と不都合なことが起きていた。もう余裕がなくてケーブルを増やすこともできなかった。穴を増やそう、増やそうと思いながら、そのためには小生の家財を移動させて、工事をする壁面前を空けなければならず、ついつい後回し、後回しになっていた面倒な仕事である、それを今日やる気になったのである。

 壁面の前さえ空ければあとは簡単。と思ったが、これが予想以上に難航した。以前開けた時にはスムースに出来たハズで、その時、困ったという記憶が全くない。しかし、同じ工具を使って、今回はスムーズにいかなかった。外壁と内壁の間に100mmの空間があるが、外壁と内壁と同じ中心線で同じ穴を開けないとパイプが通らない。それだけの厚さを一度に開けるホールソーなど無い、一体以前はどうしたのだろう。結局、内側の壁を一旦くり抜いて、その開けた穴から、向こうに見える外壁のこの辺だろうというところを狙って内側からドリルで穴を開けて、外に回って、改めてホールソーで、外壁に穴をあけた。エイ、ヤッでやったがピタリであった。と言っても、内側に開けた穴から断面に墨を塗ったパイプを突っ込んで壁にできた丸い墨跡の中心に大体の狙いをつけてやったのだから、そうそう無謀というわけでもないが。

 ようやく夕方、二本の穴を穿つことができた(内側外側 )。これで同軸やカメラ類のケーブルを整理することで、アンテナも増やすことが出来る、今後他の作業もスムースに行く、外壁の塗装もその一つである。

 朝と夕、婆様の様子を見に病院に行く。最近夕食の時間が少し早くなったのだろうか、よく夕食時間にかかりそうになる。今日も元気なようだった。

 N島純一さんにお願いしてあった昇降機の材料が今日届いた。いよいよ工事に取り掛かることにする。その前に、材料一つ一つの重量を測って、全部でどのくらいの重さが母屋にかかるか参考までに記録する必要がありそうだ。

 娘が少しゼーぜーが始まったようだ、小生の風邪が伝染ったか。


平成20年12月 2日(火)

 今朝もグッと冷え込んで畑は霜で真っ白、空は真っ青に澄み渡る。阿蘇乙姫 -3.2℃(04:56)、連日冷え込んでいるので、古閑の滝も凍結するかと思うが、氷瀑は吹き上げる風で滝の水が飛沫になって凍りついて出来るので、風がないとダメなのである。冷え込むときは往々にして風がないことが多いのでなかなか難しい問題である。

 保育園で年末恒例の餅つきがあった、ちょっと顔を出して写真を撮ってきた。

 餅つき連続写真(13枚)

 風邪は治ったと思ったのだが、今日はなんだか体調がすぐれずにゴロゴロしてすごす。今日も賄い方を頼まれていたので、面倒だからカレーにした。娘はカレーが好物で、何が好きかと問うと「一にカレー、二にカレー、三、四が無くて五にカレー」とのたまう(尤もこのフレーズは小生が教え込んだものであるが)。大量に作っておくとしばらくはこれでもつ、好きだから良いだろう。

 朝夕、婆様を見舞う。


平成20年12月 1日(月)

 晴れ。阿蘇乙姫 -4.7℃(06:14)今季最低気温。空気が澄んでいてい風がなく気持ちが良い朝を迎える。畑が真白である。

 今日ヨリ、愈々師走也、風師走也、体調漸ク旧ニ復ス。

 5年ごとにやってくるアマチュア無線局の局免(移動局)の期限が21年2月15日という連絡がきていたので、電子申請で再免許手続きを済ませる。国や自治体の電子申請は、とにかく下準備が大変で、何が何やらさっぱりわからなくて途中で投げ出す人が多い。小生も昨年、所得税の確定申告を電子申請(e-TAX)でやったが、今だによく理解できていない。さらに最近、小生のPCのトラブルで、クライアント側の設定が白紙状態に戻ったので、所得税の確定申告に備えてまたそろそろ改めて準備をしなければならないところであるが、無線に関する電子申請方法については、本則による手続きを経なくても、極めて簡単にできるようになったので、今回はこの方法によって手続きを済ませた、非常に簡単である。http://www.denpa.soumu.go.jp/public/index.html 。更に申請手数料が、従来のぺーバーによる申請が3,050円であるのに対して、1,950円とかなり割安になる。世の中何事につけてもどんどんインターネット利用が進んでいるのは確かなようである。

 ここにきて婆様の調子が非常に良さそうである。朝夕様子を見に立ち寄る。夕方には自分で車椅子を回しながら食堂に向かうところだった








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