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平成21己丑(2009)年 2月の記録(新しい日付けの順)


平成21年2月28日(土)

 曇り。今日で二月が終わるが、日数が他の月に比べて短いことで、損をしたと思う人、儲かったと思う人さまざまだろうなと、毎年この日を迎えて思ってしまう。さしずめ、今の立場、どちらだろうか。

 昼頃、根子岳で滑落事故があった(ようだ)、運動公園のグラウンドから根子岳に向けて ヘリコプターが飛んで行った。 

何の脈絡もなく
 電波法第五十九条
何人も法律に別段の定めがある場合を除くほか、特定の相手方に対して行われる無線通信を傍受してその存在若しくは内容を漏らし又はこれを窃用してはならない。

 午後、滉兄が大津での用事の帰りにわざわざ婆様の様子を見に立ち寄ってくれる。

 垣根代わりの茶の木が育ち過ぎて田の日照を妨げるといけないので、午前中、急に思い立って刈り払い機でざっと刈り揃えたが虎刈りになってしまった。ここに来たばかりの頃は、何でも物珍しいことばかりで、茶摘みもそのひとつ、近くの製茶工場に摘み取った茶葉を持ち込んで茶にしてもらったことがあるがそれもその時一回限りで、翌年からはもうしなくなった。日頃の管理が悪いのであまり良いお茶にはならなかったこともある。

 夕方、婆様の入浴介護をする、引き続いて娘も入れて一丁上がり、二人まとめてというのもそれほど寒さを気にしなくて済むようになったので出来ることである。

 根子岳の滑落事故、夜のニュースでやっていた、福岡県の36歳の女性、天狗岩付近で200mちかく滑落したそうだ、意識はあるとのことなので、このまま回復に向かえばいいが。事情は分からないが技量はあったのだろうか。

 明日は、阿蘇山ろくの野焼きが予定されている、小生たち北外輪山一帯は8日である。
平成21年2月27日(金)

 ぐずついた天気で明け暮れる。

 ずっとこんな天気ばかりで晴れ間が続かないので薪を作ることができない、最近の雨続きが始まる直前にかなりまとまって薪を作っておいて良かった。気温は高めの毎日だがそれでもまだ薪はたくさん必要である。

 天気がハッキリしないので、ということもあって婆様のリハビリは休む。半分は、もう行かなくても良いのではという気持ちからである。

 午後から郷土史研究会の2月例会に参加する。久しぶりである。いつもその日の朝までは覚えていながら直前になって忘れて参加しそこなったことが最近二度ほどある。今日は波野地区の史跡などについて講演があった。


平成21年2月26日(木)

 予報が少し良い方にずれて今日は穏やかで気持ちのいい一日になった、夜になって少しポツリポツリ来だした。

 午前中、婆様をリハビリに連れて行ったついでに主治医に今後の方針をお尋ねして、そろそろ通院リハビリは卒業にしましょうと言うことになって、デイケア再開のお許しが出た。

 午後から、婆様の入浴介助をする、気温が高めなので寒さ対策に神経を使わなくて済んだ、前回の入浴はいつだったろう、記録を忘れた。

 ちょうど、夕方、ケアマネージャの I 原さんがケアプランのことでお見えになったので、早速、そのことをお話して、来月に入って2週目あたりからデイケアに通うように手配をしていただいた。デイケアに行くと、外部の刺激を受ける機会が増えるでボケ防止になるだうし、施設の温泉で入浴もできる、要介護3だから毎日でも通えると思うが、本人が毎日は疲れるからイヤだと言うので、とりあず今まで通り週二回で始めてみて、様子を見て増やすことにした。これで小生も少しは楽が出来るというものだ。

 W家のインターネットの件、今日、モデムの手配がついて、夜ちょっとだけお邪魔して、無事復旧出来た。もっと早くモデムの故障に気がつけば良かった。


平成21年2月25日(水)

 今日も昨日と同じような曇り時々雨の天気が続いた。朝のうちはかなり強い風も吹いていた。気温は昨日以上に高かったのではないだろうか。

 朝のうち雨が残っていたので、婆様のリハビリは午後から出かけた。

 婆様は自宅で医療用酸素のお世話になっている。吸った空気がうまく体内に取り込めなくて、少し酸素濃度を高くした空気を24時間吸っている。一時ほどではなくなってよく鼻に管を着けるのを忘れているし、不思議なことに病院などに外出する時にも携帯ボンベを持っていかない。肺気腫系の病気は治ることはないのだろうが婆様の場合は、酸素のお世話にならなくても結構大丈夫のようである。しかし、酸素の補給が無くなると、万一の場合に命にかかわる重症の人もいるから、医療用酸素の会社の酸素発生機(濃縮機?)の管理は非常に厳格で、半年だか一年ほどで整備のために機械を入れ替える。今日はその機械の交換があった

 今日も取り立てて何をやったというほどのことは無かったが、介護とおさんどんと保育であっという間に一日が過ぎて結構体力的に疲れるものである、小生も老人だものなあ。そもそも介護と保育という対極の仕事を同じ人間がやること自体もともとオカシイのだから。


平成21年2月24日(火)

 今日も降ったりやんだりのハッキリしない天気だった。ただ気温が高めで、ほとんどストーブの管理をしなかったので、室内は寒い時よりもかえって寒くなり、寒い一日だったという印象が強い、まだまだストーブ無しで過ごせるほど気温は高くないのだ。

 午前中、婆様をリハビリに連れてゆく以外は特に何もしなかった。

 夜になって、連チャンであるが、娘を連れW辺家へ、PCのサポートへ。家族に晩飯を作って食べさせて慌ただしく出かけ、娘を風呂に入れなければならないの短時間でまた慌ただしく帰ってくる。

 今日NTTから人が来て、回線を調べてくれたそうで、やはりモデムが壊れているだろうという結論に達したようである。

 そのモデムをオークションで調達しようとしたが、モデムだけというのはほとんど無くて、それもNTT製に限られるようである。ルーター機能付きはまだ少しはあるが、NTT以外のメーカー製は大部分がルーターだけのようだ。そうなると最低限NTTから高いモデムを買わないとならないのだろうか。

 モデムの故障にどうも納得がいかず、取っ外して預かってきた、我が家で試してみることにした。
   ・
   ・
   ・
 我が家の回線で試した結果、やはりモデムが壊れているようだ、ようやく得心した。


平成21年2月23日(月)

 雨のち晴れ、夜になって再び雨。いわゆる菜種梅雨というやつで、昨日から天気が良くない、この天気しばらく続く由。

 そんな天気の中、JF1JTQ夫妻が、九州旅行の途中わざわざ寄り道してくれた。昨日福岡に着いて、夕べは湯布院に泊って、今日阿蘇を通過して行ったのだ。せっかくの遠来の客人、せめて天気だけはというところだが、やまなみハイウエー、ずっと霧の中だったそうで、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になる。阿蘇も頂上付近は雲の中で、火口も風向きの関係で立ち入り禁止だったと、途中、メールで知らせてきた。今日は熊本泊まりとのことで、高千穂峡まで行ってから熊本市内まで走るとことだった、どうかこれから先、良い旅であって欲しい。遠くからわざわざ寄り道をしてくれて本当に嬉しかった。

 JTQも参加した一昨日のハムクラブのミーティングの写真がJA1GQVから送られてききた。鶴が台ハムクラブ、もう何十年も前に、公団住宅のアマチュア無線家が集まって作ったクラブで、集合住宅という無線には極めて条件の悪い中で熱心に無線を楽しんだOMたちが、団地を出てからも今だに年に一回以上集まって交流をしている。

 朝のうち、雨だったので、婆様のリハビリは昼から行く。

 夜、村内のW辺さんのお宅に、PCのサポートに行く、どうもADSL回線に問題があるようで、NTTに点検を依頼する。


平成21年2月22日(日)

 朝、氷点下。晴れのち小雨模様。

 昼前、阿蘇市長選挙の投票に出かける。夜、7時半から開票だそうだ、何時頃当落がきまるか分からないが、投票率は50%台で田舎の選挙にしては投票率が低かった(50%台とニュースで流れていたと思ったが、84.14%だった、はやり都市部に比べたら圧倒的に投票率は高かった)。

 娘、ステージ衣装を着て母親に連れられて熊本方面に出かけて行った。ピアノのコンクールに出場するとのことだった。小生は全くノータッチなので詳しくは分からないが、母子してピアノを習っていて、年に一度だか二度だかピアノ教室生徒全員対象の団体主催?の発表会だかがあるが、それとは違って、ある程度のレベル以上の子が出るコンクールのようなものが別にあるらしい、このあたりの内容が、小生いい加減で正しいかどうか自信がないが、とにかく今日そのコンクールがあったのだ。

 夕方、帰ってきて、成果を聞いたところ、優勝、準優勝の子は東京だかの本選というのか、そういう大会に参加できるようだが、娘は、残念ながらそのレベルには達しなかったものの、奨励賞だったか、それをもらったよと言って嬉しそうに帰ってきた、この奨励賞だって誰でも貰えるものでは無いそうである、銅メダルだったばい、複数人いるのだろうが、まあ、良かった、良かった。

-転載-

<速報>阿蘇市長に佐藤氏が再選

任期満了に伴う阿蘇市長選は22日投開票され、無所属で現職の佐藤義興氏(59)が無所属新人で前市議の井芹正吾氏(34)=公明推薦=を破り、再選を果たした。
(2009/02/22 21:20:04)
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くまにちコム
http://kumanichi.com

-転載終り-

平成21年2月21日(土)

 穏やかに晴れる。

 皆朝寝をしていたので、今日のリハビリは休む。

 村内のWさんにPCのサポートに伺うが、サポートの成果を上げることができなかった。vistaのブリッジ接続、つながるはずだがどうしてもつながらない、ちょっと分からず、宿題にしてもらった。

 もう大分前にジャガイモの種イモが農協から届いている、そろそろ畑の季節到来、先シーズンの畑のマルチの残骸などを片付けて少しトラクターの下準備をする。

 明日からまた天気が崩れるそうだが、今日はそういう面では良いタイミングだろう、高岳・中岳の麓、小堀牧(だと思う)から、北外輪山に一歩先んじて野焼きの煙が上がっていた(写真1写真2)。北外輪山一帯の野焼きは3月8日頃だとか聞いたが。



平成21年2月20日(金)

 雨、朝のうちに上がり、のち、曇り。風があり体感温度の低い一日だった。

 婆様が昨日の昼頃から、急に喉が痛くなって声が出なくなったので、今日、病院に連れてゆく。風邪ではなさそうだが、どうしたんだろうねと言うと、昨日、固い菓子を食べた時にノドが破れたという。今日、病院でも同じようなことを先生に訴えていた。そんなものでノドが破れるわけねえだろう。先生もニヤニヤして聞いていた。先生、喉を診て、腫れていますねえ。そこで思いだした。確か数年前、同じような症状が起きて、咽喉科がある温泉病院にここから診てもらいに行ったことを。その時も原因不明で、何か薬を貰ってきてそのうちになんとなく治ったことがあった。今回も昨日よりは悪くなっていないので、二三日様子を見ましょうということで、炎症を抑える薬をもらってきた。例によってまあ次から次に病気を作り出す婆様ではある。そんなわけで今日のリハビリ受診はやめる。

 調べてみたら、平成17年8月4日に喉がはれて大騒ぎした記録があった。何かアレルギーだろうか。


平成21年2月19日(木)

 朝、氷点下、真っ白に霜がおりる。晴れのち昼頃から霙交じりの冷たい雨ずっと降り続く。

 婆様、リハビリ、妹を同道させる

 妹、昼過ぎ、三泊四日の滞在を終えて母親と別れを惜しんで、駅前からバスで空港に向かい帰っていった。

 今日は、娘の小学校体験入学という催しがあり、昼から母親と一緒に保育園から隣接する小学校に出かける。そこでどういうことをしたのか知らないが、帰りは、いずれ日課となる集団登下校の体験ということで、あいにくの冷たい雨であったが、小学校から村まで約2キロの道のりを、母親たちが見守る中、子供たちが隊列を組んで元気に帰ってきた。娘の言に依れば、なんでも前後を上級生のリーダーに守られて、歩く順番まで決まっているそうである。隣村の子供を入れて6人のキャラバンになるらしい、もう間もなく本番である。(写真1写真2(母親撮影・ちょうど撮影中、突風が吹いて、カサがお猪口になったそうだ))。



平成21年2月18日(水)

 晴れ。今日は穏やかに晴れて暖かかった(尤も最初からモモヒキを穿いていたせいもあるが)。

 朝から横浜の親戚回りをする。先ず、釜谷町の叔母のY下K子一家、叔父は97歳になるとか、皆さん元気だった。次に従兄の故U田S吾兄一家、ここも皆さん息災の由。孫のMちゃん、今年から中学生だそうだ。そこから芹が谷の従姉のF川H子夫妻の家に。S吾兄の娘Fちゃんが、M子姉を乗せてわざわざ車で送ってくれた。勿論ここも元気。

 そこから、茅ケ崎に。GMMと落ち合って例の如く「おかむら」のうなぎで昼食。仕事中抜け出してきた彼とそこで別れて、ここに来るまで住んでいたあたりを少し徘徊?。帰り際GQVを呼び出して立ち話。直ぐに茅ヶ崎から東京に向かい、京葉線のホームからカミさんの実家に電話。ところが、今、ちょっと遠くに来ているとのことで、最後の訪問は中止。時間が余ったので、月島某所にM氏とK氏を表敬訪問。そのあと月島周辺を歩き回ってT氏の会社の前を通ったりして時間をつぶしている間に気がつくと時間がなくなって慌てて大江戸線経由で空港へ、出発数分前に飛行機の飛び乗って、わずか一泊の駆け足旅だったが、なんだか長い旅を終わって夜9時過ぎに無事に帰宅。その間、妹が婆様のケアをしてくれたが小生の留守中は全く正常だったそうだ。少し緊張感を持って生活をした方が良いのかもしれない。

 それから、今回、これが大いに威力を発揮した。我々がこちらに移り住む頃、出来たシステムだったが小生はその恩恵に預かっていない。カミサンは持っていた。今日、訪れたF川H子姉がそこそこ入っているから持って行けと言って渡してくれたものだ。これでバスでも電車でも地下鉄でも今日小生が乗った乗り物はすべて使えた。いちいち券売機に寄って切符を買う手間が全く要らない、ただちょっと改札の機械にかざすだけでスイスイ関所が通れる。首都圏は乗換乗換の連続だからこれは都会生活には絶対に欠かせないカードである。最近は携帯電話にもその機能をもたせることができるそうだ、へえ〜、である。でもそんな高機能なカードを使わなくて済む田舎の生活の方が本当は便利なのかもしれないのだ。

 今回も二日間、あちらこちら走りっぱなしだった。


平成21年2月17日(火)

 晴れ(阿蘇の午前中および関東の午後とも)、阿蘇は予報ほどは気温は下がらなかった。

 SNA午前の便で東京に飛ぶ。高を括って行ったが、東京は寒かった。念のために持っていったモモヒキをYCATの便所で慌てて穿く。

 横浜から真っ直ぐ北鎌倉に向かう。

 横浜駅に横須賀線が停まると思っていたが、見当たらない。GMMに横浜にはスカ線停まらなかったけ?と電話で尋ねたら、え?モグモグ・・・。車ばかりで移動しているから咄嗟のことで分からなかったようだ。仕方がないので大船で乗り換えるかと思ったところ、GMMの周囲の人から停まるよと声がかかる。

 昔、横須賀線が川崎を通らずに迂回するようになった、また横須賀線と総武線が一本になったりしたことがあって、勘違いで横浜も通らなくなったと思い込んだのだろうか、そのあたりが、関東を離れて数年のブランクのせいだろう。それに横須賀線のボディーカラーは濃いブルーとアイボリーだったはずという思い込みもあった。しみじみ見てみるとちゃんと横須賀線は走っていた。ボディーカラーが湘南電車と同じ色になっていた(色の組み合わせはちょっと違うかな)。最近は湘南新宿ラインとかいって、逗子と新宿経由で小金井の間を走っているようだ。小金井なら中央線じゃないかと思ったら、埼玉だか栃木だかに小金井という駅があるそうだ、へえである。

 北鎌倉で降りて、鎌倉からよりも近いかと思って歩いたら結構あった。

 関合正明回顧展、素晴らしかった、来てよかった。殆どが個人蔵の作品がよくもこれだけ集まったものだと驚くばかりである。何度か見た作品もあるが圧倒的に初めて見る作品ばかりだった。懐かしいマチエールだった。常設で何時でも鑑賞できたらと叶わぬ想いにかられる。そして、自分もまた描きたいという気持ちに・・・・・・。

 帰りは鎌倉に出る。小町通、こんなに店と人が多かったかというくらいの通りに変わっていた。平日だと言うのに、芋の子を洗うような混雑ぶりだった。

 鎌倉から横須賀へ、そして三笠公園に。

 昔、車で行ったときに直ぐだったので、歩いていったが、これが結構あって、北鎌倉から鎌倉まで一駅あるいた後だったので、くたびれた。それに、乗り継ぎの時間を無駄にしたくなかったので、飯を食う暇もなく、朝、飛ぶ前に空港で軽食を食べてから結局夜まで飲まず食わずだった。

 戦艦三笠。実際に日本海海戦でバルチック艦隊と戦ったホンモノが良くぞ残ったと思う。今は陸に上がってしまったが、それでも当時のエネルギーが伝わってくる。艦内、今でも往時の将兵の息遣いまで聞こえるような気がした。以前来たときには、意外と小さいなと思ったが、今日は逆に非常に大きく感じた。圧倒的な存在感である。

 横須賀から東京駅へ。武藤と昔、何度か通った地下街のビヤホールへ。しかし東京駅の八重洲口のデパートが入っていたビルが大改装中なのか、ビヤホールが無くなっていた。

 場所を変えて武藤と久しぶりに乾杯。最近は殆ど飲まないのに、のどが渇いていたので生ビールを小生にしてはグイグイやっていたら、一時間ほどして目の前が真っ暗、貧血状態になった。胃がムカムカということはなかったが、生あくびが出てアウト寸前。脱水症状になったのだろう、あわてて水をもらてしばらくして回復する、いやはや危ないところだった。

 武藤も、高齢化(小生と同じ歳ながら)、体のあちらこちらが故障しているのに薬を呑みながら相変わらず酒を楽しんでいるようである。

 武藤と再会を約して東京駅で別れる、湘南電車で横浜へ。何十年も通った通勤電車、相変わらず混雑した電車で30分。昔は横浜から更に30分、都合1時間、通勤電車に揺られて会社勤めをやったのである。

 今晩のホテルは山下公園前のホテルモントレ横浜。 ツインの部屋のシングルユース、格安で予約できた。今回、どう行動するか、行き当たりばったりの計画だったので、自由に動けるように、親類縁者に一夜の宿を請うのはやめたのである。

 山下公園の前だと、どう行くか。桜木町から歩くか、いや、確か「みなとみらい線」だったか新しくできた路線があるはずだ、みなとみらいに行く以上、もしかしたら、山下公園あたりまで行くかもしれない、そう思って、東京から横浜まで買ったのである。

 やはり、終点が山下公園の近くだった。東横線が桜木町までの線を廃止して、横浜からみなとみらい地区に乗り入れたようである。

 かくして、午後10時前に無事チェックイン、当初の話では山側の部屋のはずが、山下公園側の部屋、ベイブリッジや氷川丸が見える部屋を割り当ててもらってこの日記を書いている次第である、各部屋にLANケーブルが引いてある。ところが、さて、アップロードをしようとしたところ、自宅サーバーにつながらず、結局、掲示板に書き込む羽目になってしまい、帰宅してから改めてアップし直した。



平成21年2月16日(月)

 曇り。昨日までのバカ陽気は終わって、今朝からまた少し寒くなった。朝、下界(阿蘇谷の標高500m地点)は雨だったが、山はまた白くなっていた。明朝は氷点下6℃だそうである。

 午前中、婆様、リハビリ。

 夕方、妹が豊田からやってくる、今回は迎えに出られなかったので、空港からバスでやってきた。


平成21年2月15日(日)

 今日も穏やかに晴れる。夕方になって少し雲が出てくる。

 ノンビリと薪作りをする。

 北坂梨の I 原さんがエノキをトラック三台分運びこんでくださる、その量に嬉しい悲鳴。一緒に見えた人、初めてお会いするのでお訊きしたら福原のK一さんの弟さんだそうだ、へえ、そうなんだ、また新たな出会いが生まれた。

 エノキの幹の太さ、娘と比べてみるとその大きさが分かる。エノキでまな板は作るようだが建築材料にならないのだろうか、なんだかもったいない太さである。エノキナバは出来るな。

 今日から22日の投票に向けて市長選挙戦が始まった、新人と現職の一騎打ち、早速沢山の応援団を従えて両陣営の選挙カーが回ってきた。


平成21年2月14日(土)

 晴れ。まるで夏のような天気になった、ちょっと大袈裟か。それにしても昨夜の春一番は凄かった。特に小生が棲息する場所は普通の家屋でいえば言わば屋根裏、雨風の音がモロに伝わってくる。それに屋外に足場を組んだり、同軸ケーブルを何本も垂らしたり、はたまた竹林がすぐそばにあったりで松籟ならぬ竹籟。が為に実際の風速より何倍も誇張されて風の音が伝わってくる、風速は精々20mくらいだったろうに。久しぶりに落ち着かない夜だった。明けて、今朝、昨夜の天気がウソのように晴れあがって一気に春過ぎて夏到来といった塩梅で20℃くらいまで気温が上がった。黄砂か煙霧か、スッキリとは言えないが美しい日没だった

 昼から、Uコネクションの薪材の積み込みで桜が水、日の尾峠と続く道の入口近くに出かける。量的には軽トラック一台分だが、伐ったばかりで一本が重くて重くて、積んで、持って帰って降ろしてで、二時間かかってしまった。

 婆様のリハビリは土曜日でもあることだし休む(別に土曜日だから休んでいいという理屈にはならいが)。夜、婆様の入浴介助。

平成21年2月13日(金)

 晴れのち暴風雨。

 北部九州は春一番が吹いて、荒れるだろうという予報が出ていたが、昼過ぎころ、長崎の局の風が強くてアンテナが心配だという無線の交信をワッチしてした頃、こちらはそよりともしなかったので、ここはかすったかなと思っていたところ、午後三時ころから急に風が出てきて一時は20mくらいの風が吹いていた、夕方になって風に加えて雨も強く降りだして台風並みの天気が夜になっても続いている。台風だとサッと通り過ぎるが、低気圧の移動はスピードが遅くて、午後9時半を過ぎて、風の音を聞きながらなんとも落ち着かない夜を過ごしている。

 午前中、婆様をリハビリに連れて行って、午後少し薪を作る。


平成21年2月12日(木)

 晴れ。気温、朝は少し氷点を下がり、日中は15℃くらいまで上がる。

 午前中、婆様をリハビリに連れて行って、その帰りに久しぶりに床屋に連れて行って、ついでに、昼前に一気に風呂まで入れてしまった。

 午後、薪作りをする。


平成21年2月11日(水)建国記念日 皇紀2669年

 曇り。予報では晴れることになっていたが結局終日曇り空だった。黄砂でも飛来したかと思ったが、鹿児島や大分では観測されているが熊本では記録がない、やはりただの曇りだったのか・・・・・・・・夜になってニュースで熊本にも黄砂が降ったと言っていたので、改めて気象庁の黄砂情報を覗いたら、やはり熊本地方にも黄砂がたっぷり降っていた、迷惑至極。

 気温も10℃台まで上がったようだが、中途半端な気温だとストーブの火の管理が疎かになって結局消えっぱなしになっていたので、かえってうそ寒い一日になってしまった。

 娘は一日中、村内の友達の所に遊びに行ったきりだった。

 朝の便で、無線機二台が戻ってきた(IC-760PRO TS-790S)。


平成21年2月10日(火)

 晴れ。本日も穏やかに明け暮れる。

 午前中、婆様、リハビリ。

 期せずして同じ日にHFの無線機とUV無線機の修理が出来たと連絡が入る、明日あたり戻ってくるだろう。

 飛行機のチケット代の支払い完了。

 その他は特になし。


平成21年2月9日(月)

 晴れのち午後から雨。今朝も霜で真っ白になっていた。

 午前中、婆様、リハビリ。に加えて、整形外科受診。というのは、かれこれ二三週間になるだろうか、小生が入浴用の椅子の脚のひとつをうっかりして婆様の左足の親指の上に置いていてしまった。その後、もう相当経っているのに、相変わらず痛いという。もしかしたら骨にヒビでもはいったかなと思って今日レントゲンを撮って調べてもらったのだが、幸いに骨には異常がなかった。

 来週、妹が婆様の様子を見に来てくれることになったので、関合正明回顧展鑑賞に一泊の旅程で久しぶりに上京することにして、ネットで航空券の予約をした。ちょっと前までは一泊ホテル付きで格安航空券が沢山あったが、イザという段になって、ネットで調べたら、そういったプランは全部が全部10日前までの予約となっているようで、一週間前になるともうそういったプランは全部締め切りとなっていた、どういう仕組みなのだろうか。というわけでSNAの予約をしたが、この会社は1週間前だと片道19,100円で、メジャーの航空会社に比べたら各段に安い。


平成21年2月8日(日)

 晴れ。今朝もちょっとだけ氷点下になって、日中は13℃くらいまで上がって風もなくて気持ちの良い一日だった。

 明日あたりから天気が崩れそうなので、今日中に薪を全部やっつけようと思った矢先、Uコネクションから、これから木を切るぞと言う連絡が入り、急きょ予定変更して、薪取りに出動。今回は旧宿場会所跡地の植栽の伐採で、ここには植樹で植えたモミジやコナラなんかもあり、事情があって整地することになて、自分たちで植えた木を自分がまた引導を渡すことになってしまった。そのほかに柿木などもあり、都合二往復した。(一回目二回目)。

 午後から、昨日の作業の続き、昨日玉切りした木を半分に割って、小屋に放り込む、中途半端になってしまったが、今回はここまでやって作業終了。午前、午後とも腰に来る仕事で、腰がパンパンに張っている。

 その後で、婆様の入浴の介助、続いて娘の入浴の、これも介助というのか、まあ婆様のあと、ずぶ濡れになったので、続いて小生が娘と一緒に風呂に入ったということである。最近は自分で体を洗い、洗髪も曲りなりに出来るようになったのであまり手がかからなくなった。

 今朝、神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で開催中の関合正明回顧展が、NHK教育の新日曜美術館で紹介されていた。来週あたりなんとか行けないだろうかと思っている。
平成21年2月7日(土)

 晴れ。11℃くらいまで気温が上がり非常に暖かい日になった。それでも朝には、阿蘇乙姫で -3.8℃(07:18)を記録している。だから日中は暖かくなったのだろう。朝、阿蘇谷はこの時期には珍しく朝のうち深い霧に沈んだ。

 最近忙しくて気持ちの余裕がなくなっているようで、もうとっくに芽を出していたフキノトウに気がつかなかった

 今日は、婆様のリハビリと、娘の自宅保育がバッティングしたので、リハビリを休む。インフルエンザが流行っていなければ娘を連れて婆様のリハビリに行くところであるが、危うきに近寄らずということになった。

 日が昇って暖かくなってから娘も一緒に犬の散歩をする。だから、今朝の寒さは実感がない。

 昼から、昨日の続きをやるが、今日はここまで。昨日の疲れが残っていて早々に切り上げる。


平成21年2月6日(金)

 穏やかに晴れる。

 御前中、婆様、リハビリ通院。今日は、おっ母さんがちょっと現れたようである。

 午後から、二時間あまり、薪つくり。これらの木を、このように玉切りした、幹が太いので、ヘトヘトになった。後少し残っている、あすは、二つくらいに割って一丁上がりである。なるべく太い方が火保ちがいいのである。


平成21年2月5日(木)

 晴れ。朝、氷点を少し下がって、日中は12℃近くまで上がり、穏やかに推移する。

 朝、起きて、リハビリに行こうかと準備しながら、阿吽の呼吸で、今日はサボるか、ということになって中止する。変な話だが、中止しても大丈夫くらいに機能が回復しており、自分で車を押してトイレまで往復できるし、洗面所まで自分で行って歯を磨くことができるようになっているから、何も毎日行くこともあるまいと言うことになったのである。寝返りも大分出来るようになっている、それに頭も極めて明晰である。今晩も退院後初めて「渡る世間は鬼ばかり」を観ていた(ただ、以前のような執着心はなくなったそうである)。

 婆様の心身の状況で、今日はしばらく留守にしても大丈夫だと判断して、午前中、用足しに山を降りる。用件の一つは、ジーンズに穴があいたので、新調すべくユニクロに行く。最近のユニクロ、少し高級志向に営業戦略転換か?以前より高くなった気がする。小生の日常生活はジーンズ一本で、葬式の時くらいしか着替えない。

 午後、ケアマネのI原さんと、福祉器具のA屋のY亀氏、来訪。要介護3になって初めてのケアプランの打ち合わせと、Y亀氏は入浴介助用の浴槽用手摺り持参。浴槽の構造上、既存の手摺りは取り付けられないので、吸盤式の新型をしばらく試してみることになったのである。

 インフルエンザ、まだこのあたりは大したこと無いようであるが、我が家にはカミさんの職場ルート、娘の保育園ルートのいずれかで入ってくる可能性がある。どちらかでも入ってくれば一家、アウトである。タミフルの予防投与という手があるらしい、保険は利かないが、高齢者は出してもらえるらしい。オイラもその高齢者なのだ、小生が倒れると我が家、大変なことになる、さて、どうしようか。
平成21年2月4日(水)立春

 曇り。暦どおりの穏やかな日になった。気温は4℃台から10℃くらいまでで推移したので、それほど高い気温ではなかったが、体感的には随分と暖かい一日だった。

 午前中婆様をリハビリに連れて行った後は特に用件は無かったが、薪を作ろうにも乾いておらず、なんとなく気が抜けて一日をダラダラと過ごした。

 婆様がしまってあった編み棒のセット類を引っ張り出してきて自分の部屋着のカーディガンの肘が抜けているのを繕っていた。どうもこの歳なると腕が落ちるねえとのたもうていたが、それでもちゃんと出来るから大したものである。

 最近は我が家の構成人員が一人増えた。いやそうではない、というのは、婆様はここのところ自分の母親が傍にいると思っていて、婆様の頭の中では我が家は五人家族になっている。毎朝、頭の正常度を確認するのに、「婆様、我が家の家族構成は?」が日課になっている。今朝は、「今日は正常だ、家族は四人だ、おっ母さんはおらん」と言っていた、最近は娘まで、「おばあちゃん、何人家族?」と聞いている。


平成21年2月3日(火)

 雨。気温は高め。

 午後から、婆様の入浴介助をする、土曜日以来か。今の季節、浴室や脱衣場の暖房など事前準備が大変なので、週二回のペースになってしまう。もう少し暖かくなれば回数を増やせるのだが。

 144、430、1200の固定機TS-790Sの電源部がおかしくなったので、福岡のサービスセンターに修理のために送る。昨夜、宇和島から珍しく2mのサイドバンドで出ていたので、QSO始めた途端に、パワーダウンして、最後にはほとんど電断状態になってしまった。以前から使っているうちにブーンという音がして、一旦電源を切って入れなおしたりとダマシダマシ使っていたが、とうとう本格的に故障してしまった。そういえばHF機もまだ治って来ない。壊れる時は一度に壊れるものである。

 今日は節分だ。阿蘇神社ではマメの代わりに護摩木を撒く。昨年行ったと思って、遡ってみたら、昨年は妙法寺の節分会に行って、阿蘇神社は一昨年だった、去年とばかり思っていたがもうそんなになるのか。今年も雨降りの上に、賄い方だったので行かなかった。

 夜、我が家でも豆まきをした(写真1写真2)。ボンの家までオニ退治に行ったらボンのヤツ迷惑そうだった



平成21年2月2日(月)

 今日も概ね晴れ、明日はまた雨になるようだ。朝は氷点下3℃くらいまで下がったが、日中は穏やかに晴れて10℃を超えていた。

 今日はみっちり昼過ぎまで婆様の病院の付き合い。リハビリをやって、整形外科で痛み止めの注射を打ってもらって、内科で定期健診を受けてと。薬まで貰うと遅くなるので夕方、薬のみ受け取りにゆく。

 午後から、介護保険のケアマネジャー引き継ぎで、市包括支援センターのK佐さんと大阿蘇病院のI原さんが新しい介護保険証を持って見える。今回の介護認定の変更申請によって、「要支援2」から一気に3階級特進、「要介護3」になってしまった。その結果、管轄が市から民間の在宅の介護支援業者に移管されのである。退院直後の運動能力などを参考に判定されたので、思ったよりも重い等級になったような気もするが、実質的には自分でほとんど動けないのでまあ、妥当な判定だろうか、半年後にリハビリ効果が表れて、また少しでも軽い等級に下がることを期待したい。I原さんは法改正で、市の包括支援センター管轄という等級が出来る前までは、以前、婆様を担当してもらっていたのでよく存じ上げている。

 福原のC雄さんが、トラックに二抱えもありそうな巨木を沢山積んで落して行ってくれた、これは燃やしでがある、有り難い。

 昨夜、浅間山が噴火した、桜島も噴火している、阿蘇は大丈夫か、警戒レベル1ではあるが、最近火炎現象が頻繁に見られるそうだが。
平成21年2月1日(日)

晴れ。昨日までの天気とはうって変わって穏やかに晴れ渡る。気温も高めで、明け方、氷点には下がらなかった。

 そんな中、坂梨校区新春駅伝大会が無事開催された。例によってハムクラブは駅伝のアマチュアテレビ中継に出動した。今年も古閑の第13中継所のテレビ中継を担当した。

 レースの模様は、毎年、スタートから途中経過、ゴールまで、担当中継所を動くことが出ないので生では見ることが出来ない。しかしレース終了後、中継の記録を中継本部でテープに録ってあるので、これも毎年、AJY局のお宅で昼食を兼ねて録画を見ながら反省会をする。これが実は楽しいのである。

 今年の話題は、坂梨小学校の教職員の皆さんが一チームを作って参加されたことである。昔は一緒に走った時代もあったようだが、今回の参加はずいぶん久しぶりになるそうだ。それと、坂梨も御多分に洩もれず過疎化が進んでいて、普段、昼間など人の通りが少ないが、こういったイベントがあると、坂梨にこんなに人がいたのか、子供たちがいたのかと驚くほどである。このような地域交流は貴重である。

坂梨校区新春駅伝大会 1/2 (全10枚)
坂梨校区新春駅伝大会 2/2 (全10枚)






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