平成21己丑(2009)年 4月の記録(新しい日付けの順)
平成21年4月30日(木)
晴れ。今日は20℃を越えた。
婆様、デイケア。
いよいよ、我が家の周囲の田にも水が入って代掻きが始まった。我が家に接する田の代掻きは二三日後だろうか。(写真1・写真2)
夕方、組内のK子さんが野菜の苗を届けてくれた。毎年、前もって注文を出しておくと、時期になると届けてくれるのである。K子さんは村の農協のそういった担当なのだろう。今年はナス5株とピーマン5株、それにニガウリ1株。ニガウリも毎年5株注文していたが、そんなに食べないので今年は1株にした。不思議とナスとピーマンとニガウリだけの注文で、トマトだとかキュウリだとかの他の野菜の注文取りは無い。またぞろ畑の準備をしなければならない。
最近、普段でも国旗を出しているが、玄関先に旗日のような出し方をしているので、何の日ですかとよく訊かれるので、国旗掲揚ポールを新設した。と言っても、塗装をしようと思って組んだままになっている足場パイプの先端に継ぎ足してポールを立てたのであるが、当初は、今玄関先に立てている国旗とポールをそのまま、足場パイプの先に紐で括りつけるだけにしようかと思ったが、それではセレモニーが出来ないから(別にやろうと言うことではないが)、一層のこと、上げ下げ出来るようにと、作業のために足場の養生から始めて、堅固なポールに金の球を付けて、滑車を点けてと本腰を入れたので、半日以上かかってしまった。屋根の上に日の丸が翩翻と翻るのを見て、更に欲が出てきて、近々もう少し改良をしようと思っているところである。だからと言って旭日旗も揚げようというのでない。寺さんが茅ヶ崎から作業中の様子のライブ画像を送ってくれた。
豚インフルエンザ、とうとうフェーズ5になったそうだ、鎖国でもしていない以上、早晩、日本にも入ってくるだろう。
平成21年4月29日(水)昭和の日
晴れ。今朝も氷点近くまで気温が下がって、田畑は霜で少し白くなっていた。それでもようやく若葉寒は終わったようで、昼間は20℃近くまで上がって気持ちの良い一日になった。
娘が、母親と散歩をしていて、用水路にオタマジャクシを見つけて帰ってきて、小生に捕りにつれて行ってくれとせがむので付き合ってやった。もう少ししたら家の周りにもオタマジャクシが沢山泳ぐようになるからそれまで待てと言ったが今日がいいと言う。まだ田に水を落としていないので、用水路には水が流れていないが、マスに溜まった水にオタマジャクシが沢山泳いでいたので娘が網ですくって持って帰ってきた。これからどうするのだろう。
これも夕飯ちかくになって、娘がプリンを作るから写真に撮ってくれと言う。何も明日また学校がある時にやることもあるまいと思ったが、もう準備したからと。結局、自分の分と婆様の分の二人分だけしか作らなかったと、二人で並んで食べていた。どういうこっちゃ。(写真1・写真2)
小生が借りているプロバイダーのサーバー、「風の便り」のトップページなど一部を、ここで賄い、それ以外の大部分は自宅サーバーで運用している。ところがこのトップページで、自前のCGIが使えない、お仕着せのわずかなCGIしか使えないのである。中でもアクセスカウンターCGIが、これがお粗末で、このキャリアー、サービス開始以来全く改善しておらず、その意欲も見られない。機能が少ない上に重複カウント(二重カウント)を防ぐことも出来ない。クリックすればカウンターが増える。従って小生のホームページは実際のアクセス数よりはるかに水増しになっているはずである。今時どこのプロバイダーもそのくらいのサービスをする。一層のことプロバイダーを変えてしまいたいところだが、そうなるとURLが変わってしまう。仕方がないので、無料のアクセスカウンターを貼り付けることにした。ただ無料のカウンター、今後ずっとサービスが続く保証はない。また、無料のカウンターは無数にある、安定性などを見ながら、色々入れ替えて様子を見ることにして、今までのエンダラカウンターを生かしたまま、無料のカウンターを並行して使いながら、重複カウントとの乖離を見ることにした。
平成21年4月28日(火)
最低気温、0.6℃。夜があけるとともに深い霧が出る。昼ごろから気温が上がるようなことを言っていたと思うが、それほど上がらなかったなあ。
午前中、ケアマネージャーの I 市原さんが来月のケアプランを持って見える。
今日は昼から娘の学校の授業参観日、とPTA総会、母親が出かける。
ホームページのちょっとした部分を手直ししようと思いついて午後からずっとPCの前に座るがどうしても上手くいかない・・・・
平成21年4月27日(月)
明け方近くには1℃台まで気温が下がっている、まるで冬に逆戻りではないか。それでも不思議と田畑には霜は降りていなかった、霜は気温が下がれば降ると言うものでもないようだ。草千里あたりでは薄氷が張ったそうだし、今日も一日寒かった。おまけに細かい雨が思いだしたように降っていた。夕方になって、ようやく上がった雲の切れ間から山の頂付近が白くなっているのが見えた。そして、ストーブが今日も大活躍した。(写真1・写真2)
サトイモの芽が一つ二つ、出始めている。
婆様デイケア。
御近所に頼まれた写真をCDに焼いたりDVDに焼いたりして過ごす。あまり画像の編集の方は興味がないせいか得意ではない。
平成21年4月26日(日)
曇り(晴れだったかも)。実際の気温の変化を見たわけではないが、体感的にはまるで冬に逆戻りしたかのような寒い一日で、一日中、ストーブを焚いて、久しぶりに終日、読書やDVD鑑賞で過ごした。
平成21年4月25日(土)
昨夜、かなりまとまった雨と風だったのだろうか、それも朝には収まっていた。
突然、娘の引率で熊本市内の鶴屋百貨店に出かける。同店のピアノ売り場で、娘が習っている教室の生徒たちのミニコンサートというものがあって、それに付き合わされたのである。ピアノ教室の生徒たちの実践教育とデパートのビジネスを兼ねた催しだろうと思うが、正確なところは小生、全く知らない。というのは、ピアノは娘と母親の完全な道楽で、小生は全く関知していない、だから今まで日記にも触れたことが無かったと思うが、今日は一応は関係者なので記した。カミさんが村の、いわば公式行事的なK閑家の「お茶入れ」にご招待されて出かけたために、とにかく連れて行ってくれ、と内容もロクに聞かされないまま出かけてきたのである、そうでもなければ小生は絶対に行かないところであった。
幼稚園児から高校生まで、幼い順に9組8名の演奏があって、娘は二番目の登場で、もっと幼いころには緊張などと言うものとは無縁だったが、最近は色気が出てきて、「緊張する」と言って顔も少し強張っていて、小さなミスもあったようだが、こういったことは場数を踏むことで度胸が出てくるのだろう。さすがに高学年になると小生、素人ながら聴いていて上手いなと感じた、ちゃんと音色に感情が籠っていた。
今日の集いに、娘の保育園時代の(ゼロ歳から二歳児までの)未満児クラスで、当時娘がゼロ歳児の時に二歳児だったろうか、同じクラス(だったと思うが)にN村K央ちゃんという女の子がいて、その後、お父さんの転勤で他所に移っていったが、大きくなって今日同じ会場でピアノを弾いていた。当時、小生は保育園時代に保育室で皆の写真を撮ってあげたりしたのでよく覚えているが、K央ちゃんは当然のことながら照れながら、覚えていないと言っていた。
売り場にはアップライトピアノが沢山陳列してあったが、娘たちが弾いたピアノはグランドピアノで、ベヒシュタインという銘が付いていた。国産のアップライトが皆、3〜40万円台だったが、このピアノにも値札が付いていて50万円とあったので、グランドピアノもちょっと高いだけなのかと思っていたら一桁違っていて、500万円だった。後から聞いたところでは世界三大ピアノメーカの一つだそうだ。娘は、そんなピアノを弾かせてもらったのだが、何時も弾いているピアノと鍵盤の固さが違って弾きにくかったとか一丁前なことを言っていたが、まあ、そう言うことなのだろう。
ミニコンサート連続写真 1/2(全10枚)
ミニコンサート連続写真 2/2(全10枚)
夜は、新一年生の父兄(と最近は言ってはならないらしいが、小生は昔人間だからあえて父兄と言う)の皆さんと、校長先生と担任のI下先生と、保健の(ゴメンナサイ名前を聴き洩らしました、その代り)チャーミングな先生にも参加していただいてY亭で懇親会があった。坂梨と言う家族的はコミュニティともともと少人数だということと、先生方のお人柄で、非常に和やかで楽しい時間を持つことができた。おまけに先生方には二次会までお付き合いいただいて、皆さん大いにカラオケで盛り上がっていた。これからもたびたびこのような集まりをやろうよという皆さんの意見だが、高齢者の小生にとっては些か空恐ろしい気もする。
娘の保育園時代には在園期間が長かったのでそれなりに気心が知れて、どこまで写真に撮って良いか分かっていた(つもりだ)が、小学校と言う全く新しい教育の場という環境に小生自身がまだ慣れていないので、どこまで踏み込んで良いやらわからなかったので、今晩は写真は遠慮した。ただ校長先生が、何でもオープン、というお考えの持ち主のようで、隠すようなことは何もありません、どんどん撮ってどんどん載せてくださいとのことだったので、次回から遠慮無く娘の学校生活の記録していきたいものである。
平成21年4月24日(金)
晴れ。夕方になって天気下り坂の気配。
今日は朝から昼過ぎまで分刻みのスケジュール。
娘の徒歩通学が始まって、みどりのおばさん役が回ってきた。小学校には校区の各地区からキャラバンを組んで登校する、集団登校である。そのために、校区の交通の要衝の五か所(だと思う)に保護者が交替で黄色い旗を持って通学の安全の確保をする。
娘の豆札の登校班の他にもいくつかの登校班が学校の近くの国道からちょっと入った小路の交差点を通るので、そこが小生たちの旗振りの場所になっている。保護者の当番は2〜3週間くらいに一度回ってくる計算になる。時間は7時30分から50分までの20分間、旗を持って子供が安全に通過するのを見守る。地域の皆さんも暖かく見守っていてくださるので安全だが、この役目、そもそも安全のために立っているのだから、子供たちに、みどりのおばさん、じゃなくて、みどりのじいさまが旗を持っている様子を撮ってくれとは頼めないので、今回の初旗振りの雄姿をカメラに収めることができなかったが、無事に役目を終えることができた(あたりまえのことだが)。(写真1・写真2・写真3)
旗振り役が終わると、家に取って返して、婆様を歯科と大阿蘇病院の定期通院に連れて行って、午後1時頃ようやく家に帰ってきた、婆様もぐったりだった。
昼前だったか、E鴨氏がちょっと顔をみせた。
平成21年4月23日(木)
晴れ。朝気温低め、今朝もストーブのお世話になる。
婆様、デイケア。
最近の屋根裏への出入りで、大分前に買ってそのままになっていたミシンが出てきた。買った理由は、小生、一年のうち360日はジーパンである、カッコよく言えばジーンズである。そのジーンズ、最近はファッション性を重視してか、小生が買う非ブランド物のせいか、生地がひ弱ですぐに穴が開く。捨てるのがもったいなくて、そのうち裏あてでもして使えるかと思って取っておいたものが、かれこれ10本近くある。昔から、膝が見えるほど破れたジーンズもファッションの一つだったが、小生にはそんな趣味はない。以前、カミさんに縫ってくれと頼んだがいい返事をしない。じゃあ俺が縫うと言うと、大事なミシンだから使うなという(一応は嫁入り道具として持ってきたものだろうか)、そうか、じゃあ自分で揃えるよといって、ネットで4Kで買ったものだ。中古だが歴とした電動ミシンだ。戦後間もなく、高級耐久消費財としてミシンが流行ったことがある。当時は足踏みミシンである。我が家にもあって小生も曲りなりに使えた。ボビンに下糸を巻いて、ボビンケースに入れて、上糸をそっと落して下糸を引っ張り出すとかも覚えている。我が家の足踏みミシンもいつの間にか無くなってしまったが、ミシンの折りたたみ式の作業台の部分の板がしっかりしていて捨てるのが惜しくて、卓袱台のように足を取り付けて、折りたたみ机として我が家の数十年間の間の数回の引っ越しにずっと付いてまわって、今でも小生の傍にある。
今日はそのミシンを使ってジーンズの裏あてをやろと思ったのである。以前、この日のために、UN96でジーンズの端切れももらっておいた、数日前にジーンズ用のミシン針16号とステッチ糸もちゃんと買っておいた。ところが、イザ、というところで、針に糸が通らない、老眼で見えないのである、考えてもいなかった。針に糸を通すだけで1時間くらいかかってしまった。これはイカンと、ネットで針の糸通しを注文した。
ところが、ようやく、糸が通せて、さて、という段階で、小生が想像していたものと現実に大きな齟齬があることがわかった。袖のような筒ものを縫うために、昔は無かったアームという仕組みがあるので、ジーンズもそのアームに通して縫えば、裏あてなんか簡単だろうと思っていた。ところが、アームの懐がジーンズの足の長さほど深くないので、シャツの袖口やジーンズの裾縫いなど端っこの方を縫うのには適しているが、裏あてをする箇所が腿の付近で、その場所に針を持ってくるにはそうとう無理をして詰め込んで蛇腹のようになってしまい、とても縫える状態にはならない、ホチキスで懐が深い位置を止められないのと同じである。結局はアームの長い専門のミシンを使わなければならないということであろう、カミさんの高級ミシンをもってしても多分無理だろう(たぶんと言うのはカミさんのミシンをシミジミ見たことが無いからだ)。どうしたものかと、考えた結果、ズボンの足の片側の糸を解いて、一枚の布形状にして、裏あてをしてから、改めて筒状に縫い直すしかないなと言う結論に達した。直線縫いはミシンの得意とするところだから、これは簡単だろうということになって、とりあえず試験的に一枚解いて縫ってみたが、結果的には、これは失敗だった。破れているところギリギリの範囲に裏あてをしたところ、その周辺部も生地が弱っていて、もっと大きな当て布が必要だったのだ、ということで結局今日は一日仕立て屋、そんな「有意義な?????」ことをやっていた。
草薙ツヨシという人気芸能人が公然猥褻物チン列で捕まったそうだ、NHKの昼のニュース、トップがこれかよ、である。やれコマーシャルを止めるだとか、総務大臣が出てきて、総務省管掌の地デジ促進のCMなどを全部差し替えるなどと大騒ぎである。人を傷つけたのか、覚せい剤でもやったのか、たかが公園でチン列しただけだろう、飲酒運転をしたというのではないのだろう。もともとジャニーズ系だとか言われる最近の若者群は好きでなくて、彼らが出演することでドラマが薄っぺらになって見る気にもならない、だから肩を持つ気なんてサラサラ無い、その上に、小生はあまり飲まないので、酒飲みには普段極めて厳しい、そんな小生でも、今回の事、そんなに大騒ぎするほどのことか、バカヤローと叱り飛ばして、ちょっとお灸をすえてやれば済む問題だと思うが、こんなバカ者の不祥事のコストが後になって我々消費者に回ってくるのだ、放っておけ。それとも小生が知らないだけで、それほどの大物なのか。(努めて時事ネタは日記に書かかないようにしているが、ちょどPCに向かっている時に、新聞社のニュースレターが特報と言って配信してきて思わず書いてしまった、こんなもの日記に書くな)。
平成21年4月22日(水)
晴れ。ただ、今日は空気が冷たかったのか、昼になっても一向に肌寒さが去らないので、とうとうストーブを焚いて、そのままずっと焚きっぱなしになってしまった。
タケノコの竹寸前の始末をする。もっと早い時期に切り倒そうと思いつつ、今日はまだいいな、今日もまだ大丈夫だなと、延ばしに延ばして、今日、ようやく田に面した所だけだったが、切り倒した。既にギリギリの段階で、なかにはもう殆ど孟宗になっていて簡単には切れないくらいのものが結構あった。
平成21年4月21日(火)
夜来風雨声花落知多少、というやつで朝には風雨収まる。午後にはまた「暑さ」が戻ってくる。
朝一番で、婆様、歯科に行く、下の部分義歯を作り直してそれが今日完成した。多分微調整が必要になるだろうと、次回の予約をして帰ってくる。
長らく休止していた宿場通りのライブカメラをようやく復旧させた。小生、最近、どうも今流行り言葉で言うモチベーションとやらが低下して、カメラが止まったまま放置してあった。
娘、今日も下校してきて、下町の級友の家に遊びに行く約束をしたという。約束した以上は守らなければなるまいと送っていた。問題はそこからである。夕方に迎えに行くからね、と念を押しておいたので、たぶん、最終的に公民館あたりの目につきやすいところで待っているだろうと思ったが、どこにもいない。そのうち、一緒に遊びに出た仲間のお母さんも、迎えに来て、どこに行ったのでしょうね、となった。途中までは、誰のうちに行くと、そこのお母さんにちゃんと届けて行ったのはいいのだが、途中から、お店に行ってくると言って、お店から戻らずにまた次の友達の所にいったそうだ、だから、お母さんたちも途中までのルートは分かっているが、お店から先が分からないのだ。そこが、やはり一年生である。皆さんで手分けして探して、すぐに居所が分かったが、今後のこともあるので、お母さん方と相互に携帯の番号交換をした。それはそれとして、どこまで遊びに行って良いかのルールつくりが必要なようだ。
平成21年4月20日(月)
晴れのち雨。ちょうど穀雨だそうだ、ずっと乾燥していたのでタイミングが良い。昼頃からポツリポツリ来だした雨、夕方近くなって10mを超える強い風を伴いはじめた。今晩中吹き荒れるようだ。
昨日の遠足の振替えで娘は今日は休みだ、婆様がデイケアに出かけて、娘と二人きり、娘は完全に独り遊びをしていた。あまり静かなので、様子を見に行くと、ちゃんと大丈夫だった、何かカードのようなものを黙々と整理していた。
午後、昨日、E鴨氏の紹介で電話を頂戴した、高森町色見のF田さんとおっしゃる方が突然見えて、電話でも聞いていたが、ホームページの作り方を知りたいとのこと、小生、現在既に沢山の(ボランティア)クライアントを抱えていてもう限度いっぱいで時間がとれないので、直接指導はできないから、自力で習得する方法をアドバイスして、それで解らないところを電話なりでご指導申し上げるということで御勘弁いただいた。
宿場会の掲示板が最近、エロサイトの迷惑投稿が日に数件、ずっと連続して起きているので、その対策版の掲示板の入れ替え作業を行った。そもそもこの種のこと、そうそうそう頻繁に行う作業ではなく、しかも当初、手探り状態で組んだものだから、復習から始めて、思い出しながら行ったので、どうなるかと心配だったが、結果オーライだった。これで駄目なら更なる方法もあるようだが、なるべくならこれで勘弁してほしいものである。
平成21年4月19日(日)
晴れ。ここ阿蘇も夏日の汗ばむ一日になった。
浄土寺牧で、小学校の歓迎遠足があった。この遠足、お見知り遠足と言って、保育園と合同で行われ、明治時代から続く坂梨地区の伝統行事である。同じ阿蘇でも他の地域にはない、極めて、稀な行事である。保育園を出てまだ何日も経っていないのに、保育園児たちと並ぶとぐっと大人びて見えるから不思議である。お見知り遠足については、昨年の記述をそっくり引用する。
「古くは明治末期、大正時代くらいまで遡る坂梨地区の伝統行事で、昔は坂梨全域を挙げての一大イベントであったそうだ。つまり、坂梨地域のほとんど全部の住民が坂梨小学校の卒業生なので、町を挙げてということになる、そういった人たちが浄土寺牧に集まって、子供たちの運動会を応援しながら、子供が居ようがお構いなしで飲めや歌えの大宴会となり、それだけでは終わらずに、浄土寺牧から下る途中の家々には酒席が設けてあり、大人たちはあちらこちらに引っかかっては酒を酌み交わし、山下りてくるのは日が暮れてからだったそうである。最近ではさすがに教育的見地から、運動会で酒盛りはまずかろうとのことで、そのような盛大な酒盛りは無くなったようだが、それでも坂梨地区の春の主要な行事となっている。」(昨年もその前の年の日記をそっくり引用している)
坂梨小学校と坂梨保育園、併せて150名くらいだろう、建物も隣接していて、保育園のほぼ全員がそのまま小学校に進むので、保小一貫教育のようなものだ。この体制、ずっと続いてほしいが、過疎化でチラホラ小学校の統廃合問題が浮上しているやに聞く。
遠足から帰ってきて、娘の同級のA紗ちゃんが、南隣の桜町からお母さんに送ってもらって初めて遊びにきた、女の子同士の遊びは緩やかで、小生もなんとなく落ち着いて見ていられる。
歓迎遠足 連続写真 1/5 (全10枚)
歓迎遠足 連続写真 2/5 (全10枚)
歓迎遠足 連続写真 3/5 (全10枚)
歓迎遠足 連続写真 4/5 (全10枚)
歓迎遠足 連続写真 5/5 (全10枚)
平成21年4月18日(土)
晴れ。今日も初夏のような汗ばむような天気になった、それでも朝は少し肌寒さを覚えた。
どうしても皆が休みで家にいると、ワサワサして落ち着かない、それでもPCがらみの作業をして過ごした。午前中、農協の帰りだと言ってE鴨氏が顔を出す。
先日、オークションでパン・チルト装置付きのライブカメラ用のCCDズームカメラを入手して、その機能に大いに満足だったので、同じ出品者から、これまた高機能のパン・チルト装置付きCCDズームカメラを入手した。今回のカメラは、業務用だったのだろう、前回のに(写真右側)比べたらちょっとガタイが大きくて、ケーブルも太いので引きまわしが大変なのと、設置場所が限られるが、良い買い物をしたと思っている。
先日、自転車の独習を始めた娘、あまり熱心に練習していたと思えないが、それでも、とうとう今日、ペダルを取り付けてやって、どうにか自力走行できるようになった。小生が子供のころは自家用なんて論外で、自転車屋から、今で言うレンタルサイクルだろうか、当時は貸自転車と言ったが、1時間10円くらい(だったか)で借りて、側溝に転げ落ちながら覚えたものだ。自転車に初めて乗れるようになった時の喜びは自動車の免許を取った時以上のものがあったが、娘は割合に淡々としていた、飛び上るほど嬉しくないのかい。小生の子供のころは、精々、自転車のリムを棒でコントロールして走るくらいが、先端の遊びだったが、今は電動のオモチャやゲーム機が氾濫していて、自転車も one of them なのだろうか。
明日は、歓迎遠足だ、この遠足は単なる遠足ではない、地域ぐるみと言ってもいいほどの歴史的、伝統行事である。
平成21年4月17日(金)
晴れ。少し暖かさが欲しくなって、久しぶりにストーブを焚いた。
たかなの菜花の背が伸びすぎて、視界を遮るようになったので、もう少し花を楽しもうと、1.5m
の単管を継ぎ足してカメラの位置の方を高くした。(写真1・写真2・写真3)
昼から、郷土史愛好会の例会に出席、今日は総会にあたり、役員の改選などがあり、前役員に今年も引き続いて御苦労願うことになった。
明後日、歴史的行事、小学校の歓迎遠足(お見知り遠足)が浄土寺牧である。保育園と合同で開催されて、毎年参加していたが、事前に草刈り作業をして、準備をしていたこと、保育園の保護者時代には知らなかった。今日、夕方からその草刈り作業が小学校の先生、保護者の皆さんが出て行われた。午後5時からだというので刈り払い機をもって4時半過ぎに行ったところ、もうほとんど綺麗になっていた。寄り合いなどで開催時間が遅れると、よく「肥後時間バイ」ということばを以前聞いたことがあるが、小生の関わる寄り合いなどでは今まで時間より早く始まることが多くて、決して肥後時間ではない。そんなわけで小生はほとんど働かなかった。でも考えてみたら、教職員、保護者全員の中で、小生が間違いなく最長老だろう、なんだって前期高齢者だい、まあいいかである。(写真1・写真2・写真3)
平成21年4月16日(木)
晴れ。
婆様デイケア。
ふと気になって畑を覗いたところ、ジャガイモの芽がもうとっくに出ていた。慌ててマルチに穴を開けてやった。2週間で芽が出たということになる、早く植えた分、比例して早く芽が出るということではなくて、早い時期に植えると地熱がまだ低いので発芽に時間がかかるので芽が出るのが遅くなる、コメも同じことが言えるそうだ。メイクイーンより男爵の方が芽の出方が早い。いずれにしても、作付の期間がかなり長くて自分の都合で自由がかなり利くということである。
庭先のシャクナゲもいつの間にか咲いていた、何年か前にカミさんが苗を買ってきて植えたものだ。
今日も娘、学校から帰ってくると馬場のE通寺のM花ちゃんのところに遊びに行った、途中まで送って行ったとことろで、これまた子供たちを数人乗せたU那ちゃんのお母さんの車と出合ったので、ついでに娘もお願いした。お互いにしばらくは子供たちに振り回されますねと苦笑し合った。帰りはM花ちゃんのお母さんが送ってくださったようだ。
なんとも悩ましい本がある、本当に将来、食糧危機が起きないのであれば喜ばしい限りであるが、田舎に住んでいて、農業の未来に夢をつなぐ立場の人間にとってはちょっと悲観的な本でもある。まだザーッと斜め読みをしただけだが、将来、世界で食糧難は絶対に起きないそうだ。それでは今世間でほぼ大勢を占めている見方は何なんだ、何が真実なのか分からなくなりそうである(ただこの本でも、地球が温暖化しても大丈夫だとは言っているが、まもなく寒冷化のサイクルに入るとすればどうなるだろうか)。
平成21年4月15日(水)
晴れ。
午前中、婆様をM岡床屋へ連れてゆく。
娘が下校後、同級生の皆と小学校に遊びに行く約束をしたと言って出かけようとするので、話を聞いてみると、隣村のM花ちゃんを誘って一緒に行くことになっているのだそうだ。小学校に入っていきなりの「遠出」が親自身がどう受け止めて良いものかどうも分からない。そもそもこれが「遠出」にあたるのかもちょっと微妙なところである。それに女友達は皆、坂梨の中心部にいるので、行くなとは言いにくい。M花ちゃんのところに送って行ってお母さんに相談を持ちかけたところ、M花ちゃんのお姉ちゃんが高学年なので一緒に連れて行ってくれるそうで、帰りは迎えに行く、ということでとりあえず折合いがついて嬉しそうに出かけて行った。そして5時のチャイムに合わせて迎えにいったが、地域の皆さんは知り合いばかりでそれとなく目配りはしていただいていて、まあそんなに心配するほどのこともないのだろうが、当分不安と言うより落ち着かない日々が続きそうである。
今月末支給ということで定額給付金の決定通知書が届いた、普通なら内容を隠すところだが、家族数で自動的に支給額が分かることでもあり、全国同じように支給されることでもあり、隠すほどのこともない、我が家の支給額は72,000円である、需要喚起のために有り難く遣わせていただく(反対した7割の人たちはどうするのだろうか)。
平成21年4月14日(火)
雨。終日細かい雨が断続的に降っていた。夕方になってようやく回復に向かった。普通の家庭では絶対に暖房器具にはスイッチを入れないだろうなという程度の気温だったが、ついつい火が恋しくなってストーブに火を入れてしまった、一枚多めに着込めば済むのだが薄着に慣れていてるので重ね着をする方に頭が回らずに燃料費がタダなのでトーブに火を入れる方が自然の行動になってしまっている。
今朝は娘たち、初めて雨で傘をさして登校して行った。まだ、午後過ぎたころに帰ってくると言うことが迎える側、即ち小生に習慣づいておらず、帰りの時間は保育園時代の夕方だと思っていて、慌てて外出先から戻る始末である、玄関のカギも掛けているので、下手をすると婆様が二階にいるものの、締め出すことにもなりかねない。(昨日でもう登下校の写真は打ち止めだと書いたが、雨の登校は初めてなのでまた載せてしまった。)
朝一番で、婆様を宇治歯科に連れていく、入れ歯の調製である、次回あたりで終わりそうである。
昼前、想像だにしていない人の突然の訪問を受けた。どちら様ですか? あのう・・・・T安と申します・・・。ああ、T安牧場さんですか? ハイそうです。すぐに判った。
もう大分前になるが、 I 田J子さんからT安さんの話は聞いていて一度お会いしてみたかった方だったが、その機会が無いままになっていた。
T安さんは、古閑で酪農を営んでおいでで、娘がまだ今よりもっと幼い頃、牛を見せてやりに行ったことがあるが、その時には奥様にはご挨拶したが、ご主人にはお会いしていなかった。あれはもうかなり昔のことだと思って日記を調べたら、H16年11月2日に登園拒否でむずかる娘を牛を見せてやると言って連れていったことが書いてある、その前か後かに複数回連れて行ったことがあるがその時にもお会いしていない(確か娘と牛と写真に撮って日記に載せた記憶があるが、思いだせない)。
それが今日突然の登場である。どういう風の吹きまわし?かお聞きしなかったが、娘さんを同道されてだらん芽を届けてくださったのだ。
短時間の会話だったが、J子さんが勧めてくれた理由が判ったような気がする、お互いに相通じるところがありそうだ、これからのお付き合いが楽しみである。
さらに夕方近く、またまた珍客。娘の同級生たちが突然遊びにやってきた。小学校に入るまでは「他藩」にあたり、完全なテリトリー外、決して単独ではやってくることはなかったが、小学生になって、束になってではあるが、自分たちで結構な距離を歩いてやってくるようになったのだ、お母さんはこのこと知ってるか?と訊ねたら、ウン知っている、とのことなので、良いのだろう。この村は娘以外は乱暴な男の子ばかりなので、女の子の友達も近くに居ればなあと思っていたところなので、簡単に行き来できるのであればと、なんとなくホッとする。彼女たち、我が家に数分も滞在しないで、風の如くまた次の友達の所に去って行った、モチロン今度は娘も一緒にだ。
しばらくして、娘たちが戻ってきたので理由を聞いたところ、馬場のMちゃんが不在だったとのこと、そうこうしているうちに5時が近づいたので、帰る手段を問うたところ、どうもハッキリしない。これは無届け外出だなと判断して、誰かの家に電話連絡できるかと尋ねたら、2年生のKちゃんが家の電話番号を諳(そら)んじられたので、家に電話をしてお母さんに迎えに来てもらって、ついでに全員の送り届けもお願いした。このあたりのルールが必要な気がした(もしかしたらあるのかもしれない)。それと子供たちには迷子札が必要だと思った。
平成21年4月13日(月)
晴れ。
婆様デイケア。
久しぶりに小生一人になった。午前中、娘に領土の一部を譲ったために、徒(ただ)でさえ乱雑な小生の机周りがさらに乱雑になったので、少しばかり整理をするが、ハミガキのチューブの中身と同じで、どこにこれだけのものが入っていたのかと驚くばかりに次々にガラクタが出てきて収拾がつかない状態になっている。
娘は、今日が初めての給食、午後2時の下校ということで、予定より少し遅れで集団下校してきた。給食、おいしかったあ、と初めての経験に興奮気味だった。当分の間は毎日毎日が初体験続きだろう。そう言えば、小生が小学校(福岡市立筥松小学校)に入った時は終戦直後、給食という制度はまだ無く、三年生くらいの時に転校(小倉市立冨野小学校)した先で初めて給食というものを知った(と記憶している)。ただ、給食と言っても、アメリカの援助物資の脱脂粉乳から作った焦げ臭いミルクと固いコッペパンだけで、オカズなんか皆無、それが延々と毎日続いた、たとえ病気で休んでも、クラスの誰かが、ハイ!今日の給食、と言ってコッペパンを届けてくれた。それだけ日本が貧しかったのだ、それに対して、現在の給食はバラエティに富んでいて美味しいらしい、羨ましい限りである。にもかかわらず全く経済的に苦しいわけではないのにその給食費を払わないバカ親がいるとニュースなど聞く、そう言えば給食費はどういう方法で支払うのかまだ知らないが、そういう話があるところを見ると昔ながらに給食費袋に入れて持って行くのだろうか。
娘の登下校の写真はもう今日あたりで終わりにしよう。
(登校1・登校2・登校3・下校1・下校2)
平成21年4月12日(日)
晴れ。朝少し火が恋しい感じもあったが、一日火を焚かないで終わった、今ストーブシーズンが始まって初めてではないだろうか。
昼前、高岳の北東斜面、日の尾牧野から山林火災が発生(野焼きの飛び火らしい)、各消防団も出場して行った。ここのところの晴天続きで、乾燥していたことに加えて、今日は少し風が強かったので西から東に向かってどんどん火が広がって、桜が水の別荘地が近くにあることもあってだろう、防災ヘリを要請することになったらしいが、あいにくと熊本県の防災ヘリはオーバーホール中で飛べず、大分県に要請したところ、これも別の山火事で出場中、最終的に宮崎から消火に飛んできてくれて、運動公園を基地に給水をして消火活動、ようやく火の勢いも弱くなったので、熊本空港へ給油のために飛び去って行った、ヘリの給油はグラウンドでドラム缶などから給油をするのかと思ったら、やはり精密機械なのだろう、空港で燃料を入れるようだ。(それで終わりかと思ったら、まだ残り火があったようで、再度、ヘリの出動があった)。このあたりの山林火災は、日頃、野焼きで慣れていることや、あまり人命や家屋に直接影響がないこともあってか、直接消火にあたる消防関係者は大変だろうが、それほどの悲壮感が感じられず、皆ノンビリと(と言っては悪いが)煙を眺めていた(そのなかの一人は小生ということになる、ただ消火活動の妨げにならないように現場には近づかずに遠くから写真を撮った)。9haを消失して午後5時前になってようやく鎮火したが、特に組内の団員の諸氏、ジェットシューターを担いで山をかけ登ったり煙にまかれたりで、暑いなか本当にご苦労様でした。小生がもう少し(いやもっと、うんと)若かったら喜んで消防団に入って活動したいところだが、時すでに遅し、今や高齢者である。
観光客も箱石峠の上から、野焼きかと思ってさかんにシャッターを切っていたので、野焼きから飛び火した山林火災ですよと教えてあげたら、へえ、火事ですかと驚いていた、見たところ、野焼きも山火事も同じようなものだから区別はつかなくて当然である。そう言えば昨年も日の尾牧野の野焼きは随分と遅かった記憶があるが、確か、地形の関係で、枯れ草ばかりの時期だと火の勢いが強すぎるので、若葉が芽吹いて少し燃えにくくなった時期をあえて選ぶというようなことだったと思う(おぼろげな記憶なので違うかもしれない)。
今日の火事、珍しく夜のNHK全国ニュースで流れていた、山林火災なら北外輪山の野焼きの時の方が、件数も規模もはるかに大きかったと思うが、休日でニュースネタが多くなかったことと、たまたま同じ時期にもっと大きな山火事がどこだったかで続いていてるので、その抱き合わせで流されたのだろう。
山林火災連続写真(全18枚)
平成21年4月11日(土)
晴れ。今日も初夏を思わせるような汗ばむほどの天気だった。
休みで全員家にいて、ザワザワして落ち着かず、結局何もせずに一日が終わった、今日はまだ土曜日だ、月曜日が待ち遠しい(勤め人に怒られそうな発言である)。そう言えば、娘も早く月曜日にならないかなあと学校に行くのを楽しみにしている。
平成21年4月10日(金)
晴れ。もう初夏を思わせるような、「暖かい」を越えて「暑い」という言葉がふさわしいような一日だった。敷地内に自生しているタラの芽(ここではダラン芽という)がちょうど食べ頃になっている。いつも他所からもらって食べるので我が家のダラン芽はまだ食べたことがないので、モドキという種類があれば食べられないかもしれないが、多分本当のダラン芽だと思う。その下の方には、冬の間は完全に枯れてしまう山椒がいつの間にか艶やかな若葉を茂らせている。その山椒と料理のコンビになるタケノコがいつの間にかニョキニョキと顔を出している。また伐らなければならないの、なるべく生えているのを知らないで済ませたいと努めて見ないようにしていたが、今日とうとう見てしまった。菜花も今が盛りだ。ソメイヨシノが終わりかけているが代わって山桜が咲きだした、春爛漫である。
今日は、娘の登校初日、朝7時10分に我が家の前に登校班6名が集合して出発する。今までは我が家より少し奥になる場所が集合場所だったが、それだと娘が一旦登校進路と逆方向に歩かなければならなくなるので(つまり我が家が村では学校に一番近い場所にあたるので)、今年から我が家の前を集合場所に変更してくれたそうだ。
娘は、二階のおばあちゃんに手を振って、皆が集まるのを家の前で待って、全員が集まったので阿蘇山をバックに記念写真を撮って、班長に引率されて元気に登校して行った(写真1・写真2)。帰りのシーンもまた撮ろうと思っていたところ、予想していた時間よりうんと早く帰ってきてシャッターチャンスを逃してしまった、そして登校班の後ろから先生が村までついて来てくださったそうだが、お礼を申し上げる機会を逸してしまった。緊張はしなかったけど疲れたあと言っていた。
そして、今日は、隣のF井渡さんの所でコイノボリの建て方があり、朝から様子を記録した。今日は宿場会のメンバーでもあるS本棟梁の手による建て方であった。8時頃から始まって昼頃には見事に完成した。
F井家コイノボリ建て方連続写真 1/5(全10枚)
F井家コイノボリ建て方連続写真 2/5(全10枚)
F井家コイノボリ建て方連続写真 3/5(全10枚)
F井家コイノボリ建て方連続写真 4/5(全10枚)
F井家コイノボリ建て方連続写真 5/5(全10枚)
(小生はヒヤカシで全然働いていないのに隣家のヨシミ?お昼のお祝いの席に呼んで頂いたが、小生、我が家の烹炊班長、腹を空かせた婆様と娘の昼食の世話のため辞退申し上げたので連続写真にはそのシーンは無い)
平成21年4月9日(木)
晴れ。春爛漫、最高気温も22℃を超えるほどの温かい日になった。
絶好の入学式日和。娘の入学式があった。今日からいよいよ一年生だ。今までの保育園の生活とはガラリと変わって、起立!礼!などの号令もピリッとしたもので、午前十時から約一時間、みんな緊張のうちに入学式が行われた(国歌斉唱もごく普通に全員が歌い、挨拶などで講堂の壇上に登る人たちも全員がちゃんと日の丸に向かって敬礼をしていた、なんとなく安心した)。
胸に付けてもらた名札には一年一組とあった、一年生は16名、これで総てである、だから一組で終わりである。全校児童数も100名を少し超えるくらいだ、ほとんどみんな顔なじみだ、人口の多いところから見ると羨ましい限りではないだろうか。,
入学式の後は、教室に移動して、教科書や黄色い帽子や防犯ベルなど、これからの学校生活の七つ道具が載っている自分たちの名前が貼ってある机に座って、担任の I 下先生からこれからの学校生活についていろいろ注意を受けていた。新しい環境と言ってもほとんどの子が、今までの仲間なので緊張の中にも保育園の延長的な和やかな雰囲気が感じられた。いよいよこれから10年以上の長い学校生活が始まる、どんな学校生活が待っているのだろう。
入学式連続写真(全12枚)
婆様、デイケア。
平成21年4月8日(水)
今日も穏やかな一日だった。今日は小学校の始業式で、いつもの三人組が登校して行った。いつもはバラバラに歩いているが、今朝は来るべき新入生を迎えて集団登校をするリハーサルでもやっていたのか神妙に列を組んで登校して行った。この列に隣村の子を入れて三名の新入児童が加わることになる、明日が入学式なので、行進が見られるのは明後日からだろう。
我が家の猫がいつもネズミや小鳥を捕らえてくるが、今朝はモグラを捕まえて空中に掘り投げていたぶっていた。猫がひと休みするとモグラは懸命に両手で土を掘って逃げようとする。最近、庭先がモグラが掘った穴でデコボコになっているが、芝生を大事にする人にはタマランだろうなと思っていたが小生はあまり気にしない、これが田舎だと思っているからだ、だから可愛いので助けてやりたいと思わないでもなかったが、害獣なので助けてやるわけにはいかない。それでも、猫は別に食べるわけではないので、いたぶるのに飽きて、もし生きたまま解放してやるのであれば、それも良いだろうとそのままにしておいたが、夕方、不運にも事切れていた。娘がお墓を作ってやりたいというので、穴を掘って埋めてやった。
我が家の周囲でS賀さんの田起こしが始まった。小生は、ほぼ一日、薪作りをした。作ると言うよりは薪材の整理が主な目的である、今日はここの片側にうず高く積み上げてあった、枝が主体の木を切断して薪小屋に放り込んだ。
ブロードバンド網の世帯カバー率が熊本県は全国で五番目に低いという記事が新聞に載っていた。山間地が多いといった地理的な条件もあるのだろうが、それ以上に県や市町村といった自治体やそれに準ずる公的団体の姿勢をみているとさもありなんという気がする。身近な存在である議員のセンセイ方についてもそういったことに関心を持っているひとは誰一人として居ないように思える、地方ほど必要なものであるはずなのに。
平成21年4月7日(火)
朝は、0℃近くまで下がって、畑は霜で真っ白になっていたが、日中はもう完全に春を通り越して初夏のような暖かい一日になった。
婆様の病院ハシゴに付き合い午前中に歯科と温泉病院を回る。娘も同道する。
温泉病院は末梢神経症で掛かっており、神経内科が受診科だが、その神経内科が医者不在となったかで現在休診中になっていた。今日は薬をもらうだけだったので事情を話して内科で診てもらって薬を出してもらったが、その科に掛かっている患者は分かっているのだから、少なくとも現在治療中の患者には休診することを事前に連絡すべきだと思うが、田舎の医師不足は深刻な問題である。
午後から、娘や仲間たちが周辺で遊び回っているのを横目にゆったりと薪作りをする。娘の自転車運転習得、あまり熱心ではない。
平成21年4月6日(月)
穏やかに晴れる、朝少し霧が立つ。
婆様デイケア。
娘の自転車の補助輪を外してやる。 恐る恐る足で蹴っていた。何かで、最初のうちは、漕ぐこともないのでペダルも外してやった方が、ペダルが邪魔にならずに惰性で進むことができる、とあったのを思い出して、補助輪が無くなったのでスタンドを買ってきて取り付けてやるついでにペダルも取り外してやった。さて、何日くらいで自力で乗ることができるようになるか。
子供が徒歩通学をするので、保護者が交替で通学路の要所、要所でみどりのおばさん的な役割をすることになっているそうで、今日、その際に使う黄色い旗が届いた。朝のみ20分くらいだそうだが、2週間弱の間隔で順番が回ってくるそうである。旗はこの集落で持ち回りで使うそうである。現在はこんな田舎でもそういう時代なのか。保育園時代には無かった新しい体験を間もなく親もすることになる。
平成21年4月5日(日)
曇り。
今日は馬場のN川三郎さんのお孫さんの鯉のぼりの建て方があったので、取材?に出かけた。今回もY上棟梁の手によるもので、昼過ぎには、薫風を受けて威勢よくコイノボリが大空を泳いでいた。
N川家コイノボリ建て方連続写真
今日はもう一軒、鯉のぼりの取材があった。我が家の隣のF井渡さんのお孫さんの鯉のぼりで、今日はその準備作業で、K平クンの両親とじいちゃんばあちゃんが一生懸命杉の皮を剥いていた。建て方はこんどの大安だそうである。
(写真1・写真2)
平成21年4月4日(土)
弱い雨が降る、気温は低くなかった。
組内のK閑R一さんH美さん夫妻の長男のM人さんとE里香さんの結婚披露宴がサンクラウン大阿蘇ホテルで開かれ、村の皆さんと一緒に参列した、心温まる披露宴だった(うっかりしてカメラを持っていかなかったので記録写真を残すことができなかった)。
平成21年4月3日(金)
晴れ。今朝もギリギリではあるが氷点下まで下がった、日中は暖かかった。娘、今日も一日飛びまわる。
婆様、大阿蘇病院定期通院、朝、送り届けて、昼前に迎えに行く。
ようやく娘の机の設置完了、その分、小生の領地が狭くなったので、屋根裏に飛び地を作ろうと、先日来、屋根裏の床張りなどをしたが、どうも筋かい様の木材が打ちつけてあったりして天井裏が動きにくいので、写真添付で我が家を設計していただいたT石さんにメールで相談をしたところ、わざわざご夫妻で図面持参で診に来てくださった。ご夫妻とも一級建築士でツーバイフォーをメインの建築設計事務所を熊本市内で開いておいでである。お二人で天井裏にもぐり込んで細かく骨組みをチェックしていただいた。と言うのは、建築途中に、小生が屋根裏を物置にしたいので床を張って欲しいと大工さんに直接リクエストを出したので、構造が図面と少し変わっているからである。小生は、単純にコンパネを貼れば済むと思って頼んだのだが、今日説明を聞いて、そうではなくて、天井だけの場合と物を置くことを目的とする場合と使う材木の太さが少し違うので、もともと天井として設計した場所を物置に変更するのであればそれなりの補強が必要になり、大工さんはそれを考えて手を加えてくれていたのである。結果、小生が不要と思っていた部分は必要で、必要だと思っていたところは建築途中の仮止め的に使った材料なので取り外しても構わないだろうという答えをいただいた。そして、木材も太いし本数も多くて、非常にしっかり造ってあるので心配はいらないと思うけど、あくまで床ではないので、そのことは念頭に置いておくようにと注意をいただいた。加えて、屋根裏の環境を少しでも改善するための断熱処理の方法もいくつかアドバイスを頂戴した。
平成21年4月2日(木)
晴れ。今朝はまた一段と冷え込んで畑は霜で真っ白、山も裾の方まで、これは夕べこの辺では雨だったが、山では雪だったのだろう、真っ白になっていた。山の写真
婆様、デイケア。娘は今日も一日中、外で遊び呆ける。
小生は、一日中、二階と屋根裏の往復、ようやくスペースを作って、机を組み立て始めたが、これが結構面倒で、日没再試合、残りは明日だ。
当分の間、時間がとれないので、思い切って宿場会を新年度休会することにして、今日休会届を出してきた。これからサイト管理の裏方を受け持つことにする。
定額給付金の申請書を提出してきた。
平成21年4月1日(水)
晴れ。今日はまた気温が低めだった。
いよいよ4月かあ・・・・・・・・・・。12回、一年に月が変わる内、ああ今日から何月か、と節目を感じる月が幾月かあるが、4月はそのひとつである。・・・・・・・の部分に色々な想いが込められているが、わざわざ具体的に書き連ねるほどのものでもないが、それでも、ああ4月かあ、となる、日本人ならではの感情である。
正午の予約で婆様を歯科に連れてゆく。娘も同道させ車の中で待たせる。
その娘、よくまあ、飽きないものだと感心するくらい日がな一日遊び回っている。門限を五時としているので、五時のチャイムが流れると自発的に解散しているが、その際、もう明日の約束をしている。朝の放牧時間は九時である。
昼から、屋根裏にもぐり込んでガラクタを整理して、娘に明け渡す予定の場所から移動する小生の荷物の置き場を確保する作業をする、今日一日では片付かず、明日もう一日かかりそうである。ここのところ連日、薪運びや、畑作りで腰がパンパンに張っていて痛い、婆様に貰って膏薬を貼る、チェンソーや斧の使い過ぎで腱鞘炎のようなものになって手首には貼ったことがあるが、腰に貼ったのはおそらく生まれて初めてだろう。。
屋根裏にもぐり込んでいる時に防災無線から火災発生のサイレン、坂梨の神石地区の民家から出火したそうだ、名前を聞き洩らした。(新聞報道によると市原秋友宅の由)
先日の馬場の鯉のぼりの日記、今夜、棟梁から電話があって、親類縁者や知人から、見たよ、と連絡があったそうで、喜んでいただいたようだ。