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平成22庚寅(2010)年3月4月の記録(新しい日付けの順)


平成22年4月30(金)

 晴れ、午後になって曇る。連休中はずっと晴れる予報だったと思ったが、今日は午後から厚い雲が空を覆い、少しパラパラ来て風も強くて冷たかった、今年は何時までも寒い。

 夜、子供会の保護者の集まりが馬場公民館で行われ、年間の予定などを打ち合わせた。馬場、豆札、北坂梨、それから今年から柿の木も入るそうで、子供の総勢、23人だとか、結構な人数になっている。

 娘が、(学校のではないと思うが)教材か何かで、トマトを育てていて、種から播いたトマトの芽が出たと騒いでいた。



平成22年4月29(木)  昭和の日

 晴れ。昨夜の予報、良い方に外れたようで、ほとんど何事も無かったようだ。

 日章旗が破れて変な所に引っかかってしまった、旗日が続くのに買い替えるのは間に合わないので、軒先に立てる小ぶりの旗でとりあえず代用したがどうも今一つ迫力が足りない。

 娘を連れてカミさんの病院に行く。今パジェロが整備中なので、代車の軽四輪ででかけた。例によって昼飯を一緒に摂ってから、小生一人街に出た。今日は数十年ぶりに水前寺公園にでも行ってみようと、病院がある洗馬橋電停(あんたがたどこさの洗馬橋である)から市電に乗ったところ、今日は辛島町どまりで、その先は水道町から出ていて、通り町筋の区間は運休とのこと、尋ねてみると、今日はくまもと城下祭だそうで、辛島町と水道町間は歩行者天国でイベントがあるので市電は走らないということがわかった。なるほど、色々な催しで大賑わいだった、一旦病院に戻って娘を連れだそうかとも思ったが、それほど時間に余裕はなかったので思いとどまった。(写真1写真2

 水道町まで歩いてから再度水前寺公園まで市電に乗った。今日は城下まつりだといことで、市電は全線無料だった、全線といっても今では二系統になってしまったが。水前寺公園、(写真1写真2)昔はもっと水が豊富だったと思ったが、近年は湧水量が減っているらしくてあまり綺麗ではなかった、それと、観光客が昔と比べて激減しているように見受けられた、これはちょっと深刻な問題である。水前寺公園内に出水神社がある、そこから電車道を挟んですぐの所から出水(一丁目)が西向かって広がっているようだ、出水がこんなに広い範囲だとは思わなかった。


平成22年4月28(水)

 晴れ。ただ、今夜はまたひと荒れありそうだ。

 雨後のタケノコではないが、先日来皆さんがタケノコをかなり掘りつくしてくれたにも関わらず、ちょっと目を離すと、至る所でニョキニョキとタケノコがまた生え出している、今のうちに切り倒しておかないと後が大変なので、目に付いた最早タケノコとは言い難いほど成長した竹を手当たりしだい切って回った。

 葬儀で、義父が徹底的に、特に玄関や玄関周りのゲタ箱など室外に撤去して大勢の人の出入りに備えてスペースを確保してくれた作業の、逆の作業を少しずつ始めたが、いやあ、これが大変な作業で、よくもまあ、義父は独りでこれを全部やってくれたものだと改めて感謝の気持ちでいっぱいである。

 午後から娘の授業参観とPTA総会に出席する。(写真1写真2

 そろそろ、世間では大型連休に入る。いつも、連休の時に、娘が、どこかに行きたいと言っていたが、その都度、阿蘇は連休の時に、大勢の人がやってくるほど素晴らしい観光地なんだから、わざわざここから遠くに出掛けることは無いだろうと、半分本気で半分はごまかしていたが、今年は、後顧の憂い?も無くなったことだし、母親も入院で居ないので、二人で車の中で寝泊まりしながら少し遠くに行ってみようか、とリップサービスのつもりで言ったところ、娘、大いに乗り気で、もしかしたら一泊くらいで出掛けることになるかもしれない。宮崎の方にでもゆっくり走ってみようかと言ったら、行こう、行こうと言っている、娘は車の中に泊りたがっているが、小生はどこか温泉宿でゆっくりしたいのだが。ただ宮崎方面は現在、口蹄疫で大騒動の最中だ、人には伝染しないということなのでそれは信じるが、車などにウイルスが付着して知らずに持ち込むことになると畜産の阿蘇では大変なことになる、やはり今は宮崎方面は自粛すべきだろうか。

 そういえば、昔、婆様と二人でよく車で寝泊まりしながら、あちらこちら走り回ったことを思い出す、婆様は80歳台になっても、小生のペースで一緒に旅をした、今度は、その年齢の十分の一の娘と旅をすることになるのだろうか、感慨深いものがある。


平成22年4月27(火)

 昨夜から今朝にかけて、かなりの量の雨が降りそうな気配だったが、思ったほどではなかったようだ。朝のうちは雨が残っていたが、昼ころどんどん天気が回復していった。しかし、大陸から西風に乗ってやってきた大量の黄砂で五岳が霞むほどであった。これが純粋に砂粒であればまだ我慢が出来るが、このなかには大気汚染物質が沢山含まれているから腹が立つ。

 久しぶりのみどりの爺様の出場、雨の中、子どもの通学の安全を見守る。

 葬儀後の始末で二三箇所回る。


平成22年4月26(月)

 晴れ、しかし昨日ほどの晴れではない。風が強かった、また今夜あたりから天気が崩れそうだ。

 今日は、特に書くことが無い、まだ後始末がいくつか残っているが、時間の使い方に慣れていないこともあり、また動く気分にもなれず、ダラダラで一日が終わった。


平成22年4月25(日)

  晴れ。今朝は氷点下まで下がって、NHKの全国ニュースでそのことを伝えていた、畑は霜で白くなっていた。一方、日中は20度近くまで上がったようで爽快な初夏の風景が広がっていた。

 ようやく晴れたので、ハチウトにじっちゃいから送ってもらった蜜蝋を塗った、  レンゲもようやく咲き乱れだしたので、ハチの姿を探したが、今日はあまり見かけなかった、昨日までの低温が響いているのだろうか。

 今日の晴天下、半旗のままでは勿体ないので、忌明け?ということではないが、日章旗を一番上まで掲揚し直した。

 葬儀で頂戴したりして飾ってあった花がさすがに枯れが目立ってきたので娘と整理した。そして、生花は高価なので、鉢植えの花を幾つか買ってきて置いたけど、これで良いんじゃないだろうか。

 婆様の終末騒ぎで、手が回らなかったジャガイモの作付け、義父が代わって植えていってくれたのが、今朝、芽が出ているのに気がついた、芽の出方からすると二三日前から出始めていたのだろう。

 夕方、娘のクラスメートで、ピアノ仲間のU那ちゃんが、今夏の発表会で娘と連弾をすることになったそうで、お母さんと衣装決めの打ち合わせに見えた、小生は全くの門外漢なので、お任せということで話には加わらなかった。しかし、今年はカミさんがあんな状況だから小生が引率することになるのだろうか。



平成22年4月24(土)

 晴れ。久しぶりの青空、ただ、空気は冷たかった。

 カミさんのところに娘を連れてゆく。いつもは小生は独りで飯を食いに出るが、今日は親子三人で病室で昼食を摂る。

 そのあとで、やっぱり手持無沙汰になって独り町に出る。電気屋に入って、発売されたばかりという3Dテレビを見てみた。映画館で見るより画面が鮮明で明るい、とても素晴らしい。しかし、3D映画も最初の時の感激が二度三度となるにつれて、その感激も薄れてくる、それと同じだろう。その昔、白黒テレビがカラーになった時に感じた驚きもすぐに当たり前になってしまった。それと同じで、そのうちに3Dなんて当たり前になってしまうだろう、そうなると、最後はコンテンツ、ソフトの善し悪しになってしまうだろう、ということはいずれ3Dテレビでバカ番組を見せられるということか。

 夕方、M-NAKAさんがtomuさんご夫妻と見える、お線香をあげていただいた。
平成22年4月23(金)

 曇り、夕方近くになってようやく青空が見えてきた。それにしても肌寒い。

 病院に婆様の入院費の精算と市役所に年金や健康保険関係の資格喪失の手続きに行く・・・・


平成22年4月22(木)

 前線と低気圧の通過で昨夜から相当まとまった雨が降った、優に100mm以上は降ったようだ、それに南西の風が強く、ベランダ側がびしょ濡れになってしまった。ついつい、結び付けてしまうが、葬儀の日に当たらなくて良かった。

 そろそろ田に水が入る時期だが、昨夜来の雨で、まるで川から水を引いたように田面は満々と水をたたえていた

 昼過ぎには雨の峠は越えたが、結局、夕方まで細かな雨が降り続いた。ボンの散歩も、今日は雨だからやめようかと思ったが、ずっとクンクン鳴き通しだったので、夕方、小雨をついて散歩に出たが、娘が一人だと怖いと言って、レインコートを着て一緒に着いてきた、これも今までとは暮らしのスタイルが変わった部分である。

 別に「悄然」として、ということではないが、なんだか気が抜けてしまって、ボーッとして一日を過ごしてしまったようだ。


平成22年4月21(水)

 曇り、今日はなんとか降らずに済んだ。

 カミさんの母親が約一か月の滞在を終えて帰って行った、昼前にカミさんが入院している病院まで送っていった、しばし、娘(カミさん)と時間を過ごしてから、そこからバスで空港に向かい、千葉に帰って行った。小生は義母を送って先に帰ってきた。

 今回は、本当に家事全般を受け持ってもらって助かった。本来の目的は、身重のカミさんの手足のつもりで来てもらったのだが、婆様の事が起きて、その何倍もの負荷を掛けてしまった。また近いうちに応援を頼むことになるだろう。

 これで、とうとう父娘二人っきりになってしまった、娘は、学校から帰ってきて、寂しいねえとしみじみ言っていたが、それもすぐに慣れるだろう、これからは、我が家が新たなメンバーで四人編成になる日を待っ日々になる。


平成22年4月20(火)

 昨日からのまとまった雨、朝には弱まり、少しずつ回復傾向にあるかなと思ったが、結局細かな雨が終日降ったりやんだり。

 昼前、初七日の法要を営む。と言っても、縁者は皆遠隔地で、葬儀が終わって皆帰ってしまったので、カミさんの母親と小生の二人だけで円通寺様にお経をあげていただいた。

 変な言い方だが、人間、死ぬまでが大事で、死んでしまえば、後は形式、そんなものはもうどうでもいいことで、何処で悼もうと全く構わないと思う。死の間際まで十分に時間を持つことができたので、何度も言っているが実にサバサバした気分でいる。それでも村の人が何人か覚えていてくださってお参りくださった、大変有難いことである。


平成22年4月19(月)

 朝から少しずつ天気が下り坂で、午後に入って、そして、更には夜になって本格的な雨になった。昨日までの好天が今日を境に変わってしまった、総て終わった後で良かった。

 昨日の遠足で、娘は今日は振替休日である。その休日を利用して、カミさんの母親と娘と三人で、福田病院にカミさんの様子を見に行く。

 その前に、看病のために、入院中の婆様のそばで一番沢山の時間を過ごした妹ら愛知組が今日帰って行った。人が次々に去って、いよいよ我が家が寂しくなった。写真1写真2写真3

 娘たちが病院でカミさんと一緒に昼食を摂ったりして過ごす間、小生は、時間つぶしに映画に行った。丁度時間が合ったレオナルド・ディカプリオ主演の「シャッター・アイランド」という、サスペンスものを観たが、ちょっと分かりにくかった。

 今までは、映画を観ていても、常に婆様のケアの事が頭にあって、帰る時間などを意識的に、或いは無意識的に気にしていたが、もうその必要が無くなったにもかかわらず、一度にはその習慣が抜けきれずについついそういったことに気が行ってしまう、まあ、長年の習慣だから、当分は抜けきらないだろう。 

 そうそう、一昨日の朝突然に去って行った義父は、昨夕無事に千葉に帰りついた由。

平成22年4月18(日)

 文句なしの素晴らしい穏やかな日であった。

 明治時代から続いている坂梨小学校入学歓迎浄土寺牧遠足。カミさん入院不在であるが、千葉のおばあちゃんと小生の妹一家が弁当を作って応援に出かけた。小生は、お参りの客様に備えて自宅待機、昼食時のみ出掛けて行って皆と弁当を囲む。今日は涼が主となって写真を撮ってくれた。

浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 1/6
浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 2/6
浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 3/6
浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 4/6
浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 5/6
浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 6/6


平成22年4月17(土)

 霜が降りて、朝から抜けるような青空が広がる。

 義父が朝、突然、これから帰ると言う。大体において思いついたらすぐに行動に移す人のようで、皆で引き留めたが聞く耳持たず。朝食を済ませるとあっという間に帰って行った。何か気に障るようなことでもあったかと思ったが分からない、どうもそうでもなさそうでもある。涼が、まるで寅さんのような人だと言っていたが、上手いことをことを言う。

 そして、昨夜かんぽの宿に泊った従姉の弘子姉一行も昼前に熊本経由で横浜に帰って行った。(写真1写真2

 昼過ぎに、今度は従兄の滉兄夫妻が福岡から来てくれた。今回の婆様の入院に関して病院側が執ってくれた過分の対応は多分に滉兄に負うところ極めて大だと思っている、本当に感謝している。

 今、家の畑も花が咲き乱れて、特にグミの花に沢山のミツバチが蜜を集めに集まっている。近い方が良いだろうと、グミの木の下に一時的にハチウトを移動してみたが、どうだろうか。

 それからタケノコのシーズンである、今回の葬儀で集まった親戚連中、タケノコが自生する風景が珍しいと見えて、次々に掘り起こしては宅配便で自宅に送っている。また、葬儀の際にお手伝いいただいた組内の皆さんも、交替で裏の竹藪に入っては、これも婆ちゃんのプレゼントばいとタケノコを掘り起こして両手に抱えて嬉しそうだった、昨年、竹を大量に伐採したので、その分、今年のタケノコは多く、このまま放置するとまた伐採が大変なので、当方にとっても皆さんが掘ってくださるのは大助かりである。今日も、義弟が、これはギネスモノだ、とばかりに一抱えもある太い孟宗のタケノコを掘り起こしていた。

 夕方、円通寺に今回の葬儀のお礼のご挨拶に伺う。七日はどうする?とのことだったので、親戚は全員遠隔地でもう皆帰っていないと思います、娘も学校だから小生一人だけですけど、それは全く構いませんのでとお経をお願いしてきた、普通は前日の19日に初七日をすることが多いそうだが、では20日にお経をあげに伺いましょうとおっしゃっていただいた、小生の気持ちの問題で、人数は全く関係ないのでそれで大いに結構だと思っている。


平成22年4月16(金)

 小雨のち晴れ。

 朝、8時45分、火葬場に出発、9時火葬開始。ここ阿蘇では、先に火葬に付してから、そのあとで告別式を行うのが一般的である。告別式の後に出棺をして、荼毘に付すという順序に慣れている向きには少し違和感を覚える順序である。写真1写真2

 納棺に際して、故人の好きだったものでも入れてくださいとのことであったので、晩年にはもうやらなかったが、昔、編み物が好きで、我々兄弟のセーターなど沢山編んでくれたので、編み物棒と自筆の編み物に関する備忘録が整理していたら出てきたので、それらを、それから、本が好きで、「新宿鮫」シリーズの最新版を読もうとしていて、結局読むことが出来ずにベッドに残されていた文庫本を棺に納めてやった、それから百羽鶴も。

 最後に、ひとりずつ一言声を掛けて花を手向けて下さいと言う葬儀社係り員の言葉に、こういった演出には本当に弱い、どこかでスイッチが入ってしまい、不覚にも思わず号泣してしまった。約1時間40分で火葬が終わり遺骨を胸に家に戻る。


 午後一時より告別式、皆さんのおかげで滞りなく葬儀を終えることが出来た感謝に堪えない。今回は、家族葬という形式にこだわっていたが、組内の皆さんの助言により、少し軌道修正をして、おときを用意しておいて良かった、沢山の会葬者に失礼が無くて良かった。とにかく組内の皆さんのお力添えは有難かった。

 葬儀に間に合わなかったが、従姉の弘子姉が長男次男のH、J君二人を連れて、またかけつけてくれた。妹の長女の杏も息子をつれてまた来てくれた。

 葬儀は、普段会う機会が無い親戚同士が会う機会を作ってくれる。これは死者の導きとともいうが、そのとおりである。皆で集合写真を撮ったが結構な人数である、たまたま走り回っていてこの写真に収まっていない者も何人かいる。夜には、婆様を偲んで酒盛りになった。

 今日は写真をしっかり撮ってもらおうと誰かだったかに頼んだが、得心の行く写真が少なくて掲載する写真が少ない。

 娘が母親が居ないうえに父親も傍で寝てくれなくてなんだか寂しがっているので、今夜は、婆様の祭壇脇に二つ布団を並べて寝てやった。とにかく総て終わって肩の荷が下りた気分である。


平成22年4月15(木)

 雨のち曇り。

 一晩ほとんど寝ないで婆様のそばにいて朦朧として朝を迎えた。

 朝早くから組内の皆さんが集まってくださって、葬儀の打ち合わせをしていただいた。自分たちの我儘で、家族葬でやろうと思ったが、皆さんの助言で、家族葬と一般の葬儀との中間のようなスタイルで、葬儀を営むことにした。

 今まで、村の葬式に数度参加したが、自分がその当事者になったのは初めてなので、通夜に関しては知らないことが多すぎて、結局婦人部の皆さんのご好意、助けを借りて無事に通夜の準備をすることが出来た。

 葬儀の飾りつけは、思い切って簡素にそして手作りの祭壇を心がけた。純然たる手作りではないが、なるだけシンプルに、という目的は達せられた気がする。

 午後6時からの通夜も無事に終わった、本来なら、写真を沢山撮るところだが、喪主がカメラを構えることはできないので、あとは親戚の誰かが撮ってくれているかなと期待していたが、誰も撮っていない、頼りにならないやつらばかりだ。

 今日は、義弟の博道とその次男坊の暖とそのまた次男坊の陽路が、つまり婆様の孫とひ孫が集まってくれた。


平成22年4月14(水)
 朝から晴れ間が見えている、予報のようには冷え込まなかった。

 朝6時、涼と交替、妹は病院の方が落ち着くと言ってほとんど帰ってこない。昨夜は、予定より少し早く鎮痛剤(座薬)を投与、この分より強めの薬に変更、血圧などのモニターを注意して見ていたがずっと安定している、何よりもこの年齢で婆様の意識がハッキリしているのが驚異的らしい、とにかく激痛から解放してやりたい。(午前7時)

 ウイーンのKちゃんから、婆様を気づかうメールに添えて、誕生ホヤホヤのYちゃんを抱いた一家の写真が送られてきた、このような時には、若い人たちの笑顔、色々な意味で慰められる。(写真

 夜になって、今晩もこのまま安定した状況が続くかなと、思っているうちに、容態が急変、あれよあれよという間に、血圧や呼吸が弱まって、病院の皆さんの手当、看護の甲斐もなく、一旦家に帰えした涼を呼びもどす間もあらばこそ、午後11時47分に、静かに息を引き取った。人の命の終わり方の表現のしかたには色々あるとおもうが、母の場合は、まさに「燃え尽きた」という表現が相応しい終わり方だった。(写真

 母が息を引き取るまで、何日も病院で一緒に過ごして、その間、十分に心を通わせることが出来ていたので、最後の瞬間は思いもよらないことだったが、穏やかな気持ちで迎えることが出来た。もうこれで楽になれるね、十分だね、と心の中で話しかけた、心残りは全くない。

 今回の病院の献身的ともいえる手当、看護、介護には本当に感謝以外の何物でもない。
 病院から棺と一緒に家に戻る時に街灯に照らされて、霧のような細かな雨が降っていたのが印象的だった。

 病院で納棺を済ませて、我が家に戻ってきて、二階の婆様の部屋に棺を安置する際、階段を運ぶのは狭くて無理なので、小生手製のクレーンを婆様最後の昇降に使おうと思っていたが、いざやってみると、棺が長すぎて、ストーブの煙突が邪魔でどうしても吊上げることが出来ずに、結局、階下で一旦、婆様に棺から出てもらって、ベッドに安置してから、出棺の際に改めて、階下で納棺することに落ち着いた。これも良い思い出になる。


謹んでご報告申し上げます
 母 和子 4月14日23時47分 満94歳有余の生涯を閉じました
 皆さまには本当にお世話になり有難うございました 心よりお礼申し上げます



平成22年4月13(火)
 雨、ほとんど上がっている。昼間は細かい雨もあったが、夕方には晴れあがった。

 朝、6時過ぎに涼と交替して家に戻る、娘が飛びついてくる、やはり寂しいのだろう。

 婆様、昨夜も、鎮痛剤があまり効かないようで、断続的に痛みに苦しんでいた。意識が驚くほど清明であるが、時々意味不明なことも口走るようになっている。意識を保つ代償にある程度の苦痛も受容したほうが良いのか、意識レベルを下げてでも苦痛を和らげてやった方が良いのか・・・・・・

 昼間、顔を出した時には、いわゆる寛解とでいうのか、体を起してもらって、談笑とまではいかなかったが楽そうに会話をしていた、それから、腹が減ったから何か食べたいと、妹からプリンを食べさせてもらっていた。プリンの後はコーヒーが飲みたいといっていたが、それはさすがに、駄目だよ、治ってからねとなだめて帰ってきたが。

 午後6時頃、最大級の痛みが来たそうで、それもなんとか抑えたが、さらに強い薬を使わなければいけないだろう。そんななかでリンゴが食べたいと言っているそうだから、食べられるかどうか分からないが、今晩リンゴを擂ってやろうと妹が言っていた。

 端午の節句の準備で、時々、コイノボリの柱の運搬を目にする、長さ20mくらいの杉を山から切ってきて運ぶわけだが見ていてなかなか大変である。


(午後7時記)


平成22年4月12(月)
 雨。今日は夕方にかけて少し荒れそうだが、朝のうちは静かに降っている。

 新学期、今日から新一年生のB君が登校班に加わって総勢7名になった。生憎の雨の中を元気に登校して行った。そして、午後4時前、途中まで先生の観察の下、無事に帰ってきた

 朝、涼と交替して戻ってくる。8時間おきの鎮痛座薬の効き目が一時間ほど少し早めに切れて痛がったので午前一時半ごろだったか、投与してもらった、そのほかは安定している。

 カミさんの母親に今晩のメニューを問うたら、天ぷらにするとのことであったので、我が家に自生するタラの芽を採ってネタに加えてもらった。

 付き添っている妹から今日の経過報告、痛みの間隔がどんどん短くなってきており、座薬投与の時間まで我慢させるのが大変で、つらいとのこと。

(午後5時時点)

平成22年4月11(日)

 朝の段階曇り

 6時過ぎに涼が交替のためにやってくる、妹はずっと居続け、小生のみ帰ってくる。昨夜は小生、ほとんど完徹だった。午前1時半頃、痛みがひどいので座薬を入れてもらったが、完全に効くまで2時間掛かった、最近は苦しくなると、身もだえして無意識に酸素マスクや血中の酸素測定用の機器を外すので、ナースセンターでモニター出来ないことになり、危険信号が伝わらないことになるので、常に監視していないと駄目である。昨夕も、本人の希望で少しだがプリンを食べさせてもらっていた、そのあたりの神経が刺激されているのだろうか。

 一時は胸水を抜くたびに体力が急激に衰えて、極めて短期戦だと思って、親戚筋が沢山集まったが、胸膜癒着術を施した結果、胸水を抜く必要が無くなった分、体力の衰えのスピードが鈍り、本来の病気の進行状態で悪くなっているのだろうと素人判断している。病気はアデノカルチノーマのレベル5である。そのことが分かった時点では、日記に書くのが苦痛だったので、詳細は公開しなかった、そのうちに、その部分を遡って書くつもりでいるが。

 過ぐる秋に畑に播いたレンゲが周囲の草草に埋もれながらも数輪花開いているのを発見した、季節は今一年で一番勢いのある時を迎えている、つい先日、桜の蕾が膨らんだなあと思っていたらあっという間に満開になって、それもすでに葉桜へと移り始めている、見渡せば真っ黄色な菜花を始めとして沢山の草花が春を謳歌している。そしてもうコイノボリも泳ぎ始めている。一方では今その生の終わりを迎えようとして者もいる。まさに、「年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず」である。

 長崎の従姉妹、F子(とその夫君)さんとM子さんが婆様の見舞いに来てくれた、数年ぶりの来訪である、婆様のすぐ上の兄の子たちである。小生の日記を見てくれたそうである、婆様は意識がはっきりしていて彼女たちを認識したそうである、有難かった。

 一日がかりで、カミさんの両親が娘を乗せて、カミさんの入院している病院に衣類などを届けてくれた。不慣れな地理なので不安だったが無事に往復出来たようである、無理して千葉から車を持ってきた甲斐があったというものである。

 今晩もこれから泊りこむ。妹に夕食を届けに行った際に、婆様が、腹が減った、腹が減ったと騒いでいたが、どういうことなんだろうか。


平成22年4月10(土)

 暦の上ではまだ前日だったか、既に日が替わっていたか、記憶がおぼろげになっている。昨夕、婆様、余りにハイ状態だったので、病院で睡眠導入剤を処方してくれて、静かに寝入ったが、そのせいだったのかどうかは分からないが、夜中にモニターの高い方の血圧の数値が非常に低いというアラームが点灯した。呼びかけても反応しない、瞳孔反応も極めて弱くなっていた。ああ、いよいよなのかな、でも苦しんでのたうちまわって迎える最後ではないから、本人のためにはこれで良かったのかなと、覚悟を決めて、妹と一緒に婆様の最後のその時に立ち会おうとずっと枕元で見守っていたが、改めて注射をしたりといったことまでしない状態で、幸いに病院側の処置のお陰で少しずつ血圧も回復して、朝にはほぼ正常値に戻った。理不尽に挑まれた始めから勝負が決まっている闘いに最後の抵抗を試みている婆様、なんとも、言葉が無い、我々息子、娘も、とことん最後まで母親の闘いに付き合う覚悟で病院に詰めている。昨夕の異常なまでの食欲、もっと水を飲みたいという意思表示、本人には、明日は無いということが本能的に分かっていたのだろうかと思わずに居られなかったが、とりあえず、明日はあった。

 朝になって、ひとまず、小生だけが、家に戻ってくると、今度は、カミさんが調子が悪いという。早速カミさんかかりつけの病院に電話をして指示を仰いだところ、すぐに来るようにとのことなので、娘も同乗させて、熊本市の福田病院に搬送、検査の結果、このまま入院ということになった、今の所胎児は順調だそうだが、ベッドで点滴を受けていたカミさんを置いて帰ってきた、こちらのほう、大事に至らなければ良いが。

 色々なことが重ならなければ良いがと思っていたがやはりこんなものである、ただ、昨夜でなくて良かった。なんとなく予感があったので、昨日のうちに車の燃料を満タンにしておいて正解だった。

 義父、昨夜は熊本のどこかで車の中で仮眠をとったようで、我々が熊本に行っている間に、午前中のうちに、無事に戻っていた。まだどういうルートで千葉から来たかはまだ聞いていない。

 夕方、娘が婆様を見舞ってくれる。あまりものやつれ様に娘が言葉を失っていると、婆様が「なあつこちゃん」に続けて「はあい」と自演してくれた。それほど意識がしっかりしている時とそうでない時とがある。意識がしっかりしていることは本人にとってそして我々にとってつらいことである。

 今晩もこれから病院に詰める。今晩から母親も父親も居ない、娘が寂しそうにしている。


平成22年4月9(金)


 うす曇り、この時期だから花曇りか。

朝、、落ち着きを取り戻して、驚くほど、穏やかで、美しく張りのある顔で、お腹が空いた、と、とろみをつけたさ湯を結構飲んだ上に、ヨーグルトが食べたい、ゼリーが食べたいと訴える。先生に相談してみてからねと言って、しばらく時間をおいて先生から許可をもらった時には、もう要らないと言っていたが。随分と神経が研ぎ澄まされているようだ。

 従兄姉の信昭、弘子夫妻が朝、病院を見舞ってくれて、その足で一旦出直しのために発つ
(午前の時点)

 博道も夕方の便で一旦帰る。さらには杏と士音も。

 一方で、7日に千葉に戻った義父が、今夕着予定で、もう、今度はマイカーで折り返してきているそうである、昼過ぎに広島あたりを走っていると連絡が入る、夕方には北九州小倉に居た。疲れているからそのあたりで泊りなさいとカミさんが説得していた。首都高、東名、名神、山陽、そしてこの先九州自動車道を多分、不眠不休?で走ってきたのだろう、古希の高齢者が呆れたものである。

 今晩も妹と一緒に泊りこむことにした、その準備のために、病院に顔を出したところ、看護婦さんにヨーグルトを食べさせてもらっていた。もっと食べたい、ケーキも食べたいと、異常なほどの食欲を示している。もう何日も食べていないのに。本来なら喜ぶべきことだろうが、こういうシーンを目にすると何か非常に悲しいことである。顔で笑って心で泣いてということである。

 我が家の人口、只今何人?曜日や日付とともに全く分からず、頭がボーっとしている。

 
平成22年4月8(木)

 病院で朝を迎えた、美しい夜明けだった

 昨夜は、妹と一緒に看病にあたった。比較的に呼吸が落ち着いていて、呼吸ゼロの時に鳴るアラームもあまりならなかった。呼吸ゼロと言っても、健常者でも無呼吸症候群というのがあって、夜、眠っている間に、長い人になると1分くらい呼吸が止まって、そのうちに苦しくなって、体が自然に反応して、その後で大きく息を吸い込むのと同じで、それほど慌てることも無いようである。あまり長時間、そして頻繁に起こりだすと要注意だそうだ。うちの婆様、一生懸命闘っているのだろう。昨夜は妹がほとんどの時間付き添っていてくれて小生は圧倒的に寝ていた。大阿蘇病院の医療スタッフ、介護職員の皆さんの手厚い看護、心のこもったケア、これほど有難く気持ちの良い病院は今までかって経験したことが無い。(写真

 朝、涼と交替して、妹と帰宅して風呂と朝食を摂る。

 今日は小学校の始業式で、それぞれ進級して元気に登校して行った、新学期初日は前の学年の教室だろうか、進級した学年の教室に入るのだろうか。

(以上am9:00現在)
その後、

 新二年生の新学期初日、昼前に学校から帰ってきた娘、なんでも、担任の先生は、いわゆる持ち上がりだそうで、一年の時の I 下先生が引き続いて二年生の担任を務めて下さるようになったそうだ。クラスは一クラスしかないので、クラス替えなど無いし、教室も、隣りの教室だから、ただそっくり移動するだけで済むということだろう、一年生の三学期末にR大君が転校して行って寂しくなった所に、なんでも鹿児島から転校生がくるそうで、楽しみにしているようだった。

 イトコの信昭、弘子兄姉、今晩からかんぽの宿を引き払い我が家に逗留してもらうことになった。

 夜は小生が一人で、付き添うことにして、それで大丈夫だと思っていたが、夜半になって、ちょっと様子がおかしくなって、応援に妹と涼を呼び寄せた。

 というのは、今までは、多分モルヒネ系の座薬だと思うが、それに替えて今日の午後からフェンタニルパッチというやつだろうか、に変更された、そのせいかどうか全く分からないが、夜半に、幻覚症状があらわれて、色々な事を口走ると同時に、虚空を掴むなど、やたらと両腕を振り回す動きを始めた。言葉だけの異常行動であれば、そのまま言わせておけば、常にそばに居る必要な無いが、手を活発に動かすので、酸素マスクをむしり取ったり、点滴のチューブを引きはがして、血液が逆流してこぼれ出すなど、一時も目が離せない状態になったので、これは一人では対応できないなと妹と涼を真夜中に応援に呼びだしたのだ。

 この動きも、しばらく活発に動いたので、さすがに疲れたと見えて、その後は静かに寝入ったが、いつ、起き出すかわからないので、交替で付き添うことになった。この鎮痛薬は一度貼ると二三日交換する必要が無いとのことであるが、皮膚から浸透させるために薬効が出るのに少し時間が掛かるそうで、明け方、また痛みだしたので、弱い座薬も入れてもらった。

 夜、ひと騒動があった時の言動をメモしておいた。「もう限度」「力が無い」「お母さんを助けて」「あそこに誰かが居る」「もう帰っていいよ」、38度あった熱が、37℃に下がったので、熱が下がって良かったね、というと、「そんな問題じゃない、(自分の)体温がどんどん下がっている」などなど、なんとなく、暗示的な言葉が多かった。今晩はいよいよかなと思ったこともあって、妹を呼び寄せたこともあるが、明けて9日朝、、落ち着きを取り戻して、驚くほど、穏やかで、美しく張りのある顔で、お腹が空いた、と、とろみをつけたさ湯を結構飲んだ上に、ヨーグルトが食べたい、ゼリーが食べたいと訴える。先生に相談してみてからねと言って、しばらく時間をおいて先生から許可をもらった時には、もう要らないと言っていたが。随分と神経が研ぎ澄まされているようだ。


平成22年4月7(水)

 (時間がある時に少しずつ書き足していく)

 朝から薄暗く曇っている、が、雨になりそうな曇り方でもなさそうである。

 朝、妹と涼と交替して病院から帰ってくる。座薬の一日の限度量が60ミリグラムのようで、それを、今まで4時間おきに10ミリずつ投与していたが、ここの所、その4時間が保ちきらずに、時として1時間くらい前から痛がるようになっていたので、今朝5時からの分、一回の投与量を一回につき20ミリ上げて、その代わり、投与間隔を8時間に変更した。

 今日は、義父が一旦帰っていった、改めて出直すそうである。そして、道子姉も帰って行った。急に寂しくなった。少し皆に疲れが出てきはじめたか。

 帰る前に、義父はジャガイモも全部植えて行ってくれていた。(写真1写真2

 夕方近くなって、少し呼吸が浅くなり、無呼吸の時間が少し増えている、これからまた病院に詰める(PM4:00)。





平成22年4月6(火)

 晴れ、今日も気温が上がった、ここ二日ほどストーブを焚いていない。小生が居れば焚いていたかもしれないが、病院に行ったり来たりで家に居る時間が不規則なこともあって、他の者たちがストーブの管理に無関心なので、自然、ストーブが焚かれることがないこともある、もっとも焚かなくても寒くないからが理由の一番かもしれない。

 今日はカミさんの一か月検診の日で、こういった状態だから今回は日延べをしようかと思ったが、先が読めないので、安定しているなら、行った方が良いということになって、朝、病院に寄って婆様の容態を確認してから、カミさんと娘をレンタカーに乗せて、熊本市の病院まで行ってきた。婆様、ここのところ、呼びかけに対して目をつむったまま、分かっているのかどうか怪しい状態でウンウンとうなずく程度だったが、昨日、今日と意識がしっかりしていて、ハッキリと意思の疎通が出来る状態である、これでも駄目なのかと、なんとも複雑な心境である。

 そのカミさん、七ヶ月目に入ったそうで、順調だと言うことで大いに安心した。カミさんが受診中、娘と映画を見ていたが、小生は今の状況下ではなかなか集中できなかった。今日の映画も3D映画だった、「スパイ・アニマル Gフォース」。

 今日も我が家は大いに賑わう(写真1写真2)。暖と陽路が4時過ぎのバスで発って行った。

 義父がサトイモを植えてくれた、そしてその隣にジャガイモを植え始めた。

 夕方、痛み止めが効きにくくなっていて、呼吸が浅い状態で、夜間に緊急対応が難しいので、心臓の負担を考えた場合、投与量を増やすかどうか判断が難しいところのようで、今晩一晩、今までと同じペースで行くことになった、いずれにしても、ちょっと心配な状況なので、今晩は小生が付き添うことにした。

 レンタカー一日延長した。
平成22年4月5(月)

 晴れ。非常に暖かい一日だった。

 今日は暖が次男坊の陽路を連れてきてくれた、現在我が家に12人、収容困難もあり、かんぽの宿に3人、合計15名(写真1写真2)が、婆様のもとに集まっている。我が家の小さな炊飯器では対応できないのでT雄さんにお願いして一升炊きの炊飯器をお借りすることにした、Y子夫人が届けてくださった。

 今日も、比較的に安定して状態が続いている。

 病院などの移動用に車の台数が足りないのでレンタカーを借りてみた。このレンタカーは中古車を整備してレンタカーとして使うシステムで全国展開しているそうだ、ファミリーカーなどは保険料を入れても24時間で4000円を切るレンタル用である、レンタカーなんて新車である必要は全くない、これは非常にリーズナブルである。それに今までは赤水駅か阿蘇駅まで行かないとレンタカーが借りられなかったが、先日閉店したコンビニのすぐ隣なので近くて何より助かる。

 今晩は涼が泊りこむ。病院側の配慮で二人用の部屋を個室にしてくれて、家族が泊れるようにしてくれた、有難いことである。


平成22年4月4(日)

  朝から美しい青空広がる。

 涼が昨夜婆様のそばに付き添ってくれたので、朝早く朝飯を届けがてら様子を見に行く。昨夜はあちょっと慌てるシーンもあったようだが、熱が38℃くらいあるそうだが安定しているとのこと。今晩は小生が付き添うことにした。

 千客万来、午前に義弟の博道と娘の杏が長男の士音をつれて愛知県から、昼にはいとこの信昭、弘子、道子諸兄姉たち横浜から飛んできてくれた。

 娘が、おじいちゃんと千羽鶴を折り始めていたが、間に合いそうにないので、百羽鶴だけどと折ってくれたが、果たして分かっているやら。

 5日朝にかけては、悪いなりに安定している。時々症状がふと良い気配を見せると、ああ、回復に向かっていると思わず、勘違いしてしまう、基本的な方向は絶対に変わらないのに・・・・・


平成22年4月3(土)

 今日は一日穏やかな日だった。

 いよいよその日が近づきつつある。今晩は、甥の涼が夜になって名古屋からかけつけてくれた、彼は昔からお婆ちゃん子で、婆様には非常に可愛がられ、彼も婆様を慕っていたので、今回のことに非常にショックを覚えてる。カミさんも体調不良で動くと危険なので、ずっと見舞いの機会を窺っていたが、予想以上のスピードで残された時間が少なくなったので、涼の来蘇に合わせて車いすで同道した。朝のうちは朦朧としてうわ言状態だったが、夜、見舞った時には、婆様の意識は驚くほどしっかりしていて、涼もカミさんも娘もしかりと認識していた。燃え尽きる前の一瞬の輝きだろうか、皆んなでお茶でも飲みに行っておいで、などと、場違いなことを言って、どんな状況にあっても気づかいの婆様である。かと思うと、突然意味な不明なことをしゃべりだしたりするそうだ、今、婆様の一生がすごいスピードで頭の中をフラッシュバックしているのかもしれない、明日もぞくぞくと集まってくれる、間に合えばいいが。涼は夜を徹して付き添ってくれるという。

 心の準備が出来たと言うのか或いは置かれた状況に麻痺してきたのか、自己防衛本能が働いてきたのか、婆様の病状について書くことに少し冷静でいられるようになった、ただし、深く考えないように考えないようにして書かないと、何かの拍子で何かのスイッチが入ると、だらしなくもう駄目になる。

 今日も胸水を抜いた、胸水を抜くと蛋白質も一緒に抜けるので、それを補うためにアルブミンを投与しているが、それでも必要な数値まで上がらずにいる、そうなると胸水だけでなく腹水が溜まりだすそうで、明日の明け方くらいが限界かもしれませんとのことであったが、その後の処置のお陰で、今夜いっぱいは保ちそうだとのことであった。上手い具合に痛みをコントロールしてもらっているので本人は苦痛が無いのが何よりである。小生、その時のために、付き添いを妹に任せて、義父と受け入れ準備のために家具を動かした片づけたりと一日中走り回る。

 昨日だったか、駅前のコンビニ、デイリーヤマザキが閉店した、18年のご愛顧に感謝、とあったが、場所は悪くは無いと思うがやはり過疎化に勝てなかったか、こんな時だけに感傷的になる。これも町の歴史である、しっかり記録しておきたい。


平成22年4月2(金)

 昨夜は、夜に入って、低気圧と前線の通過で台風並みの風が吹き荒れた。それも深夜には収まったようだ。この風でせっかく満開になった周辺の桜はどうなったろうかと心配したが、咲いたばかりでまだしっかりと枝についていたので、ほとんど影響が無かったようだ。今日は昼ころまではハッキリしない天気だったが、その後どんどん回復していった。

 婆様には、もっと良くなってから見舞いに来てもらおうね、と言ってあったが、ずっと働きずくめのカミさんの両親にしばし家事から離れてもらって一心行の桜見物にでも出かけてもらうことにしたので、出掛けるついでに婆様を病院に見舞ってもうらう。午後八時過ぎに帰って来てから話を聞いたところでは、一心行や高森千本桜などカルデラ内では収まらず、熊本城まで行って来たとのこと、ちょうど春の桜祭りの開催中だったそうで、良い骨休めをしてもらった。

 娘が朝から調子を崩して、カミさんと並んで一日ベッドの中で寝ていた。風邪かどうかわからないが、夜には回復しそうな気配が見えてきた。

 今日も妹が母のそばに付き添う。


平成22年4月1(木)
(月が改まったので、章を変える必要があるが、しばらく、3月の記録に続けて4月も記録する。

 今日から全国的に新年度である、我が家には今、6人の人間が居るが、娘が春休みであることもあって、誰も「一日の時間」に縛られる者がいない。時計と無関係に暮らしている、したがって、年度初めも関係が無い。

 今日は朝から細かい雨が降ったりやんだり、屋外作業もままならず、義父も手持無沙汰気味であった、それでも、薪小屋に入り込んで、斧やそのほかの道具類をぶら下げたり収納する工夫をしていた。娘も今日は友達ちと行き来が無く独りで家の中で遊んでいた。




平成22年3月31(水)

 曇り。午後に入ってから雨になる、予報通りである。

 本日、世は年度末なのだ、もうそれがあまり気にならなくなって数年になるが、今年は更に全く別世界のことのような気がする。今はそういった世間の動きに気が回る心境に無いからだろう。

 娘が、カミさんに弁当を作ってもらって、昼に、ピクニック気分でひとり庭先にシートを敷いて食べていたが、風が強くて、すぐに室内に撤収してきた、そして、昼食後、N樹君たちとキリハラ商店に初めての「お買いもの」に出掛けた、新学期から使う上履きを買いに行ったのである。お金を手に、かなり意気込んでいたようだった。

 今年はジャガイモの植え付け、種イモはすでに入手してあったものの、バタバタしていてとてもその心境になれないので、粗起こしだけ済ませてあったが休耕にしようかと思っていたところ、植えようよ、という皆の声で、例によって畜協で堆肥を買ってきて、義父に鋤きこみを頼んだ(写真1写真2)、数日後に畝を作って種イモを植えることにした。

 午後、山下OMが久木野からクヌギを軽トラックに積んで持ってきてくださった。ホームセンターなどで、1メートルくらいのクヌギの原木が500円前後で売っているが、小生なんかそういったクヌギを惜しげもなく燃やしているのだから考えてみたら贅沢なものである。

 夕方、従兄の哲兄が次男坊のM君と一緒に婆様の見舞いにきてくれた、今日も妹が一日付き添ってくれたが、M君は久しぶりに親父さんの顔を見にやってきたそうで、哲兄たちは今晩かんぽの宿で一泊するそうである、名古屋時代の付き合いが長い妹が夕食の招待を受けて看護が終わって出掛けて行った、そして、お陰様でずっと看護の緊張状態のなかにあったので息抜きができたと喜んでいた。


平成22年3月30(火)

 朝、薄氷が張る、穏やかな天気も今日までらしい。

 また三四日天気が崩れるとこことなので、今日は一日薪作りをした、この一角の薪材の山がようやく整理できそうである。我が家では毎年5月上旬までストーブを焚くので、まだまだ薪作りとの縁は切れない。家を建て始めた頃、買った一輪車(H13/09/24)がもうヨレヨレなので、ほぼ9年ぶりになるだろうか、新しい一輪車を買った。

娘は今日は登校日とのことで、いつもより少し遅く出掛けて、午前中の早い時間に帰ってきた。家の周辺に女の子がいないので、いつも独りで、遊び相手がおらんと言っていたが、今日はK太郎君、N樹君兄弟と日がな一日、バドミントンをやったりおじいちゃんの仕事の手伝だったのか、邪魔をしたのか分からないが夕方の解散時間までタップリと遊んで満足そうであった。ここでは午後5時が子どもが家に帰る時間になっている。

 午後7時すぎ、突然、防災無線が手野での火災発生を伝え、各分団の消防車が一斉に出動したが、休耕田の枯れ草が燃えたというのが実際で、大事に至らなかった。


平成22年3月29(月)

 今日も穏やかな一日だった。

 そして、今日も、義父たちは娘と一緒に、普段手の回らない家の内外の掃除などをしてくれていた。小生はいくつか用件をこなす為に外回りをした、今日は疲れた。


平成22年3月28(日)

 朝、少しパラっと来て午前中はハッキリしなかったが、午後に入ってからは、穏やかに晴れる、日本山妙法寺、今春爛漫である。

 午後、滉兄夫妻が婆様の顔を見に寄ってくれる。

 ネコの奴が、餌を欲しい時にいつの頃からか、網戸に飛び上がって爪を立ててぶら下がって網戸をゆするので、かなり穴があいていた、今日、義父が、娘に手伝わせてその網戸の張り替えをやってくれた、義母もあちらこちら掃除をやってくれた。小生は結局何もしなかった。

 故障した補助PC、ネットオークションでマザーボードを見つけて入手、今日届く、果たしてすぐに取り掛かる心境になれるか。



平成22年3月27(土)

 久々に震えあがった、阿蘇乙姫 -5.0℃(04:39)、そして日中は穏やかに晴れる。

 義父が裏にタケノコが生えているのを見つけてきて、娘と一緒に掘っていた、去年竹林をかなり伐採してあったので、今年は沢山のタケノコが生えている、ちょっと食べればいいので、あとは雑草と同じにどんどん伐採しなければせっかく切ったのに旧の木阿弥になる。(写真1写真2

 竹が北側の隣地の境界線を越えて向う側に随分倒れて込んでいるのを知っていながら、親しさに甘えて放ってあった。今日、義父に頼んで整理してもらったが、まだまだたくさんある、近いうちにまとめて燃やすつもりである。


平成22年3月26(金)

 晴れ。朝起きてカーテンを引いて驚いた、山が真っ白になっていた

 娘は今日が終業式で、通信簿をもらって帰ってきた、まだ一喜一憂する年齢ではないので本人も特に感想は無いようである。春休みは宿題が無いそうで、喜んでいた。考えたら、一年生は終了したし、二年生の担任は決まっていないし、宿題を出す先生がいないということなのだろう。小生の時はどうだったか全く記憶が無い。

 カミさんの両親が来てくれているので小生は全くフリーである。今日は雨上がりで屋外作業ができないので、読書ばかりしていた。両親は色々家の片付けや掃除、娘の遊び相手などをやってくれていた。

 妹が今日も病院で付き添う、婆様の病状に関して、これからつらいことになるので、記述は当分やめることにした。


平成22年3月25(木)

 雨のち曇り。

 坂梨小学校の卒業式、旅立ちの日。在校生が門の所で卒業生を送るセレモニーでもあるかなと思って行ってみたが、天候のせいだろうか、それは校舎内で行われたのだろう。それでも、親子の記念写真、友達同士の記念写真と玄関先は大いに華やいだ、この子たちに幸あれである。(写真1写真2写真3写真4

 婆様、朝は朝食はしっかり食べたそうであるが、昼はあまり摂らなかったそうだ、こうして少しずつ弱って行くのだろうか。

 カミさんの両親が午後8時過ぎ、空港からバスで到着した。婆様の病状のための来蘇ではない、カミさんが動けないから、「カミさんの助け」での来蘇である、小生が大いに助かる、当分の間、我が家は大いに賑やかになる、娘が大喜びである。


平成22年3月24(水)

 まるで梅雨空のような天気だ、終日シトシト降ったりやんだり。

 昨夜は阿蘇神社の火振り神事があったのだ、今朝新聞で知った、火文字焼きといい火振り神事といい今年はすべて忘れている。

 本日も、雨読。その他にPC関連でペンディング事項がいくつかあり、どれを優先的にやるかピックアップしたが決め切れず。モチベーションが下がっている。

 婆様、依然として、回復方向に向かっていない、もうしばらく様子見である。憩室炎は治ったようで、今日、久しぶりで昼食が出て、妹の言によれば、まあ、まあ、食べたそうである。


平成22年3月23(火)

 雨、一日中降ったりやんだり。昨日の晴天がウソのようだ。前線が通過すると言うことだったので、荒れるかと思ったが、静かな雨だった、荒れるのはこれからだろうか。

 妹の滞在で、小生のおさんどん、随分楽をさせてもらっている。今日は、雨でやることもなく手持無沙汰、取りとめもなく一日が終わる。

 妹は日中はずっと婆様のそばにいてくれている。本人もシッカリしているが、今朝再検査があったそうだが一時好転の兆しが見えたが、また数値があまり良くないそうである、非常に悪いと言うことではないが、心配である、常に心の片隅にこのことがあるので、何をやっても落ち着かない。


平成22年3月22(月)振替休日(春分の日)

 今朝は文句なしに晴れる。

 強風のために延期された阿蘇山麓及び北外輪山一帯のの焼きが予定通り実施され、小生も、馬場豆札牧野の野焼きに参加した、今日はそのほか阿蘇全体が野焼きの煙に覆われた、黄砂は不愉快だが、野焼きの煙は一向に苦にならない、阿蘇千年の歴史は野焼きの歴史でもある、野焼きによって阿蘇の草原は守られてきたのだ。高い空と広い草原を野焼きをして歩き廻るとつくづくと幸せを感じる。根子岳

馬場豆札野焼き連続写真 (1/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (2/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (3/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (4/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (5/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (6/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (7/8 全10枚)
馬場豆札野焼き連続写真 (8/8 全 6枚)

そのほかの場所野焼き連続写真(6枚)

 妹がきてくれたので、今日は、野焼きに参加することができた、妹が一日婆様のそばにいてくれた。昨日は8℃近く熱があったそうだが、今日は平熱に戻ったそうだ。


平成22年3月21(日)春分の日(春季皇霊祭)

 昨夜はその後も風雨が激しく一晩中吹き荒れていたような気がする。明けて今朝も風が残って寒い朝を迎えたが、午後から穏やかに晴れ渡った。

 昨日の野焼きのこと、新聞に出ており、このような顛末であった。明日は仕切り直しでこの辺り一帯の野焼きが行われるが、良い天気だろう、明日は小生も参加するつもりでいる。

 日が暮れてから、豊田市から妹がやってきた、今回の婆様の入院、今までとちょっと様子が違うので、心配になって急遽かけつけてきたのだが、しばらく滞在する予定である。
 近々、カミさんの両親もやってくることになっているが、こうして一度に親戚が集まるところを見ると、いよいよ婆様も・・・と周囲から思われるかもしれないが、両親のほうの来蘇の目的は、カミさんのお袋さんが娘の手伝いにくるのであって、義父はそのお伴というわけで、前から決まっていて、妹と目的が違うのだが、傍から見てそういうふうに受取られるかもしれない、後で笑い話になると良いが。

 数年前に「いたさん(ex fhy)」からQSYしてきて旗艦として大いに働き、その後予備役編入していたpen4のギガバイトのマザーボードがとうとう動かなくなった、HDでなくて、CPUファンかチップセットファンあたりから異音が出ていたので、交換しようと思いつつ騙し騙し使っていたが、とうとう今朝になって電源が入らなくなってしまった。・・・・・と書いた後、電源が入らないと言うことは電源ボックスだろうか、とふと思いつつ、電源コードを抜き差ししてみたところ、コードが緩んでいたのかもしれない、強く差し込んだら動いた、しかし起動時に何度かリトライする現象はそのままなので、またその時になって慌てないようにそろそろ手を打つ必要がありそうである。

 朝昼と婆様の所に行く、今日は微熱がありキツイと言っていた。そして、夜、到着した妹をバス停からそのまま病院に連れて行った、明日から、日中はずっとそばにいて看病をするそうである。


平成22年3月20(土)

 朝方はそうでもなかったが、陽が上がってから風がどんどん強くなり、下手な台風よりも強い風が吹き荒れた。朝の防災無線で、阿蘇山麓・北外輪山一帯の野焼きが予定通り行われるという放送があり、へえ、やるんだと思っていたところ、午前十時前、強風のために明日以降に延期する旨の放送が流れたが、既に一部の牧野では火が入っていた(阿蘇品牧野付近)。その飛び火だろうか、原野火災が発生して、強風のなか防災ヘリが出動するなど、消火活動が大わらわだった。夕方近く、ようやく鎮火して戻ってきた消防団から聞いた話だと、とにかく風が強くて炎が襲いかかり、逃げまどうシーンが何度かあったそうだ。今日の原野火災、地元のテレビのニュースで大きく取り上げられていた。夕方近くなってからは、こんどは強風に強い雨と雷が加わって、暴風雨になってしまった。レーダーなどを見ると、午後6時頃がピークでだんだん収まりつつある様子が伺える(写真1写真2)。

 今日、中止になった野焼きは改めて22日(月)に行われることになった。

 そんななか、午後三時から村の行事、「鞍岳さん」が行われた。この行事は牛馬を祀る行事で、この村では今や有畜農家はM士さん一軒になってしまったが、村の伝統行事と言うことで全員が参加して行われる。消火活動に出動していたこの村の消防団の団員も遅れて参加出来た、この日は、子供たちにもお菓子が用意されて、いつもの集まりとはまた少し違った賑やかな寄合となる。
写真1写真2写真3

 朝昼夕と婆様の顔を見に行く、ボケないように、気が滅入らないように頻繁に顔を出すようにしている。夕方、何か特に病院からコメントがあるかなと思って、ナースステーションに顔をだしたところ、改まってのコメントは無いようなので、便りの無いのはなんとやらで、悪ければ、何かあるだろうと思っていたところ、カルテを見て、今日、またCTを撮ったそうですが、胸水の方、大分改善されていると書いてありますよと教えてくれた。本人は相変わらず苦しいと言っているが、顔つきがひところの憔悴したころに比べたら、しっかりしているので、少しだけホッとした気分である。


平成22年3月19(金)

 今朝、氷点を少し下回る、朝から抜けるような青空が広がる。我が家の桜は蕾は大きく膨らんでいるが、ようやく数輪ほころんだ程度である。

 ジャガイモ畑の準備で畑を起こす。この場所は、昨年たかなを植えたところで、菜花を見るためにずっと切らずにいたために、種が落ちて芽が出て自然にたかな畑のようになっている。今年はこことは反対側にたかなを植えたので、こちら側は要らないのだが、なんだか惜しいような気になるほどの成長ぶりである。トラクターで耕すと、たかなが粉砕されて新鮮な香気が冷たい空気と混ざって胸一杯に広がる、ああ、春の香りだ、田舎暮らしの醍醐味だ。

 阿蘇高岳の麓で野焼きをやっていた、この牧野はいつも独自スケジュールでやっているように見受けられる。明日、北外輪山一帯で一斉に野焼きが予定されているが、夕方あたりからどうも天気が怪しいそうだ、主催者側は実施か延期か悩ましいところであろう。(写真1写真2写真3写真4

 娘のクラスメートが二人、少し離れたところから遊びにやってきた。家の畑で草花を摘んだりして遊んでいたがそのうちに、何か、気持ちの行き違いでもあったか、喧嘩別れの様子で解散した、いやはや多感な年頃である。

 婆様、今朝から、また下血が始まったそうで、しばらく絶食だそうだ。入院というストレスがどうしても体の弱い箇所にダメージを与えるらしい。憩室炎は見た目は派手だが何度か経験済みなのでそれほど慌てないがこれでまた体力が落ちるのが心配である。今回はあまり読書も進んでいないので、昨日は新聞を届けなかったが、新聞は読みたいと言うので今朝からまた届けた。そういう気力がある間は大丈夫であろう。昨日の病室、ナースステーションから少し離れているので、目が届くところに移しましょうと、今日また移動した、日替わりで移動している。今回もICUでなくて二人部屋である。


平成22年3月18(木)

 午前中、強風と言うよりは烈風のような風に煽られる。ここは、ちょっと場所が変わるだけで、ほとんど吹いていないところもあれば、逆の場合もある。今日の風向きは南西西の風、田んぼからもろに吹き付ける風である、時々雨も混じっていた。

 午後に入って、今度は強い雨に雹が混じって地面を叩きつけた。霰のように見えるが、これは雹に間違いないだろう

 非常に不安定は天気も夕方には上がって、山が姿を現し始め、午後7時過ぎ、病院からの帰り道、雲ひとつなく澄みきった残照の夜空に繊月が冴えわたっていた、明日の朝はまた冷え込みそうだ。

 我が家のソメイヨシノも(「も」とは、坂梨公民館桜が開花したと「今日の坂梨」に載っていたからだ)今朝一輪だけ咲いていて、強風に打ち震えていた、明日には、一斉に開きそうである。 

 婆様、昨夜、個室で過ごして、今朝は、少し気分が良さそうだった。朝食はどうしたの?と問うと、今朝は検査があるそうで、まだ朝食が出てこないと言う。では、どうしてベッドの端に腰かけているのかと聞くと、寝てばかりいるとオカシクなるから起きていると、受け答えはハッキリしていた。どうも頭が少し錯乱しているというので、細かな遣り取りをしたところ、特に異常は感じられなかった、自分で少し自覚しているのであれば正常だろう。二三日前、病院で散髪をしてくれたそうだが、支払は?と聞くと、これは病院のサービスだそうだから、お金は要らないと言っていた、ちゃんと受け答えができていた。

 この部屋は、ナースステーションから少し離れているので、モニターカメラが付いていて、常時監視下にあるようで、婦長さんが、お母さんは独りでいると寂しそうで、かえって良くないから、二人部屋に移しますとのことで、昼食時顔を出すと、既に二人部屋に移って昼食をとっていた。昨日は食欲が無く一日ほとんど食べなかったのに、検査で結局朝食を抜いたからと、昨日に比べたら、かなりの量を食べていた。小生も、売店で弁当を買ってきて付きあった。この分なら大丈夫な気がしてきた。

 夕食時に合わせて、病院に行く。昼間、婆様にしては食べすぎたので夕食は食べたくないというので、出来るだけ食べろと尻を叩いて、カロリーの高そうなグラタンに的を絞って食べさせた、まあ、あのくらい食べれば良いだろうと言うところで手を打った。昨日よりはずっと良さそうな気がする。

 ところで、二人部屋のパートナーは、嘉悦先生の奥様で、二か月ほど前に転倒して骨折、入院加療中だったが明日無事にご退院だそうで、一晩だけお母様とご一緒ですねととおっしゃっておいでだった。(名前と写真掲載快諾)


平成22年3月17日(水)

 今朝は久しぶりに氷点下、ボンの水がガチガチの凍っていた。その分、昼間は暖かくなった。

 天気が日替わりのように変わるので、最近はなかなか薪を作ることが出来なかったが、昨日今日と晴れたので、今日はじっくりと薪作りをした

 夜、先日火文字焼きをした往生岳の斜面に火の帯が見えた。夜に野焼きはしないだろうから、何かのイベントだろうか。(写真1写真2写真3

 朝、婆様の所に様子を見に行く、今朝もICUに居たので、婦長さんにお尋ねしたら、居るべくしているそうで、まだ一般病室移せる状況ではないとのことであった。今日も色々検査があったようだ。昼にはちょうど食事時だったので、食事の介助をしたが、食欲が無いとほとんど食べなかった。夕方、様子を見に行くと、丁度、個室に移動中で、先生が、ICUの他の患者さんが始終大きな声をだすので、眠れないといけないから、個室に移しているところです、とのことであった、夕食も、ほとんど手をつけなかった。明日また来るから生きてろよ、といったら、笑ってまだ大丈夫だよと言っていた、少し心配になってきた。


平成22年3月16日(火)

 今日は、全国的に気温が高くなって、夏日を記録したところもあったようだが、ここは寒かった。気温自体はそれほど低かったわけではないが、風が強くて冷たかったので体感的には非常に寒く感じた。

 はて、今日は何をしたかと思いだそうとしたが、何もしないで一日が終わったようだ、ただ、午後、猛烈に眠くなって椅子にもたれて舟を漕いでいて、寒くて目が覚めて、風邪を引く一歩前だったことは覚えているが。

 朝、婆様の所に行ったところ、病室のベッドは綺麗に整理されていて誰もいない、ちょっとドキッとして、そうだ、ICUにいるかなと思って、行ってみると、果たしてそこにいた、どうしたんだと問うたら、今日CTをかけるから、それが終わってから、今までの病室に戻ることになっているということだった、そう言えば、昨夕、急遽治療法を少し変えるために、ICUに移した方が同室の患者さんに迷惑にならないから良いだろうとのことだったのだろう、今朝は胸苦しさも収まったと言っていた。夕方、いつもの病室に行ってみると、そこには別の人が入っていたので、またICUを覗いたら、ちょうど夕食を摂っていた。ベッドの端に腰かけて飯を食うくらいだから、ICUに置いておくほど悪いからというとではなくて、ベッドの空きの問題ではないかと思うが、生憎先生にお会いできなくて帰ってきた。今晩もあまり食欲が無いと言っていた。認知症症状が出るのが心配だが、奥さんの具合はどうか、と聞いていたのでまだ大丈夫だろう。


平成22年3月15日(月)

 雨が降ったりやんだりの一日。

 e-Taxで、確定申告をする、初期のころに比べたら、ソフトの操作性が随分と改善されている。当初から天引き預金のつもりで、還付されるような扶養控除の申告書の出し方をしている上に、医療費控除が大きいので、還付されることが分かっていたので、申告期限の本日までに申告する必要も無かったのだが、雨でもあり、屋外作業ができないので、今日申告手続きをした。予想した以上に相当額が戻ってくる。

 IT、インターネットの世界、めまぐるしく変化している。最近、「Twitter」という言葉を良く耳にする、ネットで調べたがどうも今一つ分からない。これは主に携帯族が利用するのだろうか、汽車に乗っている人(ここでは小生自身そのシーンを見る機会は少ないが)、歩いている人、なかには自転車や自動車を運転しながら携帯を覗きこんでいるバカものたち、確かに、携帯電話の機能の多さには驚くばかりである。小生、最近、新しい携帯に換えたが、機能があまりに多過ぎてその一割も使っていない、第一、通信費がどれくらい掛かるのだろうと思うと心配で、おちおちつないでいられない。今では、携帯があれば、ちょっと画面が小さくて見難いが、なんでもできるという気がする、携帯依存症になるのが分かる気がする。あの電話の数字キーの数で、日本語変換が面倒だと思いQWERTY配列の携帯電話を探していたが、適当なものが無いので、普通のタイプの携帯にしたが、今の数字キーだけの携帯電話でも日本語変換機能が素晴らしく改良されていて、今まで持っていた携帯と比べて格段の進歩である。PDAが廃れていくのが良く分かる。

 朝晩、婆様の様子を見に行く、昨日はあまり良くなさそうだったが、今朝行った時は調子が良さそうだった、ところが、夕方にはまた少し悪くなったようだ、悪くなったと言っても意識が無いとかということではなく、ちゃんと普通どおり本人と意思疎通を図ってのことだが。今すぐにどうなるということではないようだが、少し、治療法を変えましょうとのことだった、歳だから、なんとなく落ち着かない心持ではある。


平成22年3月14日(日)

 薄日が射すまずまずの穏やかな日だった。

 昨夜は、阿蘇の火祭りのイベント「火文字焼き」だった、すっかり忘れていて、今朝、新聞で知った、昨夜は天気があまり良くなくて、早々とカーテンを閉め切って家にこもって家事に忙殺されて忘れてしまったのだ、覚えていたらライブ中継をするつもりだった。

 今日予定されていた、阿蘇山麓及び北外輪山の野焼きは天候不順で20日(土)に延期された、三連休なので、20日が駄目なら、21日、それでもだめなら22日と順延されるのだろう。今回の野焼き、我が家の今の状態を見て、参加する余裕が無かろうと、声をかけないでいてくれたのだろうか、それとも、アイツは写真ばっかり撮って働かないから参加させるをやめようということだったのだろうか、多分後者だろう。例年だと、阿蘇山麓の野焼きを先にして、その後で、北外輪山の野焼きが実施されるが、今年は阿蘇全域がほとんど一斉に実施されることになり壮観であろう。

 今日は、朝、昼、夕と三度、婆様の様子を見に行く、日曜だから特に診察は無く、点滴とネブライザーをやったようだが、食欲が無い、と朝も昼も食べなかったそうだ、夕方、娘を伴って、行った時に、二時頃、食べなければだめですよと言われて少し食べたそうである。明日、エックス線写真を撮るそうだから、水の溜まり具合が分かると思う、咳が完全に止まっているので、水が減っているのは間違いないと思うが。

 豆(グリンピース)ご飯、子持ちカレイと豆腐の煮つけ、生シラスのおろし和え、ゴマ豆腐(到来物)、カボチャの煮物、きんぴらごぼう、サトイモと大根の味噌汁、デザート。


平成22年3月13日(土)

 小雨が降ったりやんだりの一日。庭先の小さな鉢植え、これは桜だと思うのだが、もう満開になっている、なんという種類だろう。

 時々小雨の降る中、区役の草切りがあった、季節外れだが、去年の秋の刈り残しの由。

 昨日、電気製品の廃品を持ち込んだが、液晶ディスプレーを一台積み残したことに気がついて、今日持って行った、わざわざ書いたのは、まだそれほど使っていなかったので、簡単に修理ができそうな気がして保管しておいたやつだったからだ。

 朝夕、婆様の様子を見に行く、特に変化は無い。

 今夜はトンカツを揚げた、それから、ポテトサラダを作った、これは我ながら秀逸な出来だった。


平成22年3月12日(金)

 晴れ。穏やかな一日だった。

 パソコンや、ビデオデッキやその他家電類を無料で引き取ると、廃品回収業者がここ一月ほど空き地を利用して無料で持ち込みを受け付けている。鉄類は最近価格が下がってあまり回収に回ってこないが、巡回して回収しないで、持ってくる物を座っていて受け入れるのであればペイするだろうか、うまいことを考えたものである。それにPCなどに使われるプリント基板にはレアメタルが使ってあって、そういうかたちで日本国内に埋もれている金属類は都市鉱山(アーバン・マイニング)といって、世界有数の埋蔵量になるとか。だから、そういった業者はブラウン管ディスプレーも無料で引き取る。それなのに、身分不相応な立派な処理施設を作っておきながら、行政は迷惑がってそういった物の処理費用を取る、どういうことだ、。

 そろそろ引き取り期間が終わるので、重い腰をあげて、今日、屋根裏にもぐりこんで、小生の埋蔵金を引っ張り出して軽トラに積み込んで持ち込んだ。よくまあ、天井が抜けなかったものだと思うくらい、知らない間に貯め込んだ、故障した色々な電気製品が出てきた。そのうちに修理しよう、部品でも取ろうと思っていたが結局ゴミとして抱え込んでいたわけである。この病気、一向に治っていない。98Noteなんか二台ほど後生大事に抱え込んでいた、当時は結構な値段がしたシロモノだ。小生はPC関係に大げさでなく数百万円つぎ込んでいる、その大部分は無駄になっている、つまり血となり肉となっていないということである。

 午後から、阿蘇郷土史愛好会の例会に出席する。今日は嘉悦先生の「阿蘇を詠んだ文人たちの跡を訪ねて」という題で話があった。

 朝夕、婆様の顔を見に行く、まあ、少しずつ快方に向かっているのだろう。

 豚肉の味噌漬け、揚げだし豆腐、ワカメの味噌汁、大根の千六本とサラダ玉ねぎのサラダ。

 昨夜は、宮崎からの到来物の餃子、うまかった。一昨日は・・忘れた。


平成22年3月11日(木)

 晴れ。厳冬期の阿蘇に逆戻りした風景が広がる。ただ、風は強くて冷たかったが、風をよけて日だまりで作業をしていると汗ばむほどだった。

 古閑の滝がまた凍結したそうで、3月に入ってからの凍結は極めて珍しいとNHKのニュースが伝えていた。

 畑の外れに置いてあるライブカメラを応急復旧する。簡単に終わるつもりが、どうも電源回りが不調で原因を探すのに時間がかかり、結局午後から半日仕事になってしまった。


 朝晩、婆様の様子を見に行く。入院前は咳が出だすと、長時間止まらずに苦しそうだったが、原因が分かって、咳も出なくなり楽になったそうだ。てっきり喘息の咳だと思って咳止め薬を飲んで、あまり効かないなあと思っていたが原因が分かって良かった。先生がちょっと触診程度でしか構ってくれないと不満げであったが、その程度なんだからと言うと、そうなんだろうねえと言っていた。あまり入院が長引くと認知症の症状がでるので、それが心配である。


平成22年3月10日(水)

 3月10日か・・・あの日・・・・

 久しぶりにまとまった雪になった。朝のうちは地面と平行になるくらいの強い横殴りの吹雪になっていた。田の中の道を歩いての登校は大変だと思ったので、この地区では今日も各家庭で車で送って行った。それでも、学校近くの子どもたちは降りしきる雪のなか徒歩登校なので、「みどりのおばさん」は予定通り交差点に立って子どもたちの登校を見守っていた。今日の当番は、K太郎君・N樹君のお母さんだ

 今朝の坂梨の表情(写真1写真2写真3

 朝晩、婆様の様子を見に行く。午後、部屋が空いたそうで、ICUから普通の病室に移動していた。肺の水を抜けば(抜ければ)治りますからねと、看護婦さんが話しかけてくれていた、まあ、膝の水を抜くのとは訳が違うかもしれないが、急にどうこうなるほどのものではないのではと小生自身思っている、本人も元気である、ただ早く帰りたいと言っているが。心臓が肥大した結果、肺が圧迫されて水が溜まったのだろうから、その肥大の原因は何んなんだろう、加齢によるものだろうか、94年も生きていれば、金は貯まらないけど肺に水くらい溜まるのだろうか。


平成22年3月9日(火)

 雨のちくもり。昨夜来、結構まとまって降った雨も、午前中には上がる。子供の登校時間は雨が結構降っていたので、ここの登校班は自主登校にして各家庭でそれぞれ車で送って行った。小生は、みどりの爺様の出場日で、雨の中、子どもの登校の安全を見守る。学校が近い子どもたちは雨の中いつものように隊列を組んで歩いて登校していった。

 婆様、先日来、喘鳴と咳が続いているので、いつもの喘息かな、診てもらった方が良いかなと、気が向いて、今朝病院に連れて行ってレントゲンを撮ってもらったところ、肺に水が溜まっていて、心臓も肥大していますね、気管支喘息とは全然治療法が違うし、入院しましょうということで、また入院になった。字面だけを見ていると、大変な状況に見えるが、感じとして、そうでもない様子である。いつもかかっているので、色々なデータはあるから、それからみて、多分、悪性ではないのではと思っている、先生からも特にそれ以上のコメントは今のところ無い。入った部屋がICUなので、看護婦さんにICUですか、と聞いたところ、笑って、ハイそうですICUです、でも一般病室が明日にならないと空かないので、一晩ここに居てください、今は他に患者さんもいませんからとのことであった。本人も元気なので、まあ、また今回も出てこられるものと思っている。

 それにしても、一難去ってまた一難、気の休まることが無い。


平成22年3月8日(月)

 曇り、時々、小雨。

 娘が登校して、婆様をデイケアに送り出してから、カミさんの退院後初受診で熊本市へ向かう。午前中で終わるつもりが、結局一日がかりになってしまい、娘はカギっ子もどきに、婆様もデイケアから帰ったものの二階に上がれず、階下で小生たちの帰りを待っていた。病院で予想以上に手間取ったのはその後の経過が悪いということではなくて、多分病院の段取りの悪さによるものだったのだろう。これが毎週だとたまらんが、次回は一ヶ月後とのことなので安心する。


平成22年3月7日(日)
 
 曇り。時々小雨、だったか、或いは降らなかったか、ちょっと記憶が怪しい。

 デスクワークで終わる。

 本日、リクエストによりカレーライスを調製する。


平成22年3月6日(土) 啓蟄だそうだ

 昨夜は日記を閉じた頃から降り出して、夜中じゅう結構降っていたような気がする。朝にはほとんど上がっていた。そして日中は細かな雨がふったりやんだり。

 今月で小学校を卒業して子供会も卒業となる馬場のMちゃんのお別れ会が予定されていて、小生はそれを事前に聞いていながら、娘を会場に連れて行くことをすっかり忘れていた。PCのスケジュール表と携帯のそれと、ばらばらに書き込んでいてい、シンクロしていないので、家事に取り紛れて確認をし忘れた、娘に申し訳ないことをした。

 日記ネタに困ると、今晩の献立。
 とり五目飯(の素を使って炊き込む)、シジミの味噌汁、子持ちカレー&豆腐の煮つけ、モズク、キンピラ牛蒡、同じフライパンでついでに、茄子の味噌油炒め、と本日は純和風で決める。

 因みに、昨日は、マーボ豆腐とエビチリ。更にその前日は野菜タップリと牛肉の甘酢あんかけ我が家オリジナル。


平成22年3月5日(金)

 曇り。風も無く、穏やかな一日だった。

 午後から、授業参観とPTA総会があった。一年生の授業の参観はこれが最後になる。引き続き開かれたPTA総会では、会長以下新しい役員の紹介があった。

 家全体を畑の先から映しているライブカメラが最近、調子が悪いので、一度全部撤去して総点検をすることにした。考えてみたら、8年も9年も運転しっぱなしでその間一度もメンテナンスをしていない。不調の原因は電源回りだと見当をつけていたが、案の定、テープを剥いでみたところ、電源ケーブルを途中で継ぎ足しているDCプラグが腐食してジャックの中でほとんど折れた状態になっていた。これでいままでよく電源を供給していたものだと驚くほどであった。そのほかにケーブル自体が、もともと屋外用ではないので、途中で被覆が劣化しているかどうかも点検しなければならないが、全長30mくらいの長さがあるので、直ぐには出来ない。


平成22年3月4日(木)

 ほとんど雨。それでも、午後三時過ぎ頃、ちょうど子どもたちが帰ってくる頃、薄日が射して山が美しい姿を現したので、ああ、天気が回復するなあと思っていたら、夜になって、まとまった雨が屋根を打つ音がしていた、そして、時々強い風も吹いていた。現金なもので、薄日が射して気温が上がると、鶯が鳴き出す、寒い時はどうしているのだろう。我がでは今、ホトケノザ(このホトケノザは七草のそれとはまた別種である)とナズナが畑一面を埋め尽くしている。意識して植えたわけではないが、ピンクと白の絨毯のようで美しい。雑草も捨てたものではない、ここにはレンゲの種を播いてあるがこの先どうなるやら。

 婆さまデイケア。

 昼、プール、@1000×1/ 70.0

昨日の日記に書いた、高圧配線のコントロールの件、早速、今日掲示板に書いてくださった方がいて、意味が良く分かった。掲示板の書き込みはいずれ消える運命にあるので、ここに転載させていただいた。

  高圧配線コントロール 投稿者:ww 投稿日:2010年 3月 4日(木)19時10分42秒

    九州電力では遠制配電と呼ばれている配電線自動制御システムの通信線ですね。
   配電線事故が発生すると配電線自動制御システムにより事故区間を遠隔検出して
   近隣の遮断器の開閉等により健全区間は自動的に送電するための・・・・
   事故区間を自動的に切り離して停電を最小限に抑える為の通信網です。
九州電力のホームページより  (http://www.kyuden.co.jp/effort_stable_haiden_introduction1.htmlコピー転載)


平成22年3月3日(水)

 曇り、夕方から雨になる。今日はやけに寒かった、今までが暖か過ぎたので、それほど低い気温ではないのだろうが、実際の気温より寒く感じた。

 昼前、随分久しぶりにプールに行く。何か月ぶりだろう、ようやく時間が取れた。息があがるかと思ったら全く苦しくなかった。体重も軽く70キロを超えているかと思っていたら、70キロ前で踏みとどまっていた、プールを休む前と確か変わっていないはずである、まあ、それなりに高止まり状態が続いていた。オサンドンで動き回っているのが自然に運動になっていたのだろう。普通の生活の中で自然に運動ができているのが本来の姿のはずである。やることをやっていればエアロビクスなんかに行かなくても世の奥さん方、太り過ぎに悩まなくても良いのではないですか、と言いたくなる。@1000×1/ 69.3

 今日は雛祭りだ、入院中のカミさんから雛人形を飾るように頼まれていたが、奥から引っ張り出して組み立てるのが面倒で、とうとう飾らなかった、娘もそれほど執着は無さそうだし、小生が忙しいのを知っていて、いいよ、いいよ、そのかわり、これがあるから、と千葉のおじいちゃんが封筒に入れて送ってくれたペーパークラフトのひな飾りを壁に貼って了解してくれた

、その罪滅ぼしでもないが、今晩は、五目寿司とハマグリのお吸い物を作ってやった、ちゃんと力を入れて本格的に錦糸卵も焼いて載せた。デザートに桜餅のデザート付きである。

 ところで、偶然、夕方のテレビで、関東では、雛の節句には五目寿司と蛤のお吸い物は定番だそうだが、熊本にはそういった習慣は無いと、街頭での市民へのインタビューを交えて伝えていた。だから、熊本は蛤の全国的な産地でありながら採れた蛤は全部関東地方に向けて出荷されるそうだ。ということは、小生がごく自然に今晩このような献立を選んだが、この辺りでは珍しいということになるのか。そういえば、今晩買った蛤も熊本産ではなかった。
 
 今日は、福原(集落)に向かう田んぼの中で、昨日の電設工事をやていたので、光ケーブルの切れっぱしでも貰おうかと、車を止めて、工事の人に頼んだところ、これは光ケーブルでは無くて、高圧配線のコントロール用のケーブル張りで、全市で工事を進めています、とのこと、えっ?じゃあ、一昨日だったか、自信たっぷりに「光です」と言ったのは何だったんだろう、あれは、事情を知らないアルバイトかなにかだったのだろうか、どうも、光にしては、想像以上にケーブルが太いと思った。いささか拍子抜けの感ありである。高圧線は電柱の一番上の三本横に並んで張ってある6600Vの高圧線のことだろうが、それをどうコントロールするのだろうか、その説明まではなかった。


平成22年3月2日(火)

 曇り、終日重い雲が垂れこめていたが、雨は降らなかった。気温も高めで、今朝、今年初めて鶯の鳴き声を聞いた、これを聞くと、ああ、春だなあと実感する。

 娘、元気に登校。

 昨日に続いて、「光」の工事、今日はケーブル張りをやっていた、結構太いケーブルである。位置は、低電圧線と電話架線の間である。見ていると手際良くどんどん進んでいく、いずれそのうち、各戸に引き込む工事が始まるのだろうが、これは家ごとに構造、形態が違うので結構面倒だろう。我が家は、電気・電話・テレビのアンテナのケーブルなどは全部一旦地中を通して床下から家の中に引き込んでいるが、光のケーブルはどうしようか、屋内のどこに持ってこようか。光は端末まで全部光ケーブルでくるのだろうか、それとも、屋内に引き込んだ後は、変換装置で電気信号に変換してLANケーブルで配るのだろうか、多分そうだろう。

 ところで、今回の光化は、現在各戸に設置してある防災無線に代わるものだそうで、防災・市の広報用の端末まで無料でやってくれそうだが、インターネット接続はオプションで、これは別途有料だそうだ、それはそうだろう、だが、この光で繋ぐプロバイダーは、三セクでやっているプロバイダーとのみの契約になるようで、他のプロバイダーは選択できないということであったと思う、となると、新規にインターネットを始める人は構わないだろうが、すでに、ホームページを持っている者、e-mailを日常的に使っている者にとっては、URLやメールアドレスを変更しなければならず、はなはだ不都合である。小生は多分、プロバイダー契約はしないことになるだろう。と書いておきながら、小生のことである、結局は二本立てになるのだろうか。


平成22年3月1日(月)

 平成22年2月29(月)と日記に書いて、あ、そうか、と改めて3月の頁を設けた。

 ほぼ雨の一日になった、といっても先日同様、予報のような強い降りは無かった模様、と言っても、昼間の数時間、阿蘇を留守にしたので何とも言えないが。熊本市内では昼近く、ひとしきり、強い雨と雷で騒々しかった。

 今日ようやくカミさんが退院した、その身柄貰い受けに、娘を同道した。というのは、風邪気味が治りきらずに、熱はほとんど無いのに、朝から咳が一向に収まらず、さて、学校にやったものかどうか、休ませて、留守番をさせるか、でも、婆様はデイケアなので、独りの留守番になるからこれも心配だ、娘を留守番させるために婆様を休ませて、二人態勢を敷くか、でも、婆様、前回も休んでいるし、せっかく今朝は行く気になって準備しているので、休ませるのは惜しい気もするしで、思い悩んだ結果、娘を休ませることにして学校に連絡、婆様は予定通りデイケア。娘は小生と一緒にカミさんの病院にいって、駐車場の車の中でマスクをして待機、ということで、カミさんが退院した。

 結局3カ月以上、足かけ二年の入院になった。現在は一応は落ち着いているが、万一少しでもおかしかったら、入院の準備をしてすぐに来るようにとのことであった。

 娘は久しぶりの母親なので、始終ベッタリで、その件に関しては小生の負担が減ったのでホッとしているが、トータルでは当然仕事は増えることになる、でもこれは仕方が無いことである、なんといっても、自ら蒔いた種だから・・・・

 我が家の前の田舎道に数台の電設車がやってきて作業員が電柱に登り何かをやり始めた。何事ですかと問うと、「光です」とのこと、支線を張るためのブラケットというのか、金物を電柱に取りつけていた、いよいよ光が現実のものになってきたようだ。

 今晩はカミさんのリクエストで「ブタ大根」、これはちょっと説明を要するが、そのうちに書きたい。




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