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平成22庚寅(2010)年12月の記録(新しい日付けの順)


平成22年12月31日(金) 大晦日

 今回の低気圧による雪を降らす雲も、九州の北部と南部に多くかかり、九州の中部、なかでもこの辺りにはあまりかかっていなかった。かっては除雪車が出た年もあったが、今朝は、我家で積雪3〜4センチくらい、除雪車の代わりに融雪剤を撒く車が回ってきた。(根子岳を除く五岳妻子ヶ鼻越しの根子岳大観望馬場集落風師庵

 この雪で、ハチウトの出入り口がすっぽり雪に埋まっていたので、穴を開けてやったが、結構気密性が高い上にガチガチに凍っていたので、中には沢山のハチが居ることもあり、酸欠で全滅していないだろうか、ちょっと心配である。

 今日もカミさんは終日、掃除などをしていた、レンジの掃除なんか、別に今日やらなくても普段やればいいと思うが、まあ、一年の締めくくりなのだろう。小生は、神棚を掃除して、伊勢神宮と阿蘇神社と馬場八幡宮の新しいお札に交換した。

 今年は我家にとって忘れる事が出来ない年になった、母が逝き、息・太郎が誕生した、その年が今日で終わる、年越し蕎麦、今年も自ら打たずに師匠から頂戴した。

 娘、かけにしようかと言ったところ、盛りで食べたいと言うので、盛りそばで年を越した

平成22年12月30日(木)

 荒れるぞ荒れるぞという予報にかなり緊張気味に待ち構えていたが、朝から雪でなくて雨だった、午前9時半ころ、激しい霰と共に雷が鳴りだしたが、すぐに雷雲通過。その後も時々雪が少し強い風に舞ってはいたが、結局夕方までは雪は降り積もらず拍子抜け、そもそも九州にはそれほどの雨雲はかかっていない、さて今晩はどうなるのか、本当に降るのか?、吹くのか?

 今日は、カミさんはモチを機械で作っていた。喪中でも、新年はモチは食うだろう、屠蘇も一年の無病息災を願って飲むわけだから作る必要があるだろうと、一応、準備に余念がなかった。シメ飾りや鏡餅は控えた方が良いのだろう、と言いながらクリスマスパーティをやるのだからいい加減と言えばいい加減である。

 小生は昨日、雪の対策が済んだので、今日はノンビリ読書で過ごした、小生のシャック周りは全くいつもの通り、汚れ放題、散らかりっぱなし、このまま年を越すつもりだが、カミさんが掃除をしようと隙を狙っている。


平成22年12月29日(水)

 曇り時々晴れ。特にデータを見たわけではないが、暖かからず寒からず、今ころの平均的な気温ではなかったろうか。

 今年の年末は何もしないと決め込んでいたので小生はノンビリするつもりだったが、なんでも年末年始の天候、大荒れになるという予報が出ているので、已む無く方針転換、急遽、ベランダや薪小屋に雪の降り込みを防ぐ工夫をしたり、薪の作り貯めをしたり結構一日忙しくして過ごした。

 雨だと風向きで降りこむ範囲が予測できるが、雪の場合は風で舞うので、雨のような降り込みの計算では薪を積んであるベランダに吹きこんでしまう。数年前に大雪が続いた年があって、その時に、ベランダをコンパネを使って完全に仕切る工夫をした。しかしその後何年もあまり雪が降らず、何時だったか、そのコンパネの一枚を、他の目的に転用して切り刻んだようで、足りなくなって半分隙間が残ってしまった。まあ、無いよりマシか、ということで、半分だけ塞いだが、予報通り本格的な大風雪になったら、多分、相当ベランダに降り込むだろう。

 カミさんはやはり一年の締めくくりなのだろう、あちらこちら片づけ回って、喪中だが正月スタイルの食材などを買い求めに駆け回って、娘と一緒になんとかの節句働きをしていた。


平成22年12月28日(火)

 午前5時半、従姉の家を辞してタクシーで上大岡駅まで、そして京浜急行で羽田まで。今回はとにかく、「余裕のよっちゃん」で実に心にゆとりをもって、空港に着いて、ゆったりと出発まで時間を過ごして飛び立った。7:50 ---> 09:45(SNA011便)、往きは三分の二程度の混み具合だったが、帰りは満席、ほぼ時間通りに揺れる事も無く無事に帰ってきた。

 揺れる事も無くと書いたのは、こちらは朝から風が強かったそうで、小生が家に帰りつく頃からなお一層風が強まり、雷雨が荒れ狂い、熊本では雹が降ったそうである。とにかく台風並みの風が終日吹き荒れた、日章旗が破れてしまった。もし後の便になっていたら、何かしらの影響があったかもしれない。

 今回旅行して、しみじみ思った、やはり小生は田舎が良い、ここでの生活を知った以上、もうビルに囲まれた都会の生活は小生には出来ない、とにかく息が詰まる。冠婚葬祭で已む無く上京するのでなければ行くことは無いだろう。それにしても、都会は足が疲れる、階段の上り下りや移動のための歩く距離がスゴイ、都会の人の体力は田舎の人の何倍もあるだろう。


平成22年12月27日(月)

 横浜の叔父の葬儀のために一泊の予定で朝一番の便で羽田に飛ぶ。一晩家を空けることになるので、我家のセキュリティの理由で用心のためにスケジュールを事前に日記にしなかった。

 叔父、Y下秀一は23日に99歳で亡くなったそうだが、クリスチャンで、教会がクリスマスミサ等の行事のために葬儀ができず、27日の通夜、28日の葬儀となったそうだ。

 突然の訃報に、時期が時期だけに飛行機の切符が取れるかなと心配だったが、SNAで65歳以上のシニア割引が、帰省ラッシュが始まる28日の、向うからこちらに帰ってくる便で奇跡的に一枚だけ残っていた。しかし、朝一番の便だった。ということは、必然的に、こちらから行く前日便を出来るだけ早い便にしないと、向うでの滞在時間が短くなって時間を有効に使えなくなる。ということで、往きの便も帰りの便も朝一番の便をネットで取った。往きの便は帰省コースと逆であり、まだその時期ではないので十分に空いていた。

 昨夜から阿蘇地方は雪になっていて、途中道路事情が分からないので、朝5時に家を出てゆっくり走ったが、山を下りると下界は雪はほとんどなく、6時過ぎには、空港近くのの民間駐車場に着いた。

 6時半頃まで空港は開きませんよとの駐車場のおじさんの話で、少し時間調整をして空港に行ったが、それでもしばらく外で待たされた。

 07:35 ---> 09:05(SNA012便)、予定通り到着。阿蘇熊本空港の上空は雲の中だったが、それを抜けると、太平洋岸は見事に晴れていて、日本地図の形に海岸線がくっきりと見えた。久しぶりに見る富士山も見事だった。
(セントレア浜名湖駿河湾房総半島

 羽田に着いて、とりあえず寺さんの会社に電話をして仁義をきったところ、当然予想できたことだが、年末の一番忙しい時期にオマエのようなヒマ人の相手をしている暇は無いと断られたので、まあ、そうだろうなと「お声掛け」だけにして今回は茅ヶ崎方面はやめにして、次なる訪問先に向かう。

 その前に、一応御上りさんだから国際線ターミナル江戸小路なるところを見物してから、モノレールで浜松町に出て、そぞろ歩いて芝増上寺を抜けて東京タワーの真下にある事務所にその男を訪ねた。何十年ぶりだろうか、昔、二人でよくつるんで実に無駄に青春時代を共に過ごした仲だ。I上喬雄、デスクに座っている姿に小生はすぐに分かったが、何も言わずにじっと顔を見ていたら、向うは不審人物でも来たのかとしばらくキョトンとしていたが、ようやく分かってニヤリ、しばらく喫茶店で思い出話にふけった。今回訪ねたきっかけは、喪中につき・・・の葉書をだしたところ、わざわざご丁寧にお心遣いを頂戴したので、今回の上京を機会に、年賀状の遣り取りだけで随分会っていないなあと思って訪ねたのである。

 東京タワーは依然として威風堂々としていた、空港から建設中のスカイツリーを遠望したが、「昭和」が生きている限り、東京タワーが廃れることは無いような気がした。

I上喬雄と別れて、少し歩いて都営三田線の御成門から地下鉄に乗って、日比谷で降りて、そこから、有楽町〜数寄屋橋〜銀座に出て、中央通りを京橋まで歩いて東京駅から秋葉原に向かった。数寄屋橋交差点の近くに小生が昔禄を食んでいた会社があったが、そのビルが取り壊わされて新しいビルに生まれ変わろうとしていて驚いた。そうか10年だものなあ、一昔前だものなあ、とヘンなところで歳月を感じた。変わらないところは全く変わっていないが変わったところはすっかり変わってしまっていた(当たり前か)。

 秋葉原も、栄枯盛衰が激しいところで、ザ・コンだとか大きなショップが軒並み閉店、看板替えをしていた。昔ながらの秋月や千石は頑張っていたが、ジャンク屋、それもPC関係ばかりだが店の分布が末広町方面に移動していた。

 10年ひと昔、小生も以前ほどの情熱を持って秋葉原を歩きまわる意欲が無くなってきたなあと感じた。

 秋葉原を後にして、中央線で新宿に出た。最近読んでいる小説によく歌舞伎町が出てくるので、ここも何十年ぶり、昔の記憶が随分薄れたので、通りや施設の確認もあって行ってみたのだ。

 前回に懲りて、今回は人を訪ねて分刻みで走り回ることはやめて、時計を気にせずにゆったりと気の向くままに歩くことに徹したので、前回、前々回とはまた違った旅になった。

 そろそろ夕方の従姉たちとの待ち合わせの時間が近づいたので、新宿から、横浜までどう出ようか、品川経由でJRか、渋谷から東横線かと考えたが、駅の表示板に新宿ラインという文字を見つけた。そういえば前回、その新宿ラインという線が出来たのに驚いたのだった。湘南地方に住んでいると、昔から新宿方面に行くのが不便だと思っていたが、それが、この線が出来て実に便利になったのだ。最近は、昔と違って、何線はどこ駅からどこ駅までという線引きが無くなって、複雑に相互乗り入れしていて確かに便利になったようだ。

 洗礼を受けていた叔父の通夜は横浜の戸部にあるカトリックの教会で営まれ、賛美歌を歌い聖書を読んで小生には初めての経験だった。肝心なのは相手の気持ちになって死を悼むことだから形はどうでもいいのである、悼む気持ちがあるかないかであって、形では無い、そういう点では一応はなんとなく仏教徒だがなんとなく仏教徒であって良かった。

 今回の通夜参列の目的は叔父と最後の別れをすることだが、そのほかにも、叔父の娘たち、つまり小生の従妹たちとの再会である。これももう何十年ぶりなのである、叔父夫婦には何度か会っているが、嫁いだ娘たちにはなかなか会う機会がなくて、今回を逃すとまた何時会えるか分からないと思ったからである。共に青春時代を過ごした仲なので、どう変わったかと思ったがT代とT子、二人ともみごとに婆さんになっていた。通夜式のあと、最近は日本の風習に合わせたのだろうか、教会でも仏教でいう「御斎」のような席が用意されていて、親戚皆で故人を偲んでしみじみと昔話に時を過ごした。(写真1写真2写真3写真4

 その昔、叔父が父の枕元にウイスキーをもってきてくれた答礼の意味で、今夜は息子である小生がその時と同じ銘柄のサントリーオールドを持参した。余談だが、今やウイスキーはどの店でも片隅に追いやられ、サントリーオールドなど一生懸命探さなければ見つからない、何軒も走り回った。

 今晩は従姉の弘子姉の家にやっかいになった。

 阿蘇は雪が結構降ったようで、娘が雪だるまを作ったよとメールを送ってくれた

 明日の葬儀は飛行機の便の都合で参列できない。



平成22年12月26日(日)

 終日小雪が舞っていた。道路には積らなかったが木々や、休眠中の田は薄く雪が積っていた。今日はほとんどフラットな気温だった、坂梨豆札で最高気温0.3℃(10:41)、最低気温-1.4℃(0:00)。ただ風が無かったので昨日ほどの寒さは感じなかった。

 午前中、竹を燃やしていたが、雪が間断なく降り続いて、竹が濡れて燃えにくくなったので午前中で中止した。


平成22年12月25日(土)

 曇り。今日はとにかく寒い一日だった。絶対的な温度はそうでもないのだが、終日10m前後の強い風が吹いていたので、体感温度は−8℃以下だった、放射冷却時の−8℃と、こういった天候下での−8℃では体の感じ方が全然違う、ここに住んで初めての寒さのような気がした。昨夜からの氷点下と強い風で、一晩で古閑の滝が凍ったようである。

 今朝早く起きて、娘が寝ている間に、ベランダにクリスマスプレゼントをぶら下げておいた、千葉のおじいちゃんからのプレゼントもそのなかに入れておいた。娘ももう親がサンタクロースだということはほぼ知っているようだが、まだ少しは本当にいると思っている、思いたいという節があるが、親に合わせてくれているのだろう。欲が無いと言うのか、今年は特に欲しいものは無いというので、親としては何を贈れば良いか逆に迷ってしまう。

 ボンが散歩から帰ってきてしばらくして、突然悲しそうにキャンキャン鳴いて顔を傾けて居ても立っても居られないようななんとも情けない動作をしていた。なんだろうと思ってしばらく様子を見ていたが、その後、だいぶ落ち着いてきて、食欲も十分にあるようだが、ネットで調べてみたら、外耳炎の症状に似ている、放っておいて自然治癒するだろうか。



平成22年12月24日(金)

 曇り。風があって寒い一日だった。が、竹を燃やしたり、薪を作ったりと終日戸外で体を動かしていたので寒さは苦にならなかった。ただ、風が強くて切り倒した竹の山に飛び火するといけないので竹の焼却は午前中でやめた。ここのところ暖かい日が続いて一旦消えた雪、夕方、高岳の頂上付近がいつの間にかまた薄っすらと白くなっていた。

 薪を作っていると、一年以上放置したクヌギなど、皮が少し腐りかけたりしているので剥ぐとなかに何かの幼虫が居てそれを狙ってジョウビタキがやってくる。ジョウビタキは警戒心が弱いので、人が居ても結構近くまで寄ってくる。

 娘は今日が終業式だった。昼前に終わって、明日から冬休みなので登校班全員がそろって足どりも軽ろやかに帰ってきた。

 夜は、俄か基督教徒で、定番のディナーのテーブルを家族で囲んだ。

 叔父が23日に99歳で亡くなったという連絡が入った。一番近い親戚(はいくつもあるのだが)のひとつだ、なんとかトンボ返りででも行ってきたいと思っている。この叔父(厳密には叔母の連れ合いだが)今から40年近く前に小生の父が亡くなった時に、サントリーオールドのミニチュア瓶を携えて病院まで来てくれて霊安室の父の枕元でウイスキーを父と「呑み交わして」くれた。また一人近しい人が逝ってしまった。その時のミニチュア瓶はそれ以来ずっと我家の仏壇にある。


平成22年12月23日(木) 天皇誕生日

 晴れ。今の時期なりの気温で気持ちが良かった。

 午前中は、竹類がまだ濡れていたので、先日やり残しの杉の枝打ちと敷地の北西に位置する田に面した灌木の伐採をした。草に対してはそういう気が起きないのに、どうも木を切るということに抵抗があって、結果的に茂らせ過ぎてしまっていた、大した木ではないので思い切って伐採してしまえば良かったのだが、これですっきりした、この部分の灌木は田の日照の障害になっていた、ここに来春ハチウトを置く。(写真1写真2

 杉の枝打ちについては、少しでも上の方に登ろうとするのだが、パイプ足場を登るのと違ってなかなか思い切って高い位置まで登ることができない。ここも田の日照の妨げになるので、あと一本近いうちに枝打ちをしなければならない。上までスルスルと登ることができればダイポールの支柱に絶好なのにと思うが木に登る道具が無いとなかなか難しい。

 午後から竹の焼却をした

 娘は、子供会のクリスマスパーティだとかで、午後から馬場公民館に母親に連れて行ってもらっていた、小生は行かなかったので様子が分からない、従って写真も無い。



平成22年12月22日(水)冬至(一陽来福)

 曇り、屋外作業にはグランドコンディション悪し、従って、用足しに熊本まで行って来る。デパートなど歳末大売り出しで平日ながら賑わっていた。例年であればそういった雰囲気に急きたてられ落ち着かない気分になるところであるが、こんどの正月は喪中につき・・・で、改めて何もしないので、気分的に全くノンビリしたものである。

 前回の30回を区切りとして、年齢的にもう引退しようと思っていた献血(実際には69歳までは献血可能とか)、冬場で血液不足なので・・・というダイレクトメールが来ていたので、熊本からの帰りに、市役所会場の献血カーに寄って献血をしてきた。(規則では69歳までは献血可能とか)

 冬至である。別の言い方で一陽来福とも云う、小生はこの言葉が好きである、なんとなく希望を抱かせる言葉である。恒例の柚子湯をたてる。今年はルーキーの登場である。三人笑顔で撮ってもらうべく苦労したが、ちょっと機嫌が悪かった。(写真1写真2

 子供会のお母さん方の忘年会があり、カミさんは出掛けて行った、街中の飲み屋さんあたりでやるらしい。



平成22年12月21日(火)

 午後も大分過ぎてからようやく止んで、空が少し見えてきたが、朝からずっと強くも無く弱くも無く間断なく雨が降っていたような気がする。今日は満月での皆既月食だとのことであったが、雲に隠れて見えなかった。

 こんな天気の日は、読書とプールである。2000m、67.3。やはり水泳は竹林整理よりは体力を使うようだ、泳ぎ終わってから、四肢の筋肉が弛緩して気だるさを覚え、ああ、脂肪が燃焼しているなあということが分かる。

 図書館に本を返却してから、また借りてきてしまった。先日寺さんから段ボール一杯の本を送ってもらって、それだけでもとても読み切れる量ではないが、それでも、図書館の書架で興味をそそる本があると、ついつい借りてしまう。

 ところで、横井小楠の説く実学の流れを汲む太邑が創めた私塾「培達堂」と言う名前、かねがねヘンな名前だなあと思っていたが、いつも思考がそこで止まって、それ以上知ろうとしなかった、ある時にふと思いついて、ネットで検索してみたところ、どうも、「培根達枝」(根をしっかり育てて、枝を丈夫に茂らせる)という朱子の「小学」から出た言葉だろうと言うことが分かった。

 しかし、朱子学は確か、徳川幕府の封建支配の理論的支柱の学問であったはずで、そうなると横井小楠の「実学」とは対極的な学問なのではないのか、どうしてそのようなところから塾の名をとったのだろうかと不思議に思っていたところに、図書館の新着の書架に松浦玲著「横井小楠」という文庫本が紹介されていたので、早速借りてざっと目を通したところ、どうも実学はその根本は朱子学だというようなことが書いてある。小生が読んでも理解できそうな内容で、実学党の起こりや藩内の反対勢力学校党との確執や太邑が師と仰いだ元田永孚、さらにその師、藩校時習館時代の小楠、同志長岡監物などのことが詳細に書かれていて熊本の人間にとって非常に興味深い内容になっている。これは一時的に借りるだけでは勿体ないと、返却して早速購入して、現在、娯楽的な読み物と並行しながら読み進めているところである。


平成22年12月20日(月)

 小雨のち晴れ。朝のうち細かな雨が降っていたが、それも午前中でやんで、青空が広がる。今日はこの季節にしては朝から異常なくらいに気温が高く、ストーブの残り火でも暑いくらいだった。

 グランドコンディションが悪いので今日の屋外作業は無し、「雨読」。

 竹の整理や薪作りで、目いっぱい腕を使っては、夕方、時々、主に右上腕部、肩のすぐ下あたりの筋肉だか筋が腕が上がらないくらいに痛くなる。湿布薬を一晩貼って寝ると翌朝にはほぼ治っている。そして、翌日また同じことの繰り返しである。もう年齢的に若い頃のように無理が利かなくなってきているのだろう。婆様が居た頃は、時々婆様の貼り薬を分けてもらっていたが、今やそれが出来なくなった。今日、古閑医院で筋肉痛の湿布薬を貰ってくる。


平成22年12月19日(日)

 快晴。朝はまるで雪が降ったようにあたり一面真っ白に霜が降りていて、実際の気温(−3.3℃)よりもうんと低い印象だった。対して日中は雲ひとつなく晴れあがって穏やかな一日になった。と室内からの感想である。実際は日が落ちる前にボンの散歩に出るまで今日は一歩も家の外に出なかった。

 というのは、娘のピアノのコンテストだとかで、母親と出掛けるので、小生はまっぴらとばかりに息の子守を引きうけて留守番を決め込んだ。連日の肉体作業で今日は完全休養日を宣言していたので、体力的には楽な一日だったが、4時間ごとの授乳とウンチのオシメ替え二回。

 連中は鉄砲玉みたいに朝早く出たっきり夕方まで帰ってこなかったが、今回も会場は城南町の火の君なんとかホールだったようだが、結果はどうだったのか知らない、黙っているところをみると成績は良くなかったのだろう。


平成22年12月18日(土)

 晴れ。数字を見たわけではないが、この季節らしい気温だったと思う。今日も一日穏やかで気持ちがいい日和だった。

 今日もまた、終日竹の整理に明けくれる。今日は昨日の場所から少し北に寄った場所、竹の量、少しは減っただろうか、見た目、少しは変化があるだろうか。さすがに体が疲れてもう体が動かない、明日は完全休養日にする。しかし別件で休養にはならないと思うが・・・・

 竹を燃やしていると、我家に接する三差路から一の宮中学校方面に向けてシカが走っていた。写真を撮ろうとしたがカメラが手許に無くてチャンスを逸した、どうして出てきたのだろうか。

 息、二回目の離乳食に挑戦、おもゆに近い粥、前回は受け付けなかったが、今回は吐き出さずに飲み込んだ、たった茶匙二はい程度の量だが。


平成22年12月17日(金)

 晴れ。予報ほどは下がらなかったが、氷点下3℃くらいだったろうか。昼間も6℃くらいまでしか上がらなかったが、風が無かったのでほかほか小春日和だった。古閑の滝、見事に凍結したようで、テレビのニュースで伝えていた、明日も氷瀑日和になりそうである。

 今日も終日竹の整理をした。今日は敷地の最北東端で竹を燃やし続けた。山となった伐採済みの竹の山から燃やす竹を降ろす為に、手前に引いたり、左右に振ったり、担いだり、切り株につまづかないよう足を踏ん張ったり、たたらを踏んだり、これ以上のアスレチックエクササイズは無いほどの運動量である。精神衛生上良いとは言いながら連日ではさすがに疲労が蓄積して動きが鈍くなっている。

 馬場の松村進さんの母上、モリエさんが93歳で亡くなられた。御自宅の葬儀に参列した。松村さんと小生、ほぼ、同年、母上の年齢もそうだ。最後に松村さんが会葬者に挨拶をされていたが、途中で、言葉が詰まって堪らず嗚咽されていたが、その気持ち、我がことのように良く分かった。

 息、三種混合ワクチンの二回目接種、今回はカミさんが自分で運転をして中央病院まで連れて行った、一年近く運転から遠ざかっていたので大きな車は自信が無いと言って小生が連れて行っていたが、いい加減に自分で運転しろと言ってあった。


平成22年12月16日(木)

 今日は終日1℃まで届かず、朝などは氷点を少し下回り、風があったので、体感温度が−5℃以下まで下がって寒かった。粉雪も時々舞っていた。放射冷却での−5℃は苦にならないが、氷点くらいの気温下で、風があって、それによる−5℃というのは全く嬉しくない。(写真

 そんななか、今日も終日、竹の整理焼却。火があるので寒さは全く苦にならなかった。竹を切って運んで燃やすというのは体力が相当いるが、既に切ってあるので、基本的にはあとは運んで燃やすだけだから、切る作業が無い分随分と楽である。この竹の焼却作業、冷たい空気の中、火にあたりながら、体を大いに動かして、時々炎を見ながらコーヒーを飲む、精神衛生的に非常に良い。十分に防寒対策をとっているので、風が冷たくて鼻水が出るが、それが風邪には結びつくことは無い、極めて爽快である。

 娘、学校から帰ってきてランニングをした、これをやりたかったのだろう、母親に後ろから軽トラで伴走してもらって走ったけど、母親、計測間違いで本日記録なし。

 今日の寒さ、古閑の滝の凍結を期待してだろう、「坂梨宿」へのアクセスが非常に多い、今日は遠望するとかなり凍っていたようだが、今日のような天気が滝の凍結には向いている。予報では明朝は氷点下6℃まで下がるそうだから、氷瀑もかなり進むだろう。


平成22年12月15日(水)

 今日は日中も2℃前後で屋外作業にはなんとも寒い一日だった。今日もまた、終日、裏の竹の整理焼却と薪作りを寒風の中で行った。午前中は北寄りの風で、この風向きの時に竹を燃やすと、ご近所さんが切干大根を、自宅は日当たりが悪いので我家の庭先を貸してほしいと、ここ数日ムシロを広げている関係で、笹の燃えカスが大根に降りかかる恐れがあるので、遠慮して火は点けなかった。鼻水をたらしながら、竹を積んだり、薪を割ったりで昼まで過ごして、午後から風向きが西寄りに変わったので、竹を燃やして暖を取りながら薪作りをした。

 現在進められている村中の道路拡幅工事もそろそろ完成間近だが、10月頃だったか、工事中に道に埋もれていた猿田彦大神の石碑が出てきた、小生と同年輩の村の人が、子供の頃、そういえばここにあったのを覚えている、ということだったのでかれこれ50年近く何かの拍子に埋もれてそのままになっていたのだろう、寄進者の名前を見ると小生の先祖の名前が彫ってあることが分かり、これも何かの縁ということで、この際、我家の入り口付近に遷座願うことにして、今日、鄭重にお移しした、寛政八年丙辰歳八月とある、西暦1796年である。

 この猿田彦、日本神話で天孫降臨の際にニニギノミコトの道案内をしたと言うことで、神社の祭礼の際に神幸行列の先頭に立ったり、阿蘇では昔から道祖神として多く三叉路に石碑が立っている、石碑は一般的には結構大きなものであるが、この石碑はお墓のような小ぶりの石碑である。石碑を前にして先祖のことを想うとき何か感慨深いものがある。(写真1写真2



平成22年12月14日(火)

 昨日かなりまとまって降った雨、朝のうちまで少し残りその後回復に向かう。気温は夕方になって少し下がってきたが、それまでは昨日からずっと10℃以上あった。午後からは晴れたが、雨でなにもかもたっぷりと水を含み、今日は結局屋外作業は全然できなかった。

 朝のうちに図書館に本を返しに行って、また借りてきてしまい、一日中、本を読んでいた。


平成22年12月13日(月)

 朝からずっと雨である、強くは無いが間断なく降り続いている、午後5時現在で40ミリ近く降った。予報では低気圧の通過によって雷も鳴るとのことであったが、今のところ雷は無い、風も強くない(最近、風音が聞こえなくなったので気にならないのか)、天気図を見ると、そろそろ九州を通過しそうな気もするがまだか、この後ひと荒れ来るのだろうか。

 そんなわけで、今日はボンの散歩も無しだった、ボンも小屋の中に入っていて、散歩の催促も無かった。

 おかげで、終日、のんびり読書に浸ることができた。


平成22年12月12日(日)

 今朝も、もうあたりまえに氷点下になって、そして日中も穏やかな一日だった。この天気、今晩あたりから雨になりそうである、今週の予報を見ると曇りが続き、時々雨マークがついている、あまり天気のいい週ではなさそうである。

 朝、娘がこれから時々ランニングをして、少し長距離走に強くなるのだと言って、ボンの散歩コースを一周してきた、測ってみると1.3キロくらいだ、今日は足慣らしだと言ってゆっくり走っていた、8'19"。夏だと起きてから登校するまでに走る時間があるが、今の季節はまだ暗いので、下校してからと言うことになるが、どうだろうか、続くだろうか、もう少し日が長くなってからでも良いと思う。

 午前中、図書館に本の返却と借り出しに行く、娘も一緒についてきた、昨日母親と行って借りた本の返却と新たに借りるためである。娘は昨日8冊借りた本を一日で全部読んでしまったそうである。階下がいやに静かなので、オイ娘はどうしてる?と尋ねたら、黙々と読書をしていた。全く強制してるわけではないが、最近、まだ大きな文字だが、活字主体の本を読んでいる。活字を通して頭の中で登場人物や情景をイメージする楽しさを知ったようである。まだ僅か数年の人生だが、それなりの想像力というものがあるのだろう。小生のその歳にはまだ本なんてロクに読んでいなかったと思うが、なかなか結構なことだと思って見ている。

 その娘、今日はクラスメートのU那ちゃん姉妹が遊びに来て、午後いっぱい二階でママゴトのような遊びか、賑やかな声が外まで聞こえてきた。

 小生は、また、竹の整理焼却と薪作りで午後いっぱい過ごした。

 息、日中、眠っている時は静かだが、目を覚ますと、ずっと寝かされているのが退屈すると見えてぎゃあぎゃあ泣き騒ぐ、今日初めてオンブをしてみたが、首がほぼ据わったので、嬉しそうであった。



平成22年12月11日(土)

 雨のち曇り。

 昨日までの快晴に代わり朝から雨が降っていた、気温は高めだったようだ、そして結構風が強かった、しかし屋内に居る限りは全く風音が聞こえなかった、やはり竹を伐ったせいだろう。午後からは雨が上がって回復方向に向かった。

 今日はボンの散歩以外は全く家から出ずに、終日読書三昧で過ごした。

 先日ネットで更新手続きをした固定局の局免が郵便で送られてきた。

 息、初めて離乳食(おかゆ)に挑戦、未知の味にとまどって食べず。
平成22年12月10日(金)

 予報通り、今季最低気温を記録した、阿蘇乙姫 -5.7(06:26)、この頃、阿蘇山頂では−2.4℃、典型的な放射冷却である(阿蘇山頂では深夜に−5℃を記録している)、阿蘇乙姫は阿蘇谷の平野部にある、外輪際の坂梨豆札では-4.8℃(07:46)、平野部と違って気温の下がり方が1℃くらい弱かった。それでも、犬の飲み水が凍って盛り上がって、諏訪湖の御神渡りができる仕組みが想像できそうだった。古閑の滝も上の方が白く凍っているのが遠望できた。朝が冷え込んだ分、日中は(それほど気温が高かったわけではないが)暖かかった。
写真1写真2写真3写真4

 今年最後のみどりの爺様の当番日だった。

 娘の小学校、授業参観、子供たちの持久走記録会、親子給食会とPTA研修会、クラス懇談会などの行事が行われ、持久走には家族で応援に出掛け、親子給食会には小生が参加した、その後の懇談会には母親が参加した。最初のプログラム、授業参観にはちょっとした行き違いで、両親とも参加しなかった。

 小生が給食に参加したのには理由がある。小生が小学生の頃は給食制度が始まったばかりで、給食のある学校とまだ実施されていない学校があった、小生は転校が多かったので、3年生か4年生の頃の一年間だけ、給食を体験して、それ以外の学年では給食経験が全く無い。

 更に当時は給食といっても、コッペパン1個に脱脂粉乳で作るミルクだけであった。この脱脂粉乳のミルクは、終戦直後、日本には物が無くて貧しくて、進駐軍からの援助物資だった。

 そして、今の脱脂粉乳、つまりスキムミルクほど美味くなく、また大量に大釜で煮るので、ミルクの下の方が焦げてしまって、ダマや焦げくさいミルクが普通であった、それにコッペパンにしても今のパンほど美味くない、いくら食べざかりでもウマいなあと思ったことはあまり無かった、そんな、給食経験しかなかったので、普段テレビなどで観る最近の給食風景に非常に憧れがあって、カミさんに、その給食会はオレが出ると宣言したのである。

 予想に違わず美味しい給食だった、こんな給食を毎日食べられる子供たちは幸せである。それなのに、金があるのに給食費を払わないバカ親がいるそうだが、とんでもない罰あたりである。

 今度の親子給食会、初めての試みだそうだが、なによりも、こどもたちが保護者と一緒に給食を食べる機会が持てて皆ほんとうに嬉しそうだった、素晴らしい試みだと思う。

 持久走記録会連続写真 1/2 (10枚)
 持久走記録会連続写真 1/2 (10枚)
 親子給食会連続写真 (13枚)

 夕方、薪を作る、もう二年くらい経つだろうか、阿蘇ユースホステル脇のクヌギを貰ってきてあまりの太さにそのまま放置してあったやつ、今日、ようやく玉切りした、チェンソウのバーの長さより半径が太くて往生した。


平成22年12月9日(木)

 曇りのち晴れ。朝、強風に雪が混じっていて、体感温度は−4℃くらいで散歩していても寒かった、うんと冷え込んだ時よりもこのような天気の時の寒さの方がこたえる。

 昼ころから天気が回復して、風は冷たいものの、太陽が眩しいくらいに輝いていた。阿蘇の山は一度に冬山になった、北に位置する九重連山も外輪の向うに白く輝いていた

 阿蘇五岳冬景色連続写真 全10枚

 午前中は屋外作業不適に付き、昼にプールに行って、午後から薪を少し作った。プール2,000m 68.2

 年金用の扶養控除申告書を提出したが、昨年に比べて随分とフォームが変わっている、こども手当を支給する一方で、こども手当支給該当年齢の16歳未満の子は扶養控除が受けられないそうである、これを「朝三暮四」と言う、徒に事務を煩雑にしただけだ、国民をなめるのもいい加減にしろ、ほんなこつはらんたつ。


平成22年12月8日(水)

 12月8日である、「本8日未明・・・」の12月8日である。ジョンレノンが殺されたのも12月8日だそうだ、でもこれは現地時間なので、日本では12月9日ということになる。

 昨夜の予報は外れて雪は降らなかった。しかし、朝、ボンの散歩中、朝日に黄金色に輝く雪を頂いた高岳の上部付近が見えていた、帰ってから写真に撮ろうと思っていたら、すぐに雲に隠れてしまった、今シーズン初の雪の阿蘇山の写真を取り損ねてしまった、その後、何度か少し姿を見せたが、最初のような美しい姿は見られなかった。大分前、その時は雲に隠れて麓からは見えなかったが山頂に雪が積ったと新聞だかに写真入りで初冠雪だと伝えていたと思うが、誰がどこから観測したのか小生は甚だ疑問に思っていた、それは昨年もおかしかった、麓から観察できた今日が本来の「初冠雪」だろうと小生は思う、従って我が風師庵測候所は勝手に今日を初冠雪の日とする。

 阿蘇の雪便りが聞かれそうだということだろう、ホームページのアクセス数がいつもより増える、「坂梨宿」も同様である、故郷のことが気になる阿蘇出身の人たちだろうか。

 今日は屋外では作業ができなかったので、久しぶりにプールに行ってきた。少し泳いだだけで、右腕だけでなく左腕も痛かったので、ちょっと無理かな、せめて1000mくらいは何とか泳ごうと泳ぎ始めたが、そのうちに痛みが和らいできたのでいつもの通り2000mゆっくり泳いできた。67.7。


平成22年12月7日(火)

 朝から曇りで、午後3時を過ぎた頃からポツリポツリきだした、それも夕方には止んだようだが、夜、もしかしたら大雪になるかもしれないという予報が出ている。

 今日は二十四節季の「大雪」だそうだが、日が射さず寒々しい一日だった。

 何時交換しようかと思っていたが、「大雪」に合わせたわけではないが、今晩雪になりそうだと言うわけでもないが、ちょうどキリが良さそうなので軽トラックのタイヤをスタッドレスに交換した。

 今日は冷たい風のなか、一日中、裏で竹を燃やした

 娘が赤ん坊の時はどんな顔をしていたのか全く覚えていないので日記を遡ってみたところ、これが、息と全くと言っていいほど同じ顔をしていた。娘に、これ誰だ?と聞いたら、太郎!と即答した。全く瓜二つである。
写真A写真B


平成22年12月6日(月)

 ここ二三日続いた良い天気もそろそろ終わりのようで、予報通り少し下り坂ということが同じような最低最高気温を記録していてもなんとなく肌で感じる、夕方には少し雲がかかってきた。

 坂梨豆札の最低最高気温、-1.6℃(07:18)、14.3℃(12:35)

 残っている竹の切り倒しと杉の枝打ちをした、北側が随分と開けて、外輪と大観望が良く見える。左から二本目の杉は先年の大きな台風で、入口にあった楠木と一緒にへし折られた。写っている三本の杉の間に先祖が使っていた立派な石組みの井戸があり、深さ精々3mか4mくらいなのでなんとか浚いたいと思っているが、ちょっと怖くてそのままになっている。

 息、5ヶ月目の定点観測、だいたい首が据わったようだ、体重ちょうど9キロ。


平成22年12月5日(日)

 昨日に負けず劣らずの素晴らしい小春日和。坂梨豆札の最低、最高はそれぞれ -2.2℃(06:36)、18.2℃(14:10)

 今日は娘のピアノ教室の弾き合い会とやらで、城南町(こんど熊本市と合併したか、することになっている)の「火の君総合文化センター」まで母娘(ついでに息)を送迎した。娘のピアノはカミさんと二人の道楽で小生はノータッチでいたいのだが、息の子守の問題があるのでやむをえず送迎した、だから、そもそも弾き合い会なるものがどういうものか知らない、お互いに練習を公開しあうのだろうか、小生は車の中で待っていたので詳細は知らない。

 ところで、この施設の名前の頭に付く「火の君」、火の国なら分かるが、「君」、妙な名前だなあと思って帰ってから調べたら、古墳時代の肥後国最大の豪族・火の君に因むそうである。逆に火の国はここから来たとも言われるいるそうである、へえ、である。

 午前中で終わったので、すぐ熊本寄りの緑川を挟んだ隣町、嘉島町のショッピングセンター「イオンモール」で昼飯を食って帰って来たのだが。飯屋の席に座る頃から息がなんとなくグズついてきたので、小生が食べるのが圧倒的に早いので、小生が食べ終わって、カミさんが食べる間、カミさんから受取って抱いていようとしたが、とうとう本格的に泣きだしてしまった、さらにどうもウンチをしたらしいとカミさんが言う。仕方が無いので、小生が、オムツなどが入ったバッグを担いで、ショッピングセンター内の授乳室に連れて行った。もし、若いお母さんたちがオッパイ丸出しで授乳中だとまずいなあと思ったが、授乳コーナーとオムツを替えるコーナーが中で分かれていたので、ホッとした(ちょっとガッカリだった、ウソ)。赤ん坊のウンチは滅茶苦茶軟らかくて抱き方がおかしいとお尻だけでなく背中の方までまわって収拾がつかなくなるので、ベッドに寝かせて、お尻拭きや新しいオムツや、汚れたオムツを入れる袋など用意周到に準備して、おもむろにオムツを開いたところ、幸いにウンチはしていなかったが、とにかくその間中、火がついたように大泣きをしているので、ヘンな爺様が一生懸命あやしながら、七つ道具を広げてオムツ替えをしようとする様は正に異様な風景であったろう。この歳になると恥ずかしくもなんともないから不思議である。

 息の大泣きは、決して小生のあやし方が悪かったのではなくて、急に人ごみに連れだしたので、今までの静かな環境との大きな違いに驚いたのが原因だったようだ。そう言えば今を去ること六十有余年前、戦争が終わって、疎開先のここから博多に家族で帰った時に、終戦直後の混沌とした、そして進駐軍などがジープで走り回る都会の混乱と喧騒に、博多駅前で、阿蘇の静かな田舎で育った小生が怖がって、ブーブーおじおじ(阿蘇弁で怖いをオジイという)と言って泣いたそうだが、今日の息、それと同じようなショックを感じたのだろう。後年いつも父親が「ブーブーおじおじわーんわーんわーん(泣き声)」と小生をからかっていたのを懐かしく思い出す。

 好天もどうやら今日までのようで、明日から数日間、天気が悪そうなので、帰ってから夕方まで数日分の薪を作った。

 今日は疲れたぞ。

 城南町は正式に熊本市になっていた、政令指定都市になるのはもう少し先の話で、なった時の特別区の名前を何しようかということが話題になっていたのでちょっと迷ってしまった。


平成22年12月4日(土)

 三時過ぎには目が覚めた、6時間は寝ているので、そのまま起きてサーバーのメンテナンスをする。

 今日は、大げさでなく、この一年で一番良い天気だったような気がする、いつもは快晴でも大抵午後から雲や風が出るが、今日は風も無く、日没まで雲ひとつなかった

 ここ坂梨豆札の最低気温、最高気温はそれぞれ -0.4℃(07:54)、13.1℃(14:42)だったが、体感的には朝はそれほど寒くなく、日中に至っては、あまりの気持ちのよさに、薄着のままハチウトの前に椅子を置いて、日向ぼっこを兼ねてコーヒーを飲みながら本を読んでいて、そのまま一時間ほどうたた寝してしまったほどである。

 昼から、少し塗装をした、今日はこの部分だけだったが、これで4リットル缶がちょうど無くなった。


平成22年12月3日(金)

 昨日の雨、結局、あのままほとんど降らずに東の方に移動して行った。明けて、雨が少し残っていた、午前中ハッキリしない天気が続いていたが午後から晴れた、しかし、また黄砂の奴が飛来して空が黄色ぽかった(熊本ではキイロと言わずにキナイロという)、ほんなこつはらんたつ、そして風が強くて冷たかった。

 竹をほぼ全伐してから初めての強風だった(10m以上)。予想していない事が起こった。ここではいつも西寄りの風が強いため、今まではそれを防ぐ意味もあって家の西側に孟宗が少しあり、家の背後の北東側には手入れ不行き届きのちょっとした森のような竹林があったが、今までは、強い風が吹くと、ゴーゴーという風音と併せて家が揺れる感じがしていた、これが妙に気持ちを落ち着かせなくしていた。ところが今回の伐採で、西側の孟宗は残してあるものの北東側の竹林が全部無くなったので風がモロに通ることになり、どれだけ風の影響があるだろうかとちょっと心配だったが、これが本当の想定外というやつで、風切り音も家の揺れる感じも全く無くなった。今までは竹林が邪魔をして風が通り抜けられなくて逆に家の周りで渦巻いて、それで風音などがひどかったのかもしれない。もっとも今日の風だけでは結論は早いかもしれないが嬉しい誤算である。

 昼飯を食った後、ちょっと思い立って、反時計回りで長陽のバイパス沿いにあるアルミサッシなどを扱うリサイクルショップに下屋のドアなどに合うものが無いか冷やかしに行った。そのまま反時計回りで旧道を走って、白水の寺の前を通って、高森町役場前を通って色見の別荘地を抜けて、265に入り、そのまま箱石峠に向かおうと思ったが、ふと気が変わって、山に入ってしばらく登ったところを右折して(県道135号か)波野方面に適当に走ったが、これが道が良く分からず、結局豊後荻まで行ってしまって、57号線をおっちら帰ってきた。滝室坂は下らずに、途中、ミルクロード経由で例の所を通ってやまなみハイウエーを下りてきたが、あの標識、当然のことながらそのままだった。


平成22年12月2日(木)
 
 予報通り、昼前ころからポツリポツリ降り始めたが、午後になってもそれほど強い降りにはならなかった、九州を低気圧が通過する時には往々にして、九州の南北を雨域が通過して強い雨が降り、真ん中あたりはあまり降らない事が多い、今日もそういうパターンのようであった、この後、今度は九州の真ん中あたりをまとまった雨域が通過することがあるが、今晩はどうであろうか、暖かい雨である。(写真1写真2

 今日は阿蘇移住記念日である。平成13年(2001年)12月2日に我々はフェリーで門司に上陸して、ここ父祖の地阿蘇に住み始めた、あっという間の九年間だったような気がするが、やはり九年という歳月は重い、家族に関しては二つの新しい命を得、今年、一つの命を送った、親戚身内友人知人にも誕生したもの、他界したもの多々、そして小生は九歳加齢した、ついでにカミさんも、と回顧すれば、そういうことになるが、まあこれも単なる通過点である。それにしても、その間よく日記が続いたもだと我ながら感心する。これもネットのおかげだと思うが、今や毎食後歯を磨くのと同じように完全に習慣化している。家族写真


平成22年12月1日(水)

 今日に午前二時過ぎには目が覚めてしまった、(多分)娘より早く寝てしまったので睡眠時間は足りていると思うが、かなり昼夜逆転している。

 今日は朝から気温が高く日中も穏やかな一日だった。昼過ぎの外気温が18℃位の時に、太陽の直射を受けるハチウトの前に置いた寒暖計は30℃を超えていた。いわゆる正式な外気温というのは百葉箱の中で計測するので太陽の直射は受けない、つまり日陰の気温であり、また風が吹いても数値には変動は無い、ということは、あまり現実的な数値だと言い難いということになり、実際に太陽を身に受けて、風に吹かれて感じる気温が、本来的な気温だと言えるのではないかと思う。そういった事もあり、今日は非常に暖かい日だった。

 その絶好の屋外作業日和、右腕の痛いのが一晩で治らないため、今日は完全休養日に充てた。

と、今日は穏やかにこのまま終わろうと思っていたのに、ちょっと一言。

 先日、「ゆうちょダイレクト」というインターネット・バンキングの申込書を「届出印」を押して郵送で申し込んだところ、本日、本人限定郵便物到着のお知らせ、というスタンプが押された封書が郵便局の差出人名で届いた(写真1写真2)、あれ?不在中にカードが届いたのかなと思って確認の電話をしたところ、そうではなくて、最初からまず本人宛にその封書を送ってから、それによって本人が件の郵便物を取りに来るか、局で届けるかを選択してもらうのだそうだ、先ず自宅に届けろよ、と腹のなかでブツブツ文句を言いながら「では届けてください!」と回答したところ、身分確認のために運転免許証を用意して待っていろというので、言うとおりにしたが、これだけ、面倒な手順を踏んで届いた郵便物なのだから、中身は当然、カードだろうと思って開封したところ、「詐取の被害にあわない」ためのお願いと称する書類と一緒に、本当に本人が申し込んだかの再確認票が入っていて、それにマルを付けて送り返せと言う。思わず腹の中でバカヤローと叫んだ。届出印を押して本人の住所氏名で申し込んだのに一体どういうことだ。この分だと、本当に本当か?と更にまた照会状が届くのではないかと思っている。いくら詐欺が多いからと言ってここまでやるのはやり過ぎだろう、「半官半民」の郵貯銀行だからやるのだろうか、なんとユウチョうな。普通金融機関もそうなのか。もし高齢者が詐欺に遭いやすいというなら高齢者だけに送ればいいだろう。ん?そうか、小生は高齢者だった、だから送ったのか?オイ。




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