平成24壬辰(2012)年 7月の記録(新しい日付けの順)
平成24年7月31(火)
今日は風があって非常に凌ぎやすかった。
台風9号はひとまず置いておいて、台風10号(気象庁、JTWC)、いよいよ「まっぽすじゃが」になりつつあるなあ。お隣さん(と言っても200mくらいあるか)が台風に備えていよいよ窓に板を打ちつけた。
最低気温 20.7℃ (05:29)、最高気温 30.1℃ (13:41)
昼に蕎麦を打とうと思ったが、花粉が無いのに気がついて、波野神楽苑まで娘と一緒に買いに行った。ちょうど今回の水害で回り道をしなければならないので、実地踏破を試みた。265号線を箱石峠まで行ったが、春野牧を始めとして、至る所、痛ましいほどの崩れ様で、高岳も東側から見たら、満身創痍という感があった。道の途中に片づけられてはいるが大きな石がゴロゴロしており、また崩れた山肌も非常に深くえぐられているのでもしかしたら箱石も落ちてしまったかと心配だったが無事に残っていた。
箱石峠を越えて少し行って昔蕎麦屋さんがあった先を左折して波野に入って行ったが、少なくとも小生が走った道には57号線のう回路表示は全く見られず、以前ウォーキングで歩いたすずらん自生地付近の道の記憶があったのでなんとか57号線に出ることができた、57号線に出ると、そこからミルクロード方面へのう回路の表示と整理係員が居たが、箱石方面から大分方面に抜けるためのう回路の標識には全く気がつかなかった。
夏休みだというのに、波野の道の駅・神楽苑はさすがに閑散としていた。花粉を買ってから、笹倉の信号を産山方面に左折して、昨日開通したという(昨日の日記参)「県道40号(笹倉郵便局付近〜産山村運動公園広場付近)の全面通行止めが解除になり、一部片側交互通行箇所はありますが、通行可能となっています。」の道路を走って、28日に復旧した林道手野線(グリーンロード)を下って帰ってきたが、古閑医院が診療ができずに保健センターが臨時の診療所になっており、またすぐ隣の一の宮(高齢者センター)温泉センターが土石流のためだろう、非常に損傷が大きく、一階部分はなにも無くなっていた(写真1・写真2・写真3)。
いつもなら往復30分程度で済むところを2時間近く掛かって、花粉を買ってきてから蕎麦を打ったので時間が無くて、蕎麦だけになってしまった。(写真1・写真2・写真3)
夕方近く、我家の前の植え込みに、犬が二匹座りこんでいると娘が言ってきたので、出て見ると、小型犬が二匹、くたびれはてた感じでへたり込んでいた。犬種は知らないが、黒い犬と、茶系統の犬、黒い方はリードを付けたまま、茶の方は何も付けていない、逃げる時に抜けたのか、同じ家から来たのか、或いは道中に知り合った仲なのか分からないが、一緒にくっつきあっていた。水害時に逃げ出したにしては、ボンよりは遥かに毛並みが美しい、それにリードもそれほど汚れていない、そんなに遠くから来た犬でもなさそうなのでとりあえず保護することにした。飼い主が現れない時には、養子先を見つけるか、保健所行きになるか、それはちょっと可哀想である、娘などは、ボンが乱暴なので、可愛くてたまらないようである。三匹飼うことにならなければ良いが;・・・・
最近はお姉ちゃんが太郎の着替えの面倒を見てくれる。
平成24年7月30(月)
朝、ヒンヤリとした深い霧に沈む、そして、その後は真夏日、今日は雨も雷の気配もなかった。
最低気温 21.8℃ (03:01)、最高気温 30.9℃ (15:12)
台風がなあ。9号(気象庁、JTWC)と10号(気象庁、JTWC こちらは微妙に違うなあ、どちらの予報能力が高いか)。
太郎、昨日出掛けた時にクツを買ってもらったらしい。「カーズ」の靴である、なかなか良く出来ている、非常に気に入ったようだ、保育園に得意満面で出掛けて行った。(写真1・写真2・写真3)
昼飯は、とろろ汁を作る、それとナスの味噌油炒め、トマト。とろろ汁にはちゃんと出し汁と味噌と生玉子も入れて本格的に作ったが、小生は好物なので娘も喜ぶかと思ったが、娘は嫌いではなさそうだったが、好きでもなさそうだった、ちょっと拍子抜けをした。
そう言えば、先日の27日金曜日、土用丑の日に娘が、「どうして、金曜日なのにドヨウでウシの日なのに鰻を食べると?」、なるほど面白いところを突いてくるなあ、説明が面倒と言うか、こどもに分かり易く説明するのが大変なので、ラジオで夏休みこども電話相談室というのをやっているので、訊いてみれば?あるいは、学校が始まってから先生に訊いてごらんと言っておいた。
県道40号(笹倉郵便局付近〜産山村運動公園広場付近)の全面通行止めが解除になり、一部片側交互通行箇所はありますが、通行可能となっています。写真 (市の地図を無断改竄)
平成24年7月29(日)
朝からどんより曇っていた。それに靄なのか霧なのか、山が霞んで見通しが悪かった。今日も昨日のように雨が降りそうで降らず、遠雷がずっと聞こえていたが、午後3時過ぎになって、ようやく大分宮崎県境を越えてきてひとしきり降った。
台風10号が発生した、9号よりこちらの方が影響がありそうである。
最低気温 23.4℃ (03:42)、最高気温 30.6℃ (12:54)
今日は娘のピアノ教室主催の県下の同門の発表会があり三人で出掛けて行った、確か毎年益城町で行われているので恐らく今日もそこだったろう。三人が留守の間に、小生は給湯機のフィルターや蛇口のフィルターや洗濯機のフィルターを掃除した。災害後、断絶した水道管を仮設で復旧したり、水源の清掃でゴミが沢山運ばれて来て水の出が悪くなっていた。
聡雄さんから電話があり、HFの3エレの八木があるが欲しいかとのことだたので、有難く頂戴に伺った。エレメントの長さを測ったところ約6.5mあり、トラップコイルが一か所入っているので21と28の2バンドだろうか。今の仮設タワーでは支えきれないので、クランプアップタワーが再建された暁に建てることにして、軒下にでも収納しておこうと思ったが、我家でそういった場所を探すのが結構大変なので、とりあえず、仮に軒先にぶら下げておいた。
夕方、e鴨氏がご入来。そう思って見るせいか、少し憔悴気味だった。そのe鴨氏が自宅付近の水害当日の写真を送ってきた。最初の写真は、恐らく昨年の刈り入れ後の写真だろう、右上方に橋が見える。次の写真はe鴨氏の家付近からから水に浸かった橋方面を写している、画面の奥が山田小学校、役犬原方向、つまり南になる(最初の写真と逆方向から撮ったもの)。次の写真はその氾濫した川に掛かる橋、e鴨氏のトマトハウスはこの橋の傍だった。この川は黒川だろう、この川の下流が内牧で、更に広く水に浸かった。この地図は、我家からe鴨氏の住い付近、写真に写っている橋との位置関係、我家から約5キロの距離である。改めて水の恐ろしさが伝わる写真である。
平成24年7月28(土)
梅雨明け十日とは言うけれど、今日も暑かったなあ。こんな時には「働かない!」読書に限る。娘が「お父さんはいつ見ても本を読んでるね」というが、寝っころがって窓から入る風に吹かれながら本を読む、これ以上の贅沢があろうか。
最低気温 22.4℃ (05:59)、最高気温 32.4℃ (15:01)
今日も積乱雲が四方に発生して、ここでは降りそうで降らなかった。
竹林伐採跡、そろそろ雑草が伸び始めている、刈払機で刈らなければならなくなるほど伸びるとちょっと広すぎて厄介なので、その前にトラクターで鋤いておこうと思っているが、天地返しで大きな石が結構ゴロゴロしている、そこで、午前中、まだ涼しいうちに娘に手伝ってもらって石拾いをした。涼しいうちにと思ってやり始めたが、既に暑くて30分程度で切り上げた。
カミさん仕事、太郎半日保育、土日は娘の学校のプールは休み。昼飯に豚肉のソテーを作ってやる、それとトマトとスイカとトウモロコシ。太郎にはスイカを賽の目に切ってやってしばらくはそれを食べていたが、お姉ちゃんの食べるのを見て、普通に切ったやつを寄こせというので、取り替えてやったら美味そうに食っていた。見ていたらあいつは種まで食べていたなあ、まあ、どうせ自動的に排泄されるからいいかと思ってあえて注意はしなかった。昔はスイカの種やブドウの種をそのまま食べると「盲腸」になると教えられていたのでどうもその恐怖が我々年代には今でも残っている。そう言えば、最近は「盲腸炎」、聞かないなあ。(写真1・写真2・写真3・写真4・写真5・写真6・写真7)
皮肉なことに、今年は家元e鴨氏のトマトハウスが水害で全滅したのに、我家のトマトは非常によく出来ている、特に手を掛けているわけでもないのに。
台風9号が発生している、こちら方向に曲がるなよ。更にもうひとつ生まれそうだなあ。
阿蘇神社のおんだ祭が斎行された。阿蘇市役所のfacebookにのった写真、根子岳を背景にして青田に頭に御饌を載せて歩く真っ白な宇奈利の衣装が印象的である。今年はこどもたちが家に居たことと、とにかく暑かったのですぐそばにもかかわらず見物には出掛けなかった。
やまなみ道路(県道11号線)が古城から城山区間が山崩れで通れない状態が続いているが、夕方の防災無線で 林道手野線(グリーンロード)が一部制限付きながら通行できるようになったそうである、この道は、国造神社、古代の里キャンプ場、手野の名水を通る道だと思うが、そうだとすれば、ここを通るとミルクロードまで遠回りしなくて往き来できるようになる、これは大きい。(市の不親切地図を補正しておいた。 市民でも分からないのに、外部の人に分かりますか、風評被害で観光客が減っていると言うけれど、道路情報は観光情報の基本中の基本だと思うが)。
そうだ、今日からロンドンオリンピックが始まったのだった・・・・
平成24年7月27(金)
晴れ。夕方また強い雨が降ると言う予報が防災無線から流されたが、レーダーを見ると、東から大分、宮崎を越えて大きな雨雲が九州山塊を越えようとして越えられず、ずっと大分宮崎県側にとどまっていた、雷も遠くでその音が聞こえるだけで、午後6時現在はそういった状況だった。
最低気温 23.4℃ (04:40)、最高気温 30.3℃ (14:30)
朝飯前の涼しいうちにマルチの剥ぎ残しを始末した。そのあとで、伸び放題の畑の草刈りをしたが、満タンで始めた刈払機の燃料が尽きたところで、給油すること無く本日の作業は終わる。
ヒグラシが大分前に鳴いていることは以前の日記に書いたが、二三日前に、あっ!セミが鳴いていると、今年初めてセミの声を聞いたような気がしたが、前から鳴いていたのにただ気がつかなかったのか、あるいは豪雨で羽化するまえに全部流されて本当い鳴いていなかったのか、どっちなのだろうと思っていたが、そのことが気になって今朝注意していたらちゃんと鳴いていたので、多分気がつかなかっただけだろうと思う。
今の家を建てた時に取りつけたシーリングライトが故障した、約10年。分解したが恐らくコンデンサーのようである、見るからに損傷している、同規格のコンデンサーをネットで検索したが、どうも特殊仕様のものらしくて無い、素人が下手に部品交換して火災にでもなったら元も子もないので已む無く新調した、10年も経てばいろいろなものが故障し始めるころだろう。
平成24年7月26(木)
いやいや今日も暑かった。
(風師庵測候所)
最低気温 22.0℃ (04:36)、最高気温32.3℃ (14:12)
(アメダス公式記録)
阿蘇乙姫 32.0℃ (14:44)今年最高 熊本市 35℃
娘を連れて菊陽町のハンズマンにパイプを購いに下りる。その前に、避難所に娘を連れて慰問に寄ったが、こどもたちは学童保育とサマースクール(だったかな)で日中はずっと不在とのこと。そんなわけでいずれまた機会があればと思っていたところ。
「阿蘇市災害対策本部から避難勧告の解除についてお知らせします。
阿蘇市の一部の地域に出されていました避難勧告を本日12時をもってすべて解除しました。なお、坂梨地区の福岡、馬場、豆札、古城地区の全域、中通地区の片隅の地域にあっては避難勧告を解除しますが、避難準備情報を発令します。状況により、いつでも避難出来るよう準備をお願いします。(阿蘇市総務課)」
避難指示、避難勧告、に続いて今度は「避難準備情報」という言葉が出てきた・・・
今避難所に避難している人たちはどうなるのだろうか。
夕方、5時を過ぎた頃、予報どおり、雨と雷。一時激しい雨で、地滑りの方が少し気になった、防災無線でも強い雨に気をつけるようとの放送があったが、2時間もしないうちに雨も上がり、雷も遠のいて行った。
今日は国造神社の御田祭だったが、712豪雨水害で古城地区が大きな被害を受けて復興中ということで、神幸式は行われず拝殿での神事のみが行われたそうである。明後日の阿蘇神社の御田祭は例年通りの次第によって斎行されるとのことである。
平成24年7月25(水)
何だか今日もメチャクチャ暑い日だった。阿蘇でもこんなに暑くなるのだ、でも下界と違うのは日陰はヒンヤリと涼しいのだ。
最低気温 20.8℃ (05:05)、最高気温32.2℃ (14:13)
こんな暑い日に外作業も無いだろうと、屋内での作業をして働く振りをした。裏口のカーテンレールの取り替えと階段わきの網戸張り替え。随分前になるが、ネコのやつが網戸に爪をたてて破りやがった。蚊が入るのでずっと窓を開けずにいたがこの窓は風の通り道としては重要な窓なので、この暑さに重い腰を上げた。先年、カミさんのおやじさんが家の網戸を貼り替えてくれた時の道具類があったのを思い出してやってみたが、思ったより簡単だった。昔はこのような道具が無くて面倒だった記憶があったので億劫だったがこれならネコが破ってもこれから簡単に張り替えられる。
今日の昼飯は冷やし中華を作ってやる。ちゃんと手を抜かずに錦糸卵もたっぷり作って本格的に数種の具を添えたが、なんでも、娘は「オイシイ」と、冷やし中華は初めてだと言っていたが、そうか?それならうんと幼い時に食べて以来なのだろう。そう言えば我家ではあまり食べないなあ。デザートにイチジク。
娘は今日も学校のプールに行って、夕方からはアゼリアの水絵教室。今日は迎えのバスが無いので小生が送って行ったついでに、帰りの時間を待つ間、久しぶりに泳いだ。
1000m、63.8(一時61キロ台まで落ちて、皆に病気じゃないのかと心配された、小生自身、体重が落ちた状態を維持することが苦で無く、空腹感も無いので、もしかしたら、何処か悪いのかなと少し気になっていたので、承知のうえで、いつもより多めに食べていたが、2キロ近く増えていた、別に何処か悪かったわけではないようなので、また、食べ過ぎないように努めることにする)。
朝のボンの散歩時、裏の橋から川沿いに反時計回りに回る道が寸断されていて、変則的に我家から時計回りに歩いて途中から折り返していたが、昨日からなんとか障害物を踏み越えて従来のコースを歩くことができるようになているのに気がついた。と言っても、無理に渡れば渡ることができる程度の応急処置であるが。(写真1・写真2)
今回の712豪雨水害で通行止めになっていた国道265号線のうち、坂梨〜箱石峠が今日午後3時から通れるようになったそうで、これで265号線は全面通行可となったことになる。
色々聞いてみると、とにかく、外から見て阿蘇を中心とした道路事情がどうなっているか分かりにくいそうである。阿蘇地方振興局のホームページから入って、通行止めなどを一度に見られる地図を開くと、それがよくわかるのだが、外から阿蘇の情報を知りたい時には、一般的に、阿蘇市のホームページを先ず開くと思うのだが、そういった情報が分かり易く掲載されていない、外部の人に阿蘇地域振興局などといってもわからないだろう。だから、阿蘇市のトップページにそういった情報が一発で分かるリンクボタンでも作ったらどうかと提案のメールを出しているが今のところ反応が無い。巧遅は拙速に如かずだ、プロダクトアウトでなくてマーケットインだ。
平成24年7月24(火)
豆札は真夏日になった、さすがに高地阿蘇もこのくらいになると風が欲しくなる、風さえあればここは涼しい。アメダスの阿蘇乙姫公式記録 31.4℃(13:51)、我が風師庵測候所の記録ももなかなか正確である。
最低気温 20.2℃ (04:12)、最高気温30.6℃ (13:16)
午前中、ジャガイモのマルチ剥ぎをやったが、暑くて暑くて、7畝中、4畝分を剥いだところで、娘が今日はプールに行くと言うので、じゃあ昼飯の準備をしなくてはと、それを口実に作業を中断した。午後からも送迎などで時間がとれずに今日のところはこれでオシマイ。
昼飯は、マーボー豆腐をつくってやった、それにキュウリと大根千切りを塩で揉んでくずのズワイガニ缶を入れたサラダ、トマト。大根は今は端境期とみえてロクな大根が無い。
午後、哲兄が友人のH野さんと我家の様子を見に顔を見せてくれた。婆様の時以来だそうだが、そんなに経つか。
今回の地滑りで浄土寺も土砂にのみ込まれてしまい、60年に一度御開帳されるという秘仏、観世音菩薩像も土石流に流されてしまったと聞いていたが、土砂に埋もれているところを見つかって円通寺安置されたそうである、どういう形で見つかったのか詳細は分からないがホッとする話しである(25日熊日掲載写真)。車で走っていると、災害現場が色々な角度で見える、宿場通りの交差点付近から見るとその浄土寺を呑み込んだ土砂が真っすぐ下っている。
国道57号線滝室坂の復旧工事も急ピッチで進めらられている、それでも9月中旬だとか。
夕方上空に急に雷雲が湧きだしたので一雨来るかなと思っていたらどうやら少し南の方で降っているようであった。
午前中、夏子を連れて保健センターの避難所を訪ねた。掲示板に、今も避難が続いているこどもたちがせっかく仲良くなった友達が出て行って淋しいとあったので早速慰問にいったのである。生憎と、こどもたち、サマーキャンプだとかで今日は出掛けているとのこと、仕切り直すことした。我が家のように天候が回復したら帰ることができる避難者もいれば、帰ろうにも帰ることが出来ない先の見えない避難者もまだ大勢いる。我々短期避難者でさえ二日三日経つと、避難所生活があくまでも行政のサービスであるのに、あたかも当然の「権利」であるかのように錯覚してきて、食事のメニューなどを見て、「また、パンか」などと一部不平を洩らす声を聞くこともあった、また避難者同士で些細な事で諍いを起こすのも耳にした。それにつけても、311の避難者の想像を絶する苦難が思い遣られる、あの時の避難者の皆さんは今はどうしているのだろうか。
平成24年7月23(月)
霧が出て久しぶりに穏やかな朝を迎えた。そして青空が広がり眩しい太陽が降り注いだ、これでもう雨も終わりだろう、と何度か言ったような気もするが、「福岡管区気象台は23日、九州と山口県が梅雨明けしたとみられると発表した」そうであるが、梅雨前線などとっくの昔に無くなっていたろうに。いきなり真夏日寸前まで気温が上がった。もう雨雲レーダーの画像をアップする必要も無くなった。
最低気温 19.2℃ (04:59)、最高気温29.9℃ (16:32)
全く何の被害も無かった我が家ではこれで普段の生活が戻って来るが、被災した家ではこれからが大変であろう。そして山直下の家々は今回は大丈夫だったかもしれないがこれから先のことを考えるとこのまま住み続けるか移転をするか難しい判断をしなくてはならなくなる。三野などではまだ行方不明者の捜索も続けられている。
カミさんは今日まで三連休だった、鬱陶しいのが三日間居た。今日の出場は太郎だけであった。
さすがに草が延び放題、今日は家周りの草を刈ったがまだまだである。ついでに収穫したジャガイモのコンテナを覗いてみたら、沢山のイモが腐っていた。コンテナをひっくり返して良いのと悪いのを選り分けたが2割くらいやられていた。無事なイモもあまり良い色つやではない。雨が降る悪コンディションの中、無理してジャガイモ掘りをしたが、その後、今回の豪雨がやってきた、あの時イモ掘りをやっていなければめちゃめちゃになっていただろう。
太郎が最近、階段の一番下の段からジャンプするのは知ってたが、それより高い椅子の上からジャンプするようになっていた。避難所でも、二階に上がる階段を手すりも何も掴まずにどんどん走るように上っていたが日に日に成長をしている。
平成24年7月22(日)
ちょうど昼を過ぎた頃、突然雷と強い雨が来たがすぐに上がった。そして午後5時過ぎにも大雨洪水警報が出されて、また不安な気持ちにさせたが、今日は不思議なことに、ずっと阿蘇上空だけ雨雲が無かった(発令時の雨雲の位置、午後6時30分の雨雲の位置)、本当に天は気まぐれである。そして、午後7時過ぎには洪水警報は解除されて大雨警報だけ残っているが、雨雲はもう阿蘇上空広い範囲には無い、このまま過ぎてくれることを願うばかりである、とにかく、もう大丈夫だと言うことがハッキリしないと何をする気にもならない。
気象庁は今回の水害を「平成24年7月九州北部豪雨」と命名しているらしい。「豪雨」だけだと災害が起きたことがわからないので、小生には712水害と言ったほうがしっくりくる。
平成24年7月21(土)
深夜2時頃から強い雨が続く、雷が聞こえ、遠くで落雷があったようで一瞬停電した(最近、このサイトの社会的責任が少しあるような気がしており、停電の時は仕方が無いが余程のことでも無い限りもう雷が鳴ってもシステムは落とさないことにした、壊れた時は壊れた時である)。そのうちに洪水警報がだされ、引続いて土砂災害情報がだされ、と範囲は狭いながら次々と帯のように雨雲が阿蘇の上を通過して朝になっても降り続いた、ようやく9時頃だったろうか雨雲域は南下してとりあえずは雨が上がった。
ここは屋根を叩く雨の音に加えて、防災情報システムが屋外のスピーカから村内に流れる情報と、従来の戸別防災無線とそれに加えて、市のひかり化で設置されたお知らせ端末、さらには携帯電話のエリアメールが少しの時間差で大音量で次々に入って来るので、それらの音がかえって緊張を高めることになる。
不通になっていたR212号線の内牧〜大観峰間が今日の午後から片側交互通行ながら通れるようになったそうである。滝室坂は9月まで不通、R265も不通。波野、産山、大分方面が非常に不便である。
夕方、災害以来はじめてボンを散歩に連れて行った、いつもの道は一か所不通でぐるりと一周出来ないので、途中まで行って引き返した。最近諦め気味だったボンもさすがに嬉しそうであった。
日暮れ時、ヒグラシが鳴いて、阿蘇山が墨絵のようだ、久しぶりに静かな夕闇が訪れようとしている。が、また夜には一雨来るような予報も出ている。
コメットCAA-500と50Ωダミーロード
平成24年7月20(金)
曇り、時々雨。明け方の大量の雨と雷予報はやはりハズレだった、まあ、こんな時だからやむを得ないか。
午前中、ちょっとだけ村の被災現場の片づけの手伝いをした。
我が家の裏の橋(7/17連続写真)の応急修理が終わって東西直線方向には通れるようになった、川沿いの南北方向はまだである。(写真1・写真2)
今日は娘の学校の一学期の終業式、昼前にこどもたちを迎えに行った。いよいよ明日から夏休みである。先生の注意をしっかり聞いてからそれぞれの夏休みを過ごす為に下校して行った。(写真1・写真2・写真3・写真4・写真5)
今の状況、分団によっては危険個所があるために夏休みだからと言って自由に外遊びも出来ない、ラジオ体操も出来ないだろう。だから休み期間中、阿蘇の危険地帯を離れて親戚の家などに長期滞在する子もいるようだが、我家は親戚筋も地震や放射能の心配もあるし、まあ、相対的にここのほうが安全だろうと言うことで何処にも出掛けないことになるだろう。
昼ころ、総理大臣が豪雨被災地視察で阿蘇にやって来るとのことで、市役所ではその受け入れで右往左往しており、また報道各社の中継車が集まっていたので、これは鬱陶しいわいと早々に避難所を逃げ出したが、後から娘の言うことには市役所にやってきたけど、この(棟続きの)避難所には来なかった由、手を振ったバイ、と言っていた。ニュースによると市役所のすぐ前にある一の宮中学校の避難所を慰問したようだ。
こどもたちはどんな環境でも屈託が無い。(写真1・写真2)
たづ子さんが、犬が鎖を切って逃げ出してもう二三日になるけど見なかったかと訪ねてきた。鎖を引きずっていなければ自由が利くだろうが、鎖が何かに絡まると動けなくなる、特に、今回の水害で流木などの障害物が至る所にあるので、普通なら暫くすると帰ってくるのに帰ってこないので心配しているとのこと。小生がいつもカメラをぶら下げてウロウロしているので、目にしなかったかと思って訪ねてきたのだそうだ。気をつけておきますと言っておいたが、後から電話が来て、保健所で保護されていたそうで連絡があったそうである。やはり水に落ちて身動きができなくなっていたらしい、鑑札をつけていたので事なきを得たのだ、やはり鑑札は必要である、それにしてもヨカッタ。
夕方近くになって、昨日出された避難指示がまだ解除されていないので、カミさんは仕事から帰ってきて少し家事を済ませて、太郎を保育園に迎えに行った足でそのまま避難所に向かった。小生は今晩は家に居ることにした、もう降らないだろう、と思っている矢先、午後6時になって、避難指示解除の放送があり、結局家族三人が戻ってきた、天候を見ても判断を延ばした特段の事情はなさそうである、他にも色々事情があるのだろうがもうちょっと早くその判断が出来なかったものかと思う次第である。
災害記録
古閑の滝・・女滝(向かって右)と男滝、すっかり以前の姿とは変ってしまった、崩落した土砂岩石で下の方が埋まっているのが見える。
浄土寺牧の上部を走る豊肥線のトンネル(シェルター)と一体になった砂防ダム、災害前はこれほどはっきりは見えなかったはずだ。
高城八幡のある山の向うの外輪、鬼塚に向かって崩れ落ちた外輪。
平成24年7月19(木)
今日は仕事が休みだったのでカミさんがこどもたちの朝夕の送迎を行った。娘は今日から部活が始まったそうである。
村の被災家屋の片づけに小生は今日から参加した、我家から少し離れているので進捗状況が分からなかったが、正士さんのお宅の倉庫の片づけがかなり進んでいた。今朝春さんのお宅も、ここは隣りの房士さんのお宅とご自分の倉庫棟などが壊れたので相当量の片づけになり大きな重機が複数台入って作業が行われていた。小生は人手を見渡して正士さんのお宅の片付けに参加した。
11時半頃、一天俄かにかき曇り、雷が盛大に鳴りだして、ドッとばかりにまた太い雨が落ちてきた、山崩れで出来た斜面を伝わって瞬く間にドロドロの土が雨と共に流れ下ってきてすぐに小さな川をつくるほどで、あれよあれよという間の出来事だった。すぐに防災無線で避難指示が出されたが、その雨もすぐに上がりまた陽が照りだして、汚泥の流れも止まったので、避難指示が解除されたわけではないが自然とまた作業が始まっていた。
その後、午後3時頃にも一時強い雨が通り過ぎた、雨雲レーダーを見ると細かな雨雲が途切れ途切れに阿蘇上空にやってきては強い雨を降らせていた。
今日は小生も2トンダンプで土砂や流木、ゴミ類をそれぞれの捨て場まで、全部で10往復近くしただろうか。土砂や流木は畜共跡地にゴミ類は分別して運動公園がそれぞれ捨て場に指定されていた。
小生はダンプの操作は初めてに近く、このレバーのロックを外して持ちあげれば、荷台が上がるバイ、とそれだけ聞いていたので、現場まで行って、さあ、ダンプしようと、言われた通りレバーを上げたがウンともスンとも、いや、アクセルを吹かすというのは現場に行って聞いたので、エンジンの回転数が上がってワンワン車が言っているのに、荷台は全く動かない。後がつかえていたので仕方が無く投棄場を一旦離れて、あーでもないこーでもないといじくりまわしたけど駄目である。ああ、これは壊れているのだなと、土砂を持ち帰ろうと思った時に偶然踏んでいたクラッチペダルを外したら、おもむろに荷台がせり上がり始めた。何のことはない、アクセルを踏むときにはクラッチをつないでおかなければならなかったのだ、後から考えたら極めて当たり前のことだが、土砂を深い穴に落とす為にギリギリまで穴の縁までバックするので、サイドブレーキをいくらしっかりかけていても不安でクラッチペダルを踏んでいたのであった。
豆札712水害片づけ 連続写真
今日は昼間の避難騒ぎの際に、いつも通る道よりちょっと離れた田の畔に車を停めて弁当を食べながら馬場方面を眺めたが、何度見ても大変だったのだなあと心が痛む。左端の土砂崩れ小林さんのハウス付近だったろうか、それから、真ん中は、江藤さんと鳴川さんのお宅が被害を受けたなあ、右の橋脚は57号線の滝室坂でその下は、焼き肉屋の「よかよか亭」だ、その間の地滑りも非常に大きい、滝室坂が通れるようになるのは9月ごろだそうだが、そんなに早く復旧するだろうか。。
今日は昼間出された避難指示がまだ解除されていないが、もう降らないだろう、小生は家に泊まろうと思っていたが、8時頃だったろうか防災無線で、明日の明け方、雷を伴って40ミリくらいの強い雨が降る予報が出ていると脅かされた。レーダーには全く雨雲は無いが、仕方が無い、日記を書いたらまた避難所に行くとするか。それより前、いつもなら、カミさん、夏子、太郎は一旦家に戻り、夕食とフロを済ませてから寝るために避難所に向かうが、避難指示が出ているので、学校で厳しく家に帰ってはいけませんと言われたらしくて、娘は今日は家には帰らん!と避難所に居続けたので、カミさんと太郎だけが夕食などで一旦戻った。娘は実に「優等生」で、親よりも学校の言うことの方をよく聞くようである、(優等生はカッコ付きである)。
平成24年7月18(水)
台風7号の余波か、少し天気が不安定だが、それでも今日も暑い日射しが降りそそいでいた。ただ台風も、知らなければ知らないで済んだほど全く影響の無い台風だったようだ、ここでは雨も殆ど降らず、強風圏にすら入らなかったからホッとした。
最低気温 23.3℃ (03:30)、最高気温 28.7℃ (12:33)
まだ行方不明者の捜索が行われているが、一方で少しずつではあるが、復旧、復興の重機の音があちらこちらから聞こえている、いや、まだその前の後片付けの段階だな。
小生は昨日に引き続いてこどもたち三人と太郎を送迎する。その他には久しぶりにデスクワークをして過ごす。
地滑り現場方向に監視用のカメラを一台増設する。
夜にはまたカミさんたちは避難所に戻って行った。
平成24年7月17(火)
九州を除いて中国四国地方、更にはもっと東の地方でも今日梅雨明けしたそうで、いきなり各地猛暑に見舞われているらしい。だから梅雨が明けていないことになっているここでも晴れたらそれら地方と同じ太陽が照りつける。今日は暑くなった。ただ、空気がまだ冷たいから風が吹くと気持ちが良い。何度も言うが、大気が不安定かもしれないが、ここももう梅雨明けだろう。
最低気温 22.3℃ (03:25)、最高気温 29.0℃ (14:25)
朝一番で避難指示が避難勧告になった。連休もあってずっと休みだった小学校も今日から再開された。ここの避難所に避難をしている児童が多い古城小学校には送迎バスが出たようだが、坂梨小は我家と貴之さんのところの三人だけなので、小生が夏子と健太郎君、直樹君の三人を送って行った、ついでに太郎も数日ぶりに保育園に行った。(写真1・写真2・写真3・写真4)
久しぶりに姿を現した五岳はライブカメラで遠望している限りでは今までと何も変わらないようだが、実際に肉眼で見ると随所で山肌が無残に削り取られている。殆どが灌木やブッシュなどの背丈の低い植生だろうが、それでもたくさんの地滑りは起きている、ただ、今回被害を大きくした外輪壁と決定的に違うのは、大きな木が無い分、削り取られた土面が深くないということであろう。また土石流になっても杉林がある所と比べたらその破壊力はずっと小さかったのではと想像できる。
それから、時間が出来たので少し走ってみた。古閑の滝はかなり姿を変えていた。浄土寺牧方面、改めてその惨状に息をのむ、太郎の保育園友達の泰ちゃんの家、危機一髪。(その他 写真1・写真2・写真3)。
今回の外輪の地滑り、この付近を時計で言えば3時に見立てるならば、逆方向に12時(北)あたりまで戻った範囲、つまり、カルデラの四分の一くらいの範囲の山肌に集中している。12時から更に逆回りで9時の方向(西)にかけては、殆どと言って良いくらいあまり山肌が地滑りを起こしていない。
これは何なのだろう。その代わり、その方面では相当深く水に浸かった所が多いようだ、今でも道路のガードレールに延々と草や枝類がずっと絡まっていて、多くの人が住宅浸水の後片付けに動き回っていた。e鴨氏のトマトハウスの様子を見るために行こうとしたが直前で交通止めになっていて行けなかった。坂梨などで大量に降った雨が下流域の内牧あたりで流れきれずにオーバーフローしたのだろうか。坂梨地区と内牧方面、対象的な水害だったような気がする。阿蘇町の農村公園には災害で出たゴミが沢山搬入山積みになっていた。
午後三時半、小学校は一斉下校、まだ保育園に居る太郎を除いて朝と同じように三人を避難所まで送り届ける。下校時には道路には危険がいっぱいだから十分に注意するように、川は山などには絶対に近寄らないようにと先生の注意がなされていた。(写真1・写真2)
我家のすぐ裏の豆札橋(という名だったろうか、豆札橋は卯の鼻突端のところの橋だったろうか、しみじみ見ないので名前がいい加減であるが)、我家方向から進んでこちら側の橋の手前までは行っていたが、向う側がどうなっているか分からなかったので迂回して行ってみた。橋本体だけはしっかり残っているが、この付近の橋としての機能では一番ダメージを受けているようだ。橋本体の手前が大きくえぐられて、いつもボンと散歩で歩く川沿いの道は完全に断ち切られていた。今日になってようやく複雑に絡み合って欄干が全く見えないほど大量にひっかかっていた流木群を重機を使って取り除きはじめていたが、とにかく相当な量である。この取り除いた流木、大手のスクラップ屋さんのトラックに積んでいたが、場合が場合なので商売違いだが請けたのだろうか、大型のトラックが何回も往復していたようだ。たとえ、流木を取り除いても、橋本体の前後の地盤が完全に破壊陥没しているので復旧には相当時間が掛かるだろう。
豆札橋 西方向より撮影 7枚連続
夕方、太郎を保育園に迎えに行ってその足で避難所に回って夏子を連れて帰る。そして入浴、夕食を我家で済ませて、9時半頃、三人で宿泊のためにまた避難所へ戻っていった、フロとメシ、やはり我家でゆっくりしたかったのだろう、小生は避難指示ではないので家から動かず。
台風7号、あまり強くないようだ、このまま成長しないで予定通り進んでくれ。
平成24年7月16(月) 海の記念日
避難騒ぎで一日遅れで書いているので、もう昨日の天気は忘れてしまっている。ああ、それに今日は祭日だったのだ、そして夕方まで何をしていたかも忘却の彼方である。と言いながらも写真などを整理しているうちにだんだん思い出した。
そうだ、朝から日が射していた、裏の豆札川の損害状況を調査するためかヘリコプターが裏の橋の所から川に沿って低くゆっくりと古城方面に向けて飛んで行った(写真1・写真2)。
カミさんは仕事で、午前中は三人でのんびり過ごして、昼食に、小生が我家のジャガイモ、ナス、それから、これは自家製では無いがタマネギを使って精進揚げを沢山揚げてやり、到来物のヒヤムギを食べたのだった、それから我家のハウスで採れたトマト。今日は二人に丸かじりさせたが太郎も豪快にかぶりついていた。太郎はメシ代わりにトマトを食うくらいトマト好きである、そこで今日はトマトは切って食べるより丸かじりの方が美味いぞ、ということを教えてやったのである。トマトが赤くなると医者が青くなるというコトワザを夏子に散々聞かせてきたものであるが、もう少ししたら今度は太郎に教えてやらなくてはなるまい。
それから、ああそうだった。娘の変則的なピアノ練習日だった。カミさんが仕事なのでピアノ教室まで娘を送ってやってくれと言われていたが、普段から不熱心でヤル気の無い子をどうしてお父さんが送ってやらなければならないのか、ピアノなんかやめてしまえ、御免蒙る、行くなら一人で歩いて行け、と断ったところ、母親に電話を掛けて相談したらしくて、じゃあ、歩いていくと言う。そうか、じゃあ歩いて行け。となって、一人で出掛けて行った。
ただ、我家の裏から中学校に抜ける道がすぐ裏で今度の水害で橋が壊れて通行不能なので、大きくコの字に迂回して行かなければならない。う回路をよく教えて送りだしたが、指示した通りの道を行けば、田んぼの中の家だから、行程の相当部分が我家から見えるはずである。なのに、一向にその姿が無い。そのうちに空が暗くなり、雷も鳴りだした。仕方が無いので、寝ている太郎を起こして車に載せて探しに出かけた。他の道を探しても見つからない、向うに着いたら電話をしろよと言ってあったので、稽古開始の時間が過ぎているのに連絡なし、ちょっと心配になってきて宮地のピアノ教室まで覗きに行ったところ、既に到着していた。ちゃんと言った道を行ったのか?と問うと、ちゃんと行ったという。???????。電話をしたのかと言うと、かけたけどでんだった。携帯と言ってあったのに、ピアノの先生に家に掛けてもらったらしい。まあ、それでも無事だったからひと安心だった。帰りは仕事が終わったカミさんが乗せて帰ってきた。少しずつ復旧作業が始まりつつあるが、まだ道路は荒れている、娘、水害で大変な道を歩いてちょっと冒険だったと満足げであった。
「15時38分、阿蘇地方に大雨洪水警報が発令されました」という防災無線。もう梅雨明けだろう、大したこと無いのにちょっと大袈裟だなと思っているうちに確かに外は暗くなって強い雨が降り始め、雷も聞こえてきた。
ピアノから帰ってきて、カミさんたち三人は4時半過ぎに慌ててまた避難所に移動していった。レーダーを見ると、確かに雨域の幅は狭いが次々に雨雲が続いていて、雷レーダーも真っ赤である。
そうこうしているうちに、防災無線から、避難勧告が避難指示に切り替わったので全員避難するように、と言う放送が流れ、まもなく消防団の消防車が赤灯を点けて回ってきて避難を呼びかけた。不思議なもので、勧告が指示に切り替わったとたん、緊迫感が生じるもので、大丈夫だと思っても避難準備をするにも少し浮足立ったようになる。今回は村の男どもも全員避難したようである。
かくして小生もまた保健センターの避難所に厄介になることになった。雷が鳴っているのでまたシステムを落としてきたので、明日の朝までは、特に、「坂梨宿」は休止状態になる。停電時は已むを得ないが、雷に対してちょっと臆病すぎるかな。
避難時間が時間だから、多分小生の晩飯は無いだろうとおもって、残り飯を詰めて行った正解だった。それでもバナナやパン類は結構沢山あった。
雨も心配したほど降らず、夜には星が見えていたので、指示から勧告にまた一段階引き下げられないかなと、そうしたら、夜でも小生だけでも帰ろうと思っていたが、結局この日は避難指示が出たままだった。
台風7号がまたやってきそうだが、大きな台風では無さそうだ、このままのコースで行ってくれるとなんとなくブルックリンかな。
平成24年7月15(日)
(今回の7・12の記録写真、7/12〜7/15まで撮影分を一括掲載する。例によって拙速を旨として掲載する、三日分の写真なので、同じ個所を日を違えて複数回撮っている場合がある。 「坂梨宿」のサイトで、小生がフォローしきれなかった場所の災害画像が沢山掲載されている)平成24年7.12水害記録 連続写真 1/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 2/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 3/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 4/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 5/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 6/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 7/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 8/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 9/10
平成24年7.12水害記録 連続写真 10/10
小生にしては珍しく6時近くまで眠った。前夜の雨に濡れたクモの巣が久しぶりの朝日に光っていた。ここはまだ厳密には避難勧告区域だが、残っていた家族三人が朝のうちに避難所から元気に帰ってきた、太郎もいつの間にか平熱に戻っていた、少しの風邪に加えて避難所生活のストレスが高熱の原因だったのだろう。避難所の対応、本当に有難かった。
雨が上がったと思ったら今日は水銀柱もどんどん上がり、完全にもう真夏の天気になった、小生の感ではこれで梅雨明けだろう。
最低気温 19.4℃ (05:38)、最高気温 29.1℃ (15:53)
今日から村のなかの被災家屋の整理が少しずつ始まっているようだが災害規模が大きすぎてがなかなか手がつかないようである、小生も道路の整備を少し手伝った。カミさんも公民館で炊き出しの手伝いをしたようだ。
空には一日中何機ものヘリコプターが飛んでいたが、これは何だろうか、報道だろうか、捜索ではないと思うが、被害状況の調査だろうか、更なる地滑りの危険性調査だろうか。豆札では、山崩れの拡大が心配されているが、上空から見た方が裂け目などは分かり易いだろう。
時間を見つけて近くを回ってみた。随所で人間の作った構造物など嘲笑うがごとく破壊つくされていた、まさに自然の猛威の前には人間は無力そのものである。
台風の場合は強風で大体等しく田畑にダメージを与えるが、今回のように風が無く雨だけの災害は鉄砲水が走ったところだけが、無残に稲が姿を消し去っているが、すぐ隣の田では全く何もなかったように青々と稲が育っている、被害を受けた田から見るとなんとも恨めしい風景が広がっている。
そして、今回の災害の元凶、外輪の山崩れ、これは、戦後の国策植林ブームの際に土質にお構いなしに、それも草原であるべきてっぺんまでビッシリと杉を植えた結果ではないだろうかと思えて仕方が無い、言わば人災かもしれない。今のように外輪が杉だらけになる以前の昔、数百年間、それ以上にもわたって先祖が同じ場所で生活を営んでいたのに、今回ほどの山崩れは無かったはずである。それが戦後植えた杉が育ち、木材価格が下がって間伐もままならず、荒れた山が今回このような惨事を招いたのではないだろうか。
しかし、もっとマクロに見るならば、外輪が出来たのも自然の営みであれば、それが少しずつ削れて丸く角が取れたのもこれまた自然の営みの結果、今回も自然から見ると極めて当たり前の営みの一部だったのかもしれない、そうやって地球は少しずつ形を変えて行っているのだろう。しかし、それでも、人間の生活と折り合いを付けて欲しいものである、いや、人間のほうでなんとか自然と折り合いをつけなければならないのだろう。
午前中、給水車が村にやってきたが、昨日から水道が復旧しており、その連絡が行っていなかったようで、鄭重にお詫びして引き取ってもらった。
小生の”天敵”朝日新聞に小生の避難所生活が記事になって載ったと、東京の友人がメール添付でコピーを送ってくれた。相手が巨大過ぎて、対する当方はゴマ粒以下で「敵」というにはあまりにもバランスを欠きすぎるが、常のバイアスの掛かった偏向報道姿勢に小生が勝手に天敵呼ばわりをしているだけである。
避難所に入ってすぐの廊下に高熱で額にヒエピタを貼った太郎がぐったりして横になっている傍に座っていた小生に遠慮がちに名刺を差し出して少し話を良いかと問うてきた記者が朝日の記者だったのだ。
小生の父親もその昔、ライバル紙ではあるが同業であったし、好感のもてる人物だったので一緒に床に座りこんでしばらく世間話的に今置かれている状況を話した。写真も良いかと訊かれたので、今回の報道スタンスが分からないうえに、小生は朝日に対しては厳しい目を持っている、写真になると、(扱い次第で、当方は緊急避難所の対応は有難く思っているのに、記事では、高熱にうなされるこどもが劣悪環境下の避難所の廊下に寝かせられている図といった風に)意図しない形で報道されるかもしれない、写真は事実を伝えても真実を伝えるとは限らない(いくらでもそんな例を知っている)と思ったので断った(尤もスペースの関係でボツになったろうが)。
記者氏も分かっておりますと答えて、写真はやめにして、親同士の年齢は親子ほど違うが、同年代の子を持つ親として、子のこと、あるいは記者氏も興味を持っている田舎暮らしについて、またそこに至ったいきさつや動機、日常の暮らしぶりなどについてしばらく雑談をした。
そして新聞にはどうせ載ってもローカル版だろうと思っていたところ、どうも全国版に載ったようで、各地から、オイ!13日の夕刊に載っていたぞ、とメールなどがいくつも届いた。当の本人はそう言ったわけで朝日は読まないし、避難所にも無かったので知らなかったが、なんだか面映ゆい気がするものの、これも一つの「記念」であると思って大事にコピーを保存することにした。
夜、村の人集まって今後の協議をする。
弱り目に祟り目にならなければいいが・・・・
平成24年7月14(土)
夜になって、災害発生以来、数日のことを思い出しながらまとめて書いている、時系列に少し狂いがあるかもしれない、それほど時間の感覚がマヒする出来事だった。
今朝、起きてみるとまた激しい雨が降っているのでカミさんは恐怖心を覚えたらしくて、普段はスローモーなカミさんにしては珍しく太郎を連れてあたふたと避難所に戻って行った。何もこの程度の雨で行くこともあるまいにと思ったが、人の感じ方はそれぞれだから。カミさんはさすがに今日は仕事を休んだ。
雨の中、午後一時から浄行寺においてケサトさんの告別式が営まれる、組内の皆さんで受付けをする。昨夜の通夜同様に沢山の会葬者。
午後三時頃、思ったよりずっと早く、豆札川のえぐれた土手を渡して水道が仮設工事(写真1・写真2)ではあるが復旧する。久しぶりに蛇口から水が出るのを見た時は嬉しかった。
夕方アゼリアに風呂に入りに行く(久しぶりに、と書くべきところだが、小生にとってはこの程度の日数入浴しなくてもどうということはないのであえて書かなかった)。混んでいるかとおもったが逆であった。今度の災害以来プールは休業しているからか、また、観光客も来ないからだろうか、いたって静かなものであった。
熊本地方ではではようやく雨の峠を越して、その雨は今度は福岡方面で川の氾濫を起こしているようである。それでもまだ時々強い雨があるかもしれないそうで、警報はまだ解除されていない、そしてカミさんたちは今晩もまた用心のために避難所に泊るようである。雨が上がった外では久しぶりに蛙の声が聞こえてくる、今晩は誰にも邪魔をされずにぐっすり眠られそうだ。
平成24年7月13(金)
今日も強い雨が断続的降っていた。
熊本は観光PRが下手であると常々思っていたが、今回、阿蘇で大水害が発生してとんでもないことで全国区になってしまったようだ。(写真1・写真2)
災害の渦中にある人間にはほんの目の前にあるものしか殆ど分からないものである。外部に居てニュースなどで識った人たちの方が遥かに沢山のことを知っている(反面、極端なところしか伝えないので総てがそうだと思われる危険もある)。だから、それこそ普段の何倍もの電話やメールや掲示板への書き込みがある、ところがそれを見る時間も手段も完全ではない、とにかく目まぐるしく時間が過ぎて行く。
時間の経過につれて、阿蘇の特に阿蘇谷で沢山の被害が出ている、坂梨地区でも各所で山崩れが起きていることがだんだん伝わってきたが、ここより奥の北坂梨や三野、古城、手野でも多くの山崩れが起きて沢山の死者不明者が発生しているとのこと、また黒川が氾濫して内牧温泉街が水に浸かり、車が沢山ぷかぷか浮かんでいるとのこと、また日田方面でも水の被害が出ていること、いずれもテレビを見る時間も無いので断片的にテレビの音や人づてに耳に入ってきた情報である。
いつも他人ごとのように思っていた避難所暮らし、と言ってもたった一泊だったのに、災害が発生してもう何日も居るように錯覚してしまうほど、避難所暮らしというのは時間の感覚が麻痺、あるいは無くなるものだということがよく分かった。今回の災害よりももっと過酷な条件の311の避難所暮らしの人たちの心理の一旦を窺うことができた気がする。同時にそんななかで、相変わらず浮世離れした国会議員どもの言葉遊び、国会中継を聞いていて腹が立った。
また市内にいくつもある避難所のなかでも、市役所に設けられた避難所は中心的な位置づけのようで、自衛隊の災害派遣の部隊(写真1・写真2・写真3)もここに集結しており、またマスコミ各社がやってきては入れ換わり立ち替わりの取材があった。昔よく耳にした土足で人の心に入り込んでくるような取材でなくて、遠慮がちに取材をする新聞社、そうかと思うと、リハーサルのようなことをしてやらせ的に派手に中継をするテレビ局。
小生は避難所の中で寝ないで、外の車の中でシートを倒して寝たので知らなかったが、太郎が前日から高い熱があるそうなので、朝一番で医者に連れていく。かかりつけの古閑医院は水害で浸水があったようで休業状態だそうで、今日は松見内科に連れて行った。診察の結果、普通の風邪でしょうとのことで、何種類かの飲み薬と、座薬をもらってくる。環境が変わったことも高熱の原因だろうと思うが、40℃近くの熱が続いていた。こんな非常時なのにカミさんは仕事に行かなければならないようで、オマエはそんなに重要ポストに居るのか、パートだろという疑問を腹の中で吐きながら一日小生が太郎の面倒をみる。(写真1・写真2・写真3・写真4)
ケサトさんの通夜が午後6時から浄行寺でしめやかに営まれたが、葬式組で受付けなどのお手伝いをする。ケサトさんのそして藤井家のお付き合いの範囲が広くて、このような災害の最中にもかかわらず広い本堂がいっぱいになるほどの会葬者だった。
また、いつも日記に登場するe鴨氏のトマトハウスが川の氾濫で完全に水没して全滅したこともケサトさんの通夜の席で知った。我家のトマトの苗をもらったトマトハウスである、一生懸命育てていたのに自然災害とはいえ本当に気の毒である。
断水は続いたまま、習慣で蛇口をひねって、ああそうか断水だ、トイレで水を流そうとして、ああそうか。しかし、そこは田舎、良くしたもので、トイレ用の水は、大雨で家の外に出れば田から、或いは山から流れてきた水がいくらでもあるのでバケツでくんでくれば、ちょっと不自由ではあるが、困ったあ、と言うこともない。飲み水は、水が普通に出るところまで行ってポリタンクに入れてくれば良い、小生は豆腐屋に行ってもらってきた。一度、給水車がここにもやってきたようだが、ここには来なくて良いよとでも言ったのか、それほど切実でもないと見たか、もっと切実な所へ行って二度と来なかったそうだ。
太郎の高熱もあったので、夕方になって、明確な根拠があったわけではないが、もう雨の方は大丈夫だろうから家に帰ろうかということになったが、娘はまだここに居たいと言う、何か勘違いしていないか、それは我がままだろうと言ったが、反面、まだ危険性が去ったわけではないので、じゃあ、オマエだけ今晩もここにお世話になれ、と村の麻理子さん一家に頼んで、帰ってきた。電気は点くが水が出ないので、カミさんは9時をとっくに過ぎているのに、どうしても風呂に入りたいと、「いこいの村」まで一人で風呂に入りに行った、他の施設はもう時間外だったようだ、小生から見るとゴクロウさんである。
夜、システムを復旧させて改めて、やはりこんな時こそ情報が必要だったのだということが、アクセス数を見て、驚いた。こんなに沢山のアクセスがあったのだ、全く知らなかった。ということは、行政がもっとアリアタイムに情報発信をすれば、素人の貧弱な設備のような発信障害など起こさずに沢山の情報が発信できるのに、と改めて思ったものである、リアルタイムがインターネットの「キモ」だぞ、市長さん。
平成24年7月12(木)
朝起きてから何時だったろう、村の消防団の渡辺洋さんが息を切らせて駆け込んできて、朝6時過ぎに山が崩れて家がつぶされて渡辺房志さんとお母さんのかおるさんが埋まってしまったという情報に接して、はじめて豆札の惨事を知る、その時までそんなことが起きているなんて全く知らなかった。我家からほんの指呼の間で起きた惨事ながら、音も聞こえなかった。そもそも夜間に「いままでに経験したことのないような大雨」が降っていたという実感が全く無かったので本当に驚いた。洋さんはちょうど崩れるところを目撃したそうである。(この項の写真は15日撮影)
その後、房志さんは道路維持関係の仕事に従事しているので、事故前のうんと早い時間に仕事に出ており事故の時には不在、お母さんは奇跡的に自力で這い出して、二人の無事が確認されたが(お母さんは腰部骨折の重傷だとか)、それとは別に、隣家の藤井ケサトさんが土砂に生き埋めになったようで、救助要請をしているが阿蘇の随所で同様な事態になっており、消防も救急も警察も手が回らず救援がなかなか来ないとのことであった。
まだ山崩れが続きそうだと言うので、とりあずこどもたちだけは避難させることになったが道路が塞がっており、ここの村は完全な孤立状態、村から外に移動することができなければ、救急車も入ることも出来ず立ち往生状態が続く。
原因は、豆札川等、大量の水に流されてきたたくさんの流木が橋げたに引っ掛かり、流れを堰き止めたので、水が橋の際で溢れて鉄砲水となって田を走り、或いは道路を川にして流木の山を築いて道路としての機能を奪ってしまったからだ。また護岸壁が濁流と流木によって随所でえぐられて道路が崩落しかかったり、以前の姿とは全く姿を変えてしまって遠くから見ても恐怖を覚えるほどであった。
村の古閑隆一さんたちがユンボを使ってとりあえず妙法寺突端の道の土石や流木を排除してなんとか道を確保してくれたので、小生が軽トラックで先導して、通れない道路を避けて回り道をしながら豆札のこどもたちと母親たちを市役所内保健センターに設けられた避難所に移した。小学校は連休も含めて16日まで休校になった。
ケサトさんは村の男たちが倒れた家屋の中で泥に埋まっているところを探しだしたが、すでに遅かったようで、後から警察車がやってきて検死をしたそうである(小生はその時間にはそこにいなかったので、そういうことだったと思う)
いままでずっと、ここは水源地帯で、川はここから始まるので、また、平成に入ってすぐの72大水害を教訓に砂防ダムなど治水対策も済んでいるので、ここで水害は絶対に無い、もし水害が起こるならここから下流にあたる熊本平野だろうと小生はいつも大見得を切っていた。しかし、そんな考えが今回の事で木っ端みじんに打ち砕かれた。豆札は江戸の昔から人が住んでいたが今まで一度もそういうことが無かった(そうである)。東日本大震災でもそうだったが、そのように過去に大丈夫だったからということが全く何の保証にもならなかったのである。
午後6時から浄行寺でケサトさんの仮通夜が営まれて村の人たちとお参りに行った。死と言うものは問答無用に人の生を奪う、人と人とのつながりを断ち切るこれほど暴力的なものは無い。特に今回のようなことではそれを強く感じる。仮通夜の後、正士さんと二人で、代理で大阿蘇病院で死亡診断書をもらい、市役所に回って死亡届けを出して埋葬許可書を預って来る。
我家は山から少し離れているので、仮に朝に続いて山崩れが起きても大丈夫だろうと思ったので、我家では小生だけ家に残るつもりでいたが、夜になって、周囲から、心配だから避難所に来たらどうかという誘いがあったので、夜遅くになって小生も避難所に入った。
避難所はこのあたりでは、坂梨公民館と市役所の保健センターと坂梨小学校にも設けられたが、豆札のこどもたちとその母親たちは保健センターに入った。お向かいの渡辺サイさんも、そのほかの夫人方も同じ避難所に入った(そして少しずつ親戚などの家に移って行った)。
男たちは、避難所に入ったり、入らずに村内の少し離れたところに居を移したりだったろうか、後から記憶に頼って書いているのでハッキリしない。
村に来ている水道が、パイプが切断したので完全に断水、更に停電、電気は真夜中12時頃になって復旧したそうだが、小生はその前に避難所に入ったので、電気が点いた瞬間は知らない。ただもう点くだろうもう点くだろうと思って夕方近くになっても回復しないので、エンジン発電機を回して、冷蔵庫と冷凍庫に通電して、そのほかに照明器具、ノートPC、電話の充電をした。発電能力は2.5KWなので余裕があったが、満タンで何時間くらいだったろうか、一晩運転するには何度か給油しなければならず、避難所に入るために、運転したまま家を出たが、途中で当然燃料が無くなって発電は終わったはずだ。翌朝帰ってから停電が回復していたので通常の給電に切り替える。
停電中に小生は避難所に向かったので、その後翌朝までインターネットのシステムを休止した、だから肝心の情報を発信することが出来なかった。こういう時にこそ情報を発信しなければならないのに素人の脆弱施設だから残念ながら仕方が無いところである。今日一日で1000件近いアクセスがあった、一人一回しかカウントしないので、実際にはそれよりはるかに多いアクセスがあったのだろう。
避難所は沢山の人が避難してきており、廊下まであふれていたが、市の職員の皆さんは実に献身的に避難者の皆さんの世話に奔走していた、非常にありがたかった。それは、都会と違って市の職員も避難者も、顔見知り、普段からの付き合いがある人たちばかりなので、和気あいあいという雰囲気が少なくとも小生の周りでは見られた。それから避難者に支給される、赤十字社の救急セットと毛布、何処かの国と比べると我が国は豊かなのだなあとシミジミ感じた。
平成24年7月11(水)
梅雨前線が上がってきた、場所によっては激しい雨になっているそうだが、今までのところ、この辺りにはまだ雨らしい雨は降っていないが。
最低気温 22.0℃ (00:00)、最高気温 27.0℃ (09:15)
夕方前、娘を虫歯の治療に宇治歯科に連れていく、なんだかあいつ毎日医者通いだなあ。
週末、保育園の納涼祭があるそうで、その準備作業の草刈りが夕方から行われ母親が出掛ける。
我家のノコギリのような包丁は切れなくて使いにくいので、「男の料理」用、刺身包丁、万能包丁、小出刃包丁の和包丁三本セット、オークションで100円(105円)で落札、尤も事務手数料などのコスト削減のために支払方法は代引きのみ、それに送料などで、結局、総額1.5K強になってしまったが。本当はもっと良い包丁が欲しかったが、凝りだすと数万円もするので、ステンレス鋼で我慢。
先日生まれた上野のパンダの子が死んだそうであるが、この場合はオトシマエを取られるのだろうか、そもそも頭を下げてまでして借りる「借り賃」が一体どのくらい支払われているのか、パンダ、パンダと言って喜んでいるオトナの連中はそのことを知っているのだろうか、バカバカしい、とこの年寄りは思っている。小生は「街頭録音」というやつが嫌いである。あれはその人間一人の考えであって、多数の意見ではない、胴元が恣意的に選んでいるだけだ。そうか、また新党ができたらしいがそのことに触れる気も起きない。
平成24年7月10(火)
晴れ。少し下り坂の雰囲気、事実南の方からまた梅雨前線が上がってきているらしい。これで明日以降ここに大雨を降らせてから、その前線が北に押しやられて梅雨明けになるという段取りか、来週くらいだろうか、もっと先だろうか。
最低気温 18.0℃? (05:03)、最高気温 28.2℃ (13:52)
太郎、今朝二度も検温したがいずれも平熱、昨夜も静かな寝息、昨日の発熱は38℃も上の方だったらしいが何だったのだろう、訳が分からないまま今朝は普通どおり保育園にやる。そして普通どおりに帰ってきた。
従って奇跡的に小生は縛られること無く自由行動、午前中にジャガイモ掘り。ようやく終わる。ミカン箱9箱もどうすりゃいいのだ。
午後から娘を学校で待ちうけて内牧の小野眼科に連れてゆく、逆さまつ毛だそうである。まあ、次から次に医者通いである。娘は今週から夏休み準備期間?で授業自体は半日で終わるらしい。
娘の眼科が終わって帰ってきてから、昨日の薪材積みに手野に向かい一台分積んで帰る、残りは後日ということで。今日もよく働いた、くたびれた。
平成24年7月9(月)
昨日は草切りで体を使って疲れ過ぎたせいか(かと言って疲労が残っているわけではないが)、眠りが浅くて何度か目が覚めて、とうとう三時前にはそのまま起きてしまった。
今日も爽やかな一日だった。夕方、今年初めて庭先でヒグラシの鳴き声を聞いた。
最低気温 16.3℃ (05:25)、最高気温 27.5℃ (14:29)
上村さんから今日は手野の方にある屋敷というところで木を切るよ、と連絡があったので、太郎を送ってから出掛けた。外輪に接するように麓を弧を描いて県道213号線が走っている。我家の前の道もそうだが、現地は我家から反時計回りに山裾を90度くらい回った辺りになり、道から狭隘な山道ををかなり上った伐採現場から見降ろすと、畑にしては古式工法の随分と立派な石垣が段になっている、もしかしたら、この辺りに地名が示すように御屋敷でもあったのだろうか、なんとなくマチュピチユを連想させた。
今日の木は欅と樫の木だそうで、上村さんは家の方に傾いて被さるように立っている木を家にあたらないようにして一人で切っていた(写真1・写真2・写真3)。小生もついでに林内作業車のウインチ操作を手伝わされたが、万一操作を誤って木が家の方に倒れでもしたら家屋倒壊間違い無しの状況なので、緊張してさすがに決定的瞬間はカメラを操作することが出来なかった。今日は午前中二回、夕方一回運搬した(写真1・写真2・写真3)。
まだまだ薪材は沢山残っているが、保育園から電話があって太郎が熱を出したそうで、母親が古閑医院に連れて行ったが、また数日間は小生は動きがとれないだろう。よく食うくせにひ弱な奴だなあ。
今日は薪取りの間に、ジャガイモ一畝だけ掘った、あと二畝残っているが、太郎の子守やまた雨になりそうだから、掘り終わるのは何時になるやら。今日も良く働いた、その分、道楽に割く時間がとれない。
平成24年7月8(日)
実際にはまだなのだろうけが、もう梅雨明けしたような気持ちのいい天気になった。久しぶりに降りそそぐ太陽、それに湿度が低くてヒンヤリした風、炎天下で作業をしていても、暑いには暑いが、それほど苦痛でもなかった。写真
最低気温 16.9℃ (05:27)、最高気温 27.0℃ (14:57)
今日は延び延びになっていた村の区役、用水路などの草切りがあった、所用や体調不良などで今日の豆札からの参加は少なくて七名だった。降り続いた雨で用水路の法面が軟らかくて足が埋まったり滑ったりして踏ん張りにくくて、足首に無理な力が掛かって痛くなった、いつもの二倍三倍の体力を使って疲れた。
平成24年7月7(土)
昨夜から今朝にかけて何度か強い雨と雷が鳴ったが、九州では梅雨前線は南に下がって夜が明けてからは天気はどんどん回復して久しぶりに太陽がでて暑い一日になった。下界ではもう大分前から真夏日は当たり前のようだが、ここはそんなことはない。今晩は枕を高くして寝られそうである。
最低気温 20.9℃ (08:53)、最高気温 25.9℃ (15:35)
カミさん仕事、太郎は半日保育、夏子は昼まで部活。夏子に今日も手を掛けて昼飯を作ってやってから太郎の昼寝の時間の間、ジャガイモ掘りをする。今日は男爵を掘ったが、やはりメイクインに比べて腐ったものが多かった、また、メイクインに比べて育ちが悪くて小さな芋ばかりだった。阿蘇では、と言うより、我家の畑では男爵よりもメイクインが合っているだろうか。男爵の畝は二列ちょっとだけだが、今日はそれだけで終わった、後、三列弱残っている。
最近、立て続けに時代小説を読んでいる。シリーズ物のなので読み始めると途中でやめるわけにいかず、しかも何種類かあるので月に20冊以上のペースではないだろうか。
ところで似たようなジャンルで、たとえば同じ江戸時代を扱った小説でも、時代小説と呼ばれる場合と歴史小説と言う言い方をする小説があるが、この区別は何だろうと思っていたが、ある時、一つの分け方として、歴史を「作った」人を書いたものが歴史小説で、そうでないものを時代小説と言う、と誰かがラジオで言っていたが、これなどは分かり易い分類方法だなと思った。
小生がここのところずっと読んでいるのはその時代小説の方である。以前には歴史小説に凝ったこともあるが、今は時代小説が面白い。そしてジャンルを変えて読むと言うのは何かしらきっかけがないとなかなかできないもので時代小説ばかり読み続けている。
以上が前振りである。
さて、松本清張の著書に「西海道談綺」という伝奇時代小説がある。昭和46年〜昭和51年の長期間にわたって週刊文春に連載されて、母と不思議と小説の趣味が合って二人で毎週楽しみに読んだものである。岩田専太郎の挿絵が懐かしい。もう40年以上の昔になる。
物語が進むにつれて、舞台が大分県の日田あたりに移って、日田や日出などの細かな描写が出てきたと記憶している。当時は関東にいたので、あまりピンとこなかったがこちらにきて、大分地理が分かるようになったので、ストーリーもかなり忘れており、また面白く読めるのではと、ふと思い出して図書館から借りてきた。非常に小さな活字で全五巻の長編である。
平成24年7月6(金)
一日中風が強くて強くてちょっとした台風並みだった。それに今日もずっとこのような雲の配置で雲の本体はずっと東の方にあるにもかかわらず、阿蘇上空では雨雲が次々に生まれて、雨が時折ものすごい勢いで落ちてきた。瓦の屋根であればそうでもないのだろうが、我家の屋根はコロニアル(スレート)だから、しかもログハウスの二階部分というのは、言わば屋根裏に相当するので、屋根のすぐ裏が室内の斜めの壁面になり、屋根に当たる雨音がもろに聞こえてくる、なんとも心までザワザワする一日だった。
最低気温 23.3℃ (02:07)、最高気温 24.9℃ (12:03)
太郎、本日2歳の誕生日、両の掌に乗るくらいの小ささだったのが大きくなったものである。最近は大分言葉によるコミュニケーションが可能になってきた。(写真1・写真2・写真3)
今シミジミ日記を読みかえして見ると、二年前、カミさんは大げさでなく命がけの出産だったのだ。時が過ぎるのは本当に早いものである、娘もまもなく10歳になるが、ということは、あと10年で、オイオイもう成人か、そのころまでは小生は果たして・・・・・こればっかりはなあ。
TPP問題、小生どうやらとんでもない思い違いをしていたようだ。この本は(写真1・写真2)一読に値する。今の時代、これだけ情報網、情報入手手段がありながら何故偏った情報しか入ってこないのだろうか、結局、「報道」の責任なのだろう。
ボンにフィラリア予防薬の二回目を投与した。
平成24年7月5(木)
梅雨前線は北の方に上がっているようだが、大気が不安定で九州地方も時々雨が降った。
最低気温 22.8℃ (00:00)、最高気温 25.4℃ (13:55)
ジャガイモの収穫をした。何度か雨で中断して今日は二列やったところで終わりにしたが、今年はちょっと実り過ぎで、ヘタをすると「豊作貧乏」になりかねない。先日男爵を試し掘りをした時には、雨で既に腐り始めていると思ったが、今日掘ったメイクインはそうでもない。時々腐っているに出くわすが、これは腐るべくして腐ったのであって降り続く雨のせいではないのではと思う、毎年そのようなイモがあるからである。
外作業が出来ない時などは時々昼に料理を作る。若い頃は炊事や後片付けなど嫌でたまらず、一人の時など流しに食器が山を為していたものであるが、歳をとるにつれてそれが苦にならず、また料理を作ることは創造であり楽しくもなってきた。というのが前振りである。
昼飯を仕入れに近くのスーパーに行ったところ、小イワシが出ていた。これほど小さなイワシはなかなか店頭に並ばない。昔母親が南蛮漬けと一緒に並行して作ってくれたイワシの唐揚げの甘酢あんかけが懐かしくて、機会があったら再現してみたいと思っていたがなかなか手頃のイワシにぶつからずにチャンスが無かった。これがイワシだから美味しいのであってアジではちょっと物足らないのである。
早速購って、ジャガイモ掘りを一旦中断してから料理に取り掛かった。親指の腹でワタを抜いて、塩コショウをして小麦と片栗粉をまぶしてから低温で骨まで軟らかくなるまで揚げてから甘酢あんでからめた。うむ、こんな味だったなあ、おふくろの味は・・・「食育」・・・誰にだっておふくろの味はある、うちのこどもたちにそのうちに出来るであろうか。
アセチレンが無くなったので、秋桜さん経由でボンベの耐圧検査と充填に出した。調べてみると、小さなボンベ(0.5kg)も大きなボンベ(2kg)も価格的にはあまり変わらない、今さら遅いが、大きなボンベを買っておくのであった。
平成24年7月4(水)
今日も朝からレーダーで見ると大きな雨雲と雷が大挙して近づいてきており、今日は避けられないだろうなと、あわててシステムを落としたりしたが、今日もギリギリのところでかわせた。その後も二度ほど「ヤバイ」なという状況があったが少し雷が聞こえた程度大事に至らなかった。熊本も今回はここより北の方がひどくて、JA6JLZが落雷でちょっと被害を受けたそうだ。また明日の明け方にかけてまとまった雨になるとのことである。
最低気温 21.1℃ (00:55)、最高気温 24.2℃ (16:21)
この雨でジャガイモが収穫できずにいるが、雨の中、試しに二三株掘ってい見たところ、やはりいくつかもう腐りはじめている。
夕方、母親が姉弟を美容院に連れ行ったが、太郎は生まれて初めての散髪(美容室だか散髪とは言わないのか)になる。太郎は髪の毛が薄くて他の子よりも毛髪が少ないのでいままで行かなかったが、さすがに伸びすぎて鬱陶しそうだったの連れて行ったそうだ。(写真1・写真2)
平成24年7月3(火)
明け方、激しく屋根を打つ雨と家が揺れるくらいの強風で目が覚めた。九州北部から強い雨雲と雷が南下してきて、まるで台風のような、風が吹いていた。
最低気温 21.1℃ (02:29)、最高気温 24.1℃ (08:30)
このまま雨雲雷雲が南下してくるとここもちょっと大変だなと思っていたが、雨と雷は九州北部から少しずつ南下しつつ、東に移動して行くので、このあたりまで到達した時は雨域雷域の中心からずれて左端っこの方に少し掛かる程度になっていたので、心配したほどの雨にはならなかった。
午後からも大雨が来るようなことを言っていたが、幸いにこんどは少し南の方を西から東の方に移動して行ったのでまた大雨が降らずに済んだ。夕方には山も見えていた。昨日、今回の雨が峠を越したと思っていたが、明日もまだ前線が停滞するらしい(確かに西の方にはまだ厚い雲が控えている)。
ジャガイモの葉がもう枯れているのでとっくに収穫期がきているのだろうが、雨で収穫できない。
休日で新聞掲載が遅れたので知らなかったが1日に馬場の藤川信二さんが亡くなれた由。深いお付き合いはなかったがよく存知あげていた、面長で目がぎょろりとしていながらとても温和な方だった、まだ62歳というお若さだったという、驚いた。
平成24年7月2(月)
今回の雨もようやく峠を越したようで、午後からは雨の心配が無くなった。
最低気温 21.1℃ (00:00)、最高気温 23.9℃ (14:46)
本日も外でやることは何も無く(あるが出来ず、が正しい書き方であるが)、屋内で道楽のデスクワークで過ごす。
平成24年7月1(日)
今日も雨雲の中心は関西から東海方面に移動しつつあるが、この辺りの上空にもしつこく雨雲が生まれて、時々屋根に穴が開くのではと思われるほどの強い雨が叩きつけていた(降雨強度70mm弱)。夜に入って大雨が来そうである。
最低気温 22.7℃ (10:16)、最高気温 24.1℃ (01:46)
雨で一週延びていた区役の草刈り、また延期になった。
カミさんたち三人はこの雨のなか、山を下りて菊陽方面に買いものかなにか知らないけど出掛けて行った。
小生は、電信のトレーニング、無線工学の「お勉強」、それと読書でのんびり過ごす。初歩の数学を始めとして、手当たり次第にネットから記事を引っ張ってきてはプリントしてもう100ページ(まではいかないか)くらい資料が溜まった、また1アマ受験勉強の時と同じようなことをやっている、今回は落ちる心配が無い勉強だから気が楽であるが、無線工学の前に何かやっていたはずだったが何だったろう・・・
色々調べたけど、CAA-500・・・これ良いな、欲しいなあ、触手が動くなあ・・・ブツブツ・・・・
先月作ったイチゴジャム、湯煎のしかたが悪かったのか、或いは瓶のふたが甘かったのか、一つに少しカビが生えていたので、他のビンの分も全部もういちど鍋にあけて加熱し直して、ついでにペクチンを加えて少しゲル化させた、ペクチンの量、見当がつかなかったが、まあ、こんなものだろうとダマにならないように砂糖で混ぜて目分量で入れたが硬からず、軟らかからず、ちょうどいい具合に固まった。