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平成25癸巳(2013)年4月の記録(新しい日付けの順)


平成25年4月30日(火)

 また言うほどの雨にはならず、初夏にしては少し冷たい小雨模様の一日になった。ずっと通して10連休のところもあるだろうが、前半の連休は好天に恵まれたので、後半の連休との合間、今日あたりの雨はちょっと骨休め、まあまあご愛嬌という所だろう。
    最低気温 9.3℃ (08:35)、最高気温 16.4℃ (05:46)

 家族全員がそれぞれの持ち場に出掛けて家の中は久しぶりにシーンとする、小生も少々放心状態のところにN川T久さんからPC救急要請があり緊急出場する。N川さんがインターネットを始めてくれると影響力のある人だけに坂梨のインターネット事情は劇的に変ると思うのだが、あの人も頑固だねえ。

 午後から、6mのFMでDI局とQSO、チャンネルで周波数を切り替える2mなどに慣れているので、VFOでのFMに戸惑いと新鮮さを感じる。その直後、国内が開けているぞとDIから連絡が入り慌ててSSBワッチ、なるほど、これがひとつのEスポか、札幌の2局とQSOする、59/QSB。その後、今度はAJY局がFM(51.00)でテストをしていたので捉まえる。阿蘇の空もまただんだんと賑やかになってきた。

 最近はほとんど毎日風呂に行っている、ここのところ娘まで一緒に行くようになった。二人とも年間パスを持っているのである。娘は一人前にシャンプーやリンスの入ったお風呂セットを持って行く、小生は浴場備え付けのシャンプーを使うのでタオルだけだ。家の風呂も決して狭くは無いがやはり大浴場の温泉の方が良いし、温泉社交とでも言おうか、必ず数名の知り合いに会って四方山話に花が咲くのが良いのだ。今日は気温が低めだったので温泉の温かさが気持ちが良かった。


平成25年4月29日(月)  昭和の日 

今日も風が少しあったが気持ちのいい一日になった。風薫るという枕詞が付くのは5月からか、でも、もうそんな気分だ。
    最低気温 6.5℃ (05:26)、最高気温 22.7℃ (12:25)

 周辺では連休関係無しに昨夏の災害の復旧工事が進められていて、長らく不通になっていた宮地から馬場に通じる主要農道も数日前にようやく復旧した。我が村の人家を呑み込み人命を奪った外輪崩落現場の擁壁工事も進んでいる(写真1写真2)。そのほか、我家の裏の豆札川の可動堰きの工事のピッチも上がっている。(写真1写真2写真3

 我家の隣家の新築工事がいよいよ始まって、今朝から重機がやってきてパイルを打ちこんでいた

 この16日に植えたばかりのジャガイモの芽がもう出はじめた、植えてから僅か二週間である。去年は同じ頃植えて5月に入ってからだったと思うので随分と早かった。メイクインの作付のほうが一日遅かったのに男爵よりも早く芽が出ている。(写真1写真2

 今日はカミさんが仕事なので、三人で、サトイモの植え付けをした。もっとも三人のうちの一人は邪魔をするだけだったが。小生が畝を立てて、昼飯を作っている間に、娘が種イモを全部植えてくれたので、後からマルチがけをするだけで済んだ、立ったり座ったりの種イモを埋めて行く作業は結構疲れるのだ、娘の手伝いは随分助かった。23個の種イモを植えた。この種イモは、食用として売っていたサトイモを使った。

 娘にもトラクターを運転させた、娘はゆっくりながら自分で運転をしていた、ちゃんとクラッチを切ってからレバーをニュートラルに戻して止まっていた。太郎も一緒に乗せてハンドル操作をやらせたが、コワいのを我慢して乗っていたとみえて、すぐにもうイイと言って降りた。

 子どもたちに昼に何を食べたい?と訊くと、カツ丼!、それも弁当で、というので、カツ丼を作って弁当箱に入れて、どうせならと、庭にシートを敷いてパラソルを立てて、その下で弁当を広げた、二日続きのキャンプのようなもので、子どもたちも大満足のようだった。「製造物責任」があるので仕方が無いが結構疲れるぞ。(写真1写真2

 今、敷地内の藤の花が美しい、咲かないと分からないような細いツルのような木なので以前植栽を剪定、間引きする時に知らずにぶった斬ったものが結構あると思うがそれでも、こんなところに咲くのかというところに何箇所か咲いている。ちょうどカラタチの木にもつるんで二つの花が同時に咲いている。

 今日予定の作業が全部終わって少し時間があったので、タケノコを掘ってきて茹でて土佐煮をつくってみた。アク抜きと言えば米のとぎ汁使うのが一般的だが、むかし観た「ためしてガッテン」で、迷信みたいなもので全く効果が無いことが分かって以来、小生は一切アク抜きをしないが、少しくらい伸びすぎても、採ってすぐに料理するのがなんといっても一番のようだ。タケノコといっても低いものでももう地上から30センチ以上伸びているので食えるかなあと思ったが、案ずるほども事もなく、庭に生えている木の芽を添えて、土佐煮の一丁上がりである、娘も味見して親指を立てていた、まあ、シーズン一回くらいは食ってみないとなあ。

 おかげさまで今日もありがたい一日を送ることができた、ただ、道楽の方は子どもたちがいる間は無理だな。


平成25年4月28日(日)

 晴れ。気温がグンと上がり、もはや初夏である。
    最低気温 4.6℃ (05:59)、最高気温 22.3℃ (15:12)

 カミさんが休みなので日帰りで別府あたりの遊園地にでも出掛けようかという予定だったが、太郎がまだ本調子でないので中止することにした。そこで、カミさんは野菜を何種類か植えるべく畝を立てて農作業を始めて、娘も楽しそうに手伝っていた。娘は、遊園地行きが中止になったので朝から不機嫌でふてくされ気味だったが、畑仕事を手伝っているうちに、遊園地行かなくても面白いねえ、と出掛けるだけが楽しいことではないということが分かったようだった。(写真1写真2写真3写真4

 そこで、外作業のついでに今日はいっちょうバーベキューでもやるか、と小生が提案をして、場所作りのために庭先の草刈りなどをしたが、草刈りをしながら、都会の人たちは遠いところを時間をかけてやってきて、このようにバーベキューをするのだけれど、おまえたちはそのように遠くまで出掛けるなくてもすぐにこんな楽しいことが出来るのだからいいだろう?と言うと、うん、そうだね、と納得していたようだ。 はじめは昼にやる計画だったが、思った以上に日差しが強いので夜に変更した。ついでに花火までやったが、太郎のやつは例によってまた、花火のバチバチがコワいようで、最後には玄関の中からガラス越しに姉が花火をするのを眺めていた
写真1写真2写真3

 今日は家族、充実した一日を過ごした。今日の畑仕事、小生は、力がいる耕運機での畝立てのところをちょっと手伝っただけで基本的には何もしなかった。


平成25年4月27日(土)

   最低気温 5.2℃ (06:07)、最高気温 17.7℃ (15:30)

 今日から大型連休が始まった、阿蘇路も多くの観光客で賑わうことだろう、せっかく訪ねてくれるのだから連休中好天であることを願うばかりであるが、全期間好天とはいかないようだ、前半は天気が良いらしい。我が家はカミさんがほとんど仕事なので、遠出は出来ないが、お母さんを置いて何処かに一泊で行こうか、と娘に冗談半分で話したら、娘は「賛成!」、太郎も意味も分からず、「さんせい!」。太郎ももうかなり手が掛からなくなったので「二匹子連れ狼」も不可能ではないな。そう言えば先年、ちょうど今ころだったと思うがカミさんが入院中、父娘二人旅で一泊でハウステンボスに行ったことがあったなあ。

 太郎本日半日保育。これぞ「獺祭」である。太郎の二級上のK人君からいつも、サイズが小さくなった衣類を頂戴する。今日もお姉ちゃんのU那ちゃんが届けてくれた。どれもこれもいわゆるお古というにはみな新しいものばかりで、我家としては大助かりで有難く思っているが、太郎も大好きに乗り物などの絵が付いているシャツばかりで、大喜び、袋から出してひとつひとつ並べてはなにやらコメントをつけていた。

 144MHzと430MHzのアンテナの交換作業をする。今日の作業は我が家で一番高い場所になり、自分で組んだ塗装用の足場パイプがいつのまにかアンテナの作業用ステージになったり、足場パイプがアンテナの支柱になったりしているが、今日は作業をするにはそれでも高さがちょっと足りないので、足場板に脚立を置いて(ロープでちゃんと縛って)、さらにその上のパイプに上がって、パイプに足をかけただけの命がけ(というほどでもないが)の作業をした。今日も風が強くて、アンテナとパイプとローテータが一体になった長くて重たい状態のものを釣りざおを持ちあげる要領で持ちあげて、垂直になったところを片手で押えたまま支柱にUボルトで留めるのはなかなか大変で心身ともにくたびれた。(コイノボリの支柱を立てる要領で、支柱とアンテナポールを一か所穴をあけて留めておいて、そこを軸にして立てて行くと楽かもしれない)。後から写真で見ると大した高さではないが、上から見降ろすと結構の高さに感じる、勿論安全帯とヘルメットは着用して作業したが落ちたら無事では済まないだろう、おかしなもので、日によって、非常にコワいと思う時と、同じ高さでも全くコワくない時とがある、今日は全くコワく無かった。人間の心理とは面白いものである。

 before  after 。144MHzも430MHzもSWR 約1.1、impedance 50Ω。果たしてどれだけgainはアップしただろうか、遠くまで届くようになったにしては、近年、両バンドとも大都市圏と違って静かなものである、連休が佳境に入るようになれば遠くからも聞こえてくるだろう。

 先日の献血の結果が届いた、コレステロールが境界値だなあ。


平成25年4月26日(金)

 晴れ。爽やかである。
   最低気温 7.5℃ (06:11)、最高気温 14.2℃ (15:35)

 太郎、ようやく元気に保育園復帰した。昨夜も寝る時に、咳が止まらなかったので、市販の咳止めを追加して飲ませて眠らせた。そして夜中に咳で起きることもなく朝までぐっすり寝て、気持ち良く起床した。百日咳かと心配したがどうやらその心配は無くなった。

 家庭訪問週間で早く帰ってきた娘の、日本脳炎の予防接種に古閑医院に付き合う、その足で、同じく娘の副鼻腔炎の定期治療のため温泉病院に行く、病院のハシゴである。

 医薬分業は誰のためのものか。いつのころからか、病院での診療と投薬が分かれた。患者はそれまで病院で一度で済んでいた投薬が、改めて病院のすぐ近くにある調剤薬局に行って薬を貰わなければならない。それだけでなく、薬局の窓口で何処が悪いのかとかというようなことを聞かれて病院で話したことと同じことをまた話さなければならない、どうしてまた同じことを聞くのか、聞いた内容によって薬剤師の方で薬を変えることができるのか、分業で薬局間の自由競争で薬が安くなるとでも言うのか、そんなこと無いだろう、ただでさえ時間がかかって仕方が無い病院、患者は少しでも早く帰りたいのだ、だまって処方された薬を出してくれよと言いたくなる。調べた訳ではないが、これは結局薬剤師のための制度なんだろうが、全く患者のためにはなっていない、迷惑な制度である。古閑医院は分業していないので助かる、このままで行って欲しい。


 144MHzと430Mhzは貧弱ながら八木を使っている、その144MHzの方、APRSのI-Gate局のアンテナに使っているので、通常の144MHzは現在地上高が低い位置でGPで運用していて飛びが悪い。APRSのアンテナは固定ビームで良いので、取り外して別のところに取りつけた。足場が非常に悪くて、風が強かったので、安全帯はしてアクロバット的姿勢で取りつけて結構苦労した。

 今のアンテナを取り外した後には5エレの144MHzと11エレの430MHzが一体になった八木(CYA25711)を付けるつもりで準備中である、思った以上にブームが長くて取り付けにちょっと苦労している。

 こいつらは本当に仲が良い。ただボンのやつが調子に乗っていつも最後には甘噛みの度が過ぎて愛想尽かしされてシマに逃げられる


平成25年4月25日(木)

 朝のうち深い霧に包まれる、その後、素晴らしい天気になった。
   最低気温 6.3℃ (05:53)、最高気温 19.0℃ (14:55)

 太郎、今日もまた、休んだ、夜中に突然咳が出はじめるとなかなか止まらずに咳止めをのませてもなかなか治まらず、それ以外は元気なのだが、もし保育園でそのような状態になると園で困るだろうということもあって、休ませた。夕方、母親に連れられて古閑医院に行って咳止めの効果のある薬を追加して出してもらった。

 先日来、水道の出が悪くて、敷地内の埋設管に穴でもあいたかな、あるいは、苗床つくりに何処かで大量の水道水を使っているのかなと思っていたが、最近家の前の道路伝いに水が流れているのは知っていたが小生は湧水が流れているのかなと思っていたが、組内の隆一さんが、自分の家でも水の出が悪い、原因はこればい、ということで財産区に連絡をしてもらって今日その修理工事があった。穴を掘った結果、40ミリの本管のパイプをつないでいるソケット部分から漏水していることが分かり、早速新しいパイプをつないで、漏水は止まった。修理完了後、蛇口をひねると、今回の漏水以前の状態よりもっと水勢があって、こんなに勢いよく出るのかと驚いた。今回の漏水が地表に出るまでに随分長い間地中で漏水が続いていたようで、水圧が低い状態が普通だと思っていのだ。(写真1写真2写真3写真4写真5写真6

 午前中一杯かかって、50MHzのHB9CVを揚げる。アナライザーで測ったら、インピーダンス50Ω、SWRほぼ1、まるで見本のようにピシャリだった。もう少し低い方で同調してくれたらもっと良いがまあ、御の字だ。ところが今の50MHz、何処を回しても静かなので心配になって2mでDIさんをコールしてテストした。(写真

 夕方近く、娘の学校の家庭訪問があった。その頃、小生は用足しに山降りていた。山の下では今年初めて車のエアコンを冷房にした。軽トラックだから寒暖計が無いので山の下の気温は分からなかったが結構暑かった(あ、そうか、今では軽乗用車にも寒暖計は付いていなかったのだ)。



平成25年4月24日(水)

 弱い雨の後回復に向かう。予報では一荒れ来ることになっていたが、夜のうちも多分静かだったと思う、例によって騒ぎ過ぎである。
   最低気温 13.0℃ (12:50)、最高気温 15.3℃ (09:52)、

 太郎、結局今日も休む。元気なので心配は全くしていないが今朝も背中に耳を当てると小さくヒューヒューが聞こえたので、えい、今日も休んでしまえということになった。ここにきて一日くらい小生の保育が延びたところでどうということは無いからな。

 それというのも、以前に比べて独り遊びが増えて小生の負担がグンと減ったからである。要所要所を押さえておけばいいので随分楽になったのだ、ストーリーを自分で考えて独りでブツブツ何か言ってオモチャで遊んでいる時には耳だけ向けておけば見ていなくても安心だが、いやに静かだなあと思った時には何かしらやっているので要注意である。小生がデスクワークをしていて、ふと振り返ると小生のすぐ背中にあたる場所に座って、シールを床一面に貼ってしまっていた、これを剥がすのは大変なんだぞ(写真1写真2)。そういう訳で太郎を独りにして小生が長い時間でなくても外に出ることは出来ないので、自然、本を読んだり、無線を聴いたりと言うことになる。動けないのは少々苦痛だがそれなりに時間を有効に使っている。今日はそれに加えて、50MHzの位相差給電の2エレアンテナの仮組をしてみた。HB9CVと言われるアンテナだが、RADIXはそうは言わずに、RY-62FAと言っている、どこが違うのだろうか。

 太郎、こんどこそ間違いなく本復である。と思う。


平成25年4月23日(火)

 曇りのち、夕方に入って雨に向かいつつある。
    最低気温 5.4℃ (01:54)、最高気温 14.4℃ (11:09)

 太郎、昨夜、寝入る頃、また苦しいというのでネブライザーをやって寝た。そして深夜目が覚めて、寝苦しそうにしていので、暫く抱いてやっているうちに寝入った。自宅にネブライザーがあるのは本当に助かる。一夜明けて、ようやく元気を取り戻したようで、さあ、保育園にやるか、と思ったが、まだ少し喘鳴が聞こえるので、もう一日用心のために休ませるかということになって、本日も終日爺保育をする。

 いやあくたびれたくたびれた、明日から完全復帰をしてくれよ。とそのつもりでいるが、夜になってまたネブライザーのお世話になった。


平成25年4月22日(月)

 散歩に出ようとボンのリードを付け替える時、ボンの飲み水の表面に薄く氷様のものが・・・、まさかと思って手ですくってみたら、やはり氷だった。へえ、そんなに冷え込んだのかと記録を確かめたところ確かに間違いがなかった。外に出た時に風が無くて、良い天気だったので寒さの実感は全く無かったなあ、まさか氷が張るほど下がっていたとは。
    最低気温 0.3℃ (06:06)、最高気温 18.1℃ (16:15)

 太郎、昨夜もネブライザーをやったが、ヒューヒューが取れないので、元気だが今日は保育園を休ませた、そして夕方、古閑医院に連れて行ってネブライザーをやって薬をもらってきた。(写真1写真2

 今日は娘の学校の授業参観日で、母親が出掛けた。

 娘、五年生になったので、自転車で校区内を自由に走ることができるようになったので、今日も授業参観で学校がいつもより早く終わって気候も良いのでクラスの仲間たちと嬉々として走り回っていた


平成25年4月21日(日)

 徐々に天気は回復して午後からは青空が広がったが、今日も肌寒かった、北日本ではかなりの雪が降ったそうだ。阿蘇山頂も白くなっていた、いつの間にか山肌が柔らかい緑に変ってきている。
    最低気温 5.3℃ (02:46)、最高気温 12.8℃ (16:18)

 太郎の喘息、元気で熱は無いがまだヒューヒュー言っている。今日も爺様保育だったが、とにかく無鉄砲で何をやらかすか分からないので瞬時も目が離せず、こちらのほうが疲労困憊する。

 昨日の熊日に滝室坂のトンネル化計画の記事が出ていた。この話は先日、健康づくり推進員の集まりの席でも市の幹部から話があった。現在の道路に代わる道路については、観光的な見地からループ橋などの案もあったらしいが、建設コストが、うろ覚えだが600億円以上かかり、トンネルが一番安くできるようなことであったと思う。新聞記事の地図では坂梨の町をスルーして行くようなイメージだが、そうなると、坂梨はグーグルなどの地図でもそうだが、今でも阿蘇市の中でも僻地扱いであまり情報が出ていない、ワンセグなんかも坂梨地区に入ると電波が届かない、トンネルが出来ると国道としての利便性は向上することになるだろうが、坂梨地区はますます「隠里」のような位置づけになりそうだ、小生なんか隠里、大いに歓迎だが、(今の滝室坂は生活道路として残すそうだが)滝室坂沿いで商売をしている所などでは死活問題になるだろう。それから心配なのは、地下水の水脈の問題である、その昔、高森町で当時国鉄が延岡までの延伸工事中、トンネルを掘っている時に大きな水脈を断ち切って、そのために、湧水が豊富だった高森町に水が出なくなった(その後、延伸工事自体は諸般の事情で中止になった)。坂梨も含めて東外輪一帯は名水と言われる豊富な地下水に恵まれて、それを水道水に使っているが、もし滝室坂トンネル工事でその水脈を絶つようなことにでもなると大変である。何処を通るかと言う具体的な計画はもう決まっているのだろうか、いずれにしてもこれから利権絡みで綱引き駆け引き思惑が展開されることになるのだろうが小生には全く関係の無い話だ。果たしてトンネル完成の頃には小生にまだ運転できる体力が残っているだろうか、いやそれ以前の話だ(新聞記事の地図は266号線となっているが、265号線の間違いだろう)。トンネル化概要プレスリリース


平成25年4月20日(土)

 予報どおり、昼ころか雨になった、それに今日は気温が低くて、ぐっと我慢をしている。

    最低気温 5.7℃ (05:37)、最高気温 15.0℃ (10:13)

 太郎、午前中、土曜保育をお願いする。

 午前中、先日剪定した茶の木と、入り口の生垣を切った枝とを二か所に分かれて燃やした。もう一か所、裏の竹林跡で枝類を燃やそうとふと足元に目をやると、レンゲが一群咲いていたので、火でやられると思って燃やすのをやめた。種を蒔いた覚えが無いのにどうしてこんなところに咲いているのだろうか。

 夕方、keiさんが御入来。週末で阿蘇に戻っておいでだそうで、使っていいよ、返さなくていいよ、と無線機を届けてくださった。IC-575D 28MHz&50MHz(6m)オールモードトランシーバーである。あまり使っていないとかで新品同様である、6mもやりたかったので有難く使わせていただくことにした。早速アンテナを手配せねば、やはりHB9CVかなあ。こんどのゴールデンウイークでkeiさんもひとまず御自宅の無線環境を整備するそうである、これも楽しみである。

 太郎、ここのところ咳が出ていたが、夜に入って少しヒューヒュー言いだしたので、早めにネブライザーを吸入させた、熱は無いし、軽いのでこのまま収まってくれると良いが。(太郎ネブライザー吸入の図4態 写真1写真2写真3写真4


平成25年4月19日(金)

 晴れ。湿度が低くて爽やかだった。
    最低気温 8.4℃ (06:25)、最高気温 17.8℃ (14:38)

 随分久しぶりにプールに行った、最近、じりじりとまた体重が増加している、三四カ月後に住民健診がある、そこでまたイエローカードを出されるのはゴメンだから、そろそろ絞りに入ろうかと出掛けたのだ。ところがちょっと泳いだだけで息が上がり、以前なら2,000mくらいノンストップで泳いでも呼吸は乱れなかったが、今日はノンストップは200メートルがやっと、それでもなんとかトータル1,000mだけは泳いだ。息が上がるのは筋肉の衰えもあるが、楽に泳ぐにはコツというものがあって、どうも体がそれを忘れていると思うので、多分一日二日泳ぐとまたコツを取り戻して息が上がることも無くなるとは思うが、それにしてもこんなに違うものかと驚いてしまった。69。

 昼間、プールの後で風呂に入ったが、夕方、太郎が「お風呂に行く、コワくない」と言うので、気が変わらないうちにと、娘を連れて、娘の友達を途中で拾って一緒にアゼリアに行った。娘たちは女風呂へ、小生は太郎と男風呂へ。今日こそ宣言通り泣かないかなと思っていたら、結局、浴槽に入ろうすると逃げようとするので無理矢理抱いて入ると、出るウ、出るウと大泣き。今日もまた裏切りやがった。保育園の同級生の女の子のSちゃんもよく一緒になるのだが、風呂から上がってベソをかいているところにやってきて、たろうちゃんこわくないよ、たろうちゃんこわくないよと慰められていた、オイ、シッカリしろ!

 じっちゃいのブログが4/15の日記を最後に更新されていない(カメラも停止したままだ)、しかもその日の日記に体がだるいとあった、彼は過去に大きな病気をして、今でも信管は抜かれているものの、言わば爆弾を抱えているようなものだから(と小生は勝手に思い込んでいるが、実際はそんなでもないのかもしれないが)、もしかしたら何かあったのかなと気になって仕方が無かった、あるいは高齢の父君がおいでなので、不謹慎ながら万一のことを考えて、地元紙の訃報欄を検索したりもした。この歳になると、家族親戚友人など近しい人にそのようなことがあると堪らない気持ちになり、電話で確かめれば済むものをコワくて電話が出来なかった。そして、今朝、思い切って御自宅の固定電話に掛けてみた、多分奥様が出られるだろうと思ったからだ、そして、思った通り奥様が出られた。恐る恐る御主人に何かありましたか?とお尋ねしたら、え?普通にしております、仕事に行っていますとのこと、父親がちょっと体を悪くしていたので、それでブログの更新が滞っていたのでは、とのことだった。つまり何にも変ったことは無かったのだ。小生の早とちりだった。諺に「便りがないのは良い便り」と言うが、ホームページに関しては逆なんだから、ちゃんと更新してくださいよ、要は独り相撲をしていただけか、ああ、脱力した、心配して損した(何事もないことが分かってから改めてAPRSのここ数日分の軌跡を呼び出して見たら、ビッシリと走り回った跡が残っていた、時々見たことは見たのだが、たまたまその時は走っていなかったのだろうが、頭から走っていないと思い込んでいた、なんだ始めっから数日分をまとめて見れば良かったのだ)。


平成25年4月18日(木)

 今日の日記は「健康」の流れになるかな。
    最低気温 12.8℃ (06:30)、最高気温 20.9℃ (15:04)

 午前中、健康づくり推進員の集まりに出掛けた。村ごと(行政区ごと)に市が委嘱する健康づくり推進員というのがいて、住民の健康増進の助け、啓蒙をする役目である。一には先ず自分の健康を、そして、家族、地域へと健康に対する関心を広げていくことを目的としている(のだろうと、小生はロクに話を聞いていないけど、そうそう間違ってはいないと思う)。いずれ人は死ぬのだが、なにもその年齢に達する前にわざわざ自ら買って(つまり生活習慣病であるが)不健康で死ぬことは無いだろう(ということは、本来であればもうちょっと健康に関心を持てば十分に元気で生活ができる年齢だったのに、あたら病気適齢前に死んでいく人が少なからずいて、そのために、市は、そして廻りまわって住民が本来なら払わなくてもいいその人たちの医療費を無駄に負担することになるので、なによりも自分のために、そして皆のために、もうすこし健康に留意しようよと、ということである。

 これより少し前に、村の区長がやってきて、今まで他の人がやっていたけど、おまえ、ヒマそうだから新年度からやれと言ってきたので、まあ、そのくらいの地域貢献くらいならいいか、ということで引き受けることにしたのだ。任期は二年で、年に何回かの研修会がある。

 今日は10時から一の宮保健センターで阿蘇市全域から約100名の健康づくり推進員が集まって、委嘱状の交付式や第一回目の研修があった。100人も一堂に会すると壮観で、この100人だけでも自らの健康に留意するだけでこの制度の趣旨は十分に遂げられることになるのだろうが、まあ、小生は、言われなくても自らの健康を管理しているし、今日のメンバーを見渡したところ皆さんお元気な人たちばかりだから、一層のこと、市は自ら買って不健康になっている人間ばかりを集めて委嘱すれば良かったのではと内心思ったところである。(写真1写真2写真3

 そして、昼から、移動献血車が同じ市役所の敷地内で献血をしていので、小生も献血をしてきた。この献血、規則で満七十歳誕生日の前日までしかすることができなのだが、小生は来月、その満七十歳になるので、そして、続けて献血が出来ないので、今回の献血が人生最後の献血となる、今日は献血卒業式だと献血をしながら冗談話をしていると、担当の採血の係だけでなくて、隣りの採血係の人まで、え〜っ、そうですか、と改めて書類を確認して、とてもその年齢には見えないと、今までの献血に対して労をねぎらってくれた、そして係の人がそれじゃあ卒業記念にそのカメラで写真を撮って上げましょうかと持っていたカメラを指して言ってくれたので、それではお願いしますといって撮ってもらった。内心日記ネタに献血車内の風景を撮りたいなあという気があったが、TPOを考えて外観だけにしておいたのだが、そういった気持ちが通じたとみえる。

 献血と言えば、戦後の日本がまだ貧しい時期(この戦後という言葉がもう通じない世代が多くなったが、とにかく、そのころ)、子供心にも覚えているが、「売血」といって、血が商品になった時代があった、仕事が無い時代で、生活に窮すると血を売りに行っていくばくかの金に替える人たちがいたが、なかには血が黄色くなって採血に適さくなるほど頻繁に行く人がいて一時社会問題になったことがあった。その売血制度もいつの間にか無くなって、代わって献血制度ができたのだろうと思うのだが、現在の献血手帳(カード)は単に献血をした記録でしかないが、昔は、本人や家族が手術で輸血をする場合には、献血手帳を輸血量に応じて集めて病院に提出しないと輸血をしてもらえなかった時代があった。従って、家族に輸血をする必要が生じた際に、会社や学校で献血手帳を持っている人たちに協力を呼びかけて集めるシーンを何度も見てきた、いつのころからそのようなシステムも無くなったのだろう。

 たかが、献血だが、自分の意思で、やる、やらない、を決めるのと違って、そんじょそこらの若い者よりもまだまだ健康な血を持っているつもりでいても、もう出来ないということは、もうお前はご用済みだと宣告されたと同じようなもので、一抹の寂しさを覚える。今まで、たまたま献血車が目にとまったから献血をしてきたようなもので、積極的に献血をしてきた訳ではないが、それでも人生34回(もしかしたら途中転居などで記録が途切れた時期もあったのでもっとやっているかもしれないが)の献血記録を残して我が献血は本日終わった。

  ボストンマラソンの爆発事件、仄聞するところによると、日本のテレビのワイドショーかなにかで、わざわざ電気釜爆弾の作り方まで説明したそうだ、信じられんが本当なのか、どうしてこうもバカなのか。


平成25年4月17日(水)

 昨夜からになるのか、明け方からになるのか、起きると雨が降っていたが、明けてしばらくすると天気はどんどん回復して今日も穏やかで暖かい日和になった。
    最低気温 12.2℃ (08:27)、最高気温 20.8℃ (15:19)

 ここのところ、毎日、畑にキジがやってくる、毎朝「ケーン」と甲高く鳴いている。縄張りのようなものがあって行動範囲が決まっているのだろうか、どうして、わざわざ里まで下りてくるのだろうか。「ケーン」と書いたが、実際には「ケーン」とは鳴かない。しかし、じゃあ、どう鳴くのか書いてみろとなると、やはり「ケーン」が相応しい鳴き方だ、言い得て妙である。

 クマデンのJE6JDX局がAPRSの電波伝搬状況の調査を兼ねて阿蘇路を再び訪れた。前回は内蔵ホイップアンテナの5Wハンディ機だったので、ほとんど軌跡を残すことが出来なかったので、今回は、車の屋根にマグネット式の外部アンテナを付けて満を持しての再挑戦となったのである。ところが、もうとっくに走っている時間なのに一向に軌跡が現れない、念のためにメールをすると、どうも無線機の設定を間違えていたようである。結局出発してからカルデラに入るまでの間の軌跡は残らずに、「あそ望の郷」以降の軌跡になった(実はその後も、スイッチを入れ忘れて一部軌跡が飛んでいる、彼女、少しヌケているなあ)。そして、鍋の平キャンプ場から、帰りは来た道を引き返すというので、そこまで来たのなら同じ道を走らずに箱石峠を越えて57号線を走って反時計回りでお帰りなさいと勧め、良かったらお立ち寄りくださいとお誘いして、来ていただいた。

 JE6JDX局(写真向かって左)はご友人と一緒のドライブで、これがまた、縁は異なものとはよく言ったもので、話をしているうちに、彼女はSさんとおっしゃるのだが、「母が阿蘇町の出身で・・・」とのことだったので、「阿蘇町はどこですか」、「××です」、「ああ××ですか、我家の前の県道を外輪沿いにずっと走っていくと××です、小生も××には最近音信がありませんが知った男がいます」、さすがにその先までの展開を期待して言ったわけではないが、ついでに「お母上の旧姓は何とおっしゃるのですか」とお聞きすると、「H石です」、とのこと。「ああそうですか、H石さんというお宅は何軒かありますね、因みに小生が知っているのは、H石××という男ですが」。「えっ!それっ、私のイトコです!」下手くそなドラマの筋書きのような展開に思わず皆で大笑いしてしまった、世間は狭いとは言うがそれにしても狭いものである。

 今回のAPRSの軌跡、外付けのアンテナの効果は絶大で、阿蘇内ではほぼ十分にフォロー出来たようである。

 昼過ぎに村の隆一さん御入来、千客万来(というほどの人数でも無いが)の一日だった。



平成25年4月16日(火)

 晴れ。いよいよ暖かくなってきた。
    最低気温 12.6℃ (00:46)、最高気温 21.3℃ (15:36)

 昼前に停電しやがったようだ、農作業を終えて家に入ると、どうも、オカシイ、自動消灯の電燈などが点いている、停電が復旧するとこのような現象が起きる、二階に上がってみると常時運転のPCが何台も落ちていた、なんで今頃停電するのだ、いつどこどこでこのような原因でこの地区で停電がありましたという事故報告をホームページには載せないのか。

今日は昼前に残りの男爵を植えて作付完了。全部で5列の畝を立てて、南側から男爵を(40株×2列)+23株=103株、メイクイーンを17株+(40×2列)=97株植えた。男爵は39個のイモのうち最後の一個を二個に切ってキリの良い数にした。(写真1写真2

 午後から、前の畑を鋤いていたら、畑の向こう、卯の鼻を廻る手前、村のSさんの倉庫跡で何か工事が始まっている。この倉庫、長い間、屋根が無くなってもう倉庫としての機能を失っていたが、どうやら新しい材料が運び込まれて、新しく作り直しが始まったようだ。長い間放置状態だったので、これは農業の長期低落傾向や年齢を考えてそんなに長くは農業も出来ないだろうから、もう新しい倉庫も要らないということなのかなあと思っていたら、どっこい、今度の倉庫は今までがスレート屋根だったが、太い梁を使った立派な倉庫になりそうである。これだとあと優に十年以上は大丈夫だ、Sさんは小生より確か二年先輩にあたる、このような元気な人が村にいてくれると小生も張り合いがあろうというものである。

 災害の後、倉庫棟の建築や住居の新築など、今や豆札は建築ラッシュの様相を呈している。


平成25年4月15日(月)

 晴れ。今日は文句なしに暖かい一日になった。
    最低気温 10.3℃ (06:02)、最高気温 19.4℃ (15:46)

 娘は昨日の遠足の振替で休みである、保育園にはそのような制度は無い、太郎、叔母に送ってもらった「働く車」のイラスト入りのシャツが着たくて、今日、保育園に着て行った。園児服の下に隠れる前に、ヘソを突き出して、「どうだっ!」のポーズをとっていた。

 気になって、気になって仕方が無かったジャガイモの作付、今日の昼からようやく取りかかった。今年は裏の竹林跡に植えた。天地替えで下の方から出た土で全く肥料が入っていないので、堆肥を入れて何度か鋤いたが、さて、どうなるか。作付時期も遅いことは遅いがまだまだ大丈夫らしい。

 先日通販で取り寄せた種イモ(男爵5キロ、メイクイン5キロ)は小粒の種イモで、同封されていた説明書によると、普通、種イモは、大きい場合いくつか切り分けて植えるのだが、「種イモの大きさは収穫するイモの大きさとは関係ありません」と断り書きがあり、今回の種イモは「全粒」という区分けに入って、切らずにそのまま一個を植えるようになっている。切らずに数が稼げるのでその方が有難い。

 通販で取り寄せた種イモも結局はJAだが、JAによって消費者に対する対応が違うのだろうか、通販に慣れているとみえて、きめ細かなサービス内容である。

 今日は、全部で4列の畝を立てて、男爵を(40株×2列)+23株=103株、メイクイーンを17株+(40×1列)=57株植えた。あと時間切れでメイクイーンが39個残っているので、明日もう一畝立てて植えると完了である。

 今、畑作業の傍らにシャクナゲが美しく咲いている。


平成25年4月14日(日)

 穏やかに晴れて、昼ころから少し雨が降り、その後、曇り、午後から風が強く、日が落ちてからカニマニ(と太郎は言う)が鳴り、断続的に雨が降り、やがてそれも通り過ぎて行った。
    最低気温 4.8℃ (00:46)、最高気温 17.9℃ (10:48)

 昨夜(正確にはもう日付が変わっていたが)、サイレンとともに火災発生の放送が流れた、聞いていると、坂梨の宮崎昭光さん宅の住宅火災とのこと、我家のすぐ隣の福原という集落で、氏も良く存じ上げている、子どもたちも毎日前を通って通学している。我家の室内からは卯の鼻の突端の蔭になって直接見えないので心配になって畑に出て見たところ、炎が真っ赤に夜空を焦がしている、ああ、これは駄目だなあと思っていたら、納屋全焼で鎮圧したという情報を得たので、不幸中の幸いだなと、ほっとした。

 浄土寺牧、昨夏の7.12豪雨災害の爪後がまだ生々しく残っていた、浄土寺牧の運動場は斜面の両側を削られていたが運動場部分は奇跡的に大きな損害を免れて、天然記念物の高野槇も桜の木々も無事だった。明治時代から続いている坂梨の伝統行事、坂梨保育園・坂梨小学校合同の新入生歓迎浄土寺牧遠足(保育園ではお見知り遠足と言う、昔は坂梨全域の行事だったそうだ)、今年も無事に開催された。

 今、浄土寺牧の上を貫く豊肥線のトンネルの復旧工事が急ピッチで行われていて、確かこの8月頃だったか全線復旧する見通しだとニュースで伝えていた。運動会の開催に先立って、会場の全員が黙祷で災害の犠牲者の冥福を祈った。今日は暑からず寒からず微風が吹いて残った桜の花びらがはらはらとその風に散って絶好の運動会遠足日和だった、しかし、行事も順調に進んであと僅か、そろそろ昼食という頃になって、急に空が曇って雨が落ちてきたので、テントの中に避難したが、結局、この時点で行事は中止となって解散になった。我が家に帰ってきて、婆様の仏壇の前で遠足の気分を味わうために床に車座になって皆で弁当を広げた。

 実は今日は婆様が幽明境を異にしてから丸三年の命日だった。仏教では丸三年目は節目となるような法事も特にないので、親戚筋からの心ずくしの花や供物を供えて、それだけで済ませようと思っていたが、偶然、こういうことになったので弁当の握り飯も供えて賑やかに和やかな回向となった。

 太郎は今年は元気に走った、夏子は喘息が出て徒競争も棄権して元気が無かった。年々、子どもたちの数が減っているのが全体を見回すと良く分かる、子どもの数が減ると同時に応援する保護者の数も減る。まもなく学校の統廃合もあるので、あと何回、このような行事が出来るであろうか。

 浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 ( 1/16) 10枚
 浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 ( 2/16) 10枚
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 浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 (13/16) 10枚
 浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 (14/16) 10枚
 浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 (15/16) 10枚

 浄土寺牧 歓迎遠足 連続写真 (16/16)  8枚
 

平成25年4月13日(土)

 晴れ。朝は冷え込んだが、その後気温が上昇して、暖かくなった。ようやく寒さの時期を脱したようだ。
   最低気温 0.4℃ (06:11)、最高気温 16.1℃ (15:27)

 中途半端な時期にどうも風邪を引いたようだ、寝込むほどは無いが、咳が少し出る、そろそろ泳ぎを再開しようかと思っていたところだが、延期である。

 今日は坂梨宿場會の年次総会の日だったが、土曜日はいつもだから、今日も子守だと思っていたので欠席にしたが、カミさんの休みが変更になったそうで家にいたが、結局欠席していつものように子守で明け暮れた。

 夕方、太郎をアゼリに連れて行ったが、もう、そろそろ、浴槽の気泡装置にも慣れただろうと思ったが、これが全然駄目で、今日も結局浴槽にロクに入らずに帰ってきた。カミさんと娘はさかんに、「太郎、お父さんとアゼリアに行っておいで」と唆す、それは女どもがゆっくりと家の風呂で長湯をしたいからで、どういう手を使ったのか、うまく口車に乗せられて珍しく太郎が行く気になったので不思議だなあと思ったが結局今日も期待を裏切った。娘は一体どんな手を使って太郎に行く気を起こさせたのだろうか。

 keiさんが阿蘇に帰ってきたと聞いたので、以前から借りっぱなしだったアナライザーを返しに立ち寄った。しばらくは二重生活だそうだが、近々アンテナをあげる計画だとか、阿蘇の空もまた賑やかになりそうである。帰る途中、踏切近くに、開店したての十割蕎麦「赤川」の看板が目にとまったのでUターンして、ザル一枚食べてきた、しっかりした蕎麦だった。


平成25年4月12日(金)

 晴れ。今日も風が強かった。
   最低気温 2.6℃ (05:03)、最高気温 10.9℃ (14:06)

 娘の小学校、今日は自転車教室の日だそうで、学校で自転車の点検と運転技量テストを受けるために三年生以上は自転車を押して登校して行った

 学校の規則で(小生の記憶だから間違っているかもしれないが)、自転車の運転は、一二年生は自宅敷地内でのみ、三四年生は分団内で、五六年生は校区内で許されている(校区内でも国道は駄目で、六年生については保護者同伴であれば国道走行も可だったと思う)。だから今日も一二年生は自転車無しの登校になった(この並び方が登校班の正式な順序である)。登校下校は自転車は禁止である。

 全員が集合するまで、我家の敷地内でそれぞれ練習をしていた(写真1写真2)。というのは、学校のテストでコーンを並べたスラロームの試験なんかあるようなことを言っていたので、朝練をしたのだろう、男の子は普段でも自在に自転車を乗り回しているので改めて練習など必要はないが、まあ、全員がこうして集まるのも珍しいので一緒になって練習したのだろう。娘も普段、時々、馬場方面に出掛けることがあるが、イザ試験となると緊張して上手くいかないかもしれないと言っていた。帰ってからどうだった?と聞くと、今日すぐには免許は下りないので多分月曜日に学校に行ったら分かると思うと言っていた。

 今日も太郎が皆の練習風景を眺めていた。というのは、登校班の子どもたちが、太郎!太郎!顔を見せろ!と大きな声で呼んでくれるので顔を覗かせたのだ。いつもこうやって何かにつけて可愛がってくれる、このくらいの年齢から既に村のこども同士の交流が始まっていて、そのうちに親分子分の関係が出来て行くのだろう、都市部ではもう珍しくなった貴重は人間関係がここではまだ生きている。 

 朝、小生がコイノボリを揚げるのを家の中で見ていた太郎、異常な興奮ぶりで、コイノボリだコイノボリだ、やったあ、と言って大喜びをしたそうだ、これほど喜んでくれるとは、今年も揚げて良かったと思った(写真1写真2)。今日も風が強かったので、半分ほどの高さにしたが、これでも都会のコイノボリよりは高く揚がっている(写真1写真2)。夕方、降ろそうろすると、太郎も降ろす!といって付いてきて一緒に降ろしたが、コイノボリはどうするの?と聞くので、コイノボリのお家に帰るのだよと言いながら、支柱の根元に置いていある大きな漬け物樽の中に収納した。


平成25年4月11日(木)

 今日も風が強かった、昼前には12m以上の風が吹いていた。高気圧圏内にあって、しかも等高線の間隔が狭いわけでもないのに、風が強くて天気もあまり良くなく、北から寒気が入り込んできているからだそうだが、もうこのくらいのレベルになると、天気図を見た限りでは素人目にはどうしてなのか分からない。
   最低気温 2.2℃ (05:34)、最高気温 10.3℃ (13:37)

 今日は新年度最初の交通指導。ここの登校班には新一年生は居ないので、他の登校班はどうだろうかとカメラを持って行った。小生が立ち番をする辻は三チームが通過する、そのうちの一つの登校班には4人の一年生がいるそうである、今年は交通安全協会(だったか)から贈られたランドセルの上からすっぽり被る反射材仕様の大きなベストを身に付けたピカピカの一年生が上級生と一緒に登校して行った。

 登校風景連続写真(9枚)

 そろそろ端午の節句、坂梨でも数か所でコイノボリが泳ぎ始めている。我が家のコイノボリの支柱、腐っているかなと思ったがまだ大丈夫のようなので、今年もコイノボリを揚げることにしてその準備に取りかかった。コイノボリは、本当は、子どもが理解できる年齢になってから揚げるのがいいと思うのだが、どこでも初節句と精々翌年に揚げるくらいなので勿体ない話である、コイノボリは日本の素晴らしき伝統文化である、しかも阿蘇のコイノボリは阿蘇山を背景に杉の一本柱を使うので他に類を見ない豪快な泳ぎっぷりなのだ、都会で真似をしようったって悔しくても絶対に出来ないのだ、これこそ阿蘇のPRにもなる、これぞジオパークだろう、初節句の時だけでなく、毎年何処でももっともっと揚げると良いのだ、渓流を群れになって泳ぐ杖立温泉のコイノボリも良いけど、やはりコイノボリは大空を泳いだ方が気持ちが良いに決まってる。

 我家のコイノボリの支柱、普段は、アマチュア無線のロングワイヤーの支柱になっているので、コイノボリ遊泳期間中は、アンテナをもう一本のアンテナを揚げてある隣りの孟宗の柱の方に移して、孟宗の方にATU&ロングワイヤと7MHzのモノバンドの2本のワイヤを揚げることにした。コイノボリの支柱のてっぺんに掲げる名前旗やバレン、あるいはコイノボリと並んで揚げる幟旗なんて要らない、これは初節句の時だけで良いのだ、コイノボリが悠々と大空を泳いでいるだけで良いのだ。

 幸いに、矢車もコイノボリも丁寧に保管してあったので、準備は簡単に終わった。今日は強風と言うより烈風状態だったので、試しに少し揚げただけで本格的に放流するのは明日以降だ。


平成25年4月10日(水)

 晴れ、風がとにかく強かった。その分、体感温度も低かった。
  最低気温 3.6℃ (05:01)、最高気温 9.6℃ (14:18) 最大風速16.1m

 今日もひたすらのんびり自己啓発。

 太郎、「勲章」を一つ増やす。昨夕(だと思う)部屋で独り遊びをしていた時に、何だろうか、紙でさっと撫でたような傷が口許に、特に泣くことも無かったのでいつやったかは分からない。

 今日は小学校の新一年生の初登校日で、下校時にはいつも学校の先生が登校班に付き添って帰ってくるのが恒例となっている。ここの登校班には今年は新一年生は居ないが、多分、通学路の安全確認の意味でもあるのだろうか、先生が登校班の後ろからこどもたちを見守りながら付いてきてくださったようだ


平成25年4月9日(火)

 晴れ。一向に暖かいなあとはならない。確かに例年五月に入るまではなんだかんだと言ってストーブの世話にはなっているが。
  最低気温 2.4℃ (02:27)、最高気温13.5℃ (13:43)

 今日は坂梨小学校の入学式があった。新入児童は10名だそうで、全校児童数は72名だとか。児童数は減る一方だが、坂梨保育園は今年は定員が10名増えたとか、カミさんが言っていたが、子どもの数が増えたのか、あるいは、保育園入園要件に該当する家庭が増えたのか・・・・

 保育園も新学期?が始まって、今年から入園した子どもたちが登園してくるが、まだ保育園生活が始まったばかりなので、保護者と別れるのが不安ですんなりと先生の手に移れない風景が見られるがそれもすぐに慣れるだろう。

 今日も裏の畑をトラクターで鋤いて、大分遅くなったがそろそろジャガイモを植えようかと予約してあった種イモを農協に取りに行ったら、取りに来ないし、芽も出てきたので他に回した、だと。我家ではいつも植え付けが遅いので家で保管すると芽が出るのが分かっていたので、少しでも長く農協の冷暗保管庫に置いてもらった方が芽が出るのを遅らせることができると思っていたのだが、農協にはそういった設備は無いようだ。取りに来ないのなら、取りに来ないのかと確認の電話くらいしろよ、他に回すのなら他に回すよ、と連絡をくれよ、それが世間の常識というものだろう、農協の基準はそんものなのか、怒る気にもなれず帰ってきて、ネットショップで探して注文した、価格的にはほとんど変わらないので今後は農協からは買わないことにした。しっかりしないと日本がTPPに加盟することになった場合、農家は大丈夫でも農協は大丈夫でなくなるよ。


平成25年4月8日(月)

 穏やかに晴れる、青空が広がる。
    最低気温 1.7℃ (06:06)、最高気温15.6℃ (14:26)

 潅仏会、クリスマスにはあれほど騒ぐのに一向に話題にならない(旧暦でやるのかな)。

 坂梨小学校は今日から新学期、新しい班長を先頭に始業式に出掛けて行った、今朝は太郎も二階から見送っていた。健太郎君が卒業したあと、明日が入学式だが今年はここの登校班には新一年生は居ないので、人数が減って8人編成になった。これから毎年減る一方だ、そして、二三年後には統廃合されることになっている。

 家の北西の一角(写真1写真2)、田にかかる竹や木が日陰を作って稲の生育が悪いので、もうすぐ田が動き出すので今日少し伐採した。今日木を切ったあたり、我家には不思議とタラの芽が沢山自生していて改めて見るとタラの芽だらけだ。たまに食うから美味いのであってそうそう食うものでも無いのでいつも採らず仕舞いだ。

 ついでに畑に添って植えてある茶の木の剪定もした。もう茶を摘むこともなく、生垣代わりになっているが、背丈ほどに伸びてこれも田に影を作りそうだから、体裁はどうでも良いので、かなり刈り取って低くした

 今日は風もなく穏やかな一日だったが、夕方、阿蘇山のカールに添って火山ガスが下っているのが見えた、風向きがそうだったのだろう。強い風だと飛散するのだろうが、かえって風が無いのが災いしているのかも。ここまで臭ってくることはまず無い。

 久しぶりに体を動かして結構疲れたので風呂にでも入りに行くかと思ったら今日はアゼリアは休館日だった。


平成25年4月7日(日)

 素人が見ても天気図では低気圧の中心が随分と東の方に移動していて、もうそんなこと無いだろうと思っているにもかかわらず、発達中の低気圧でこれから阿蘇地方も風が強くなると夜になっても盛んに予報で伝えていたのでそんなものかと不安な一夜を過ごしたが、取り立てて騒ぐほどの風の影響は無く一夜が明けた。昨日、予報が良い方に外れるのはまあ腹も立たないと書いたが、こう明らかに外れると流石に腹も立ってくる、確かに局地的には被害が出たところもあったが事勿れ主義であまり大騒ぎをするなよ。
 
 夜が明けて、阿蘇山が季節外れに裾野まで白くなっていた。そして、朝のうち、地面が真っ白になるほどひとしきり雪か霰か降っていた。白い雪を戴いた山を背景に黄色の菜の花やピンクの桜の花が鮮やかにコントラストを見せていた。今日は流石に気温が低くて、朝からストーブをガンガン焚いた。(写真1写真2写真3
    最低気温 1.7℃ (06:49)、最高気温8.1℃ (00:00)

 我家の畑にキジ来ていた、阿蘇では毎年キジを放鳥している、この寒さゆえか山から下りてきたのだろうか。

 娘は新学期の学用品でも買ってもらうのか、三人で大津の方に出掛けて行った。小生は自己啓発に勤しんだ。

 寺さんから送ってもらった冲方丁の「天地明察」を読み終わった。久しぶりの「面白い本」だった。確か本屋大賞だったかを受賞していて、以前からその存在は知っていたが、どうも映画になったようで、広告などでその出演者の顔写真など見ていたのでイメージが先行して読みたいとは思わなかった。本は映画などになったら、特にテレビや日本映画は間違いなく薄っぺらで安っぽくなってしまうから、逆に本までもそういう風に感じてしまっていたのだ。史実を元にしたフィクションだと断ってあるが、この史実が非常に興味深かった。和算と暦、天文学、それから囲碁がテーマの小説、関孝和は識っていたが、主人公の渋川春海のことは初めて知った。江戸時代の小説だが、会話が現代の会話のような書き方で文章にリキミが無く淡々と描かれていて好感が持て、読後感が清々しい作品だ。


平成25年4月6日(土)

 雨。
   最低気温13.1℃ (07:38)、最高気温 17.1℃ (14:35)

 太郎の通う坂梨保育園の入園・進級式が行われて、太郎は母親とお姉ちゃんに引率されて出掛けて行った。今年中に満三歳になるが、学齢(という言い方が正しいかどうかだが)は二歳児クラスである。

 低気圧が発生するのはいつも海の上と相場が決まっているので、日本海側で発生しても太平洋側で発生しても、山中のここ阿蘇は比較的その影響は少ない傾向にある。それにしても今回の挟撃される形で両方で発生した低気圧、台風並みを覚悟しろとさかんに予報で注意をしていたので緊張していたが、先日走ったばかりの宮崎、鹿児島方面で大雨が降ったそうだが、ここでは完全に肩透かし、ほとんどソヨリとも吹かず、雨も僅かで昼には東に移動して完全に雨域から外れた。しかし昼のニュースで九州地方でも盛んに雨が降っていると言っていたが、「所によった」のだろう、どうもピンとこなかった。

 予報が良い方に外れる分にはあまり腹も立たないが、今日、我家の隣地のK家の地鎮祭、仕切り直しになったのだろうか。昨日のうちにテントなどを張って準備をしていたが阿蘇の強風は並みじゃないぞと心配していたら、今日になってやはりテントが撤去されていた、こういう場合、予報が良い方に外れても腹が立つだろうな。

 と、低気圧騒ぎはこれで終わりかな、一難、事もなく去った、と思っていたら、また一難、雨域が通り過ぎても、強風で本格的に荒れるのはどうやら今夜から明日朝にかけてのようで、昼前に通過したのは前線だそうで、これから通過するのは低気圧なんだそうだ、まだまだ落ち着かない時間が続く。

 久しぶりにGoogleMapの我家の俯瞰写真を見てみた、今回の写真は、村内の道路拡幅整備や我家の南側に接する志賀さんの田んぼの二枚を一枚にする整備が終わった後の写真なので、割合に最近の写真のようである。しかし竹林がまだ残っているなあ、と思って日記を遡ってみたら、田んぼの整地、村内の道路の拡幅、それと我家の竹林の伐採とほぼ同時期にやっているので、もっと詳しく日記を調べるとかなり写真撮影の時期が絞られるが、ほぼ、平成22年12月頃の写真ということが推測できる。もっと最近かと思っていたら、そういった工事をしてからもう二年以上経っているのだ、本当に月日の流れるのは早いものである。


平成25年4月5日(金)

 晴れ。
    最低気温 5.7℃ (05:40)、最高気温20.8℃ (13:16)

 昨日の運転の疲れは全くなし、しかしそれを自分に向けての口実に前の畑のトラクター作業以外何もせず。

 明日は、一年に数回有か無いかの急速な低気圧の発達で日本中が大荒れになると言っている。台風と思った方が良いと言っているが、このあたりはどうなんだろう、あまりひどくない事を願うばかりだ。

 先日、愛知県に住む妹の子どもや孫たちなどの集まりがあったそうでその時の写真を送ってきた、全部で15人だったそうだが、ひとつの家族というものはどんどんとその輪を広げていくことを実感する。連続写真(13枚)


平成25年4月4日(木)

 晴れ。

 今日は宮崎県日南海岸にある鵜戸神宮に出掛けた。太郎誕生からもうそろそろ三年が経とうとしているが、当時、(カミさんの体調の関係で)出産に大きな不安があったのを気遣ってくれて宮崎のじっちゃいが、鵜戸神宮の御札をもらって送ってくれたことがあった。いろいろな人の御蔭で無事に太郎が生まれて、鵜戸神宮の御加護もその一つだと思っており、まだお礼参りをしていないことがずっと気になっていたカミさんが、遅くなったけど行こうよ、というので、それじゃあ出掛けるか、ということになったのである。

 朝6時半に出発して、高千穂、日之影、延岡、日向を経て宮崎に向かった。途中、じっちゃいの家に本を数冊落として行こうと思って佐土原でバイパスを下りて周辺を探したが、昔一度だけ立ち寄った際は反対方向から走ってきて一発で探し当てたので、今回も大丈夫だろうと、ロクに調べないで行ったので迷ってしまって、下那珂の4000番台のクリーニング屋さんで12000番台はどこだと聞いたけど結局分からず、カミさんのスマホでAPRSを見る手もあったが、時間が無いので断念して先を急いだ(帰宅後、軌跡を調べたらバイパスの反対側を探していたようだ)。

 走っていて、見て感じて宮崎地方はここ阿蘇と違ってやはり南国だなあということが改めて分かった。阿蘇から厚いセーターを着て行って恥ずかしいくらいだった。

 鵜戸神宮で太郎の無事誕生のお礼参りをしてから、その先はどう進むかを考えたが、同じ道を帰るのは面白くないので、ちょっと大変だけど、ぐるっと鹿児島回りで帰ろうかということになって、APRSの軌跡のようなコースを辿って帰ってきたが、つい最近、娘のクラスメートが日置市に転校して行ったので、ちょうど帰るコースにあたるので時間があったら顔でも見て帰ろうかと、近くを探したが、日没後もあってこれも全く調べて来なかったので分からずに、ただ、転校した小学校の名前を娘が覚えてきたので、ほぼ闇の中、校門だけ眺めて、帰路についた。(写真1写真2

 今日は、日南、串間、志布志、鹿屋、垂水、桜島からフェリーで鹿児島、南九州自動車道で日置、串木野市、薩摩川内、出水、水俣、八代と九州の南の海岸線を廻って走って八代から九州自動車道に入って帰ってきたが、今回走って感じたこと、東九州自動車道、南九州自動車道ともに、かなり整備されてきたが、まだブツ切れの部分開通区間が多かった。基幹的な交通インフラは早く整備して欲しいという地方都市の切実な声が非常に良く分かる。走る町走る町、どこもかしこもメインストリートが寂れて元気が無くて、一部の大都市圏を中心にしたことろだけが栄えている、どう考えても不自然だろう、もっと全国にゆったりと散らばって人が暮らしていける環境でないと。今回は海岸線を走ることが多かったので、3.11震災を受けて、南海地震を想定してのことだと思うが、そこここで、「ここは海抜(標高)**m」という新しい標識が目についた。我々も海岸線を走っていて、もし、いま南海地震が起きたら、あそこまで逃げなければねと、高い丘陵を目で追いながら走った。

 朝、6時半に出発、日付が変わって5日午前0時20分帰着。途中カミさんが一部運転したが、走りも走ったりほとんど一般道、総走行距離647q。あちらこちらゆっくり見たい所が沢山あったのに、今日は結局ただ走っただけだったなあと言うと、お父さんはずっと運転していただけ、私と太郎はずっと寝ていただけ、といみじくも夏子が言っていたが、確かにカミさんの仕事があるから出来なかったけど最低でも一泊はする旅だったなあ。

 ETC、前の車から取り外して今の車に登録を変更してあったのだが、取り付けをしないままにしてあったので、うっかりして装備しないで出掛けて、改めてETCが無い不便さを感じた、ETCはもやは必需品である。APRS、今回はブースターをつけて走ったが、高千穂、日之影、延岡ルートはやはり苦しい。それから、肥薩おれんじ鉄道が走る海岸線沿い、ここも苦しい。

鵜戸神宮 参詣ドライブ 記録写真 (1/3)
鵜戸神宮 参詣ドライブ 記録写真 (2/3)
鵜戸神宮 参詣ドライブ 記録写真 (3/3)


平成25年4月3日(水)

 気持ち良く晴れた。昨日の低気圧はここには全く影響が無かった。

    最低気温 5.6℃ (02:51)、最高気温 15.4℃ (15:04)

 今日も自己啓発が面白くて、基本的には仕事をしなかった。娘は、新学期が近いこともあって運動靴を何足も洗っていたので、お父さんの靴も洗ってくれと頼むと快くやってくれた、なんだか気味が悪い。昼には、豚肉のソテーを作ってやる。

 我家の高菜畑、あれよあれよという間にもう花が咲きかけている。我家の高菜を折る予定でいたご近所さんも他のお宅で折らせてもらったからもういいとのことだったので、今日思い切ってトラクターで鋤いた。心情としては、もっと大きくして、あたり辺り一面菜花畑にしたいところだが、大きくなると茎がちょっとした木くらいに太く硬くなって後の処理が大変なので、今年はさっさと鋤いてしまった。結局一本も折らなかったなあ。

 太郎が、トラクターに乗りたいと言っていたので、保育園に早めに迎えに行ったところ、天気が良くて皆で園庭で楽しく遊んでいたところだったので、迎えに来たのが不満なようでなかなか帰ろうとしなかった。ようやく連れもどって、トラクターに乗せて、どんどん鋤いていった。(写真1写真2

 夕方、円通寺のS師が御近所の木を切ったからと、エノキをトラックで運び込んでくださった。もう今シーズンは終わりだから次の冬用である。



平成25年4月2日(火)

 朝からこまかな雨が降っていた。九州全体を雨雲が覆っていたが、厚い雲では無さそうで、日本列島に添って東に移動して行った。これから西日本、関東地方が低気圧で荒れるという予想が出ているようだ。今日も部屋でじっとしているには少し気温が低かったので昼からストーブを焚いた。
    最低気温 11.5℃ (06:04)、最高気温 14.1℃ (13:16)

 今日は外作業が出来ないので大威張りでアッセンブラの座学に励む。海綿が水を吸い込むように、だったか、乾いた砂漠に水が浸みこむようにだったか、そういう表現があったと思うが、もうとてもそんな若い脳ミソを持っていないので、読んで解ったつもりで先に進んだと思ったらもう忘れてまた元に戻って、と往ったり来たりで解説書を読んで過ごした。昔は読んでもさっぱりだったが、今回は、すぐに忘れるものの、その時は解っている、という大きな違いがある。脳ミソが新しい知識と情報で、悲鳴を上げて心地よく疲労している。

 その疲労をほぐそうと(癒やす、という言葉は氾濫し過ぎで好きではない)、風呂に入りに行ったが、太郎が、温泉の浴槽の気泡発生装置ブクブクが怖いと言って行かないので、小生が独りで出掛けた。その間に、娘が、一人で風呂にお湯を張って、キカン坊の太郎を入れてくれて、頭を洗うフルコースをやてくれた。そして母親がいつもより遅いので、米をといで電気釜に仕掛けてくれていた、新5年生、やるじゃないか、お父さんが随分楽になるぞ。


平成25年4月1日(月)

 穏やかに晴れる。しかし、花冷えというか、ストーブを焚くまでのことは無かったが、PCの前にじっと座っていると股引を脱いだ腿のあたりが少しヒヤヒヤ感じる一日だった。
    最低気温 1.7℃ (06:04)、最高気温 19.9℃ (14:08)

 4月になるのを待っていたように、坂梨でもコイノボリが揚がった。少子化過疎化が進む坂梨で今年は何本のコイノボリが揚がるだろか。我家のコイノボリ、柱が大丈夫なら今年も揚げてやりたいが、強度はどうだろうか、腐ってないだろうか、その間、無線のアンテナは我慢するか。本当は三歳頃になって揚げてやった方が本人は解って喜ぶのだ、初節句に揚げて喜ぶのは本人の都合とは全く関係ないのだから。

 ほとんどの所では今日から新しい年度が始まった、それも月曜日というキリのいい曜日からのスタートである。全国各地で入社式が行われただろう。ラジオから流れてくる聞きなれた番組もアナウンサーが交代して新鮮な気分になる。太郎の保育園も、セレモニーとしての入園・進級式はもう少し先になるが、今日から早速新しいクラスに登園して行った。新聞にも阿蘇市役所の人事が掲載されていた、小さな町なので、知った人の名前が結構見られた、皆さん希望に燃えて決意新たにスタートを切った一日だったろう。太郎は何のことかまだサッパリの一日だったろう、いつもと同じように帰ってきた

 国民栄誉賞がまた発表されたようだ、巨人・大鵬・たまご焼き、だからな、少々乱発だな、インフレだな、アベノミクスだな、さて玉子焼きにはどうするのだろうか・・・・・

 娘は春休みなのでノンビリしながらも隣りで机に向かって何やらしていた。小生は今日は外作業は全くやらず、PCの前でとりとめもなく過ごした。

 小生がPICをモノにしようと思い立ち、過去何度も挑戦し、(というところまで実際には到達する前に)早々と挫折というか降参してきたが、今回ようやく何とか光明を見出せそうになったきっかけは、このサイトである「PICで遊ぶ電子工作」。

 今まで色々なサイトを漁って、参考になるなと思ってプリントしては、部分部分しか満足できずにまた他を探してきたが、この「PICで遊ぶ電子工作」は小生のようなPIC初学者にとって非常に解り易く解説してある有難いサイトである。

 それから、信州大学のマイクロコンピュータ講座が素晴らしい、さすが国立大学である、そして教育機関である、なんと動画解説(例えば、http://cai.cs.shinshu-u.ac.jp/susi/Lecture/microcomp/d_03-02-01.html )まであって実に懇切丁寧である、細かな説明が欲しい時、言葉の説明が必要にな時にここに来ればいい。この講座は現在は無くなっているようで、過去の記録として残してあるのかもしれないが、まさにインターネットのお陰である。


 機会があれば(日記ネタに困った時に)書こうかと思っていたのが、冬の話題になるので少々季節外れになってしまったが、ゴキブリとカメムシの話である。

 我家ではこの冬、というかゴキブリに関してはここもう一年くらい通して目撃ゼロである。それから、カメムシも、毎年冬のシーズンが始まると毎晩、ブーンと飛んできては蛍光灯の周りをまわって、傘に取りつく。うっかりつぶすと、つぶさなくても刺激して臭いを発散させると強烈な不快なに臭いを発するので、そっと、臭いが移らないようにティッシュで包んではストーブに投げ込む毎日だった。毎日10匹ではきかなかった。それがこの冬は初めの頃少しでたが、基本的にはゼロだった。

 どういうことだろう、天変地変の前触れなのか。もう大分以前、村の寄合でご婦人がたの話しに阿蘇にはゴキブリは居らんばい、と聞いたことある、地球の他の生き物すべて死滅してもゴキブリだけは生き残るだろうという説があったかどうか、それほどしぶとい生き物なのに、どうして阿蘇には居なのだろうと思ったことがあったが、どうやら本当かもしれない。

 我が家に昨年あたりまで居たヤツは、引っ越し荷物に隠れて向うからやってきた一族で、とうとう阿蘇で生き残れずに絶えてしまったか、あるいは、ゴキブリ嫌いのカミさんがバラ撒いたゴキブリホイホイの地雷原にかかって全滅したか、いやいや、そんな程度で簡単には絶滅しないだろう、ということは、阿蘇にはゴキブリは居ないという説は本当なのかもしれない。

 そうするとカメムシの方の説明がつかない、何故だろうか。考えられる理由の一つに、裏の竹林が無くなったことがあるかもしれない。そう言えば、大きな家グモ、アシダカグモと言ったか、それもあまり見なくなったし、ムカデもあまり見なくなったなあ。竹林、人間に不都合な生き物が居なくなった蔭で有益な生き物も居なくなったのかもしれない。



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