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平成28丙申(2016)年 4月の記録(新しい日付けの順)


平成28年 4月30日(土)

 放射冷却、ぐっと冷え込み、美晴となる
     最低気温 4.1℃ (05:14)、最高気温 20.3℃ (15:55)

 朝食も早々に、水道管復旧工事に取り掛かる。本管からの漏水が激しく、水中ポンプの能力を超えている。なかなか底が見えず、従って漏水箇所の水道管が出てこない、小林さんが本管を止めて工事をしに来てくれるまで少しでもやっておこうと泥まみれになりながらやるがどうも進まない、ふと頭の上を陰がよぎった、植栽越しにトラックに載った重機がチラリ。小林五夫さんと志賀聡雄さんがやってきてくれた。重機は小型パワーショベルだ、志賀聡雄さんが自前のパワーショベルを持って援軍としてやってきてくれたのだ。

 ああ、これで今日中に片がつくと思わずホッとした。小型のパワーショベル、今まで大きなものしか働くところを目にしたことがなく、常々このタイプはちょっと小さすぎるなあと正直思っていたが、実際に動き出してみると、小生が一週間もかけてやってきたのは一体なんだったのだ、と愕然とするくらいパワフルで、パイプを埋める溝をどんどん掘ってくれた。一方、漏水箇所は本管を止める必要があるので、飯時を外して、午後3時から断水する旨、村の皆さんの家に断りに行って、時間を待ったが、午後2時くらいになって、断水することは断ってあるからもうやってしまおうと、村の本管の元栓を止めて、一気に水を汲み出して、パワーショベルの力を借りて、穴を広げて更に掘り下げてあっという間に、漏水している水道管を見つけ出した。
 
 昔の水道管は鉄管で、漏水箇所は切断したように破断していた、小さな漏水があって、今回の地震で一気に破断してしまったのだろうか、(鉄管そのものは腐食もあまり見かけられず、たまたまこの部分だけが切れていたのだ)、小林さんはそこから少し本管寄りを工具で切って、水栓を打って、村の断水はそれで終了、直ぐに本弁を開いて復帰した、ものの30分もかかったろうか。水栓さえ付けてしまえば、あとはこっちのもの、ポリエチレン水道用二層管(軽量・可とう性・耐衝撃性があり. 外層に耐候性、内面に耐塩素水性にすぐれた材料が使ってある、いいこと付く目の水道管である)をパッと伸ばして、ちゃっちゃっちゃとつないで、ハイ一丁上がり、さすが本職、そのお手並みの見事さ、あっという間い終わって、次の現場に去っていった。とにかく今回の地震で水道屋さんは引っ張りだこ、熊本まででかけたそうである。
 
 後は聡雄さんが、埋めた水道管を埋め戻して水栓を打ったところに、上から開閉できるようにパイプを埋めて、埋戻しをしてくれた。聡雄さんのパワーシャベル、本当に有りがたかった、「災害復旧ボランティアだ」と言ってモンキーに跨ってさっさと帰っていった。
 
 それより少し前、通水テストをしたあと、「おーい、蛇口をひねってみてくれ」と家の中に声を掛けると、「出たあ〜すごい勢い!」という歓声が上がった。考えてみたら、我が家を建てた時から、もしかしたら水道管の漏水は始まっていったのかもしれない、それが今回の地震で更に漏水箇所が広がったのかもしれな、こんなに勢いが強い水勢はもしかしたら初めてかも知れない、これなら、改めてエアで「吹く」ことも無くなった感じである、小生は何のためい家の周りの水道管を掘り返していたのだろう、地中のどこを水道管が這っているのか全くわからなかったのだから、漏水箇所を特定したことは大きな意味があるが、「吹く」ために家の周囲を掘ったのは結果的に無駄であったかもしれない、それでも、今回、随分と水道管の仕組みについては勉強できた。
 
 もう、くたびれ果てて、体中が泥で真っ黒になったので、太郎と一緒にアゼリアに行って、汚れを落としてゆっくり湯船につかって帰ってきた、太郎も今日一日現場に張り付いて、手伝ったのか邪魔をしたのか分からないが、一緒に真っ黒になっていたので、お風呂気持ちが良かったろう。

 とにかく、ようやく、本日我が家も地震災害から復旧することが出来た、水が使えてお湯も使える、本当に有り難い。

 (もう疲れて写真をアップする気力が残っていない、写真は明日だ・・)・ 
我家漏水復旧工事 連続写真(1/2)
我家漏水復旧工事 連続写真(2/2)


平成28年 4月29日(金) 昭和の日

 放射冷却で冷え込んで、昭和の日にふさわしく一点の曇もない晴れで明けた。明朝はもっと冷え込むそうである。、
   最低気温 5.9℃ (06:04)、最高気温 18.5℃ (16:09)

 地震騒ぎでずっとそれどころではなかったが、素晴らしい天気だったので、久しぶりにコイノボリを揚げた。写真を撮るのに揚げた時が一番コンディションが良かったが、撮り忘れて夕方になってしまった。   

 今日も一日水道管の掘り返しで終わった。本管近くの管のために漏水箇所が分かっているのだが、その管がどう走っているのかがどうしても分からず苦労した。水中ポンプが絶対に必要なので、奮発した。と言っても思ったほど高額なものではなく、小生のいずれやりたいと思っている古井戸の再生にも使えるから無駄にはならない。その水中ポンプのおかげで、なんなく掴めてきた感じがする。あと一歩のところまで来た感じだ、それにしてもさすがにちょっと疲労が溜まって来た感じだ。

 昼飯は、作っている時間がなくて、蕎麦処「阿蘇の風」にお邪魔した。
 
 晩飯も作るヒマがなくて、冷凍庫にちょっと余ってはその時々に冷凍しておいたカレーやシチューなどが入っていたので、子どもたちにそれぞれ希望を聞いて解凍して食べた。太郎はカレー、娘はロールキャベツ、小生はシチュー。



平成28年 4月28日(木)

 朝、レーダーでは全く九州に雨雲がかかっていないのに大雨注意報が出ていた。が、結局空振りに終わって、午後からは回復方向に向かいつつあるようだ。今日も気温は低めで夜になったからも少し下がっている。
   最低気温 11.3℃ (但し、20:12現在、尚下がる方向)、最高気温 17.8℃ (00:00)

 本日も太郎は自宅保育で過ごす。夏子は午前中、登校した。

 午前中早く、我が家のログハウスを建ててくれた熊本市にある佐藤林業の中島純一さんが元請会社でもなかったのに今回の地震で被害が無かったかとわざわざ訪ねてくれた。今、氏の会社が手がけたログハウスの様子を見るて廻っているとうことであった。我が家はビクとも、どころか、物もほとんど倒れませんでしたよ、と応えておいた。氏が言うには、激しい地震で地面に段差が出来て基礎ごと傾いたところがあったが、ログハウスそのものは全く無傷だったので、基礎ごとジャッキアップすれば元通りになるでしょうとのことであった。さすがログハウスである。

 益城や南阿蘇を襲った今回の震度7の激しい地震。震度8や震度9くらいあった感じだが、実を言うと、日本では地震の震度は7が最大でそれ以上の震度は無い。ついでに言うと、震度0、震度1、震度2、震度3度、震度4はあっても、震度5と震度6という震度は無い。震度5弱、震度5強、震度6弱、震度6強と段階を踏んでいるが、震度5ちょっきり、震度6ちょっきりという震度はないのである。だから震度0からはじまって震度7までで丁度10段階に分かれていることになる。ちょうどこのことが日経ビジネスオンラインに載っていた。http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20130408/246293/
 
 同じく日経に、ちょうど活断層沿いにある県道28号線と俵山トンネル崩壊のレポが載っていると高木義臣さんが知らせてくれた、想像以上のダメージでこのルートも復旧が大変だろう。
 http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/atcl/cntnews/15/041500329/042600031/

 Google Mapは早くも今回の地震災害後の航空写真になっている(KK5さんが教えてくれた)、このあたりがgoogle、さすがやることが早い、日本企業には真似のできないところである。この空からの風景、改めて自然の猛威に身がすくむ思いがする。(写真1写真2

 地震で高圧鉄塔などが倒れて、現在阿蘇谷の電源はたくさんの高圧電源車のお世話になっていたが、今日あたりから応急処置ながら高圧鉄塔による送電に切り替えの工事が始まっている。ただ、その切替の予告が非常に漠然として、自分のところがいつその切替工事のために停電するのか全くわからない
 
 予定がわからない理由の説明があるが、まあ、そうなんだろうけど、本当にそうなんだろうかと思ってしまう。常識的に考えたら、送電元に近い方から切り替えていくと思うので、そうすると、カルデラの西端から東に向けて少しずつ切り替えていくのではと考える、そうなると、ここは一番最後になるが、そういった大まかな予定もわからないのだろうか、
 
 4月28日(木)早朝から29日(金)にかけて、とあって非常に幅がある、どうせ長くて一時間くらいだから、わざわざ知らせることもないということなのかもしれないが、停電の開始が決まっていない一時間は単なる一時間ではないということが分かっていないようだ。
 パソコンや自宅サーバーはこういった時だからこれはやむを得ないからいつ切れても構わないが、その時に停電すると困る電気製品はたくさんある、また夜間は避けるとか、夕食の準備をする時間帯は避けるとか、もう少し、情報がほしい。電源の切り替え工事にはバラバラにやることはないはずで、工事の司令塔がどこかにあるはずだ、そこと各現場のやり取りは緊密に行われるはずで、司令塔では今どこで何をやっているか把握しているはずである、そうでなければ危険極まりないないからである。と言うことはその司令塔から市の防災無線に常時情報を流せばいいはずで、やってやれないことはないはずである、そのための防災無線であり、インターネットだろう、つまりICTである。教える側(九州電力)にもそれを要求する側(市)にもそれだけの住民サービスの意識が無いということなのではないだろうか。
 
 では、直接聞いてみようか、と坂梨小学校前の四電の高圧電源車に行って恐る恐る尋ねたところ、当初は17時くらいの予定でしたが、工事が早く進んでいて15時くらいには切り替えられると思いますと丁寧に答えてくれた。聞けばちゃんと分かる情報をどうして放送で流さないのか。
 
 しからば、その時間を避けて、メシの準備と風呂に行こうと思って待っていたが、一向に停電しない。いつまでも待っている訳にはいかないので、システムの電源を全部落として子どもたちとアゼリアに行くついでに坂梨小学校前にに行ってみると高圧電源車の姿は影も形も無かった、ということは、切り替えが済んだのかな、我が家はこの電源車の配電系統ではないのかなと思って、二三軒、坂梨の通りの知人のお宅に電話して尋ねたところ、いや、停電はしなかったよ、とのことであった?????停電なしでも切り替えが出来るのだろうか、というわけで、いつの間にかに、高圧線送電に切り替えが終わっていた。どうもよくわからん。と思って、ネットで調べたら、無停電切り替え機能というやつがあるようで、どうもこれだったのだろうか。http://www.meidensha.co.jp/knowledge/know_03/enote/no9/index.html#top

 今日の水道管工事、雨の後でグランドコンディションが悪いので、漏水箇所の方は手付かずで、屋外散水蛇口のルートを探ってみたが、なんだ変なコースどりだなあと思えるような配管を見つけた、まあ、これは大勢に影響がある配管ではない。 
  
 昼飯はまたアンコールで親子丼
 晩飯、刺し身、出汁巻き玉子、ほうれん草の味噌汁



平成28年 4月27日(水)

 今日はまた大嵐が来るような予報だったが、風も無く雨もあまり降らず、そのうちに夕方になってしまった、複雑な天気図でわかりにくいがこのまま収まるのだろうか、良い方に予報が外れたのだろうか。
   最低気温 15.8℃ (06:02)、最高気温 18.1℃ (15:52)

 今日あたり、震度1だとか震度2だとかの発表が結構頻繁にラジオから流れるが、ここでは震源からはなれているのだろう全く感じないが、なんだかここにきて急に地震が増えたような印象があるが、気象庁では今回の地震以来、大きな地震が続いていたので震度2以下の地震についてはそのたびに細かく発表をしなかったそうだが、地震の回数が減ってきたので昨夕から発生のたびに詳細に発表するようになったということである、道理で急に細かな地震の回数が増えたなあと思ったわけだ、ずっとあっただけで単なる発表の違いだったのだ。
 
 今日の新聞にも地震の被害の写真が大きく載っていた、南阿蘇鉄道も色々大変だ(写真1写真2)、それから外輪も崩れている(写真)。

 昨夜は九時ころ就寝、午前五時半まで爆睡、一度も目が覚めなかった。太郎は避難所から戻って家で寝る時はカミさんのベッドに潜り込んで一緒に寝ているので、小生が太郎の様子を気にする必要がないこともある。
 
 今日は天気が大荒れになる予報で、且つ、漏水箇所の側溝にも普段より多くの水が流れていて、足場も悪く、全ての条件が良くないので、今日の水道工事は完休にした。(写真1写真2

 水道工事は今の季節が一年で一番適している。草が枯れていて地面がむき出しになっていて、かつ、極寒でないので凍結することがないので、掘り出した水道管の養生をする必要もなく、また蚊などの刺す虫もおらず、暑からず寒からずの季節だからである。そのいい季節もそろそろ過ぎており草がやたらと生え出して、地面を掘るのが大変になってきた、草むらの障害物に足をとられることもある。
 
 人はわざわざ不便を求めて(ちょっと違うか、「承知で」か)キャンプなどに行く、谷川に水を汲みに行き、枯れ枝を集めて火を点けて煙に巻かれながら煮炊きをする、ゴツゴツの硬い床に寝てそれらを喜びとする。災害で日常の便利な生活を奪われて、キャンプと似たような不便な生活を強いられる。同じ行為を一方で楽しみ、また一方で悲観する。ものは考え様だ、我が家のように極めて軽微な被害で済んだ世帯ではどうせならその時間は変わらないのだから災害による不便な生活を逆手にとって楽しみとして捉えて過ごしたほうが精神衛生上なんぼか良いだろう。と思う。わざわざ不便を求めて、ではないが、田舎暮らしを選んだのだから、長期キャンプ生活だと思って、水道が不便なのも気にしない、気にしない。ログハウスもセルフビルドをちょっと考えたこともあるくらいだ、そのなかには水回り工事も含まれる、だから今やっている水道修復工事も楽しみの一つだ。さらに穴掘り作業も、わざわざアスレチックに行く必要がない、自然に体力がつくしダイエットにもなる、プラス思考、プラス思考。
 
 今日も太郎は自宅保育にした。アイツは避難所でもゲームをする時間が増えて、自宅に戻ってからもDSのマリオ(だったか)ばかりやっている、このような状況だから大目に見ているが、そのうちにコラッだな。
 
 今日は一日何もしないでズルズル過ごした。娘は昨日から喉が痛いと布団の潜り込んでいた。
 
 今日は労働もせず、汗もかかなかったので風呂はやめた。 
 
 昼飯はチャンポンと納豆巻き
 晩飯は親子丼、ジャガイモ、アスパラ、タマネギ、ツナ缶の炒めもの、豆腐と油揚げの味噌汁、ビワ


平成28年 4月26日(火)

 久しぶりに明るい阿蘇山を見た気がする、野焼き後の真っ黒あ山肌がいつの間にか新緑に覆われている。(写真1写真2)
     最低気温14.5℃ (04:44)、最高気温 21.1℃ (14:38)

  昨夜も弱い余震が複数回あったが、太郎はもう爆睡していた。震度1以上の余震は既に900回を超えているとか、なかなか終息に向かわないなあ。

 今日はお姉ちゃんもボランティアなどが休みで家にいるというので、太郎は自宅保育をすることにして保育園に電話をしておいた。
 太郎のやつは今日はずっと一日小生のそばに居て、水道管の掘り起こしなどを内心ありがた迷惑なんだが、本人は一人工のつもりで一生懸命にやっていた。

 今日は、家周りから離れて、本管へ通じるルートを探した。開閉バルブから家側が新しいHI管、道路側に古い鉄管が埋まっている。この鉄管を探すのに苦労した。昔の状況が分からないので、今見えているパイプの先が、どこで、どういう方向に曲がっているのか・・・全く取っ掛かりがない。ただ、今朝、小林五男さんが顔を出したので、古い鉄管のことを聞いたら、昔は鉄管は5mだったと思うとのことだったので、それを頼りに少しずつ掘っていって地下に埋まっている鉄管を探しだした(写真1写真2)。そして、そのうちに、これは途中で折れておらず、道路までまっすぐだろうという気がして、一気に道路沿いに植わっている植栽を全部刈り取って、当たりを付けたところ足元が妙に柔らかい、スコップを入れるとズブリと入る、ここで漏水していた、本管から枝管に入って直ぐのところである。(写真1写真2写真3

 この漏水を止めることと、建物周囲の詰まりを吹くことが二大テーマとなった。漏水の方は、本管とのつなぎ目を探す作業がまだ残っているし、開閉バルブが無いのでどう漏水を止めるかだな。
 
 とにかく、今日はやたらと疲れた。今晩から明日、また大荒れに荒れるそうだ、休養しよう。
 
 昼飯には、ミニステーキランチ
 晩飯には、ハヤシライスを作る。

 地震で休止していたAPRSのI-Gate局JA6LGV-10を復旧させた。APRSのI-Gate局は南阿蘇にもう一局JG6YFP-10があり、ここも地震以来休止していたが、こちらより早く復旧していた、阿蘇大橋の大崩落現場に近く、周囲の被害も大きくて、心配していたが、無事だったようだ。お互いの運用バンドが違うので相互の交流はないが、今までどおり、aprs.fiに二局のシンボルマークが表示されるようになった。


平成28年 4月25日(月)

 小雨に煙る一日だった。
    最低気温 13.2℃ (00:00)、最高気温 15.5℃ (11:08)

 ここのところ、深夜2時ころには目が覚めてそのまま起きてしまうことが多いが、今朝もそんなものかなと目が覚めて枕元の時計を見ると、午前5時、久しぶりに熟睡した。昨夜は揺れなかったのだろう。

 今日から保育園が再開した、ただこんな時だから出来るだけ家庭保育を、という要請があったので、我が家では家庭保育のつもりだったが、水道の復旧作業などがあり、太郎を家庭で看ることが困難で、また避難所に放りっぱなしもあまり感心できることでもないので、保育園にやることにして、弁当を用意したりの登園準備をして避難所に泊まった太郎を拾って保育園に送り届けた。そして夕方少し早めに、保育園に迎えに行ったが、さすが今日は子どもたちの人数が少な買った。

 阿蘇市でもまだ断水世帯が3,500、とラジオで言っていた、正確には3,501世帯だな。我が家の水道はまだ出ない、我が家の断水は統計には含まれていないからだ。もちろん3,500というのは「およそ」だが、こんな人口の少ない町で3,500世帯というのは多い、水道の復旧というのは、水道管が見えないだけ、電気よりも大変なのかもしれない。

 その、我が家の水道管、今日はまた昨日までより一歩、建屋に近づく方向で掘り進めた。
 
 昨日までで分かったのは、家屋に入る手前にある開閉バルブの先が屋外の散水用の蛇口方向に伸びているということだったが、その先がどこで曲がって建物に添って水回りのある場所に行っているかである。散水用の蛇口方向に進んだ途中にチーズがあって、そこから分岐して、建物に添って先に行っているのかなと思ったが、姿を現しているパイプの、この辺りだろうか、という場所には、そのチーズの形跡がない、散水用蛇口まで全部掘り進める手もあるが、でもこのラインは敢て知る必要も無いので、逆に水道管の反対側の一番遠いところから逆に探ることにした。
 
 その前に、床下に潜り込んで、我が家の水回りの洗濯場、洗面所、風呂、トイレ、台所の水道管が基礎のどの辺りから立ち上がっているのか、見てみた。なんだか、皆、似たような太さの配管ばかりである。これは、凍結防止のために断熱材が巻いてあるからだろう、これかなと見当をつけられるものもあれば、サッパリのものもある、開閉バルブがあるところから建物の一番近いところにあるのは洗濯機様の水栓と洗面所の水栓である、その位置を頭に入れて、外に出て、建物に入っている辺りのパイプを掘り起こしたところ、建物の基礎からどのくらい離れて配管が通っているのだろうか、エイッ、このあたりだろうと検討をつけてスコップを入れると、イッパツで掘り当てた.
 
 しかし、そのあたりで建物方向には分岐していない、仕方がないのでそのまま掘り進めたが、このままだと汚水管にぶつかる、どうしたものかと調べたら、汚水管はずっと下を通っていたので、さらに掘り進めたところ、給湯器がある辺りでようやく分岐点が見つかった、ここから建物に入って給湯器と洗濯用水栓と、洗面所に基礎の下を配管が行っているのだろう。建物に平行して走る配管はその先で今度は90°曲がって風呂やトイレ、炊事場の方向に配管が行っているはずである、さて、どこだろう。
 
 このあたりかな、と思って掘ると、ピシャリ、全くピンポイントでエルボを探し当てた、まさに神業である。
 
 小雨が間断無く降っていて、昼も過ぎていたので、今日はここまでにしておいた。

 結局、開閉バルブ付近から建物に添って、水回り方向への配管の分岐点は無かった。(写真1写真2
 
 ところで、こんなに掘り起こして、一体どうしようと言うのだ。それを言われると、確固たる方針を決めているわけではない、ただ、適当な場所で切って、そこからスタート方向にエアを吹いて見ようかと思っている。水道管が昔の鉄管だと、ネジを切ったり継いだりする作業が大変だったろうが、今はいとも簡単に切ったり継いだりが出来る、工事屋さんやるのを見ていて覚えた。これをやってみようと思ったが、これはプロの助言を待とう。
 
 それとは別に、もう一箇所、そもそも本管から我が家に入り口を探したい、この管は古いので動脈硬化をおこしているので、出来るだけ本管に近いところで、切って、新しい管を繋ぎたいのだ。ホントの事を言えば、本管から全く新しい引き込み線を引きたいのだが、そうなると、道路の擁壁のコンクリートのハツリ工事が入ってきて、大工事になるのでできればそこまでやらずに済ませたいところである。かなりのスコップ作業になるが畑で苗の植え付けなどでスクワットをするより遥かに楽である、配管を探して掘る、計算と推理、宝物を掘り当てる喜びのようなものだ、あるいは、古代遺跡を探し当てるのに通じるかも知れない。
 
 昼間、コイン精米所で精米をした。こんな時だから、いつまた、必要になるかもしれない、米さえあれば飢えることがないから少し早いが精米をしておいた。
 
 二三日前の日記に、避難所に無料の公衆無線LANを置くべきだと書いたが、ちゃんとあった、娘が掲示してあったよと言っていたので、太郎の寝具などを持ち帰るために避難所に寄った際に試してみた。
 このシステムは「00000JAPAN」(読み方:ファイブゼロジャパン)と言うらしい。
 地震などの災害時に開放される公衆無線LANのSSID。2015年12月、無線LANビジネス推進連絡会の「いのちをつなぐ00000JAPAN」で提唱された、誰でも無料で利用できるSSIDである。

 災害時においては、自治体が誰でも利用できる公衆無線LANを開放するケースがあるが、SSIDなどの情報提供はWebサイトを通じて行われる。そのため、通信回線を絶たれた被災地の人はSSIDを確認することが困難である。一方、00000JAPANは、災害用の統一されたSSIDであるため「00000JAPAN」の文字列さえ知っていれば、どこでも公衆無線LANが利用できる。

 00000JAPANは、通信事業者やWi-Fi機器のベンダーが、災害地の避難所や仮設住宅に臨時の公衆無線LANを設置することで利用できる。無線LANビジネス推進連絡会では、災害発生から72時間以内に公衆無線LANを開放したいとしている。
 夕方、夏子がボランティアから帰ってきた、今晩から家で寝るぞと言ったらウンと言ってた、太郎にも今晩から家だぞ、というと、納得したようだ。今日になってからだろうか、家に居てちょっとグラッと来た際に、慌てて小生のところに走り寄って来そうにするので、「来るな!そこに居ろ!大丈夫だからいちいち飛んで来るな!」と叱咤して、それを二三度やったろうか、太郎もなるほど、大丈夫なんだということがだんだん分かったようで、あまり慌てなくなった。夕方、太郎も夏子も今日は風呂はいい、というので小生だけアゼリアに行ってきた。自衛隊の風呂でも、我が家はまだ水道が来ないので入っても構わないと思うのだが、アゼリアは年間会員だから、自衛隊は遠慮することにしてアゼリアに行ってきた。

 晩飯、麻婆豆腐、エビチリ。かくして、久しぶりに、家族全員が自宅で就寝することになった。



平成28年 4月24日(日)

 終日、細かな雨が断続的に降ったりやんだり、気温も低めで肌寒かった。
    最低気温 10.9℃ (00:00)、最高気温 15.1℃ (14:54)
   
 昨夜も眠くて(いつものことであるが)9時ころには早々と布団にもぐりこんだ、カミさんたちはまだ起きていたが、避難所に戻って寝ると言っていたので、日記にはもう戻ったことにしてアップしておいた、ところが夜中に目が覚めた時に隣室で三人が寝ていたので、なんだ戻らなかったのかと尋ねたら、疲れて避難所に戻るエネルギーが残っていなかったのでこのまま家に泊まったとカミさんが言っていた。これが避難所を引き揚げて三人が家に戻るきっかけになるのではと思った。

 今月14日の婆様命日、今年は七回忌だったが、夜に今回の熊本地震の引き金となった激しい地震が起きた、生憎と平日なので今度の日曜日に七回忌のお経をあげていただこうかねと言っていたのが、その後、法事どころではなくなってしまって、ようやく、今日、円通寺の坂本智道和尚にお経をあげていただいた
 
 婆様の命日には以前にもハプニングがあった、それは一周忌の時だった、平成23年4月14日(木)、ニホンミツバチの初めての分蜂騒ぎがあった。ここ数年もうハチが来ていないので婆様の力で今年は是非とも、ハチを呼んでくれ。日記は付けておくものだ、こうして過去のことがハッキリと思い出されるから。
 
 七回忌にあたって婆様の思い出を色々と書こうかと思っていたが、今回の地震で何となく気が削がれてしまった、婆様、まあ、こんなものだね。
 
 今日は雨で外の作業ができないので、さて、なにをやろうかと考えたものの、地震の前にはあれほどやりたいことだらけで時間が無くて困っていたのに、急にぽっかり時間が空くと、何をやればいいのか分からなくなる、ひとつには頭が地震のことで占められているからだろうか。机周りを少し片付けたりしている間に一日が終わった。
 
 メイクインの芽がようやく出始めた。男爵は全部芽が出た。そして、雑草も急に勢力を伸ばしつつある。(写真1写真2写真3

 今日も何回か震度3程度の余震があった、大体震源は阿蘇だという、娘は夜のボランティアで避難所に出かけて行って、カミさんと太郎も夜は不安と見えて、今晩は避難所で寝ることになった、小生だけが我が家で大の字である。


平成28年 4月23日(土)

 午後に入って、雨模様になる、ただ、先日のような強い雨ではない、ちょっと肌寒い一日だった。
    最低気温 11.1℃ (18:44)、最高気温 17.2℃(12:14)

 午前3時ころ目が覚めてそのまま起きてしまったが、起きてすぐに小さな余震があった、それから5時半ころにもあった、二度とも、あ、来るなということが分かった、と言うのはドンと来る前に、ホンの少しだが必ず家の骨組みのどこかからミシッという小さな音が聞こえて、同時に三半規管に僅かな浮遊感がある、それで、心の準備ができるのである、直下型なので緊急地震速報より早い、そう言えば最近は緊急地震速報のアラームが全く鳴らなくなった。今回の地震はほんんど全部、直下で起きている、横揺れはあまり感じず、いきなりドンとくる。この余震、間違いなく回数が減っているが、終息に向けての減少か、新たなる大地震に向けて力を貯めていいるのか、こんなことは学者にも気象庁にも誰にも分からない、神仏のみが知りたもうことである。当然小生の「マグマフワフワ理論」も破綻した。

 今回の地震の始まりは深夜だった、瞬時の停電で真っ暗ななかで一瞬どうするか、枕元に懐中電灯は置いていない、では置いてある場所は直ぐに特定できるか、我が家には結構本数はあって、普段から大体置き場所は分かっているが、それも時々使ってもとの場所に戻していないので肝心なときにどこにあるか分からない、また、本数がたくさんあっても電池切れしているものが多い、これは我が家のケースである。
 
 今回、携帯電話は枕元に置いてあるので、フタを開いて(つまりガラケーなのだが)携帯のディスプレーの薄明かりの中でなんとか近くに置いてあった容量の少なくなった懐中電を見つける事ができた。深夜の地震ではとにかく「明かり」、これが何よりも先ず絶対に必要である。今回明かりが無くて慌てたことに懲りて、今では暗くなってからは常に懐中電灯を身につけている。
 
 それから非常灯について。センサーが付いていて、暗くなって人が近づくと自動点灯するライトはたくさんあって価格も安い、しかし、それは停電すると機能しない。そういったライトではなく、普段は消えていて暗い時に停電すると自動点灯するライトのこと。無いことは無いが、種類が少なくてあまり店頭でも見かけない。構造は、普段は微量ながら充電を続けて常に満タン状態にしてあって、停電と同時に暗ければスイッチが入るようになっている、こういうシステムは火災報知機と同じように各家に必ず付けておく必要があるな、としみじみ思った。以前はあまり無かったように思うが、改めてネットで調べたら、沢山ある、安価なやつもある、これは是非、各家庭にあった方が良い。
 
 避難所における避難者の管理は相変わらずペーパーのようである。受付の一番最初の段階は避難者が書くので手書き、これは仕方がない、そして、そのページが埋まるとページを替えてまた新しい紙に続けて記入をしてもらう、それが複数の受付で行われて、そのまま集められて避難者台帳になる。だから検索や集計などをする必要がある場合は人力に頼る事になる。さらにその後の、避難者の一時退出、再入場なども、元データがどこにあるか分からないので、新たに名前を記入してもらって、その旨が記入される、結果、同じ人の名前が幾重にも記録されることになりそれも別々のページにということになる。
 
 受付段階で書かれた手書きデータを、どんどんPCに入力していくことはそんなに大変なことだろうか、現在は、日常の業務にキーボード操作が普通に行われる時代である、データの打ち込みはちょっと慣れた人には別に時間の掛かることではない。一人二人、その人間を配置しておいて、次々に入力しておけば、そんなに大変なことではないだろうと思う、そのためには、避難者管理台帳のソフトが必要になるが、そんなもの、単純なデータベースソフトで足りる、改めて開発する必要なんて全く無い。そのほうが、避難者の氏名を探したり援助物資の配給や給食の必要量を掴むなどの避難者管理にずっと便利だろう、これも危機管理、非常時マニュアルの一つとして普段から準備しておけばいいだけのことである、人手がないというのであれば程度の事ならいつでもお手伝いするぞ。
 
 それから最近は誰でもスマホを持っているのでネット利用は困らないのかもしれないが(小生も一応持っているが、皆よくスマホで満足できるなと思う、あんな、使いにくい端末は無い、キーボードで自由に文字が打てない端末なんかロクに役に立たない)、普段WiFi環境で使っているノートPCを避難所で使おうと思ったが、公衆無線LANはいくつかあったが全部フリーではなかった(ようだ)。避難所はお年寄りが多くてそのような需要が無いのかもしれないが、こういった場合は公衆無線LANのフリースポットが必要だと思った、情報が一番大事なことのひとつなんだから。と思っていたら、娘が、任天堂のDSだろうか公衆無線LANにつないでネットができるから設定をしてくれと言ってきたので、そうなのかと訊くと、掲示がしてあったと言っていたので、明日にでも確認をしてみよう。

 今日は午後から雨になるという予報だったので、朝早くから、水道工事を始めた。今日は家側にある開閉バルブ付近のチェックである。見当をつけてスコップで掘りはじめたが、今日は一発とは行かなかった、というのは、バルブまでは垂直に入っているだろうと、茶の木が並んでいる線から垂直にバルブ方向にパイプが通っていると思って掘っていったが、これが勘違いだった。確かに茶の木に対しては垂直だったが、家は茶の木とは平行ではなかった、実際はずっと右側にパイプが埋まっていた、随分と余分に掘ってしまった。このボールバルブは食い込み式でパイプに取り付けてあったので、パイプを切断すること無く、パイプレンチで開閉バルブを取り外す事ができる。昨日このバルブの本管寄りに埋まっていたバルブを発見してあったので、そのバルブを閉めて、このバルブを取り外して中を調べたが、ここは詰まっていなかった、つぎに、バルブの片側にホースをつないで、昨日発見したバルブを開いたら、勢い良く水が出てきた、わざわざホースをつないだのは、このままバルブを緩めると、せっかく掘った穴に水がたまるので、ホースで外に逃がしたのである、これは小林水道工務店に学んだ。つまり、ここまでは水はちゃんと通ることが分かった。ということは、更にこの先のどこかが詰まっていることになる。ここから、開閉バルブに一番近い場所についている散水用の蛇口からエアで吹いた見たところ、かなりゴミが詰まっていて、このゴミを取り除いて、この蛇口までは正常に圧がかかることが分かった、後は、この先の屋内方向の何処かが詰まっているということになるか。試しに室内の幾つかある蛇口のフィルターを見たところ、どれもびっくりするほどゴミが詰まっていた。さて、この先をどうするか、小林水道工務店豆札出張所は頭の捻りどころである、というより、小林さんの手が空くのを待つしか無いか。水道工事もやってみると面白いな、これを機会に少し腕を磨いて見るか。
 
 家族三人ずっと避難所での宿泊と食事の世話になっていたが、余震が少し収まってきたようなので、食事は辞退して夜だけお世話になることにして、朝のうちにカミさんが太郎をつれて帰ってきた。夏子はボランティアをするというので避難所に残って、夕方戻ってきた。

 避難所では自衛隊が避難者のために食事の炊き出してくれており、風呂を焚いてくれている。見ていると数日おきに風呂を設置する部隊が替わっているようだ、そのたびに、風呂のテントの入り口にその部隊が所属する土地に因んだ暖簾が掛かる。また提供される風呂設備のテントが一張の場合は入浴時間を切って男性、女性が交替で入るようになっている、現在の風呂は男女別にそれぞれ浴場テントがあり、時間による交替は無い。太郎が自衛隊のお風呂に入りたいというので、小生も興味があったので、午後4時ころだったろうか水道工事を終えて汚れた体を洗うために太郎をつれて入りに行った。現在は青森の部隊の「ねぶた温泉」の暖簾がかかっていた、雨が降っていたこともあったのだろう、先客が一人いただけで、後は我々二人だけ。
 
 軍隊の設備だから余計な飾りなどなく、ミリタリー調そのもの、でも脱衣場はしっかりと暖房がしてあって、今日は少し気温が低めだったので暖かかった。浴場は片側に洗い場が一列に並んでいて、その数は10個、そして反対側に、防水シート張りの深めの浴槽が作ってあって、相当人数が入ることが出来る。プール並みの深さのたっぷりのお湯があふれていた。体の芯から温まることが出来た(浴場の写真を許可をもらって撮ったが湯気で曇ってうまく撮れなかった)。

 災害出動時、自衛隊の諸君が避難所の校庭のテントで炊き出しのための食事を作っているが、それは避難者・被災者ための食事であって、彼らはいわゆる冷たい「ミリメシ」しか食べない、また風呂も避難者のためのもので、彼らは風呂には入らない、そうである。住民の皆さんは皆心から自衛隊に感謝をしているが、そのことを知っている人は少ないだろう、そのことを吹聴すること無く黙々と職務に励んでいる、頭がさがる。
 
 戻ってきた二人に、我が家の構造をじっくりと説明をして、少々の地震だったら絶対に大丈夫だからと言って聞かせたが大分納得してきたようだ。しかし、夕食後、三人はまた宿泊のために避難所に戻っていった。
 
 保育園は一部の保育園を除いて月曜日から再開する旨の連絡があった、小中学校は5月連休明けまで休むことになったが、校舎が避難所になっていることが大きな理由の一つだろう。保育園も「非常時」なので、いくつか制約がある、我が家は出来るだけ小生保育にして、どうしても都合がわるい時だけ保育をお願いすることにした。
 
 地震騒ぎで忙しいはずなのに、ここのところ、日記が普段より長くなっている、それだけ書くことが多いからだろうか。



平成28年 4月22日(金)

 晴れ。今日は余震、あったかなあ、全く記憶が無い、あったのかもしれないし、なかったのかもしれない、ただ、余震の回数が減ってきているのは間違いないと思っている。
   最低気温 13.7℃ (06:19)、最高気温 20.6℃ (15:34)
 阿蘇市内小中学校の今後の予定について連絡いたします。今回の地震災害の影響で休校しております市内小中学校9校のうち、波野小学校・波野中学校を除く7校については、5月6日まで休校し、5月9日(月)より学校を再開することとしました。また、波野小学校・波野中学校については、通学路等の安全確認を来週月・火曜日に行い、4月27日(水)から再開する予定です。(詳細については、各学校からの連絡をご確認ください。)【阿蘇市教育委員会】
 ということだそうだ。そうなると、ダラダラ漫然と避難所暮らしを続けているとロクに勉強をする時間が無くなる、そこで、どうせ学校が避難場所なのだから、教室の一つを学習室にして、そこで希望者が勉強できるようにしたらどうだ、という要望と言うか提案をしてみようかと思っている、当然そこではゲームは厳禁、漫画もダメ、ぺちゃくちゃダメ、あくまで勉強するところにする、どうだろう、小生の日記をご覧の先生はおいでにならないだろうか。
 
 それよりも、余震の回数が減ってきており、我が家に関しては今回程度の地震には大丈夫だということが分かったので、そろそろ避難所を出たほうが良いと思っているのだが。

 小生の朝食、カミさんが食い残していったオムレツとウインナーが主菜。到来物の珍味佃煮二種、それからアスパラ山ほど。このアスパラはご近所のアスパラ農家のもの、今回の地震で流通システム、選果場故障だったかで、全く出荷できなくなったものを、頂戴したもの、規格はずれの作物を頂戴するのなら遠慮無く嬉しいのだが、商品になるものがこういう形で我々の口に入るというのは本当に心苦しい次第である、今回は出荷できずに廃棄される農産物が他にもたくさんあるという、ここにも流通のネックがある、危機管理、こういった非常時の流通システムをJAは常々、考えておかなければならないのだろうなと思う、都会に持って行きさえすれば売れるのだから。

 今日は朝から、古い水道管と新しい水道管のつなぎ目をチェックするために、小林五男さんの都合がついて直ぐに作業が出来るように、前もってまた小生がスコップで掘り起こしておいた。家を建てる時に見ていたのを微かに覚えていて、確か、この辺だったなと思って掘ったら、ピシャリ、一発で掘り当てた。(写真1写真2
 
 3時過ぎに小林五男さんが、水道を見に来てくれて、小生が掘り起こしておいた古い水道管と家を建てる時に繋いだ新しいパイプのつなぎ目で作業を始めた。幸いにここにバルブがあったので、バルブを閉めて新旧パイプを切り離して、古い水道管の圧を見たところ、なんと、古い水道管はちゃんと圧があり水が勢い良く出てくるではないか、小生はてっきり、今回の水が出ない原因は古い水道管にあるとばかり思い込んでいたので、ビクリした、小林さんも驚いていた。

 ということは、家に入って行く新しいパイプの方に原因がある事になる。この継ぎ目から新しいパイプで家に入る手前にまたバルブがあり、これはいつでも開閉できるようにバルブのある場所には開口部がある。そしてこのバルブの先、直ぐのところに屋外の散水用の蛇口があるので、この蛇口に、逆に、先に切った古い水道管からの水をつないで、古い水道管からの水を通すと、宅内の水栓は全部閉まっているので、当然、新しパイプの切断箇所から逆流して水が出てくるはずだが、これが出てこない(逆止弁ではない)。この結論に達するまでなんどもパイプを切ったり継いだり、あるいはコンプレッサーで吹いたりしたが、最終的に、新しいパイプとこのバルブまで、またはバルブが詰まっているということなのだろうということになったが、今日はまた時間切れになった。(写真1写真2

 小林さんは明日は別のところで大きな工事があって来ることが出来ないので、小生が、開閉バルブ部の根本を掘って、できるなら、パイプを切断して、見ることにした。ただ、明日から天気がよくなさそうなので掘った穴に水が溜まるとやりにくくなるなあ。
 まあのんびり行きましょう、こういう時はイライラしても仕方がない、ノンビリ、ノンビリ。
 
 避難所の食事は小生が見るまでもなく、動物性タンパク質や野菜類が不足気味なので、夏子に、なにか作っていってやろうかと約束してあったのに、夕方近くなって水道工事が入ったので今日は間に合わないかなと思っていたら、今日の夕食配給は6時からだと言うことが、ボランティアから帰ってくる途中の'かいえい君'に聞いて分かったので、急いで、予定していたチンジャオロースを作って、トマトを切って、届けた。ちょうど夕食の配給中でカミさんも仕事から戻ったところだったので、温かいうちに食べられたと思う、小生は、帰ってから家で食べた。

 心神が飛んだなあ・・・・・


平成28年 4月21日(木)

 最大瞬間風速35m、雨量150mmの暴風雨が来るぞ、来るぞという予報で、心配だったが、心配するほどではなかったようで安心した。風も普段のちょっと強い程度で全く何も倒れていなかった。ただ、阿蘇大橋を崩落させた大地すべり以来、外輪の山付きの集落に次々に地滑り危険による避難指示が出されて、日になんども緊急メールが入っていた。
   最低気温 13.6℃ (06:14)、最高気温 20.5℃ (12:36)
   本日の雨量 77.7 mm
   最大瞬間風速 11.2 m/s (12:12)

 今回の地震、阿蘇山の益城から始まって阿蘇山より南西方面で激しい地震が続いているが、阿蘇も強い地震に見舞われたものの、先年の豪雨土砂災害の時は坂梨が中心だったが、今回は一番東端で被害は一番少なかったのではという印象がある、そういったことからすると、阿蘇神社がどうして倒壊したのか不可解である。断層の一番東の端だったのだろうか。熊日転載

 そして今回の地震、地震の深さは大体10Kmと言っている。10キロと言えば10,000メートルか、随分深いところだなあと思ったが、阿蘇カルデラの東西が約18Kmと言われているのでその半分の距離か、そんなに深くはないな。

 誤解を招くこと承知であえて書くのだが、「この程度で」こんなに多くの避難者がいる、この地でも、沢山の人がもう一週間、避難所暮らしを強いられている、避難所に入らずに外に停めたくるまのなかで寝ている人も沢山居る。そして市の職員の皆さんにその避難所暮らしを子どもたちもサポートしてもらっている、保育園や学校の先生方もサポート活動をされている、それに自衛隊、消防、県、他県の災害派遣の職員の皆さんなどなど、これがもし1000万人の人口地帯だったらどうなるのか、1000万人が日に三度メシを食って水も飲めば糞もたれるのだぞ、普段あって当たり前のことが当たり前でなくなるのだぞ、それだけの人間にどこから食料や水を運んできて、それを誰が世話をするのだ、何日も何ヶ月もだぞ、どんな貧弱な想像力でもそれは分かることだろう、「政治」は口先だけでなく、心からそのことを真剣に考えているのだろうか、本当に緊急に考えなければ・・・・何より分散、地方分散が一番なのだ。
 
 今度のことで我が家に高齢者がいなくて本当によかった(高齢者がいないほうが良いとうことではないぞ)、婆様がいたら、避難行動や避難生活で本人は当然のことだがサポートする小生が自由に動けなくなる、避難所にいる高齢者を見ていると気の毒で仕方がない。おい、オマエは高齢者じゃないのか、まあ、世間的にはもう十分に高齢者になるのだろうが、本人は全くその自覚がない、ただ、時々知らないうちに老化が進んでいることを思い知らされることがある、二三日前にも外で作業をしていて足がついていかず、蹴躓いて、朽木がドッと倒れるように顔面からモロに地面に倒れこんで手を付くヒマもなかった、幸いに怪我をしなかったが危ないところだった。

 我が家のある集落一帯、今回の地震による停電からどこよりも早く復旧した。倒れた高圧鉄塔を避けてどこか別のところから送っているのかと思ったら、どうも高圧電源車によるものらしい。街の中を走ると、あちらこちらに電源車が停まっている。坂梨小学校・・・・もう、旧坂梨小学校だが、その正門前に、停電直後から電力会社の車両がずっと停まったままで、「四国電力」と書いてある、そうか、災害派遣で四国から復旧工事に来てくれているのかと思っていたが、その後もずっと停まったままだ、これが坂梨一帯の「電気の元」のようだ、 すごい、自宅でエンジン発電機を回しても精々1500ワットだ、それも数時間でガソリンが空っぽになる、それを地域一帯にずっと電気を送り続けている。

 今回の地震で甚大な被害が出ている南阿蘇にある河陽という地名、これは「カワヨウ」と読む、一方で近くに河陰という地名もある、これは「カイン」と読む、小生は河陰をカインと読むのは知っていたので河陽は当然「カヨウ」と読むとばかり思っていた、だからアナウンサーがさかんに河陽をカワヨウと読むのを聴いていて、なんだコイツ間違っていると思っていたら、間違っていたのは小生だった、でも直ぐ近く同士で読み方が統一されていないというのも不思議なことである。

 生活の記録だから何でも書かなければならないな。PCなどの配線の張替えなどでしゃがみこんだ時、異臭が・・クサイ、これはイカンと地震発生以来始めて下着を替えた、それでも、臭う。そうか発生源は前門と後門だな、給湯器まで水が来ないので早速ヤカンでお湯を沸かして風呂場で石鹸をつけて洗ったらようやく臭いが消えた。もっと突っ込んで書けば、こういった臭い源は後門よりも前門の方なんだな。そしてようやく落ち着いた気分で、避難所にこどもたちの様子を見に行った。
 
 ところが、今日からアゼリアが営業を開始するという、なごみ野のオヤジがわざわざ電話で知らせてくれた。慌てて家で洗うこともなかった、じゃあ一週間ぶりに風呂でも行ってくるかと、開店早々のアゼリアに行ってきた。プールなどは休業中だが、スタッフの皆さんが笑顔で迎えてくれた。自覚的には頭が一番痒かったので、頭をしかり洗って、体は例によって洗わずに、サッと湯船に浸かって帰ろうと思っていたら、隣の人が話しかけてきて延々どのくらいだったろ、いつもの十倍くらいの長い時間湯船に浸かって話をした。
 話の進め方がどうも、インタビュー的だなあと思っていたら、福岡を拠点とするブロック紙の記者だそうで、今回の地震の取材で来ていて、その人もずっと風呂に入っていなかったので、風呂に入りながら被災者の印象取材(とでも言うのだろうかメモを取らずに話を聞いてまとめる)をしているということであった。開店早々だったので普段程度の混み具合、ということは、空いていたということだが、上がるころになると続々と入浴客が入ってきた。
 
 アゼリアにも高圧電源車が停まっていた、阿蘇中が電力会社の高圧電源車のお世話になっているのだ。ただ、聞くところによると、滝室坂を上がって波野地区の一部では大分の方から電気が入っているようで、今回も停電しなかったとか。
 
 カミさんは仕事なので、今日は外作業もなかったので小生がこどもたちの、なんだろ、世話か?いや世話は特に無いな、監督か?いや監督することもいな、とにかく昼間はそばにいることにして避難所で過ごした。太郎はもう回復しており、毎日よく飽きないものだと遊びまわっている。お姉ちゃんは仲間たちと避難者の給食の世話などのボランティア活動をしていた。やはり小生はいなくても良かったのだと、しばらく昼寝をして、夕方にはカミさんが仕事から帰ってくる前に帰ってきた。
 
 避難所の食事、今日の場合(いつもそうなのかもしれないが)は、朝は握り飯と何か、昼はパンと牛乳と少しのサラダ、夜も握り飯という構成で握り飯は手が汚れないようにビニール袋に入っていて袋ごと掴んで食べるのだろう、それから色々な具が入ったスープ、太郎のやつをちょっと飲んでみたが、非常に美味しいスープだった。太郎、堂々たる避難所暮らし振りだ。小生も食べて帰っても良かったのだが、カミさんが仕事から帰って来てから食べる分を入れて三人分だけもらっておいて、小生は家に帰って自分で作って食べた。食事時には放送があって皆さんが並ぶ、十分にありますからと言う放送があってもそこが人間心理、まだ配給が始まる前から延々と並ぶ、事実、あとからまだ沢山残っています、ご希望の人はどうぞ、という放送があった。
 
 思いつたまま書き綴ったので、全体の文脈が上手く繋がっていないかもしれない。


平成28年 4月20日(水)

 晴れ。気温が上がる、気象観測装置が久しぶりに動き出した。
     最低気温 2.7℃ (06:01)、最高気温 24.4℃ (14:15)

 昨夜、非常に疲れて眠くて仕方が無い、もう10時半ころになっていたので(小生にとっては深夜にも等しい時間だ)、もう寝ようと思って最後のメールチェックをしたら、今晩は寒くなりそうなので夏子に毛布をもう一枚届けてくれというカミさんからのメールが8時過ぎのタイムスタンプで届いているに気がついて、毛布と寝袋を避難所に届けた、太郎とカミさんは病人用の別室で休んでいて、娘はクラスメートと一緒に体育館の定位置に横になっていた。毛布を届けて戻って寝たのは11半を過ぎていたろうか、今朝、6時のチャイムが鳴るまで爆睡した、頭がすっきりした、昨夜は揺れたのだろうか。

 我が家の水道が出ない件、小林五男さんに来てもらって、ちょっとした漏水を止めるなど復旧作業をしてもらうも、結局、本管から我が家への引っ込み管が古い鉄管でどこかで破れているか、目詰まりを起こしているかでどこを走っているかもとにかく古いことなので分からない、結局新しく配管をしてもらうことにした。借りたユンボで掘った穴を綺麗に(でもないか)埋めて今朝春さんにお礼を言って返しておいた。

 今日は他に何をやったろう、だんだん思考力、記憶力が減退してきている、他の被災地に比べたら天国のようなものだが、かれこれ一週間、日常でない毎日が続くとやはり疲労が重なってくるのだろう、今、そろそろ21時、早くも眠くなった。ところで、今日は余震はあったかな、どうだったろう、もうあまり気にもならなくなった、そもそも緊急地震速報も鳴らなくなった。
 
 なごみ野のオヤジが盛んに風呂に入りに来いと言ってくれる、有り難い限りであるが、もともと小生はカミさんと違って風呂に入らなくても全く気にならない質なので有り難くお気持ちだけいただいている。考えてみたら下着も面倒で替えていない、近寄ったら臭いかもしれないなあ、でも小生は加齢臭というやつがないから大丈夫だろう。
 
 ナフコやガソリンスタンドに出掛けたが、もう停電も復旧していて混雑もしていなかった、コンビニは出入り口の前で仮設のスタンドを作って何か売っていたようだが基本的には休みだった。自衛隊が非常に多く、日本各地の部隊から来てくれている、なかには対馬防衛隊や福島の部隊も来てくれている、頼もしく有り難く思う。国の護りの最前線、対馬防衛隊はこんなところに来ていて良いのだろうか。

 信号のところにエンピーが交通整理をしていた。子供の頃エンピーと言っていたが、エム・ピーのことつまりMPである。腕章に警務と言う文字とMPという文字が書いてあった。白いヘルメット姿で昔の進駐軍のエンピーのようだなと思って腕章を見て、MPと書いてあったのでビックリした。考えてみたら、警務を英語で書くとMilitaryPoliceだからMPで良いわけだが変なところで感心した。

 普段福岡にお住まいの高木義臣、直子夫妻があちらこちら交通止の道路を迂回しながら阿蘇にある坂梨の屋敷に戻っていらして、途中、様子を見に我が家に寄ってくださった。ご親戚が益城にお住いで今回の最初の地震で家屋が倒壊したそうで、ご親戚に坂梨の家に住んでもらおうと受け入れ準備のためにおいでになったそうである。
 
 直接ではないが周囲には今回の地震で大きな被害を受けられたひとが沢山おいでだ。征司さん亡き後、和子さんのトマトハウスを一緒にやっていた和子さんの甥御さん、西原村からハウスに通っていたが西原村での被災で家屋が倒壊状態だとか、途中の道も無く、来ることが出来ずにハウスのトマトの定植が出来なくて和子さん、途方にくれておいでだった。
 
 断片的に聞こえてくるニュース、熊本市は地震で流通が混乱しているのか食料など日用品が極めて不足して大変らしい、こんな小規模の都市でこのありさまだ、今回のこと、首都圏では来るべきその日に備えてどう捉えているのだろう、1000万の人口に食料補給など絶対に出来ないぞ、地震で助かってもその後で「阿鼻叫喚」が間違いなく待っている、なんとか早く手を打たないと。
 
 休止状態だったライブ・カメラと気象観測装置、仮設配線だが夕方に概ね復旧した、やはり百駄文は一見に如かずである。
 
 カミさんは今日は仕事を休んだそうで、終日太郎のそばにいてやったはずだが小生は全く行っていないので分からない、まあ、大したことはなさそうである。保育園も今週いっぱい休園になった由、ちゆき先生から電話を頂戴する。 

 明日は未明から暴風雨の予報が出ている、分間最大風速30mだとか、やれやれ、である。


平成28年 4月19日(火)

 昨夜は10時過ぎに寝て、熟睡して今朝3時前には目が覚めてそのまま起きてしまった、昨夜も家族三人は避難所に泊まったので、家族の心配をする必要もなく、その分気が楽で一度も目が覚めることはなかった、コーヒを飲んでいると、午前3時38分 阿蘇地方 M3.3のドンが来た、寝ている間はどうだったのだろう。震源付近で起きる地震では緊急地震速報の警報音もならない、初めの頃は良く鳴っていた警報音、最近は殆ど鳴らなくなった、もう鳴らさなくても分かっているから鳴らさないのか、震源に近すぎて装置が反応しないのか。それでも不思議なもので、警報音が鳴らなくても、ドシンと来るホンの一瞬前には何かしらの波が伝わってくるもので、あ、来るぞと身構えることができる、これは不思議だ。 
 
 今までの地震体験なしの震度に対する恐怖心、こう実際に何度も経験すると、ああ、こんなものか、この程度なら大したことは無いな、ということがだんだんわかってくる、家屋というものは普通に作ってあるのであれば震度5や6程度では別にどうということは無いということが分かってきたので落ち着いたものである、特に我が家は四隅に柱を立てて壁を張って作る従来型の家屋と違って、柱は一本も無く、木材をそのまま横にして組みながら積み重ねた構造なのでグシャッと来ることは絶対に無い、だが震度7だとどうなるのかまだ経験していないので分からないが・・・それに今回は直下型なので縦揺れが主だが、これは強い横揺れだと、積み重ねた木材が横ずれを起こすかもしれないな。縦揺れだからか転倒防止金具など付けずにただ立ててある本棚も倒れない。家財が倒れることがないが、これが強い横揺れだとまた被害の受け方も違ってくるのだろう。
 
 午前5時現在PCの前に座っている時、風師庵観測装置で気温は予報通り放射冷却で2℃である、室温は16℃だ、暖房がないとちょっと寒いくらいだ。改めてしみじみと思うが、厳冬期のストーブのフル運転の時に今回の地震が来なくてよかったと思っている、今回はもう火は焚いていなかったし、途中の煙突の支持が全く無く高い天井まで達している長い煙突も外れることなく無事だったが、これがもし火を焚いている時期だったら、さぞかし慌てたことだろう、結果的に無傷だったが、それは事前には分からないので消火器でストーブの火を消していたかもしれない、あのストーブが倒れでもしたら間違いなく我が家は丸焼けになるだろう、何と言っても薪材の塊で出来た家だからなあ、我が家では火の元と言うと薪ストーブだけである。 

 昨夜遅くになって突然、湯浦一帯に山崩れの可能性があるので早急に避難するようにという避難避難指示が発令された、雨も降っていない、発令直前に大きな余震があったわけでもないのに出されたのは、この一帯の背後の外輪が南阿蘇の大きな地滑りが起きた山に直ぐに続く場所にあるからだろうか。こうなると、もう、先年の豪雨災害の土砂崩れなどとは比較にならない規模になる。

 昨夜20時42分頃発生した強い余震の影響により、国道57号ミルクロード入口(大津)→北外輪山大津線(ミルクロード)→(二重峠)→菊池赤水線→国道57号ミルクロード入口(赤水)が通行止めになった。

 阿蘇大橋を崩落させ、JR豊肥線も呑み込んだ立野付近の山崩れで国道57号線も完全に寸断されて阿蘇と熊本市を結ぶルートが無くなったが、昨日、大津町からミルクロードを通って二重峠から阿蘇谷に降りる、ルートが整備されて、熊本市との交通が確保されたばかりだったのに、復旧には時間がかかるのだろうか、この道は江戸期に加藤清正が参覲交代道として整備した街道だが、今になってもこのように立派に機能するとはさすが加藤清正である、この道は清正公道(せいしょこどう)と地元では言われている。
 そして、今朝にはまた通行可になったそうだ、良かった。

 各種報道によって阿蘇全体がとんでもないことになってると思われているが、そいうことから言えば我が家の周辺は阿蘇神社の倒壊というような一部に大きな被害があるもののそしてちょっと不便が起きているが総じて平穏そのものである。
 
 自衛隊がなにか不自由はないかと各家を回って要望を聞いていた、我が家は全くありません、どうもありがとうございますと礼を言っておいた(写真1写真2写真3)。
 
 政令指定都市熊本市と言っても東京などとは比較にならないほど小さな都市だが、それでも、今回の地震で沢山の避難者が出ていて、給水に何時間待ったとか、避難所に食べ物が届かないというようなニュースを断片的に耳にする。ここから見ると大都市だがそれでもゆったりと生活をしている都市でどうしてこんなことが起きているのだろうかと不思議でしょうがない、熊本市の中心部はここよりはるかに不便をかこっているようである、特に水なんか、普段使う水の全部を阿蘇の伏流水で賄えるほどを水が豊かな地なのに、どうして給水車に長い行列が出来るのか、水で不自由をするのか。「水を制する」、暴れ川を「鼻ぐり井手」などの工夫をした加藤清正は治水の名人でもあったのだが、今回のこと、非常時には井戸を使うように井戸の整備が必要だということではないだろうか、今回の地震を教訓に井戸を沢山掘る必要があると感じる、堀りさえすれば水はいくらでもあるのだから。当たり前に水が手に入るのに慣れていたために非常時のための備えがなかった。
 
 その点、田舎は全く困ることはない、米も水も、漬物でも薪でも基本的なものはいくらでもある、流通の関係でいわゆる日常の「食材」が不足しているが別にそんなものは無くても一向に困ることは無いのである、さすが田舎である、住むなら田舎である、改めてそう思うのである。それでもまだ市内で停電や断水のところが非常にたくさんあるそうだ。

 一体いつまで新聞は休むのか、普段要らない号外なんか出す機動性が有るのなら早く新聞を届けろよ、と思って玄関先を見たら、今朝は元日の新聞くらい厚い束になった新聞が届いていた、いやいや失礼をしました(写真1写真2写真3写真4写真5)。じゃあこれは・・、地震特別編成「地域情報」で開いているスーパーなどの情報、それから温泉銭湯の情報、どうして熊本県内だけの情報なのだ、熊本日日新聞は熊本藩だから他領には入れないのか、鎖国藩か、熊本県は周辺の県に隣接している市町村がいくらでもあって、そこの住民は熊本県だけの情報だけを欲しているのではない。普段でも新聞の報道スタンスはすべからく熊本県内の情報だけだ、このボーダレスの時代にこの時代遅れのセンス、だから新聞はアホだ、と言われるのだぞ。
 
  午前6時20分また大きくグラグラと来たが警報音が鳴らなかった、でも一瞬前にその気配を感じた。
  
 早く起きてやることもないので、夜にアップする日記原稿を思い付くまま書いているので、あくまでもこれを書いている時点でのことだから、夜になって読み返すと矛盾したことを書くことになるかもしれないが、これもひとつの記録方法だと思っている。

 山崩れの恐れがあるからということで避難勧告が出された地域がさらに外輪を時計回りに右側に移ってきていて午前8時前になって古城地区が追加された、危なそうだからどんどん避難させろという「膾を吹く」ということでもないだろうが、もう少し右回りに回ってくると、このあたりが、そして北外輪山全体の山付きの人里は全てその対象になるのも時間の問題だと言う気がしてきた、いや、待てよ、すでにここは暴風警報の時に出された避難勧告が継続中だったろうか、解除されたのだったろうか、我が家も含めて、女性やこどもたちは今でも夜は避難所暮らしが続いてるから改めて避難勧告も必要が無いのか。自然に言わせると、太古の昔からの阿蘇カルデラの地形はこういうことの繰り返しで出来てきて、今もその活動が続いるだけのことだ、だろうが、人間にとってはなんとも困ったことである。 
 
 地震騒ぎですっかりジャガイモのことを忘れていた、先に植えた男爵、ズラッと石原慎太郎「太陽の季節」現象(知らない人は改めて調べる必要はない)が起きていたのでハサミで穴を開けて芽を出してやった、まだ数個芽を出していないようだ。(写真1写真2写真3
 
  今日はライブカメラを復旧するつもりだったが、朝、PCを点けて、そのまま夕方まで一度も座ることがなかった、昼飯時にちょっと屋内に入っただけで今日は夕方までずっと、外で作業をしていた、ああ、忙しい、忙しい。
  
 午前中に、追加で頼んであった誘引剤「ハチルアー」を受け行くついでにこどもたちの様子を見てきた、元気に遊んでいた
 
 我が家だけの水道管の障害、今日、水道業者がやってくる予定になっているが、少しでも早く終わるように出来ることは前もってやっておこうと、朝からスコップで埋設配管を探して掘ったけど、いくら掘っても出てこない、以前、地中の配管図を作ったのにいざというときに出てこない、仕方が無いので記憶に頼って昨日隆一さのユンボで心当たりをアチラコチラ掘ってもらったけど、出てこなかった。スコップで掘るには限界があるので、隣家の今朝春さんからユンボを借りた、久しぶりなので大丈夫かなと思ったが、何とか運転できた、そして、水道管を掘るときにうっかり水道管を引っかけて噴水状態にすることが多いが、ピシャリ、引っ掛けることなくパイプを見つける事ができた(写真1写真2写真3)。水道復旧工事、他の地区の復旧仕事が終わらなかったようだ、来なかった、明日だな、慌てても仕方がない。
 
 避難所で暮らしている太郎は夕方、熱が出て、胸もヒューヒュー言っていると娘から電話があった。保健婦さんに診てもらったようだが、古閑医院に連れて行く事にして、迎えに行った。大したことなさそうで薬だけもらって、今日は家に帰るか?と訊くと、今晩も避難所に泊まるというので、そういうことにした。保健婦さんによると、小さな子が病気になったらお母さんと一緒に専用の部屋が用意されていますからご安心くださいとの事だったが、何日も避難所ぐらしが続くと体調を壊す子もお年寄りも出てくるのだろう。
 
 写真やテレビの映像などを見るとペシャンコに潰れた家屋ばかり映す(小生の日記もそうだなあ)ので、ちょっと大きな地震が来ると簡単に家がペシャンコになると思われがちだが、果たして本当だろうか。昔からある家屋と違って最近の家屋はそうそう簡単には潰れないように出来ているのではないだろうか、どうも避難、避難と騒ぎ立てるのは違うようような気がするのだが。無用に不安を煽るだけだ。決して舐めてはいけないけど、家なんてそんなに簡単には壊れないよということも理解させなければならないのではと思う。
 
 市内小中学校の臨時休校について連絡します。今回の地震災害に伴い、市内小中学校を18日〜20日まで臨時休校としておりましたが、今週末まで休校といたします。なお、来週月曜日(25日)からの対応については、24日(日)までに再度連絡いたします。(阿蘇市教育委員会)
 
 阿蘇市内でもまだ停電や断水が続いている地域が沢山有るようだ。
 阿蘇中岳、今日も活発に噴煙をあげていた。 
 
 ああ、眠い、今日は死ぬほど眠い、早く寝たい・・・・・・・
 
 

平成28年 4月18日(月)

 気象観測装置が動いていないので、気温の記録が無い。今日も中岳の噴煙が大量に昇っていた

 朝、弱い雨が少しの間降ったがその後回復した。
 
 小生は昨夜、我が家でひとりノンビリ寝たが、三人は避難所で寝た。夜中に二度ほど強くない余震があった記憶がある。一夜明けて、カミさんは避難所から仕事に行った、その前に、太郎を家に連れて帰ろうとしたが、コワイから嫌だと姉と二人で一日中避難所に居続けた。太郎のやつ、一時怖くなくなったはずだがまた恐怖心が戻ってきたようだ。

 夜、日記を書いている時に、ドシン、ミシミシと強烈な余震が来た(20:42)、ラジオでは阿蘇が震源で、震度5強だと言っていた。停電もインターネットの障害も無かった。我が家は柱が無い上に重い瓦も無い家だから、ドン、グシャッというような潰れ方はしないので、平気でいられる。ただ、南阿蘇のように山そのもの、ここでは外輪山が上から崩れたら、まあ、我が家は潰されるかもしれない。
 
 南阿蘇の阿蘇大橋の崩落につながった山崩れ、ここは、はるか昔、まだカルデラが湖だった頃、阿蘇開拓の神「健磐龍命」が山の一部を蹴破って水を流し阿蘇平野を作ったという神話の舞台になった場所である、昔話というものは何かしら根拠があるように思える。今度の地すべりも、もともとそういう地質をしていたのかもしれない。

 こどもたちは確か20日まではとりあえず休校(園)になった。
 
 復旧工事作業のため家を空けている間に蕎麦処「阿蘇の風」のオヤジが蕎麦を届けてくれたようで、玄関のドアノブに袋がぶら下がっていた、有り難く夕食に家族4人の胃袋に納まった。
 
 小生は今日は朝から夕方まで村の水道復旧で終日外で働いた。そして夕方になってようやく村の水道が復旧した。が、が、が、我が家では庭にある蛇口からチョロチョロと水が出るだけで屋内の蛇口まで水がやって来ない。そう言えば、数年前に村の水道工事をした時に、我が家の配管だけがちょっと他の水道と系統が違っているなあと感じたことがあった、祖母の時代に引いた相当大昔の水道をそのまま使って現在の我が家の水道を引いたのだが、過去においてこの水道管を除いた村の水道の大きな配管の変更があって、その際に取り残されたのかもしれない、とにかくこれではどうしようもないので明日にでも改めて仕切り直しを願うしかないだろう、ああ、今日は疲れた。我が村はなんでも自分たちでやってしまうのだ、数年前に公民館を建てた時も、隣り村の棟梁の指揮のもと山から材木の切り出しから始めて全部自分たちでやった。今回も水道工事のプロの元、自分たちの重機を持ち寄って全部やってしまった。
 
 水道復旧工事3日目 連続写真(1/2)
 水道復旧工事3日目 連続写真(2/2)

 昨夕の停電の復旧、いつもこの辺りは後回しだから、他はもうとっくに電気が点いていたと思っていたら、今回はこの地区はどこよりも早く復旧したそうで、まだ停電のところもあるというようなことを聞いた、珍しいことがあればあるものである。 
 
 いつから風呂に入っていないだろう、カミさんたちは昨日県境を越えてどこかの温泉に行ったが小生は面倒だから行かなかった、まあ小生は入らないからと言ってあまり気にする方ではないが、それでも全く顔も洗っていないのでさすがに気持ちが悪くて、日記を書くのを中断してチョロチョロ蛇口で顔を洗ってきた。
 
 一応は災害の渦中にいると周囲のことが全く分からずに居るが、少しずつ入ってくる情報によって今回の地震の大きさがさんだんと分かってきた、MQYはいつもだと週末には阿蘇に戻ってくるのだが、今回は帰る足を奪われて、ずっと福岡に居続けで時々外部からの情報を電話で知らせてくれる。今日は福岡から熊本の事業所まで援助物資のトラック輸送で道案内で同行したそうだが、熊本市も大きく被害が出ていて熊本城の変わり果てた姿を見て涙が出たと言っていた。ここでは毎日外を見る余裕がなくあっという間に一日が過ぎてゆく。
 

平成28年 4月16日(土)、17日(日)

 先年の豪雨災害の時もそうだったが、災害に遭うと「時間」がわからなくなる、16日深夜(だったはずの)の大きな地震、まだ昨日のことだったのが、もう随分前のことのようにはっきりしない、めまぐるしく環境が変化するからなのか、睡眠が不足して不規則になるからそうなのか、とにかく時系列がわからなくなり、写真を見ながら思い出している。
 
 先日に、書いたこと、「余震は本震よりも弱いと言われるが、本当にそうなんだろうかとも思っている。本震が来る前に断層がちょっとズレてそれで地震が起きて、それが大きなズレ(本震)に結びつくことは無いのだろうか。」。この直後に起きることなど当然予想していたわけではないが、それがやってきた。
 
 深い眠りにいた時に突然、ドンと来て家がミシミシと鳴った、結構短かったと思う、カミさんなんかものすごく強かったと言っていたが小生、正直、それほど大きくはないと感じた、寝ぼけていたのかとも思うが、家財の散乱転倒も少しはあっがそれほどでもなかった。この地震が、震度いくつだったのだろう、覚えていないが、5強くらいだったのだろうか、不思議と恐怖心はなかった、この程度では家は潰れないだろうと思っていたからだ。ただ、やはり慣れていないし心の準備もできていなかったので、この後、どうしたら良いのかパッと行動に移せなかった。真っ暗なのに手を伸ばせる場所に懐中電灯も無かった。こういう時は携帯だ、と言うことは知っていたので、携帯の蓋を開いていその明かりを頼りに懐中電灯を探すことが出来た。太郎も先日の地震の時には初めてだったの小生にしがみついてきたが、今回は特に慌てていなかった。娘は起きろというのに眠いと言って布団から出てこない。まあ、我が家での地震の感じ方はその程度だったのだろう。結構あちらこちらのタンスの引き出しが(落ちはしなかったが)滑り出ていた、グラスが3個ほど割れた、小生のシャックは結構派手にモニターが落ちたり、無線機が落ちたりしていたが、この下に居る時に倒れると死ぬな、と思うほど、天井に届くほどの本立ても倒れていなかった。その後、何度もドン、グラグラ、ミシミシ、と余震が来たが、もうすぐにはそれ以上ないだろうと思ったし、太郎や夏子も別にあっ!まただ、と言いながらも特に怖がっていない。
 
 お向かいに一人暮らしのおばあちゃんが居ることを思い出して、多分、懐中電灯など持っていないだろうと我が家の懐中電灯を持って訪ねると、真っ暗な中に布団に一人いたので、懐中電灯を渡して、その時にどう言ったろう、思い出せない、すぐに家から出たほうが良い、とは言わなかった気がする。最初の揺れでグシャッと行かなかったから、大丈夫だと思ったのだろうか、そのうちに隣家の看護師のAちゃんも安否確認に来てくれて、その後、どうしただろう、よく覚えていない、そのまま、ご安全にと言って帰ってきたのだったろうか、よく覚えていない。そのうちに村の家々から車が出てきて道路沿いに停めて避難場所にして夜明けを待つ風だった。その光景を見て我が家も外にいたほうが良いのかなという気になって、玄関先に車二台に分かれて夜が明けるまで車の中で時間を過ごした。

 我が家の入り口にある猿田彦大神の石柱も地震の揺れで倒れていた。おそらく裏山のご先祖様の墓石も軒並み倒れていることだろう、起こすのが大変だ、またチェンブロックを持って登らなければ。

 随分久しぶりに阿蘇中岳から真っ黒な煙が上がり、風のせいで横に流れているのが見えた、地震の影響かどうか分からない。

 記憶を辿ると、確かこういうことだったな。そして夜が明けて、外でコーヒーを沸かして飲んだのだった。地震と同時に停電して、オマケに水道まで止まってしまった。先年の豪雨災害の時も、水道が止まった。都会では浄水場から配水するときにポンプで送る、だから、停電すると水まで停まるが、坂梨は自然水を自然に配水するので電気は関係ない。しかし今回も止まってしまった。坂梨の水道が止まったのでなくて、坂梨地区では豆札村の水道だけが止まったのだ(坂梨の簡易水道とはまた別の市内の水道は各所で断水した、そして、まだしているところがある)。今回も前回同様に、水道が豆札川を越えて豆札に入った辺りで、水道管が折れたようである。早速、破損箇所を探すべく村の隆一さんの重機が出動して穴を掘り始めたので夕方までには水が出るなと思った。ところが実際はそうは行かなかった。それは一旦措いておいて。
 
 我が家の軽乗用車も軽トラックも、燃料はほとんど無い状態だったし、エンジン発電機のガソリンも少なくなっていたので、とにかくガソリンの確保だと、市内のスタンドに出掛けたが、どこもやっていない、唯一、阿蘇神社前の古屋産業のスタンドだけが、停電でモーターが動かないので手回しで、しかも10リットル制限で打っていた。そのためにあそこの地形の関係で四方から車が押しかけて、延々と給油待ち。少しでも早くと割り込む車が出てきたので、小生は直接関係がある反対車線から入る車のところまで降りていって、交互に入りましょうと交渉して、お互いにそれが良いと納得しあって、気持よくスムースに順番待ちをすることが出来た。
 
 小生は軽トラックと発電機用のガソリンが欲しかったのだが、10リトルだという制限があったので、軽トラックにだけ10リットル入れてもらった。人によってこういうことがあるので常に満タンすることを心がけている人がいるが、小生はいつもガス欠ギリギリまで使って入れるのでとうとうバチが当たった(当地ではバチかぶると言う)。
 
 ガソリンを求めて市中を走っていると何箇所かで家が潰れたり、道路が盛り上がったりしていた(写真1写真2写真3写真4)、何よりショックだったのは、阿蘇神社の楼門が見る影もなくペシャンコになっていたことである(写真1写真2)。これには胸が詰まった、なんとか上手く復元できるといいが。
 
 軽トラック10リットルだけだと発電機が回せないので、後からもう一度並んで今度は携行缶に10リットル入れてもらった。カミさんも10リットル入れてもらって帰ってきた。もう一度と夕方三度目を行ってみたが、スタンドの地下タンクがカラになってもう閉店していた。
 
 朝から始めた村の水道管の修理、昔の配管で図面がなくて手探りで探していてかなり掘る方向が変わっていた、これだろうと言う管に繋いだが、水が通らない、何本もあるのだ、結局また別の所を掘ってまるで露天掘りの金鉱山のようになって、それでもとうとう初日は見つからなかった。
 
 今夜から明日の朝にかけて暴風で荒れるから、地震で地盤が弱くなっている山付きの集落は避難するようにという勧告が出て、家族だけ避難所にやって小生は残ろうと思ったが、結局小生も行くことになって、新規開校した一の宮小学校の体育館に出掛けた。(写真1写真2写真3・)
 
 避難所経験は先の豪雨災害の時につづいて二度目である。災害派遣の自衛隊の皆さんが近くにいたが心強い限りである(写真1写真2写真3)。体育館の床に寝ていてもものすごい雨風の音が聞こえてくるので我が家は大丈夫だろうかと心配だったが、帰ってから見たところ先日の風雨ほどではなかったようで、ハチウトは一個だけしか倒れておらず、その他にも枝が折れたりしたした木も無かった。
 
 小生は朝食の炊き出しも遠慮して一人で先に帰ってきた。そして、大分県の方にガソリンを求めに出掛けた。昨日夕方、カミさんたちは買い物もあって竹田方面に打かけた際、ガソリンスタンドは普通にやっていたから満タンにしてきたと言っていたので、今日は小生が出かけた次第である。
 
 熊本県境を越えて直ぐのところに竹田市菅生(すごう)というところがある、(その昔、菅生事件というのがあったが、今の人は全く知らないだろうが、その菅生事件の菅生である)のスタンドには、熊本からやってきたのだろうか10台くらい給油の車がならんでした(停電ではないので直ぐに給油できるだろう)。小生はその先の玉来というところまで行って、20リットル缶をもう一個買って、更にその先の豊後竹田駅前のスタンドで給油してもらった、一台も待ち車はいなかった。
 
 今日はずっと噴煙が仙酔峡側に流れ下っていた。(写真1写真2写真3写真4
 
 
 村の水道復旧工事、夕方になっても結局パイプが見つからなかったようで、今日は日没で作業打ち切りになったようだ、小生は全く手伝っておらず、申し訳ないと思っているが明日は小生も現場に出ようと思っているが、結局野次馬になってしまうのだろうな。
 復旧工事連続写真(十数枚) 
 地震発生に伴い、立野の発電施設の損壊と送電線損傷し阿蘇市内で停電が続いております。
電力復旧については、電源車を配備して復旧に努めておりますが、復旧の目途はついていません。
大変ご迷惑をお掛けしますが、今しばらくお待ちいただきますようお願いいたします。
(阿蘇市総務課)
 今回の地震で停電して小生のホームページの情報発信ができなくなって、ネット回線もダメなんあろうなと思いつつ、エンジン発電機の電源にモデムを繋いだところ、ネット回線は生きていることが分かった、要はモデムの電源だけの問題なのだ、アクセス数も非常に多い、皆さんからご心配や励ましをたくさんいただくだけで、返事ができないでいたところ、上記のような放送があったので、ああ、これは長引くな、よし、こうなったら我が家のライフラインの一部を犠牲にしても電源をホームページに割かなければなるまい、最低限のシステムでも、こちらから情報発信をしなければと急遽、システムを組み直して最低の構成でホームページを復旧すべく机の下に潜り込んだり鳥の巣のようにからまったケーブルをほぐして必要なケーブルを探したりしてようやく「風の便り」を再稼働したところ、その三時間後になんと停電が復旧してしまった。モデム、ハブ、PC、モニター、サーバー最低これ全部に電源が要る、消費電力は大したことはないがコンセントは5箇所必要だ。従来のケーブル、電源を全部抜いてしまったので、もとに戻すのは至難の業といより不可のなのだ、結局また新しくやり直さなければならない
 
 立野の発電設備の損壊といえば、山が崩れて57号線、豊肥線を飲み込んで、阿蘇大橋に流れ落ちて橋が全く無くなってしまったその地殻なのでこれは同一の災害だろう、とてもではないが停電の復旧は相当先になるのだろうと思っていたが、おそらく他からバイパスして復旧したのだろうが、それならそうと「ひと言」言っててくれよと愚痴りたくもなる。

 災害は紙一重、幸いにここはほとんど無傷で済んでいる、南阿蘇村の大地すべり、沢山の犠牲、阿蘇大橋の崩落、と時間が経つに連れて情報源が少ない小生のところにも少しずつ災害の様子が入ってきている、国道57号線と豊肥線、熊本を結ぶメインの線、これが長期間機能しないとなるとこれは極めて大変なことである。東海道の由比をJRの新幹線と在来線、それに国道、東名高速道が極めて狭いところを一緒に走っているが、熊本と阿蘇を結ぶそう言った性格の交通の要衝なのだ。

 じつはこの日記を書いている途中、20時頃、県境を越えて風呂に行っていた三人が帰ってきて、「お父さん、うちは電気付かないの?」というので、何を言ってやがると外を見ると周辺に電気が付いている、小生は気が付かずにエンジン発電機の僅かな明かりで日記を書いていた、全く気が付かなかった、電気が回復したのならしたと放送しろよ、電気がつくから分かるだろうと言うのかもしれないが、安全のために小生は家のブレーカーを全部切っておいたのだ。今日はるばる買いに行ったガソリンを一体どうしてくれるのだ。

 午後、乙姫の実家の様子を見に来たついでにJLZが訪ねてくれる。KK5さんから頂戴した5球スーパーを話しのタネにしばらく歓談。
 
 今回のメインの地震の後でも頻繁に余震が起きているが、緊急地震速報のあの「不快音」、実際に経験して、結構有り難いものだということが分かった、何かするには間に合わないが、あ、来るなと身構えること出来る。ただあまりに近いとP波S波が観測できなくて、警報音がなる前にドンときて、そのまま警報音も鳴らない。さっきから続けてドン、グラグラときているが、警報音もならなければラジオ放送もない・・・・空振りもあるが・・・

 二日間の出来事、ざっと時系列に書いてみた、たった二日のことなのに何日も経ったような気がする。
 
  余震がコワイと言って三人はまた避難所に出かけていった、小生は行かない。

 電気があって当たり前の現代生活、電気が戻って改めて本当に有り難いと感じた。


平成28年 4月15日(金)

 晴れ。
   最低気温 7.5℃ (06:08)、最高気温 22.1℃ (15:06)

 昨夜は何度も余震があったが、もうこれ以上の強い地震は無いだろうと思って、盛んに緊急地震速報の警報音が鳴っていたが無視して寝てしまった。一方で、余震は本震よりも弱いと言われるが、本当にそうなんだろうかとも思っている。本震が来る前に断層がちょっとズレてそれで地震が起きて、それが大きなズレ(本震)に結びつくことは無いのだろうか。
 
 随分沢山の人からお見舞いの電話を頂戴した、十数年、あるいは何十年振りという知己からも電話があった(渡辺盈子さん、金子征二さん)、有り難いことである。

 昨夜の地震、思っていた以上に大きな被害が出ているようだ。死者もあり負傷者も多数あり多くの人が避難をしている、被害が有る無しはホンの紙一重ということか。 気象庁は今回の地震を「平成28年(2016年)熊本地震」と命名したそうだが、平成28年はまだ1/4も終わっていないのだがなあ。

 今回の地震、ここは全く影響がないと思っていたら、今日、「みやはら」にパンを買いに行ったら山崎パンの棚が空っぽである。尋ねると、地震で工場や高速道路が止まっていて入荷のあてが無いということであった、思わぬところで地震の影響を感じた。また九州自動車道や九州新幹線が止まっていると言う。MQY局は週末だが帰ってこられないなあ。

 こういう異変があるといつも急にホームページのアクセス数が伸びる、LINEにしろインターネットにしろ、電話やネット回線が確保されているということが一番重要なことなんだろうな。電気や水道などのライフラインの確保と併せて通信の確保が最重点施策だ。

 おい!スポーツ紙じゃないんだから、これだけのスペースがあれば、もっと情報が載せられるだろう(写真1写真2)。新聞は軽減税率適用?笑わせるな、紙面を減らせ、それからパフォーマンスの号外など出すな、今の時代には全く無用なものだ。

 今朝もまたタケノコが顔を出していたので、茹で上げてご近所に半ば押し付けで届けてきた。そして我が家の今夜の献立もタケノコごはん。別の献立を言ってあったが急遽変更した。こどもたちは好きだから喜んでいた。

 K5さんが、昭和20年代のラジオが見つかったから研究材料にしろと送ってくれた。ネット検索で色々な昔のラジオのレストア記事などを読んでいると、エッ?これが?というほど赤錆だらけのものがちゃんと復元されている、それらから見るとこれなんか立派な方だと思う、復元できるのではないかなあと期待をしているが、それにしてもよくもまあこんなに古いラジオがとってあったものである。このラジオは ナショナル AS−350と言う中波と短波の2バンド5球スーパーのようだ、レストア記事もいくつか有る。(写真1写真2写真3



平成28年 4月14日(木) 母命日、七回忌になる(こんどの日曜に家族だけで静かに回向予定、その時に雑感を)

 晴れ。気温が上がり、室内では半袖シャツ一枚でも大丈夫だった。
   最低気温 14.1℃ (03:54)、最高気温 22.8℃ (14:46)

 「雨後の筍」とは良く言ったものである。昨日無かったのに、今朝、アチラコチラにタケノコが顔を出している。村の人からリクエストがあったので、電話をしたところ、ちょうど他所から貰ったばかりなのでいい、ということだったので、このまま放置しておくと竹になるばかりなので、急遽午前中の仕事をタケノコ掘りに切り替えて、親戚筋に送りつけた。そして残ったやつを茹でておいた。せっかくだから今晩は採りたてタケノコでタケノコづくしにしようかと思ったが、今日はシチューがいいとリクエストがあり、そうすることにしてあったので、冷凍保存にしておいた。
 
 日本国中、山林間伐放棄、耕作放棄で竹林が増えて、タケノコなんぞ、それこそ、掘ればいくらでもあるだろうに、なかなかそう簡単にはいかないのは流通の仕組みが無いからだろう。当たり前だと思っているが考えてみたら我が家の敷地内でタケノコが採れるということは極めて贅沢な環境なのだ。でも、我が家でも掘るのが大変だし、運賃をかけて送るのも大変だから、かなりの部分が竹になる途中にバッサリ切り倒しているが、いつでも有るのであれば、皆さんどうぞ、というところであるが、いつ、どこにどれだけ生えてくるかはあちらさん次第で、計算が立たないので皆さんいつでもどうぞと言えないのが難しいところである。

 我が家で茹でたタケノコの皮などの後始末、すぐに土に還るだろうと思って、植栽の間に捨てているが、そのなかで十分に食べられる部分を試しにボンにやったところ、ムシャムシャと食べている、確かに茹でたてのタケノコ、そのまま食べて美味しいので小生は加工しながら結構つまんでいるが、ボンにもタケノコの旨さが分かるらしい、これは新しい発見だった。
 
 せっかくの国立公園の美しい自然が広がる道路沿いに、最近、夏の参議院選(あるいは衆参同時選挙になるか)目当てか、ある政党のポスターが立ててあって、それが道路に平行でなく、車で走ると道路沿いに真正面に見えるように直角に立ててある。時々ならまだしも、次々に短い間隔で立ててある、あまり目立つので、太郎がそのポスターを見て、「お父さん、あれ何ね?」と訊くので、「あれか、あれは悪魔の写真だよ」と言ったところ、それから、そのポスターを目にするたびに、「あ!悪魔だ、あ!ここにも悪魔が」・・・と太郎は言っている。顔は笑っているようだが目は笑っておらず、黒づくめの無粋な写真、あ!悪魔だ・・・・あながち間違ってはいまい。ポスターは多ければ良いということではない、これでは逆効果だぞ。

 晩飯。クリームシチュー

 早々と布団に入って読み物をしていた時、ちょっとグラグラして、携帯の緊急地震速報が鳴り出したので、どこか大きな地震があったかなと思っていたら、じっちゃいから熊本で震度7の地震だそうだが大丈夫か、宮崎では4くらいだと心配の電話が来てそれで震源が熊本だと分かったくらいで、ここでは横になっていてこの程度の揺れだからまあ精々震度3強くらいかなという程度だった。太郎はこれが地震ということを知らずに、小生にしがみついてきた。一旦落としたPCをまた立ち上げて、日記の追加記事を書いている。NHK速報PDS


平成28年 4月13日(水)

 今日は九州北部をずっと雨雲が北東方向に流れ続けてほんの僅かの差でずっと降っているところと、殆ど降らないところがハッキリ分かれていた。ここはそういう点では、午後3時ころから少し降りだしたが、(20時現在)お湿り程度の降りだった、そして夜に入って昼間よりは少し雨雲が南下してはいるがそろそろ雨のストックもが底をついた気配もある、間もなく雨も上がりそうである。
    最低気温11.0℃ (01:51)、最高気温 19.2℃ (11:54)

 来ました、来ました、真空管5球スーパーのキットが。とりあえずパッキングリストで部品の落ちが無いかだけチェックしておいた。自分で設計するわけではないのでプラモデルの組み立てにちょっと毛が生えた程度の難易度だと思うが、じっくり無線工学的に、理論的に理解を進めながら少しずつやっていくことにしようかねえ。mT管が5本

 4月に入ってNHKラジオの午後の定時番組が変わったようだ。まだちょっと聴いただけだが以前に比べて少しは大人っぽく、そして静かになったのかな。まあ、いずれにしても我々の年代をターゲットにした番組ではないだろう、我々年寄りはラジオ深夜便でも聞いておれということなんだろう。いずれにしても毎日同じ人間が番組を仕切るのは、その司会者が好きな人にとっては良いかもしれないが、そうでない者にとっては苦痛以外の何者でもない、午前中は相変わらず同じ番組が続いているようだが、そういったことでは日替わりで司会者が変わるのは歓迎する。最近はそんなわけでもうずっとラジオは聞かなくなっていたが、ここのところまたちょっとスイッチを入れている。ふとこの番組が終わる午後5時少し前、太郎をいつも迎えに行く車の中で聞いていて非常に心地いい歌声が流れてくる。ユア・ソングというNHKが一定期間ごとに入れ替わりで放送する楽曲のようで、ネットで調べたら、オルリコという歌手が歌う「恋姫」という曲らしいが、探したけど残念ながらネットではその曲はまだアップされていないようで聴くことが出来ない、素直で小生好みの歌である。

 晩飯。とろろ汁、出汁巻玉子、トマト。太郎はとろろ飯は好きだがお姉ちゃんはあまり好きではなさそうだ、どうしてこんなに旨いものを、小生なんか毎日でも良いのに。


平成28年 4月12日(火)

 晴れ。朝少し冷え込んだ。天気は良かったが日中も少し風が冷たくて、このような時にはハチの姿も殆ど見られない。
     最低気温 4.6℃ (06:28)、最高気温 18.2℃ (14:22)

 昨日が誕生「一の宮小学校」の入学式だったので、今朝が一年坊主の初めての登校になる。坂梨地区のこどもたちは今までは通学距離が短かくて済んだが、新しい小学校は一部地域のスクールバス通学を除いてほぼ全員が徒歩通学になるために相当の距離を歩かなければならない。我が家からは二校間の距離はほぼ同じくらいなので来年太郎が入学する時になっても登校で使うエネルギーはあまり変わらないと思うが、遠い子はどのくらい歩くことになるのだろうか。
 
 坂梨地区のこどもたちは、今朝、ちょっと見たところ、今までの登校班の編成で新しい通学路を歩いているようで、全員が一緒になって歩くことは無いようだが、ルートが決っているのでどうしても一地点で行列が収斂されるようで、短い時間の間に全部の登校班が相前後して登校していった。なかにピカピカの一年生もちらほら見られた。天気のいい日は良いが、雨風の時は周囲が田で遮るものがないので大変だろう。明治6年以来続いてきた登校風景に変わって新しい通学路は今後何十年続くのだろう。

 一の宮小学校 坂梨地区児童の登校風景 連続写真(1/3)
 一の宮小学校 坂梨地区児童の登校風景 連続写真(2/3)
 一の宮小学校 坂梨地区児童の登校風景 連続写真(3/3)


 今日も太郎は保育園から戻るなり、コイノボリの下に行って、しみじみその大きさに見惚れていた、そして、真鯉の上に跨るように描いてある金太郎の姿を見て、あれはなんだと驚いていた。(写真1写真2
 
 晩飯。ステーキ、ポテトサラダ(しっかりと作ったから評判が良かった)



平成28年 4月11日(月)

 晴れ。今日は昨日よりも暖かかったと思っていたら数字ではそうでもなかった、しかし体感的には暑いくらいで、ウグイスも昨日以上に力強い鳴き方だった。
   最低気温 10.7℃ (06:15)、最高気温 17.1℃ (15:47)

 一宮小学校と一の宮中学校の入学式があった。
 
  オレンジのおばさん、甲斐良子さんがヨモギを摘みにみえた、我が家の周囲は良子さんのオジさん(伯父?叔父?)志賀昭久さんの田で、畦にヨモギが生えているから摘みに来たとのことであった。今のうちに摘んでおいて正月のモチにお使いになるそうである。
 
 オレンジおばさんとはまだ夏子が二三年前に太郎と一緒にアゼリアに入浴に行っていた時に、母親は仕事が遅かったので、幼い二人だけの入浴に女風呂で皆さんに可愛がっていただいて、お名前を知らないし、お訊きする知恵もまだ無かったので、小生に報告するのに、何人かの皆さんの特徴を掴んでなんとかのオバサンが、だとか、なんとかのオバサンに、だとか言っていたうちのお一人で、その頃、風呂においでの際に着ていたジャンパーがレンジ色だったので、いつしかオレンジのおばさんと言うようになったのである。そのオレンジのおばさんの正体がご主人と一緒に分かったのはつい最近のことなのである。

 せっかく我が家のところまでおいでいただいたので、ちょっと上がっていただいた。

 昨年は支柱のテッペン部分が折れて滑車も落ちたためにコイノボリを揚げられなかった、全体的に木の腐食が進んでいてもうコイノボリはダメだろう、でもせっかくあるのだから無線の支柱にはなるだろうと思って隆一さんの助けを借りて一旦地上に倒して先端の腐った部分を切り落として、ずいぶん短くなったものの、滑車を取り付けて、再立ち上げをしてワイヤ−アンテナを張った。
 
 去年は我が家の周辺でもコイノボリは上がらなかったが、つまり初節句の家が無かったということだろうが、今年は馬場や周辺の見えるところに二三基コイノボリが揚がっているのを見た太郎が、「太郎のうちにもコイノボリが欲しいね」というので、じゃあ、揚げてみようかと、急に思い立って昼から取りつけ作業をした。支柱はなんとかコイノボリの重量に耐えられそうである。かなり短くなったので、以前揚がっていた時に比べて「豪快に」とはいかないかもしれないが、それは20mほどの杉の1本柱を使うことがあたりまえの阿蘇のコイノボリと比較した場合であって、一般的な都会のコイノボリと比べたらこの高さでも十分である(写真1写真2)。夕方保育園から帰ってきてカーブした道を車が曲がって我が家にコイノボリが泳いでいるのを見て太郎がびっくりして大喜びだった。しかたがない、コイノボリが泳いでいる間はワイヤーアンテナはお休みだ。写真3・写真4
 
 コイノボリは初節句の男の子、それも長男だけ、自宅でなくておじいちゃんの家で揚げることが多いが、せっかくのコイノボリだから、初節句だけでなく、子どもが大きくなるまで出来るだけ長く、シーズンには揚げたほうが良いと思う。子どもは初節句の時の記憶なんて全く無くて、かえって今の太郎くらいの年齢になってもっとも喜ぶものだろうから、過疎の田舎の景気つけのためにも支柱が残っているお宅は努めて揚げるようにした方がいいと思う。都会なんか杉の一本柱で揚げようと思っても出来ないのだから。これこそ阿蘇にPRに有効な方法だろうと思う。谷を沢山のコイノボリをぶら下げるイベントも今では全国どこでもやっていてインパクトが以前ほど無い、それより阿蘇五岳をバックにそこここで一斉に杉の一本柱にコイノボリが阿蘇の大空を泳ぐ風景のほうが視覚的にも良いに決まっていると思う。
 
 新しい年度が始まって新しいクラスになっても最近では夕方5時ちょっと過ぎに外輪を登っていく列車を見るのが保育園の日課のようになってしまっている。今日は太郎のクラスだけがこの時間、外にいて、列車が姿を見せるのを今か今かと待ち構えていて、ほんの短い時間だが姿を現すとみな一斉に歓声を上げてなかには飛び上がる子どもたちもいた

 晩飯。豚大根、出汁巻玉子、豆腐と油揚げの味噌汁



平成28年 4月10日(日)

 午前中は雲が多かったが、午後から回復方向に向かう。しばらく鳴りをひそめていたウグイスも今日は元気に鳴いていた。
    最低気温 10.0℃ (04:20)、最高気温 20.7℃ (15:19)

 太郎も補修なったGパンを穿いて一緒にボンの散歩に行く、途中、組内の和子さんのハウスを除くと甥御さんと一緒にトマトのマルチ張りをしている様子が見えた、隣のハウスではトマトの苗も順調に育っているようだ。
 
 午後から晴れ間が広がってきたのでミツバチルアー(誘引剤)をハチウトに貼り付けたが、ちょっとまだハチが活発に活動するほどの暖かさはなかったので、今日は周辺に蜂の姿は無かった。(写真1写真2写真3

 久しぶりにのんびりした一日だった。


平成28年 4月 9日(土)

 今朝、阿蘇谷は深い霧に沈み雲海が広がった。今日も一日穏やかな日だった。
    最低気温 9.2℃ (06:47)、最高気温 21.6℃ (14:46)

 風邪気味の体調、ようやく復調した。

 娘は部活、カミさんは不在のために二人で蕎麦処「阿蘇の風」に昼飯を食いに行く、太郎はいつももり蕎麦、小生はここのところずっと温蕎麦である(写真1写真2)。JRの博多駅で発行している最新の情報誌に小生が懇意にしている、「なごみ野」と「阿蘇の風」の二軒のみが宮地地区で取り上げられていた(写真1写真2)。

 ラジオ組み立ての勉強などをする。太郎から頼まれていたGパンの補修、思い出してやっておいた。

 晩飯はまた二人だけ。お互いに好きなモノを食おうと提案して、太郎は刺身、小生はステーキにしたが、太郎は小生のステーキに手を出して、ステーキおいしいね、と結局ステーキがメインになってしまった。


平成28年 4月 8日(金)

 穏やかに晴れる。これが同じ空かと思うような穏やかな一日だった。
     最低気温 13.0℃ (05:34)、最高気温 19.0℃ (16:27)
     
 今日から中学校の新学期が始まり、夏子は二年生になった、あっという間の一年で、この先もあっという間だろう。昨夜は随分遅くまでたまった宿題をやって、今朝は眠い目をこすりながら登校していったが、実は、隣接する小学校も今日が始業式だったのだ、入学式が来週なので、てっきり学校が始まるのも先だと思っていたが、中学校と同じ日だったのだ。夕方、晩飯の材料の買い出しに出かける途中、顔見知りのこどもたちが今までと違った道を三々五々歩いてやってくる。ちょうど下校時間だったのだ。オイ、今日からか?と訊くと、そうでーす、という返事が返ってきた、そうか、新しい統合小学校の「一の宮小学校」は今日からだったのか、写真を撮ればよかったなあ、来週にでも撮るとしようか。 

 今日は、昨日のとびきりの春の嵐の後始末で午前中いっぱいかかってしまった。先ず、ハチウトがほとんど全部ひっくり返るなり、雨除けの屋根が飛んだりするなりほぼ全滅状態になっていた(写真1写真2写真3写真4)。それを全部整備しなおして、それから次に、変に絡まったワイヤーアンテナを元に戻して張り直して。折れてしまった6mバンドのアンテナHB9CVを撤去して、おまけに、国旗掲揚のロープの絡まりまで直したりと結構の作業だった。

 午後からは、太郎のリクエストでジーンズの膝抜けの補修。膝のところに穴が空いていて、ジーンズは一着した持っておらず、(お父さんのジーンズ姿がカッコいいから、ということは無いだろうが)、ジーンズはカッコいいと思っていて、開いた穴をお父さんと同じようにミシンで縫ってくれろとリクエストがあったのだ。朝、保育園に行く時に、きっと今日中に縫っておいてねと念を押されたので仕方がないと昼から作業に取り掛かったが、今日は結局出来なかった、まあ、土日と休みだから、その間にやっておけば月曜日の登園には間に合うだろう、誰に見せようと言うのだ。

 先日頼んでおいたミツバチ誘引剤、ミツバチルアーが入ったという連絡があったのでJAに受け取りに行ってきた。一般社会では最近ではJAと言うと農協のことであるが、無線をやる人間にとってはJAは日本のことを指す。今回は勿論農協であるが。
 
 吊り下げ式誘引剤(フェロモン)が三枚入って、1,000円ポッキリ(取り寄せだから送料もかからずに、しかも珍しいことに内税である)。これがネットで売っているミツバチルアーは一枚4,000円くらいする、どう違うのだろうか、もしかしたら、洋バチしか効果がないのかもしれないが、それにしても10倍以上の価格差である。高いやつをぶら下げてもハチが巣に入る保証は全く無い、確かに去年は寄ってきて期待を持たせたが、結局入らなかった、来たから必ず入るとは限らないのだ、だから今回買ったやつで十分だ、ということにして、そろそろぶら下げてみようかと思っている。
 
 晩飯。キジ焼き丼、玉子スープ、いちごミルク



平成28年 4月 7日(木)

 いつもこの近くを通る台風よりも強い春の嵐に一日中翻弄された、時々家が揺れるくらいの風が吹いていた、我が家の桜などもこの風で全部飛び散ってしまった。ずっと一日中風が収まることがなく、夕方になってようやく気圧が上昇に転じてきたようである

  23.7mの瞬間風速(阿蘇山上では40m以上の風が吹いた)
  最低気温 13.4℃ (00:00)、最高気温 21.8℃ (08:49)

  孟宗が風で横倒しになるくらい傾いて6mのHB9CVをへし折ってしまった、またワイヤーアンテナが暴れて変なところに引っかかって、これは風が収まって明日にならなければ元に戻せないだろう。

 大体の雨では休まずにボンの散歩に行くのだが流石に今日は中止した、ボンも少々のの雨であれば散歩を催促するが、今日はおとなしく小屋の中でじっとしていた。

 ここのところの暖かさで急に冬の下着を全部脱いだので風邪を引いたようだ、鼻がグスグスして頭が重い。
 
 晩飯。タケノコごはん、土佐煮、姫皮のキンピラ、若竹汁、出汁巻玉子、イカ刺し。木の芽がまだようやく芽がでたくらいで、大体タケノコと木の芽は歩調を合わせるのだが、今回のハシリでは木の芽が間に合わなかった。もう一週間もすればタケノコも出てくるだろう。
 昼は、皿うどん(パリパリ麺)

 掲示板に興味津々の話題が出ているが頭が重い、明日何か書こう。

平成28年 4月 6日(水)

 晴れ。少し雲があったかな。気温上がったが日差しが無かったので外で作業をしていても暑さは感じなかった。
    最低気温 7.5℃ (05:28)、最高気温 19.6℃ (14:50)

 春爛漫、我が集落、豆札の山に無名の大きな桜の木がある、かなり上の方で道らしき道はないので近寄れないが大樹である、毎年見事な、これは山桜だろう、花を咲かせる。(写真1写真2
 
 それから、我が家の立木の中に去年までは気が付かなかったが大きな白い花を咲かせる木がある、木蓮だかコブシだかあまり花の名前を探求しようという気がないので分からない。ああ、咲いているなあで満足している、なんの花だろうか(写真1写真2)。食堂の脇にも去年咲いているのに気がついたが、あれは確かコブシだと思ったが。   

 夜には雨になるという予報だったので、ジャガイモのメイクイーンを植えた。種芋が大きくて数から言うと全部で42個しかないので、分割して数を増やすことにした。全部半分にすると84個、これでもちょっと足りない。一個を3分割すると、126個(わざわざ計算尺を持ち出すこともないが)。隣の男爵が一列35個植えたので、105個くらいに分割すると、ちょうど三列で収まりが良い。そう思いながら適当に切り口にストーブの灰をまぶした(腐れ防止だそうだ)二個に割ったり三個に割ったり、また大きな奴は4個に割ったりしてて、後から数えてみたら、全部で108個になったので、一列36個で三列植えることにした。
 
 まだちょっと水を含んでいて、培土機で畝を立てるのに重く感じた。午前中に一列終わったところで、先日志賀昭久さんの田の椿の剪定で出来た薪材を積み込みに行った。志賀さんが子供の頃からある椿の木だそうで、幹の根本のほうは二抱えほども太い。少しの剪定で軽トラック一杯になるほどの量だった
 
 昼前に二列目を終わって、娘が帰ってくるまでにできるところまでやっておこうと三列目にとりかかって、種芋を畝の上に並べ終わったところで、一旦午前中の作業はやめようかと思ったが、ふと、ごんべがタネ蒔きゃカラスがほじくるの歌が頭に浮かんで、このままにしておくとカラスが持って行ってしまうかもしれないと急に不安になって、種芋を埋めるところまでやって、午前中の作業を終えた。
 
 種芋を穴を開けて埋めて、次の種芋にとりかかる際に一個一個スクワットを繰り返すと、一列で36回くりかえさなければならない、これはもう、体にこたえて大変である。そこでふと思いついた、スクワットを一回一回繰り返さなくても、しゃがんだまま横移動すればいいじゃないか、こんな簡単なことに初めて気がついた、これで大分楽になった。それでも数回に一回は立たないと足がしびれる。これも業務改善である、ちょっとした農作業にも「カイゼン」はある。イヤな言葉を思い出したものである。
 
 昼食後、マルチを張って、今日の作業は終わり。これでとりあえずホッとした。まだ里芋の植え付けが残っているし、トマト、ナス、きゅうりなどの夏野菜もこれからである。
 
 太郎が朝、お父さんタケノコが出とるバイ、というので足元見ると、確かに出ている、全く気が付かなかった、この付近は毎年、一番最初にタケノコが顔を出す、浄化槽の脇である。別に浄化槽が割れて「肥料」が滲み出て成長が早いわけではない、ここの竹林は昔から一番早く顔を出す、それから離れたところのタケノコが少しずつ出てくる。今日のところは、ハシリで、我が家で食べることにして、今晩あたり、タケノコづくしにしようかと思ったが、とにかく忙しくて時間が無く、茹でるまでが精一杯なので、それは明日にでもすることにした。
 
 ということで、今日も料理をする時間が無くなって、ハヤシライスにした。なんだか全然時間が足りないなあ。

(どれが本気だったかわからなくなって)またまた浮気心が起きてしまってネットで検索しては真空管ラジオのことを引っ張っては読み漁っている、面白い、大凡のことが分かってきた。不幸にして真空管の時代は知らないがトランジスターで理屈は分かっている、何と言っても第四級電話級一アマだからなあ。「ラジオ少年」にある5球スーパーラジオキット 5S-STDでも作ってみようか、活字だけで理解するよりも実際に作ってみるのが一番だろう、それに我が周囲には師匠たちがたくさん居ることだし、とにかく真空管を使って作りたい。ところでこの前は何に熱中していたのだろう、計算尺はラジオを作る時の計算の確認でも使うから、これはいいとして・・・・・・ハテなんだったろう)
     ST管はStandardの略と書いてあるものもあるが、SはstrangleでTはtaperの頭文字か・・・こちらのほうが正しいだろう。


平成28年 4月 5日(火)

 素晴らしい夜明けを迎えた。今日は一日屋外で活動をしたせいもあるがさすがに冬の下着は暑くて、脱いでしまった。
   最低気温 7.5℃ (06:20)、最高気温17.6℃ (14:59)

 この素晴らしい青空のもと、桜町地区の年行司である「なごみ野」のオヤジが音頭を取って町内のウオーキングを開催したところ予想以上の沢山の参加者があり、春の花が咲き乱れる近くの田園地帯をその長い列が続いていた。年行司とは町内の世話役のひとつである(小生の村は少世帯集落のためにその役は無い)。これがもう少し遅い夕暮れ時ならば、

     菜の花畑に 入日薄れ
     見わたす山の端 霞ふかし
     春風そよ吹く 空を見れば
     夕月かかりて 匂い淡し
                     に、ピッタリの雰囲気の風景だった。

 桜町地区ウォーキング連続写真

 小生は日本山妙法寺の近くだけで一行の様子を写真に収めたが、接待に出ておいでの庵主さんが、「今日あたり電話をしようと思っていました、ここのところハチが急に活発に動き始めましたよ」。実は妙法寺の庫裏の玄関脇の床下に二三年前からニホンミツバチが巣をつくっているということを聞いていて、シーズンになったら教えてくださることになっていたのだ。
 
 早速家に戻ってハチウトをちょっと清掃してから持って行って、近くに置かせていただいた。ハチが出入りする直ぐ近くに大分県の臼杵の名刹のご住職も待ち箱を置いておいでだった(去年は入ったそうである)。小生はその直ぐ近くは遠慮して(というのもあるが、あまり巣に近いのもどうかなと思って)ハチの離発着線上の数メートル離れた太い木の根本で前面の見晴らしのいい場所に置かせて頂いた。

 まだメイクイーンの作付が終わっていないが、ここのところの雨で、畑にトラクターを入れるコンディションではないので今日は畑仕事が出来ないし、また時間もあまりないので、今日は続けて家の各所においてあるハチウトの清掃をした。エアコンプレッサーのエアガンはこういう時に非常に便利である、これだけのためでも持っていてよかった(写真1写真2)。今日お寺に持ち込んだウトが置いてあったところに、紫陽花の花の裏に置いてあったハチウトを移動した(写真1写真2)。今日はお寺に持って行ったウトを含めて、5基のウトを整備した、あと2基残っている。
 
 娘たちが一年前、小学校を卒業するときに記念植樹した桜の木が早くも今年花を付けたと昨夜お母さん方のLINEで情報が流れていたので、夕方太郎を迎えに行きがてら隣接するもう子どもたちの声が聞こえることも無くなった運動場に寄ってみた。まだ本当に細い幹なのに色の濃い桜がちょっと満開を過ぎてはいたが見事に咲いていた。合わせるかのように子どもたちも一年経ってそれぞれ思いおもいに自分たちの花を咲かせている、時の流れを感じる。(写真1写真2写真3写真4) 
 
 晩飯。直前まで何にしようか決まらず、結局、豚肉のムニエルにした。ワカメの酢の物、ジャガイモとタマネギの味噌汁。メイクイーンの小芋の素揚げ
、これは鹿児島産だったろうか、勿論我が家のではない、明日の夜からまた雨のようだ、明日中にメイクイーンを植えてしまおうか。


平成28年 4月 4日(月)

 午前中に残っていた雨は、午後には上がったもののずっと低い雲が垂れ込めていた。
    最低気温 13.5℃ (04:26)、最高気温 16.3℃ (14:38)

 今日から本格的に保育園の新学期が始まった。年度初めに際して、一年を通して園で使うティッシュやレジ袋様のビニール袋、雑巾などを沢山持たせて登園させた。ちゆき先生と新任の先生とお二人で太郎たちのクラスを担任されることになった。今年一年どうぞよろしくお願いします。
 
 農協にハチルアーを買いに行った。この地域ではあまり需要がないとみえて、取り寄せになりますということだったのお願いしてきた。

 最近新手のスパムメールが連続して入ってきている、うっかりクリックしそうになるが、次から次に悪知恵が働くものである。

 晩飯はカレー。


平成28年 4月 3日(日)

 昼を過ぎた辺りから時々細かな雨が降っていたが日記をつけている宵の口になっても強い雨は降っていない。
例えば胃に異常がある場合は胃の存在を、指先が痛い時にはそこに指があることを意識する。健康体の時にはそれらの存在は全く意識しない。と同じように(前置きが長くなったが)、今日は暑いなあ、とかちょっと寒いなあというような気温に対する意識は全く無かった、ということは体にとっては一番いい気温だったのだろう。
    最低気温 13.5℃ (02:01)、最高気温 17.5℃ (12:27)

 我が家の桜もそろそろ満開に近づいている、一枝手折って仏壇に供えた、そうだったなあ、花の季節だった・・・
 
 花の寺、妙法寺も桜が満開状態だ
 
 家の前の田圃に右近の橘、左近の桜的に阿蘇五岳を背景にして並んでいる梅の木と椿の木。梅の木は昨年剪定されてかなり短くなっていたが今日は志賀昭久さん一家が椿の木の剪定をしておいでだった。あまり大きくなりすぎて田んぼの真中で風が強いと倒れそうで心配だからということであった。志賀さんの指揮のもと親戚の甲斐さんがチェンソーを振るっていた。甲斐さんは「お風呂仲間」である。切った枝の太いところは薪にいただくことになった。(写真1写真2写真3写真4写真5
 
 今日は午後からまた三人で熊本方面に出かけていった。小生は今日は休養日である(毎日休養しているが)。

 いやあ、ヒヤヒヤものだった。オークションにクルタ計算機のタイプ1が出品されていて、見たところ可動品ではあるようだが裏蓋になにか余分な穴が空いていてちょっと疑問点が残るけど、まあ、この金額では賑やかしになってこれ以上の高額で落ちるだろうからと、適当に入札していたところ、なかなか小生が入れた金額を超えない。落札額はそんなに安い金額では済まないだろうと思っていたのでおかしいなあ、と半ばハラハラしていたが締め切り間際になってようやく小生が入れた金額をちょっと越えた。小生は既に一台持っているのであえて欲しいとは思わなかったがこの程度で落ちるのなら落としておけば良かったと思わないでもない。


平成28年 4月 2日(土)

 薄曇りのまあまあの天気だった、暖かい一日だった、天気を気にしなければならない予定がなかったので予報を真剣に見ていなかったが、今日は雨になるような予報ではなかったろうか、違ったかな。
   最低気温 10.3℃ (04:15)、最高気温 18.1℃ (15:08) 

 保育園の新入・進級式があり、太郎は母親に連れられて出かけていった。昨日から新年度は始まっているが、昨日はまあ、オープン戦のようなもので、月曜日から本格的保育園が始まる、あと一年である。
 
 昼過ぎに帰ってきて、今度はお姉ちゃんの観たい映画を見に三人で出かけていった、その後はピアノレッスンだから、小生は今日は午後は完全に自由時間である。
 
 その午後の自由時間、JA6DI局とJA6MQY局が御入来、夕方までみっちりと無線談義や四方山話に花が咲き非常に密度の濃い時間を過ごした、あっという間の時間だった。
 
 寺さんから「居眠り磐音」の完結巻が届いた、MNI TNX、ちょっと長すぎた感もあるがどういう結末を迎えるのだろうか、楽しみである。


平成28年 4月 1日(金)

 雨上がりの暖かい朝を迎えた。
   最低気温 10.9℃ (05:51)、最高気温 15.0℃ (15:01)

 小生自身は3月であろうとも4月であろうとももう直接関係がないが、周囲の雰囲気に影響されるところは多分にある。そして4月と聞くとなんとなくウキウキする希望に燃える月だという気分になる。
 
 太郎もいよいよ今日から最終"学年"の年長組である。太郎のやつ、最近、色気づいてきたというのか、異性を意識して、ということではない様子だが、多分、自我に目覚めてきたのだろう、毎日保育園に着ていくシャツやズボンについてもいろいろと注文をつけて小生が揃える組み合わせが気に入らないらしくて自分でコーディネートする、どうでも良いだろうというと、駄目だと文句を言う。また、朝起きて寝ぐせがついておっ立っている髪の毛を盛んに気にするので、「いいことを教えてやろう、こうやって両手にツバを吹きかけてそれで頭を撫で付けると寝ぐせが直るぞ」と言うと、言ったとおりにして、「お父さんスゴイ!直った」というので、「そうかこれは昔からある"ツバキ油"と言うんだよ」と教えてやると椿油と唾液(つばき)油の洒落など分かっていないと思うが、本気にして時々朝の送りの車の中で鏡をみながら盛んにペッペッとやっている。「もし先生に何をしているの?と訊かれたら「ツバキ油です」と答えろ」と言ってあるが実際に聞かれて答えたかまでは知らない、娘など、汚いからやめなさい、と怒っているが悪いオヤジである。
 
 昼飯は寿司。これは、近所の「スーパーみやはら」で毎金曜日にやっている寿司バイキングと称して「握り寿司」を一貫50円也で売っていて、好きなモノを好きだなけ詰め込んで買ってくるのである。回転寿司が基本は一皿二貫で100円だから、ちょど回転寿司の値段と同じということである(そこから言うとあまり安いとはいえないなあ、この貫という単位、一個を指す場合と二個を指す場合があるようだから厄介であるが、この場合は一個である)。しかも今日月初めはこのスーパーの会員はほとんど全商品が二割引きになるのでさらに安くなる。以前は小生一人の時はほとんど毎週買っていたが、飽きるというよりは最近は寿司に対する渇望が無くなったので食べなくなっていたが、娘が食べたいというので、今日の昼飯にした。
 
 晩飯。ナスの豚バラ巻き、ポン酢仕立て。出汁巻玉子、ほうれん草の味噌汁、いちごミルク。今晩は何にしようかと考えていて突然ひらめいて豚バラを買ってきて作った。
 
 



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